00:01
始まりました。志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今回のトークはお便りをいただいているので、まずそちらを読み上げたいと思います。こちら、ねじ箱ファンさんからいただきました。
シャープ280とシャープ281、面白かったです。国際音声記号ってとても素晴らしいですよね。
外国語を勉強するときに発音で挫折する人も多い中、IPAを覚えているとだいたい通じる発音ができますものね。
それから志賀さんのエの発音。多分普通の人にはエーに聞こえると思います。
日本人には聞き分けにくいということを強調するなら、もう少し下を上げた方がいいかと。
というわけで今後も配信楽しみにしています。ということでねじ箱ファンさん、どうもありがとうございます。
自分の配信ちょっと聞き直してみてですね、やや確かに誇張しすぎちゃってたかもしれません。
ハリウッド雑魚師匠じゃないけど。
これはセマボインのイーっていうのとハンセマボインのエーっていうものの間のイーっていう発音がやや口の開きを大きくしてたかもしれません。
ねじ箱ファンさんどうもご指摘ありがとうございます。
ただね、このイットの母音がね、場合によってはエーに聞こえることもあるんですよね。
例えばね、マイケルジャクソンの歌にビートイットっていうのがあって、聞いたことないっていう方も多分聞けばわかると思うんですけど、
そのサビがね、やっぱねビレーっていう風に聞こえると思うんですよね。ビティには聞こえずにビレーっていう風にエーの母音に日本語母語合わせだったら聞こえるんじゃないかなぁと思うので。
まあ当然ね、イーとエーの間にあるような母音なので、
まあイーに聞こえることもあればエーに聞こえることもあるみたいな感じだと思うんですけど、
実際にIPAを発音してくれるサイトがあるので、その発音をちょっと聞いてみましょう。
もう一回いきますか。
どうですかね、まあエーにも聞こえなくはないですかね。
ただ日本語のエーはどっちかというとこういった音になります。
エーに比べると、まあややイーに近いけど、まあどっちかというとエーかなぁこれ、どうですかね。
まあ人によるってとこも当然あるでしょうし、その発話されている環境っていうかな、隣接されている母音と比べてどうとかね、まあそういうのもあると思うので、
03:10
一概には言えませんけど、まあなんというかさっき言ったようにこの母音はイーとエーの中間にあるような母音なので、
どうしてもね、日本語母語話者はどっちかにしないと気が済まないっていうか、
まあ日本語にはねイーとエーの中間というのはないので、場合によってはイーとして聞くし、場合によってはエーとして聞くっていう感じかなと思います。
というわけで、ねじばごファンさんどうもお便りありがとうございました。母音に限らず言語音っていうのは連続体をなしているものなんですよね。
まあ母音の方がわかりやすいんですけど、つまりそれはイーっていう狭母音からアーっていう広母音まで、
イーエアーっていう風に連続して発音することができますよね。でこのイーエアーっていうのをどういう風に区別するか切り分けるかっていうのは言語によって異なるということですね。
で日本語はイーエアーという3つに分けているわけですけど、英語だと、まあさっき言ったイーとエーの間に別個の母音があったりとか、
イーとエーの間にエーみたいな母音があったりするわけですよね。逆に
母音がアーとイーとウーの3つしかないような言語もあって、そういう言語だと日本語で言うイーとエーの区別がないみたいなね、まあそういった言語もあります。
つまり言語っていうのは連続体であるものを無理やり切り分けているということですね。
でこれは母音だけではなくて死音の方でもあることで、
例えば英語で彼女と海っていうのは
シーとシーですよね。でこれは違う単語というか違う死音ということになってますけど、
日本語ではどちらも区別せずにシーという一つの音として認識しているわけです。
この話は前回のトークで韓国朝鮮語の話をした時のものと同じようなことを言ってるんですけど、人間っていうのは意味の区別に関わるものしか
区別できないというか、区別する必要がないということですね。
物理的には母音にしろ死音にしろ言語の音っていうのはいろんなバリエーションがあるわけですけど、
それをいちいち区別する必要がない場合は同じ音として、ある意味抽象化した音として認識しているわけですよね。
06:09
そしてどういった音を区別してどういった音を一つの音として認識するかっていうのは言語によって異なっているということです。
この連続体を区別するというのはその言語が表す概念の方もそうですよね。
よく例に挙がるのは色に関する語彙で、 昔の日本語だと青っていうのは青色と緑色を含んでたわけですよね。
つまり青と緑っていうのを一つの抽象化されたものとして認識していたわけです。
あるいは日本語だと水とお湯っていうのは違う単語として、違う概念としてあるわけですけど、
その水とお湯を区別しないような言語っていうのもたくさんあります。
お湯のことは熱い水みたいな言い方しかないとかね。
こういった話はですね、記号論とか記号学っていう学問で研究されるもので、
ざっくり言うと言語の記号っていうのは音の側面と概念の側面があるんですね。
表すものと表されるものとかそういった言い方もされます。
言語記号というのはこの2つがセットとなっているものであって、どちらかが欠けているような記号というものはないんですよね。
紙の裏表によく例えられるんですけど、その言語の音の側面も連続体を切り分けているのと同じように、
概念の方も現実世界のカオスをね、切り分けているということなんですね。
まあちょっと何のこっちゃわかんないと思うので、関連トークが確かあったはずなので、そちらもぜひ聞いていただけたらと思います。
まあこのことが言語の本質であると思うんですよね。
もっと言うと人間の本質と言ってもいいかもしれません。
なんていうかな、人間というのは切り分けずにはいられないっていうか、区別しなければ、切り分けなければ、
つまり言語がなければ何も認識できないっていうことなんじゃないかなと思いますね。
かなり壮大な話になりましたが、今回のトークはここまでということで、ぜひ前回のトークや関連トークも聞いていただけたらと思います。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。ではまた次回お会いしましょう。ごきげんよう。