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2024-11-09 15:04

#2 仏道と芸術の秘奥「観」について / 小林秀雄『人生について』より「私の人生観」②

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(※音が聴こにくい部分があります。すみません。)

今回は、近代の文芸批評を確立された小林秀雄の講演集「人生について」から『私の人生観』

人生観の「観」という字は、もともと仏教の言葉からきており、色んな角度から「観」を深める。

#恵信僧都
#往生要集
#二十五菩薩来迎図
00:00
ちょっと読んでいっていいですか?そういう次第で、その人生観っていうことを話してくれればいいです。
人生観、人生観って読んですけれども、
人生という言葉と観という言葉って、ものすごい深い言葉、ものすごいすごい言葉なんだってこと。
まあね、我々もそう言われたらそう感じるじゃないですか。だからこれ、まず冒頭ね、「観」という字について話してくれるんですよ。
人生観、観という字。この言葉は、仏教の言葉から来ているっていうことで、話してくれてるんですよ。
で、これちょっと読んでみますね。観というのは、見るという意味であるが、
そこいらのものが、電車だとか犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方がない。
極楽浄土が見えてこなければいけない。 無料受教というお経に十六観というものが説かれております。
それによりますと、極楽浄土というものは、空想するものではない。
まざまざと見えてくるものだと言う。 観るということには順序があり、順序を踏んで観る修練を詰めば、当然見えてくるものだと説くのであります。
一回聞いただけでね、分かり得ないよね。 極楽浄土というものは空想するものではない。
あるいは、まざまざと見えてくるものだと説くのであります。
見るということには順序がある。 無量寿経というお経の中でも、1、2位を争うぐらい有名なお経なんですけど、ここに十六観、ステップがある。
観るの順序がある。
やっぱり修練していくと、だんだん神業の領域に入ってくるじゃないですか。 何事もね。
サッカーだって、中村俊介のフリーキックも、どこ蹴るか。 1ミリ、2ミリの世界で回転数を変えてくるみたいな。
野球選手も、150球で、あの速さでカーブかストレートか見抜いたりするわけじゃないですか。
神業の領域があるわけなんですよ。
観という、見るという人並みにも神業の領域がある。
そこまで行くと、孤独とか、極楽浄土みたいなものをまざまざと感じるんだと。
だから極楽浄土とか言うとね、それは妄想でしょ?空想でしょ?って普通の人は思うけれども。
その人は修練を積んでないから、そう思ってるだけで。
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その人がその認識できてるかどうかと、そのものが存在してるかどうかは別の話じゃないですか。
だからやっぱり、僕らはちょっと気をつけないといけないんですよ。 修練積んでないんだから。
それがただ単に空想だっつって、やっぱり肩をつけるわけにはいかないっていう。
野球を1回も見たことない人からしたらね、160キロの球、打てるわけないでしょ?
そんなの打てるわけないじゃないですか。
打つ人がいるんですよ。
嘘だそれは。つって言う。
回って、でね、ちょっとだけ飛ばして。
見るから行くの面白いね、まずね。
面白いでしょ。
人生観って言ったら人生から行く気がするもんね、それ。
これ、明恵上人っていう有名な僧侶の話があるんですけども、
その大先輩に恵信僧都っていう。
明永松陰の話はめっちゃ面白いんですけど、エシン・ソウズの話をするとね。
恵信僧都って、往生要集っていう書物を残してるんですよ。
これも本当に有名な書物で。
何が書かれてあるかっていうと、
地獄の苦しさが書かれてるんですよ。
そこから、往生要集だから、極楽に行くための方法を説かれてるんですよ。
この往生要集っていうのは。
もちろん一言で言うと、念仏ってことなんですけどね。
浄土系のもの。
念仏を唱えたら極楽浄土行けますよっていうことが説かれてるものなんですよ。
でもその地獄とかっていうものがまざまざと描かれてる。
だから、僕ダンテの新曲好きなんですけど、
あれもキリスト教の世界の中の地獄から始まって、天国の間に煉獄ってものがあって、
地獄煉獄天国って順番に巡っていくっていうのがあって、
地獄で苦しんでる人とか天国の世界とかが書かれてるんですよ。
そういうのを仏教版みたいなものなんですけどね。
そのことについて、これ読んでいきます。
小林秀雄さんは言いますよ。
この頃日本の文化を知るためには、
この人、石井創造の首長、王城要書を読むことがどうしても必要である。
仕方がないから読むには読むが、
なにぶん浅学であるから、浅学っていうのはその学が浅いから、
浅学であるから、この中に充満した死語を生かして読むだけの力がない。
死語っていうのは死んだ言葉。
ほとんどこの往生要集なんて、難しい書物を読む人がいなくなったから、
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死んだ言葉になってる。
充満した死語を生かして読むだけの力がない。
これもすごいいい言葉です。
読むことによって死語を生かすことができる。
すごいこと言ってるんですけど。
しかしそれにしても、この書に現れた地獄や極楽のありさまを除したところなどは、
古い経典の引用を巧みに塩梅したものですが、
日本に鮮明な印象を与える一種の名文であって、
書者の観法、観法って見る方法の方ですね。
観法というものの強さ、激しさを自ら感じられるように思われるのであります。
いうことを言ってるんです。
つまり、恵信僧都のこの往生要集っていうのは、
恵信僧都が、地獄とか極楽ってものをまざまざと見たから書けるんだってことを言ってるんです。
さっきの見た話にそこにもね。
そうそう。
観法が、味観とか、いろいろ見るということの道がいろいろある、方法がいろいろあるわけです。
見るはさっきの方法の方に。
観法というものが非常に熟練している。
この人って絵も描いてるんですよ。
続きを読むと、またこの人は立派な仏画も残している。
申し上げるまでもないが、高野山にある、あの驚くべき二十五菩薩来迎図であります。
来迎図ってあるじゃないですか。
来迎図なんですか?
阿弥陀さんが雲に乗って、筋斗雲みたいな雲に乗って、その周りに仏さんが皆んな雲に乗って、
バッバーンって演奏したり、歌うなったりしながら来てるってことなんですよ。
あれか。
あれって、衆生を救済したいがために来てくれてるんですよ、菩薩たちが。
その代表的なものが、恵信僧都が描いた二十五菩薩来迎図。
いろんな来迎図があるんですけども。
これを読みますと、阿弥陀様が管弦歌舞の聖衆を引き連れて、
光り輝く雲に乗り、欣求浄土を念ずる臨終の人間のために来迎する。
これはいわゆる来迎芸術というもののうちで最も優れたものであるが、
絵の構想は微細に渡って往生要集の中に記されている。
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すなわち、恵信の心にまざまざと映じたがままの絵に違いないのであります。
だからあの辺も、さっきの繰り返しになりますけど、やっぱり空想で描いてるんじゃないんですよ。
実感があるから。
見たから。
見てる人もね、やっぱりそう感じると思うんですよ。
そうじゃないとね、あんなに微細に描けない気がするんですよ。
じゅんさんも読んだことは?
僕はダンテの新婦を愛してて、往生要集はそこまで読めてないですけど。
ダンテもそうなんですか
来迎図なんかはね、もちろん見たことありますけど。
この流れで描いてるんですけどね、この当時っていうのは、僧侶が絵を描いてるんです。
特に密教の場合とかだと、もう絵が上手いっていうことは、ほとんど僧侶になるための必須条件なんですって。
へー、初めて聞いたな、それ。
へー。
言うんですよ。
それは何なんだろうね、見る、いわゆる見るってことの解像度みたいなのが、
おのずと絵みたいなものとかも、描けるみたいなことなのかな、分からないんだけど、その辺は。
そうなんですよ。
これ読んでいいですか。
絵仏師というものは、僧の籍にある絵師を言うんですが、
これは僧でありながら、画技、画の技術、画技にも長じていた人という意味ではないので、
当時は僧籍にあることは、絵師として大成するには大事な条件であった。
また逆に密教の場合などでは、画技に長じていることは、僧となるためのほとんど必須条件だったのであります。
て言うんですね。
で、これちょっと飛ばして読むと、
画家の自覚というものは、絵を描くという行為を離れては意味をなさぬというところに注意すると、
観という言葉に、また新しい意味合いが生じてくるのであります。
ここからね。
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絵描きが美を認識するとは、すなわち美を作り出すことである。
同様なことが漢方にもある。
念仏と見仏とは同じことである。
仏というアイディアを持っただけではダメだ。
それが体験できるようにならなくてはいけない。
ということは、日常座臥が、己の体験に即して仏を表さねばならぬ、作らねばならぬということになる。
そういう意味合いが感という言葉にあると解してよかろうと思うんです。
て言うんですね。
もう一回読むとね。
絵描きが美を認識することは、すなわち美を作り出すことである。
すっごいね。
もう一回読むとね。
もう一回読むとね。
この、
絵を、
うまく絵を描きたいって思うんだったらね、
スキル磨くことも大事なんだけど、
まず美を認識せよと。
美を見出せと。
美を見出せば、絵を描けるじゃないですか。
ていうことなんですよ。
絵がなぜ美を認識せよと。
美を認識することは、すなわち美を作り出すことだ。
美を作り出す。
絵がうまくなりたかったら、美を認識するための感を深めようと言ってるんですよ。
念仏と見仏とは同じことである。
見仏っていうのは、見るに仏なんですよ。
仏の姿とか浄土の様を目の当たりにせよと。
まざまざと目にせよと。
念仏っていうのは本当はそういうことなんですよ。
念仏っていうのは、唱えて唱えて、生無駄仏で唱えていって、
心を鎮めていくっていう段階もあるんですけど、
本当に究極は仏とか浄土の様を、
まざまざと目にしていく。
見仏していくってことなんです。
感を深めるってことなんです。
念仏も見仏も。
仏のアイデアを持っただけではダメ。
それが体験できるようにならなくてはいけない。
ということは、普段の日常で、
己の体験に即して仏を表さねばならぬ。
作らねばならぬということになる。
そういう言葉が観という言葉にはある。
修行に入ってね、
いい詩書きたいなともちろん思いますけど、
小林秀雄さんが言わしてみれば、
そりゃもう、お前、
詩を書く鍛錬の前に観の修行をしようと、
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美を見出せとするわけです。
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