1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #70 禅とは何か?他の仏教と違..
2022-12-25 44:43

#70 禅とは何か?他の仏教と違う禅のユニークな世界観

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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♪~
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、鉄学院について楽しく学んでみようという番組です。
鉄学好きの弟と、鉄学院馴染みのない兄の兄弟2人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の関野京介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
前回の兄チェ、ついに終わりまして、雑談含めると8回くらいかな。
そうですね。
今回から、久々に東洋ということで、禅ということで、ちょっとよく分からないので。
はい。
やっぱり分からないんで。
ちょっとよく分からないんでから入るね。
まあ、久々の東洋ということで、どんな感じの話になっていくのか。
そうですね。
まさに今回禅というところで、また東洋思想というか仏教の流れに連なるお話なんですけど、
禅って最近、いわゆる座禅とか、岩手である座禅会みたいなの、あるのかな?
まあ、あるんじゃない?探せば。
結構さ、それこそ関東でも鎌倉の方、東京都心の方でもあったりとか、あと京都だともちろんあったりするんだけれども、
お寺に行って座禅してるビジネスパーソンとかも知ってるわけよ。
はいはいはい。
そのぐらいは結構最近だとね、一般的では言わないけれども、あんたは普通の、全然仏教徒ではない人が座禅に行ったりとか、
あとちょっと前だかもしれないけど、マインドフルネスだよね。
スティーブ・ジョブス的な?
そうそう。日本の禅から広まったみたいな話もあると思うんだけど、まあ、えのもちょっと有名になってきてるかなと思ったりします。
マインドフルネスは実は禅ではないというか、禅的な考えを元にした、全然違うものではあって、それも雑談とかで話したら面白いなとは思ってるんですけど。
そうか、その辺の話あるんだったらぜひ聞いてみたいね。なんかね、西洋と東洋の交わりみたいな感じになってるのか、意外とそうでもないのかみたいなね。
はいはいはい、そうね。
あれもね、しっかりこう、インドっていうかちゃんとしたお坊さんが広げたものだから、やっぱりその考え方とか支配してるんだけど。
え、あ、そうなんだ。知らなかった。勝手にアメリカとかに渡ってビジネスパーソンが禅を勝手に改造した、勝手にっていうかね、アップデートしたとか。
いい感じにね。
混ぜたみたいな感じではないんだね。ちゃんとした考え方というか、一種の哲学的な話、思想哲学みたいな話なの。
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哲学っていうとちょっとあれなんだけど、いわゆる実践的だよね。やっぱり日々の忙しさをどう沈めるかとか、どうパフォーマンスを保つかみたいな考え方が結構強いから。
そういうのはちゃんと誰か創始者みたいな人がいるんだね。それはそれで。
そうね。有名な、ちょっと僕も実際の流れとかもちゃんと知らないけれど、ティックナットファンみたいな方がいらっしゃってとか、そういう人たちが国際的に活動して広めたよみたいなのをなんとなく聞いてはいるんですけど。
そうなんだ。じゃあ今回の全聞いた後でそのマインドフーネスとか聞くと、その違いだったりとか流れみたいなものがね。
そうね。
全然違うので、その辺とかはね、是非面白くお伝えできればと思うんですけど。
東洋思想みたいな、ソレテツラジオの流れでいくと、元々はブッダから始まって、ナガジュナ、リュウジュの空の思想をやって、あと有意識かな?
っていうのをやりました。有識の創始者と呼ばれる、セシンとか無邪気っていう人が、インドのお坊さんがインドで考えて広げたものだったと思うんですけど。
禅については、実はインドじゃなくて中国で広まってるんですよ。
そうなんだ。
インドには、いわゆる禅みたいなものがないというか、そもそも座禅するみたいなのってあんまなくって、それが中国からの流れなんですけど。
その創始者って言われてるのが、ちょっとこれは伝説的な人なんですけど、母財だるま。だるまさんですね。だるまさんが転んだのだるまさん。
そうなんだ。そういう人が禅作ったんだ。
意外と知らないよね。
あの赤い、選挙で当選した時に狂った目を入れるあのだるまでしょ。
あのだるまのだるま。
知らなかった。すごい身近なのに。
なんでだるまさんが赤くて目を入れるやつになったかはちょっとわからないけど、それも言われがあるんだろうけど。
だるまさんがどういう時代の人かっていうと、これもちょっと諸説あるんですけど、一応5から6世紀の人っていうふうに言われてます。
450年から550年とかそういうぐらいかな。
やっぱりあまり定かじゃないんだよね、この時代の人たちって。
まあそうだよね、文献とかも残ってあんまね。
そう、残ってなかったり。あとやっぱ掃除者ってどうしてもね、後の人から伝説が深刻化されがちだから。
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なるほど、今までずっとあったよね。ストラテスは自分で本を書いてなくてプラトンが書いてたとか、ブッダもだしキリストもだしみたいな。
素晴らしいに近いのか。
そういう感じなんだよね。あとは人がね、いわゆる尊い人だったっていうのをするためにこういろ書いたりするんだけど、
電気として伝わってるもので言うと、もともとはインドの人ですと。
中国に来たんだけどインドの人で、ある国の第三王子みたいな人だったようなんだよね。
ありがちなんだけど、第一王子とかは国を継ぐけど、第三、第四とかってなるとあんまりポジションもなかったりするから、結果出家しますと。
で、偉いお坊さんやっぱちゃんとなるんだよね。
そこまではいいんだけど、ここからがちょっと迷いつばで、100歳を超えてから3年かけて一人で中国にやってきたっていうふうに言われてますと。
嘘だろうな。当時100歳ってもう化け物だよね。
多分そうと思うんだよね。
しかも時代がはっきりしなさすぎて、例えばこの年にここにいたとか、あの時にこうやってたっていうのが残ってるから、それを統合すると150歳くらいまで生きたんじゃね?みたいな。
ありそうだね。
そうなんだよね。
いずれその、高齢になってから中国に行ったみたいな話なんだね。若いうちからとかじゃないと。
そうそうそう、多分それはそうなんでしょう。
当時の中国、インドからダルマさんがやってきた中国っていうのは、時代的には、中国王朝、難しいじゃないですか、いろんな王朝があると思うけど。
なんか暗記したようなね。
あれの隋っていう、要は南北に分かれてたんだけど、それが統合されたのが隋とか唐っていう時代があるんだけど、そのちょっと前、北と南に分かれてそれぞれに王朝があるよっていう時代の、
領っていう王朝の時に、そのダルマさんが活躍しますと。
そこでインドの時代と中国の時代って重なってくるんだけど、ただね、活躍するって言っても、結構他のお坊さんと違う結構ユニークなところがあって。
で、いわゆる当時というか、その時の仏教、中国の仏教って、いわゆる三蔵法師みたいな感じで、インドからいわゆる経典とか本っていうのを持ってきて、
で、翻訳して中国の人に伝えるみたいな、そういう人が重宝されている時代なんですよね。
09:03
(岡田) あー、あくまで原点というか、オリジナルはインドの方にあるから、中国だとなかなかオリジナルの本がないみたいな思想もないみたいな時に、
三蔵法師だともうちょっと後の時代だよね、多分唐の時代とか。
(瀬尾) そうだね。 (岡田) へー、そうか、それとはまた違うんだ。そうやってインドから何かを持ってきて中国に紹介するとはまた、
でも出身がね、そもそもインドだもんだってね。 (瀬尾) そうそうそう。
(岡田) インドでちゃんと仏教とかも治めてるんだけど、ザルマさんはね、フリーハンドでやってくるんですよ。
(瀬尾) お土産なし。手土産なし。 (岡田) 手土産なし。
(岡田) 一人でフラフラーって来て、洞窟で壁に向かって座禅ばっかりしてますみたいな。
(瀬尾) はいはい、109歳。違うな、3年かけてきて9年座禅してから112歳だね。 (岡田) そうね。
(瀬尾) みたいな感じで、長い間座禅ばっかりしていたみたいに言われます。ちょっとヤバい人だね、当時の価値観からしても。
(瀬尾) ヤバいというか、なんでそんな人が有名になってるのかわかんないね。そう思わせたら洞窟で死んじゃってそうじゃん。
(岡田) インドでさ、うん。年取ってからインドで行方不明になって、中国の洞窟で孤独死みたいなさ。
(瀬尾) 孤独死。確かにね、現代で言ったらちょっと社会問題化しそうな話だけど。
(瀬尾) だからそういう時代をどうやって残してきたのかとかあるんだけど。
(瀬尾) 当然中国にもその時代で一応仏教みたいなものは根付いてはいるんですよ。
(瀬尾) 根付いてるっていうか、いろんな宗派はあって。
(瀬尾) 例えば、僕らから、その馴染みがあるところからすると、いわゆる浄土宗。
(瀬尾) 南無阿弥陀仏って阿弥陀仏を念じるやつとか、あとは経言教っていわれるお経を重視する経言宗とか、
(瀬尾) あとは法華経。でもやっぱりそういう経典というか、お経と宗派ってやっぱり紐づいてて、
(瀬尾) それは天台宗なんだけど、そういうやっぱりこれを、まあある種、切り捨てるところの聖書だよね。
(瀬尾) そういう根本の経典にして宗派ができるみたいな流れがあるんですよ。
(大童) はいはいはいはい。
(瀬尾) ただ、ダルマさんはそういうのを一切持ってこずに、一人でずっと座禅ばっかしてますみたいな、ちょっとやばい人だから。
(大童) ああ、そうなんだね。
(瀬尾) うん。やっぱり当時の、いわゆる伝統的なというか、主流の仏教の人たちからすると、やっぱり怪しまれたりとか、あとちょっとやっぱり妬まれたり、
(瀬尾) いわゆるそういう人たちがやっぱり、ダルマさんすごそうみたいな感じで、そうした人たちも出てきて、
(瀬尾) なんだあいつ、みたいな感じになるんですよね。で、そうやって100歳で来て9年間座禅してるんだけど、
12:02
(瀬尾) 最終的には、これもちょっと伝説だとは思うんだけど、ダルマさんの人気をある種妬んだというか、
(瀬尾) 羨ましく思った。他のお坊さんによって、独殺されたみたいな。
(大童) ああ、そうなんだ。孤独死の頃が殺人か。
(瀬尾) そう、殺人なのよ。事件なのよ。
(大童) はっはっはっは。
(大童) いやあ、そうなんだよね。前回のね、ぶったかの時はあったと思うけど、
(大童) そういう妬まれた人に、ハニードラップで、注がされそうになるみたいなことがあったじゃないですか。
(瀬尾) あったね。やっぱり、悟りを開こうっていう人たちの集まりの中でも、どうしてもそういう煩悩というか、
(瀬尾) そういう執着が出てくるってことだね。
(大童) そうそうそう。やっぱり悟るとか仏の道を行くってのは大変だよね、みたいな話もあるんだけど、
(大童) なんで禅みたいな話が広がったかっていうと、その辺りもしっかりお話していきたいんですけど、
(大童) もっと言うと、やっぱり禅の考え方みたいなものがすごく特徴的で、それがあったからこそ広まったとか続いてきたみたいなのがあるんですよね。
(大童) 今回のシリーズでは禅の言葉とか、あとはいわゆる師匠と弟子の禅問答。やっぱり禅といえば禅問答とかあるじゃないですか。
(大童) あるある。 (瀬尾) そう、を紹介したいんですけど、どういう特徴があるのか、禅っていうものにね。
(瀬尾) あるのかっていうと、これは「教諫別伝不流文字」っていう言葉があって、いきなりわからん言葉を言ったんですけど、
(瀬尾) 教諫別伝は、教えの外に「教える」と「別」と「伝える」っていう文字なんですけど、これは結構字の通りで、教えで説かれるものとか説いているものとは別のものを伝えるよ。
(大童) つまり、仏陀の教えである経典、さっき言った華厳経とか法華経とか、そういうものとは違うものを積極的に伝えていくよっていうことを言うのね。
(瀬尾) うーん、そういうことなんだ。はぁはぁはぁはぁ。なんか、もともとある原始仏教的な経典の内容とは違うことを伝えるっていう意味なんだ。
(大童) 違うことっていうよりは、その外に大事なことがあるから、それを伝えるのが禅だよって言いますと。
(瀬尾) へぇー、そうなんだ。特に原点を否定しているわけではないのかな?それを原点を伝えるために、あえてもっと周りくどいというか、別のところから行かないとその教典の意味がわからないですよ、みたいなイメージなのかな?
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(大童) あー、いい質問ですね。 (瀬尾) えー、そうなんだ。はい。
(大童) ちょっとね、そのあたりの禅が教典というのはどういう続きにしたかっていうのを、また後ほどお伝えしたいと思うんですけど。
(瀬尾) ぜひぜひ。ごめんね、今聞いた理由が、この「教下別伝」みたいな話があった時に、禅のイメージからすると、今例えば「言葉で伝える」っていう言葉だった時に、例えば「ここから飛び降り」を言った時に、だったりとか、言葉で伝えた時に、それとは違うこと?
(瀬尾) 別に飛び降りてほしいわけじゃないんだけど、違うことを悟ってほしいとか、違うことを理解してほしい言葉とは、みたいな意味なのかなと思ったんだけど、もっと本質的な意味なんだね。仏教の教えという意味で。
(大童) そうだね。まさにそこは「不流文字」っていう方にかかってくるんだけど、不流っていうのは不自由とかの不に立てる。文字は文字なんだけど、文字を立てないってことなので、つまり、本質的には言葉とか文字を使って教えを伝えることはしないよってことなんだよね。
(瀬尾) そっかそっか、今言ったのはこっちか。不流文字の方が言葉とかではそのまま伝わるものじゃないよっていうのはこっちか。
(大童) 悟りとはこうであるとか、仏とはこうであるみたいなことは、別にその経典にもズバッと書いてるわけじゃないんだけど、禅というのはそういうものから離れますよっていうことを結構根本のものとして立てるのね。
(瀬尾) なるほど、結構この2つのルールってきついね。サッカーっていうかボールの距離があった時に手も足も使わんぐらいの。
(大童) だるまさんだけにね。
(瀬尾) 確かに。やべえ。
(大童) いやー、せらだな。キレキレですな。
(瀬尾) 恥ずかしい。恥ずかしい。そうだね、だるまだけにね。
(大童) えー、すごいルール。
(瀬尾) でも本当そうで、さっき言った通り浄土宗とか、傑言宗っていういわゆる主流の人たちって、要は特定の経典というか仏教のお話とか教え、仏陀の教えに基づいて成立しているから、これがある種の権威だとか、これに沿って俺らは仏が目指すんだって言えるんだよね。
(大童) はいはい。「真目指せるよ」って説得力がいそうだもんね、言葉で。
(瀬尾) そうそうそう。なのにその時代に、その禅だけはどの経典にも依存しませんよっていうことを最初に掲げちゃうのよ。
(瀬尾) まずさっきのサッカーで言うと、十一輪でとか、ボールで足を扱ってゴールキーパーは手だけでみたいなルールでやってる中で、俺らはなんかボールじゃないところでサッカーやるぜみたいな。
18:12
(大童) うんうんうん。 (瀬尾) どういうこと?みたいなことを言い出しつつわけよね。
(大童) はいはい、なるほど。確かにそれ、教義としてそもそも成立するの?みたいな話だよね、周りからすると。
(瀬尾) うん。何言ってんの?みたいな。やっぱりそこが結構禅の独自性というか。
(大童) うん。で、このいわゆる教義別伝とか不流文字っていう言葉自体は後の時代の人がまとめてわかりやすく作ったと言われているんだけれども、やっぱりそういう思いとかスタンス?みたいなのはこのボダ・イダルマの時代から受け継がれているよ、みたいに言われてますと。
(瀬尾) はいはい。そんなに独自性があるというか、全然違うんだね、その時からして。
(大童) そうそうそう。やっぱりこれもさ、これまでキリケゴールとかニーチェ的な実存主義みたいなことを言ってきたけど、西洋の。
(瀬尾) うんうん。 (大童) これもやっぱりある種ボダ・イダルマの、本当にこう、体から出るとか自分から出るやっぱ、なんか宗教性というか仏教?だなっていう感じがするんだよね。
(瀬尾) あーなるほどね。そこはでもずっとたぶん、周波に借りやす、本気で悟りを目指そうと、そのキリケゴール的に絶望を通った宗教者たちは、その矛盾に苦しんできたんだろうね。
(大童) 言葉で理解できない、それを相手に伝える時にここまで伝わらないか、みたいなことか。 (瀬尾) そうだね。 (大童) 自分も理解できない、人に伝えるみたいなもの。なんかそれの一つの、答えみたいな感じもしてきたね、この前提も。
(瀬尾) 面白いのはやっぱりさ、トヨはもともとナーガール・ジナーが言った通り、言葉には本質とか本体とかそのものはないっていう発想があるから、言葉を使わないっていう選択肢を積極的に取れるんだよね。
(大童) ああ、そっか、それはすごいね。そこをもう既に内包してたのか。さっき、いろんな教理はいろんな言葉とか、論理的に、原点、経典ってものを大事にしてたけど、もう既にナーガール・ジナーとかが空の思想で、その経典っていうものの存在意義みたいなものも既に疑問を発してるわけなんだね。
(大童) ある程度ね。仏教の中にそういうものをやっぱりもともと、ある種、磨き込んだというか、ちゃんと形にしたっていうのが、いわゆる五大だるまさんの禅っていう感じなんだけど、もっと言うと、仏教の目的はある種、仏になることだから、それをみんな目指していくんだけど、
仏になる道って何よって言った時に、ある種、仏陀の残した言葉とか文字だよね、っていうのを辿るんじゃなくて、ちゃんと仏陀っていうのは、五大寺の下で最後、瞑想をして悟ったわけだけど、それがいわゆる座禅のポーズ。
21:19
三永さんが、目指すような足を組んで、手を組むようなポーズだったって言われてるんだけど、それが結局、仏陀が悟ったっていう瞬間なんだから、その悟りっていうのは、自分自身がまさに、あやけよって書いてある、次体験しましょう。
だから、外にある仏性とか仏陀を探し求めるんじゃなくて、自分の中に、いわゆる仏性があるんだから、その仏陀と同じ仏性っていうのは、ちゃんと見出しましょう。
つまり、自分の外側、思想とか真理とか言葉って言うのに頼るんじゃなくて、自分の内側から真実の自己に至るっていうのが、いわゆる仏に至る道なんだよ、っていう方向性が善の中にあって。
逆に言うと、これがその善の成立根拠。さっき言ったみたいに、経典もないし、教えもないし、言葉も使わんとか言ってる中で、じゃあ善って何よってなるんだけど。
そうだよね、全然定義できないしね、そこに人が集まるとか、それが後世に残る意味が分かんないもんね、無駄もんね。
そう、どうやって受け継がれてるの?みたいなのあるんじゃない?結局は、自分自身がまさに仏陀と同じ形で仏になる、そういう体験をするんだっていうのが、ある種、善の成立根拠なんだよね。
はいはいはい、ある意味、一心尊伝とか、自分の存在そのものを、後世にコピーを残していくみたいな話。
あり方とかスタンスはある受け継がれるけど、その悟り自体は一人一人のものだから、積極的に師匠のことを忘れろとか、こんな言葉を聞くなみたいなことも言ったりするんだよね。
お前の悟りと俺の悟りは違うから、みたいなね。
そうか、今コピーみたいな言葉を使ってしまったけれども、あくまで師匠のコピーではなくて、仏陀のコピーになることがある意味目的だから、みたいな。
師匠とかに縛られちゃうと、コピーって言うとなんか、やつっぽいし、違う気はするけど。
そうね、追体験なんだよね。やっぱりそういう意味では結構、キルケゴーリーに近いなと思うんだけど、やっぱりその、ダテンかアダムの罪を追体験するみたいな感覚も近くて、仏陀の悟りっていうのを追体験、自分もしていきましょう、みたいな感じだよね。
コピーって言葉を使っちゃうとね、クローンというか、全く同じものが2個生まれるイメージだけど、そういうもんじゃないよね。多分追体験した結果、全く別のものが生まれるかもしれないし、それをもって悟りっていうふうに、全然定義していいことも全然あり得るから、みたいな話か。
24:12
そうそうそう。だから、あさひその通りで、実はね、禅の結構有名な例えというか考え方として、四月の例えって指と月。
指と月、四月。
指と月の例えっていうのがあるんだけど、これ結構好きなんだけど、要は月っていうのが見えないときに、例えば雲とかに隠れてね、見えないときに、でも多くの人が月あそこにあるよって指したら、なんとなくこの辺っていうのはわかるじゃないですか。
はいはいはい。
それが実は真理であって、仏の心なんだよっていうふうに言うのね。つまり兄が言ってくれた通り、悟りが何かわからんし、その仏って何かわからんけど、悟ったっていう人が100人いたら、きっとそこに悟りってものはあるだろう。
あー、はいはいはい。
だからこれが本当に仏陀の悟りと一緒かっていうのは究極的にはわかんないんだけど、でも悟った人がいて、その人たちがこれが悟りだみたいなものを示してくれるんだとしたら、それこそが悟りだっていう考え方があるのね。
なるほどなるほど。
だから別に、仏陀と同じように仏になることは目指すんだけど、別に仏陀になる必要。仏陀になるっていうとあれだな、仏陀は悟った人の名前だから、ゴータマシッタワルタと全く同じ存在である必要はないんだよね。
はいはいはい。
今の話聞いてさ、ニーチェ聞いたばっかりだからかもしれないけど、面白いね。やっぱり悟りっていうさ、ある意味イディアみたいなものがあるのに、その真理だよね、真理とかイディアみたいなものがあるのに、それそのもの自体は実はさてお月みたいなもの。
バシッと存在するものじゃなくて、それそれ個人の中に見出すか、早いときに言うとね、見出すものなんだよみたいなふうに言われた瞬間、結構大変だね、やっぱり仏教の方もね、そうなってくると。
そうなんだよね。
さっき指差してくれた人が、本当に悟った人ならいいけど、悟ったつもりの人とかさ、悟ってもいない相手を騙そうとする人もいるわけで、そういう人が「月ってあっちだよ」とか言って、「ほうほうなるほど」って言ったらさ、やっぱりそういう人を見る目みたいなものも必要になってくるし、うんとかね。
そういうのが面白いなと思ったら、そのままならない感じ。
はいはいはい。
そうねそうね。だからまさにそこが禅の面白さだし、禅問答の面白さで、お前わかってんの?って言われて、わかってますって言われたときに、そんなの全然わかってないよってやりとりがいっぱい残ってるのね。
27:04
はいはいはい。
とか、わかってんの?って言われたときに、わかりませんって言って、お前はわかっておるみたいなやりとりがいっぱいあるのよ。
ほうほうほう、逆気ね。
そうそうそう。
そういう意味では、やっぱり正解がないからこそ、自分で正解をその瞬間に作るとか、そもそもやっぱり仏教の一番難しいところは、僕が今こうやって悟りがとか仏がとかって言ってるけど、悟りも仏もないのよ。
はいはいはい。
空だから。一切が。
はいはいはい。
だから、あるって思っちゃダメなんだよね。そこが言葉の難しいところだし、言葉の限界ではあるんだけど、そこにやっぱり挑戦しようとしているのが絶縁。
はいはい、なるほどね。その感覚をどう追体験してやろうかっていう話で、言葉とかそういうのはあくまで追体験するためのツールというか補助、補助輪に過ぎないぐらいの感じだね。
本当そうで、だからさっきナニキが「善では経典って別に否定するわけじゃないの?」って言ってくれたんだけど、まさにそこで。
はいはい。
でね、あの、善能坊さんもやっぱりこの経典はしっかり読みますと。読むらしいんですけど、じゃあどんな風に読むかっていうと、やっぱりあくまでもそのいわゆる仏の心とか、それを掴むってことは第一で、経典は第二だから、経典を崇拝するとか、それ自体が仏陀のすごい素敵な教えだっていう風には言わないんだよね。
だからそのいわゆる経典っていうのは一応道具だと。その仏の声に至る道具であって、悟っちゃったら別にそれはあるし捨ててもいいんだと。
はいはいはい。
うん、はしごみたいなもんだよね。だから登るためには必要だけど、登り切ったら別にそれはもういらないものだと。
逆に悟った境地で仏の言葉に触れた時に感じるものはあるから、そういう時に使いなさいよみたいなことを言うんだよね。
はい、ほぼね。確かに確かに。その悟った後からわかる味わいみたいなものもあるだろうし、逆に一回悟ってしまえば自分が発する言葉は全て正しいっていう局面にもなってくるからね。
そうだね、そうだね。
もっと言うと言葉にとらわれないから、言葉が正しいって言っちゃうと言葉の本質性を認めるような話になっちゃうから、言葉の、なんだろうな、そういったものにとらわれないまま言葉を伝えることができるとか、そういう心持ちで生きていけるみたいな感じが正しいかな。
はいはいはい。すごい世界だね、確かに。
僕ももちろん誘ってないからわかんないけれども、やっぱりこの仏教の独特の感覚はなんとなく伝えていきたいというか、僕自身が感じる限りでも伝えていきたいという感じですね。
30:06
はいはい、確かに言葉の選び方とか使い方というのはかなりセンシティブというか繊細な感じになってくるね。さっきみたいにこっちが先ほど言ったことを、いやまあ実はちょっと違うんだよ、ニュアンスがちょっと違うみたいなところをちょっと訂正していかないとずれて伝わっちゃったりとか、みたいなことがあり得るところなんだね。
そうなんです。特に禅は多分そうで、もちろん別に僕も修行したわけじゃないからあれなんですけど、やっぱり言葉通りに受け取っちゃうと、まあ全く沈憤寒憤だとか無意味だみたいになっちゃうし、わかった気になっちゃってもよくないしみたいな、すごいバランスがあるんですよね。
こわー、どっちもなんかありがちだもんな、特にわかった気とかになっちゃいそうだもん。わかったーみたいな。
やっぱりこの禅の言葉って、例えばそれこそまさに月を指差す指みたいな話とか、あとは簡潔な言い回しとか出てくるんだよね。それは結局やっぱり悟りっていうのが万人のもの、みんなのものではあるんだけど、あくまでも個人的だっていう、そこのバランスが結構難しいです。
みんな悟れるし、仏になれるんだけど、でもその悟り方ってのは人それぞれです。
で、やっぱりこれって結構、さっきも言ってたニーチェとかケルケゴール的な考え方と結構近くて、心理っていうのは、1個のものがあってそれをみんなが目指すよりは、いっぱいあっていいんだと。
違うのは、心理っていうのは仏になることであって、仏になるっていうのは、そもそも処行は無常で処方は無我だから、仏になるっていう、じゃあ仏自体も別にないよっていうことまで言えちゃうのが仏教なんですよね。
そうだね、そこがすでに中に備えられている、自己破壊みたいなとか、分かったって言ったら、いやそうじゃないよって言ってくれるってものが、もう仏教の中に備わってるっていうのはすごい話だよね。
常に作ったと思ったら破壊される、それ違うよとか、結局それ意味ないよって言われて、その中にもう存在する、常にゼロに、空に戻されるっていう、恐ろしい引力だよな。
恐ろしい。だからそれはね、仏教の強さでもあり、多分、いわゆる人に言わせれば世界宗教にならないというか、すごく多くの人が信仰はしてるけれども、全人類に共通で持てない感覚だよねっていう話も分かるんだけど。
なるほど、なるほど。
だからやっぱり一つのことに囚われてもいけない。自分は真理を求めている仏になるんだ、なるんだ、なるんだっていう人も、やっぱり良くないし。
もっと言うと、善のお坊さんがね、やっぱり善は最高だとか、五代だるまはやっぱり神だから、五代だるまの良いことを信じようとかって言ったら、もうそこで善は滅べちゃうよ、みたいなこともやっぱり言われたりするんですよ。
33:15
だからこそ、その伝統的にね、善のある種の偉いお坊さんというか、善を極めた人っていうのは、自分の言葉を残すこともしないし、そもそもそれを拒否してるんですよね。やめてくれと。
はあ、そうなんだ。じゃあ、あんまり善ならではの経典とか、そういうのはあんまないのかな、もしかして文字で残っているのかな。
経典はね、ない。全くない。
文道の文道集みたいなものは、ただ残っていることがあるぐらいの感じなのかな。
えっとね、そっちはいっぱい残ってるんですよ、逆に。五、六はいっぱい残ってて、なぜかっていうと、やっぱり弟子からしたらさ、やっぱりうちの師匠はすごかったとか、その言葉を残したいってやっぱりなっちゃうんだよね。
そうだよね。あとは仮にそういうのを重ねて、いろんな文道とか、修行というかね、いろいろ読んだ文道をした。
で、まあそれを悟ったっていう人がいたとしたら、やっぱりその足跡は確かに残しておきたいだろうし、それってやっぱり何らかの次の人の足掛かりになるかもしれないもんね。
そう、そこだけがね難しいところで、本当は一人一人やっぱりやらなきゃいけないから、そんな先人をたどっちゃダメみたいなこともあるんだけど、そうするとあまりにも、やっぱり取っ掛かりがなさすぎる。
そうだよね。あの、その絶壁登る、崖登るときにね、2個だけ使わせてみたいな。
何、あのね、指すやつ。
指すやつね。こことここにはね、あの、なんだろうな、たどり道があるよっていうのをちょっとだけ教えてみたいな。
使わせてっていうか、あれか、全部抜いとかないでって感じか。
そうそうそうそう。
何個か指しっぱなしにしといてって感じ。
そうね。みたいな形があるから、やっぱりこう、全能なんかそれはその矛盾とか難しさがあるんだけど、やっぱりその五六っていうのがいわゆる全問答とか、その師匠は残した言葉なんだけど、
やっぱり師匠が生きてる間にやっちゃうと怒られちゃうから、お前何やってんだみたいな。
なんか大体その亡くなった後に返算されるんだよね。
おー面白いな。
そう。そうするとやっぱり大体結構ね、盛られてたりとか、やっぱり事実がちょっと変わってたりもするらしいのよ。
だからやっぱりその今日はね、そのまさにその全能言葉とか全問答を紹介していきたいと思ってるんですけど、やっぱりその、そういうのも含めてやっぱりそう、残すってことに意味を持たせた人、弟子とかの意味と、
やっぱりそもそもその残された言葉とかには意味がない。その瞬間瞬間のやり取りっていうのが大事だから、
それ自体には意味はないよっていうやっぱり全能教えの両方っていうのを捉えておけるといいんじゃないかなっていうのを思ったりしますと。
36:08
わー面白いそうだよね。確かにね。
そのストーリーとしてね、その全問答の語録って絶対面白そうだしね。前チラッと聞いたのとかすると絶対面白いんだけど、
確かになぁ、その言葉はその瞬間瞬間のもので、例えばその二人の間でやり取りされているとしたらその二人だけのものなんだよね、言葉っていうのはおそらく。
それぞれの文脈、それぞれの立っているその場所とかそれぞれが読んできたもの、体験してきたものっていうものがあるから師匠はその言葉を、
この人のためだけにオーダーメイドで言葉とかその問答の内容ってものを選んで伝えていて、だからその相手にしかその「なるほど」っていうその閃きだったり、
身体的に理解が伴わないという場合は、その言葉っていうものを使った時にすごくありそうだもんね。
だからこの例えが正しいかはわからないけれども、僕らって普通言葉を話すときはさ、やっぱりすごい膨大な前提をもとに話してるんだよね。
「おはよう」って言われたら「おはよう」って返すみたいなのも、やっぱり今は朝でご挨拶で相手に「おはよう」って言われたら同じ時間帯で「おはよう」って返すみたいなことを無意識に持っているから、
逆に言うと、その「おはよう」っていう言葉は本当に今この瞬間自分が出た言葉かっていうと絶対そうじゃないんだよね。
はいはい、いや挨拶は悩むよね。
二つだね。
実体験ある?
あるよあるある。
さっき「おはよう」は今何時でとか、このタイミングから「おはよう」みたいなさ、「おはよう」「こんにちは」あと「こんばんは」の使い分けて、なんかこの年になってもわからないなっていうのがあって、
本当は教えてほしい。
これはね、誰か正解を教えてほしいんだけど、保育園のお迎えが難しいんだよね。
わかる?お迎えに行った時に、だいたい5時半とかに行くんだけど、夏に行くと明るいんだよ。
確かにね。
だから「こんにちは」なのか「こんばんは」なのか。
でも5時半、自分の中だと、なんかこう夕方、5時過ぎちゃうと「こんばんは」って言っていいかなみたいなイメージで、明るくてもね外。
「こんばんは」とかってすれ違うお母さんとかお母さんお父さんに言うんだけど、そうすると人によって「こんばんは」って返してくれたりとか、「こんにちは」って返してくれる人もいる。
「こんにちは」って返されちゃうと、「しまった」っていう、すごい罪悪感に苛まれるんだよね。
こっちの主観的な言葉を使ってしまったと。
39:03
向こうのお父さんお母さんは、今「こんにちは」の世界を生きているのに、こっちはこっちの勝手な都合で「こんばんは」っていう言葉をかけてしまって、申し訳ないと。
でも今冬になって、もうね、岩手の方は4時過ぎると暗くなってて、5時半だともう真っ暗なんだよ。
そうすると結構「こんにちは」の率がだいぶ下がるんだよね。みたいな話。
時間なのか、外の暗さなのか。
定義がいろいろある中で、その攻めき合いが毎日、世界にお迎えに行くたびにね。
っていう話が、今思い出した。今の「おはよう」で。
誰か教えてくれる。
繊細な世界に生きてるね、お兄さんは。
なことはないかな。どうなんだろうね。申し訳ないんだよ。
申し訳ないね。でもやっぱりそれはすごく面白い感覚だと思うし、前提に言ったら、別に自分が信じることを言えばいいのよ。
「こんばんは」でいいね。一応俺はこう思ってると。俺の定義はこうだから。
自分が今「こんばんは」の世界に生きているんだったら「こんばんは」っていうべきだし。
それが「5時」っていう時間に依存しているのか、「明るい」「暗い」っていう自然に依存しているのかっていうのはやっぱり人によって違うじゃない。
そうそうそうそう。
自分が今どっちに支配されているのかとかもわかるよね、それでね。
そうだよね。だし、それをいろんな人がみんなね、多分意識したりとか無意識だったりとか、いろんな中で生きる中で、そこはすれ違った時に「ああ」っていうスマール。
なるほどね。
そうそう。
だからそれをね、そのような感覚をやっぱり持った時に、日常生活だったら相手に合わせなきゃとか、自分はいいんだろうかって思うけど、
ほっざけになることを目的にしてたら、俺はもうこの本当の自分として「こんばんは」って言ったんだから、自分の「こんばんは」を大事にするのだ、みたいな。そういう感覚になるよね、多分。
でもここにちょっとちょっと返された時に、さらにそこにどう返すかみたいな。
まあそうだね、確かにそれをまあ師匠だったりとかね、周りの修行仲間と話し合うわけだよね、多分疑問に思ったりとかね。
自分も本当に考え抜いた、もう座禅しながら三日三晩考えた「こんばんは論」を相手にぶつけてみるんだよね、多分。それを繰り返しなんだね、修行ってさ。
そうそうそう。面白いね、今のお話めっちゃ面白かった。
本当に言葉ってさ、言葉にとらわれないいろんな意味とか背景とか含むものじゃないですか。
42:06
そういうことの意味とか、そもそもさっき言ったような「禅は不流文字だから文字を立てない」っていうところの考え方がありながら、
言葉でどうやって教えを伝えていくかとか、師匠が弟子に何かを導いていくかみたいな話っていうのはすごく面白いと思っているので、
なのでいわゆる仏教の言葉って言うと「ありがたい言葉をいただきます」みたいな感じもあると思うんだけど、そういうのじゃなくて、
何がやり取りされていて、なんでそれが仏のイメージにつながるんだろうね、みたいなことを感じながらですね、
ぜひ皆さんもその言葉にとらわれない、でも言葉を楽しむみたいな、不思議な時間を味わっていただきたいなというふうに思っております。
了解。楽しみだね。やっぱり前提あんまりイメージがなかったんだけれども、こうやって定義みたいなもの、
いわゆる「なんとか教なんとか宗」みたいなものとの違いでは、独自の何もないみたいなね、言葉もないし、拠点もないみたいな、自分たちの感覚が大事なんだみたいな雰囲気、
それを言葉にも残さないんだ、みたいなね、そういうユニークさみたいなものが当時からあって、それを伝えるための手段としての禅問答みたいなね、
ちょっとその禅のルールみたいなものが今回見えてきたんで、じゃあなんでそのルールの上でこういうやり取りをしているのか、
多分この後教えてもらえるってことはね、今回。 そうだね、でも本当に一部ではあって、禅っていわゆる立ち振れ舞いとか座禅だったら、
もう座禅のやり方とかも含めての禅だから、ちょっとそれ全部はなかなかお伝えできないな、というか、僕もそこまで知らないしとは思ってるんですけど、
あくまでも五大ダルマからいくつか時代が下った人たちが、禅っていうものでどういうふうにやり取りをしていたかとか、
そういう五六っていうのにどんなエピソードが残っているかっていうところはご紹介できるし面白いかなと思うので、
そっちはね、メインにお話ししていきたいなっていう感じですね。
了解です。わかりました。じゃあ次回からその内容に触れていきたいと思いますので楽しみにしています。
じゃあ次回も引き続きよろしくお願いします。
はい、お願いします。
(♪ BGM)
44:43

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