1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #140 ヒトは聞きたいようにし..
2020-07-23 10:16

#140 ヒトは聞きたいようにしか聞かない from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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人間は自分の見たいように見て、聞きたいように聞く、なんてことをね、皆さん一回ぐらい聞いたことあるんじゃないでしょうか。
始まりました、志賀十五の壺。 皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀です。
まあこの言葉はですね、 自分の都合の良いように解釈するとかね、
あるいは自分の知識の及ばない範囲については、なんか見聞きしても響かないとか、まあいろんな解釈の仕方があると思うんですが、
今回のトークではですね、この言語学の分野においても、人間というのは自分の聞きたいように聞いているんだってね、そういうお話をしようと思います。
まあざっくり言うとですね、今回のお話は、 言語学の一分野である音声学と音韻論の違いとなります。
なんか堅苦しいそうですよね。 音声学っていうのは、
人間の発生する生の言語音を、 まあその素材のままで観察するのが、
音声学と言われるものです。 一方音韻論っていうのは、
言語音が、その言語の中で、
ある言語の中でどのように機能しているかっていうのを観察するのが、 音韻論となっています。
まあこれだけ聞いてもね、いまいちピンとこないと思うので、 具体的な例はですね、
実は過去のトークでもちょろっとお話ししてるんですよね。 例えば、
半端っていうのと、 半低っていうのと、
半額っていうこの3つの単語ですね。 半端、半低、半額。
これらはそれぞれ半音の部分まで一緒で、 音っていうのを3つそれぞれ共通の音声として持っているように思われるんですが、
これは音声学的に言うと、それぞれ音っていうのは違う音声になります。 より具体的に言うとですね、
音っていう音を作り出している口の中の部分っていうのが異なります。 半端っていうのは唇を使っていて、半低っていうのは歯茎の部分を使っていて、
最後何でしたっけ? 半額か。半額っていうのは、
上あごの奥の方を使っていると。実際ご自身で口に出してみるとわかると思います。 半端、半低、半額。
こういうふうにですね、日本語のひらがなだと、ん。 ひらがなでもカタカナでも、んと書かれる音は、音声学的に言うといろんな実現の仕方があるんですね。
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他にも全員とか言った場合は、全然舌が口のどの部分にも接触していないのがお分かりになると思います。 全員。
ただ我々日本語母がわ者にとって、これは、 半端だろうが半低だろうが半額だろうが全員だろうがすべてんとして
近くしているということなんですね。 なのでこれらは音声学的には異なる
音なのにも関わらず音韻論的には
すべて同じ音であるとそういうことになるんですね。 つまりこれは日本語母がわ者が
都合のいいように音を聞いているということになります。 さらに一般化すると日本語のんっていう音は鼻に抜ければ何でもいいということなんですね。
どこで音作ろうが唇だろうが歯茎だろうが上あごの奥の方だろうが、 あるいは口のどの部分にも接触していなくても
鼻から空気が抜けていれば んに解釈されるということなんですね。
これはお隣の韓国朝鮮語だとすべて違う、 まあここでいう違うっていうのは音韻論的に違う音として解釈されます。
唇を使うん、歯茎を使うん、 上あごの奥の方を使うん、
これ皆さん全部同じんって聞こえたと思うんですけど、韓国語母がわ者はすべて区別します。 これらの音は韓国語母がわ者にとっては音韻論的に独立している音ということになります。
他にもありますよ、意外にも。例えば さっき言った全員っていうのと全員
今2つの全が音声学的に違う音だったっていうのがわかりますかね。 全員っていうのと全員
これ日本語母がわ者は多分区別できないんですよ。 もう一回言いますね。全員と全員
全員と全員 これは最初に言った方の全員は音を作り出す方法としては
せと同じ方法で発音してるんですよね。せ これ摩擦音と言われるものです。一方2回目に発音した方は全員っていうのは
せと同じ発音の仕方をしています。 これは波剎音と言われるものです。
この摩擦音と波剎音の区別っていうのは日本語母がわ者の場合
声音、つまり声帯の振動を伴わない発音の場合は区別できるんですよ。 つまりせとぜって全然違う音ってわかりますよね。
でもこれがね一旦声帯の振動を伴って濁音みたいになると ぜとぜ
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これ全然違う音なんですよ。ここで言う違うっていうのは 音声学的にです。音声学的にぜとぜって全然違うのに
日本語母がわ者も区別できなくなります。 なのでぜとぜは音韻論的には日本語母がわ者にとって同じ音ということになります。
もちろん言語によってはこのぜとぜを区別しますが 日本語母がわ者にとってはそんなもん全然関係なくて
同じ言語音としてしか聞こえないとこういうことになっているんですね。 今までお話したのは全部詩音の話ですけど母音でも同様ですね。
例えば 誰でも知っているであろう単語である食べるってeatですよね。英語で。
でそれっていうのはitですよね。 これね日本語母がわ者というか日本でその英語教育を受けた場合は
長文と短文みたいな そういうね教え方を多分されるんですよね。
ただ実際はこれ長短の区別じゃないんですよ。長いか短いではなくて音色が違うんですね。
eatとitで違うんですよ。 ただ日本語母がわ者にとってはこれはどちらもitしか聞こえないはずなんですね。
もう一回言っておくと食べるの方はeatでそれの方はeat よくわかんないと思うんですけど
これもやはり音声学的には全然違う言語音であっても 日本語母がわ者にとっては音韻論的に同じ音、言語音として解釈しているということになります。
同様の例はもういっぱいあるんですよね。 これって皆さんが外国を学習している中でどんどんどんどん発見できるものだと思うんですが
例えば中国語とか韓国語で パーっていうのとパーっていうのは全然違う音なんですよ。
日本語母がわ者は両方パンにしか聞こえないけどこれは 専門的に言うと有機音と無機音って言って
発音の時に強い 空気の開放みたいなのがあるのが有機音でパー
でそういうのがないのがパーっていうのが無機音となります。 こんなん両方パーじゃねえかって我々思うんですが言語によっては
音韻論的に違う言語音として解釈します。 まあこれって結構面白いですよね。
自分が生まれ育った その
母語に自分の耳がもう支配されているというか 固められているっていうかね
なので冒頭でお話ししたようにですね人間て自分の都合の良いようにしか 見聞きしないっていうのはまずね言語がそうなんですよ
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自分の都合の良いようにしか聞きません まあこれってねでも良い悪いではないんですよね
なんで実際には音声学的に異なる音でも音韻論的に同じに聞こえてしまうかというのは
当然その区別が必要ないからということですよね 区別する必要がないのにわざわざ聞き分けてたらもう時間の無駄っていうか
効率が悪いということなのでそこら辺の近辺の似たような音は似たように聞くと それが日本語に限らずあらゆる言語で行われていることです
もしねあの皆さん今あるいは過去に外国語を学習をしているしていた 時にですねまあそういう発見がもしかしたらあったかもしれません
そういう目線で外国語に触れてみるのも面白いと思います というわけで今回の話は言語学の一分野である音声学と音韻論についてのお話でした
もしね質問等ございましたら受け付けておりますのでマシュマロ投げつけてください ではまた次回お会いしましょうごきげんよう
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