神羅の人となり
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回は鋼年が出会った浄土京というものが何なのかというところを見てきたんですけれども、
それでもう最強じゃんみたいな話してたんだけれども、まだまだアップデートの余地があるんじゃないみたいな、そういう話があったというところでした。
そうですね。今回、親鸞という人を取り上げて、次回で立片という人を取り上げようと思っているんですけれども、
歴史的に言うか、ある種教科書的には親鸞が浄土神宗を開いて、立片が自主を開きましたよ、みたいな、そういうのは多分皆さんも聞いたことがあるのかなと思うんですよね。
うんうん、そうだね。それしか聞いたことないね、むしろね。
そうですよね、確かに。なんとなく本の名前とかはあるかもですけど、「なんで開いたの?」とか、「なんでそんなことを知らなきゃいけなかったの?」みたいな話っていうのは、当然歴史の教科書ではなかなか学ばないわけですよね。
まあね、たぶんそれやってたら終わらないんだろうね、勉強がね。
そうそうそうそう。
そういうわけで、つらじょはそこを抑えしていこうという話なんですけれども、前回浄土教、まさに中国であった教えというものをお話ししたときに、
結局、阿弥陀仏という、もともとはインドの王様だった人が、十行というものすごい遠回り時間、悪奥義か、という時間を修行した結果、
阿弥陀仏という仏になって悟りを開いて、阿弥陀仏というのは本願というのをいっぱい立てたんだけど、
その中に心の底から、この阿弥陀仏、私というのの救いを信じれば、皆さんを極楽浄土に引き取って、そこで修行をさせてあげましょう。
と思っていると、それ自体が悟りというか救いですよ、みたいな。そんな風な教えが結構根っこにあるんだよ、という話をさせていただきました。
さっき言った通り、心の底から阿弥陀仏の救いを信じるって、それってどうやったらできたって言えるのとか、
そもそも人間にそんな一心に仏の救いを信じるなんてできるの?みたいな、結構そういう問題が起きてくるんですよね。
そこそこ阿弥陀仏って、言えばOKってものでもなさそうだぞっていう話だってことなんだね。
そうそう。当年の浄土宗まではそんな感じ。実はちょっと先取りすると、一面は、いや、言えばいいんだって言ったんだよね。
ああ、そうなんだ。
神論はちょっと違って、やっぱり信じることは必要なんだけれども、信じるという在り方が違うんだ、みたいなことを言ったのが神論です。
じゃあ結構その辺、どう言うかみたいなところが結構論点なわけなんだね。
どういうかとか、阿弥陀仏を唱える、ある種念仏を唱えるっていうのが、どういう働きとかどういう心でやるのかやらないのかみたいな。
そういうのは結構テーマになってきてるようですと。
なんかそのあたりって、この後話すのかもしれないけどさ、当時バズったじゃん、法念の浄土宗が。
やっぱりすごく大変な時代で、何かイスが痛いという時に、生阿弥陀仏って唱えれば悟りを広げる、浄土に行ける、極楽に行けるみたいな。
バズったみたいな話があったけれども、ただそれ故に文化性とも言えないさ、ただ信じちゃった人たちが喧嘩するとかさ、他の宗派にマウントを取るみたいなさ、
いろんな問題が出てきたってあったんだけど、やっぱりそういう問題が出てきたことによって、この神壇とか一平みたいなものがまた出てきたみたいな流れなのかな、雰囲気的には。
そうだね、実はそこまで直結してない感じもあって、神羅も別に自分自身新たな宗派を開こうとか、法念で師匠を超えてやろう、みたいに思ってたわけじゃないらしいんですよね。
どっちかっていうと、2人とも自分自身の浄土教を信じた、神羅仏を本当に信じるなんて果たしてできるのか、いやできないみたいな挫折とか、自分自身の悩みからスタートしてるんだよね。
なるほどなるほど、そっかそっか。法念はめちゃくちゃいろんな修行をしたりとか、その中で出会った浄土教か、浄土教ってものがあって、神羅はその弟子で、一緒に浄土教を極めようっていう中で、いろいろまた解釈だったりとか、そこが出てきたのかまた。
そうなんだよね。一編自体は浄土教とかはもちろん学んでるんだけれども、法念からは直接は学んでないはずなんですよね。
はいはいはい。
そのぐらい時代のそうそう、平たりもあるんで、そこは今回は一旦神羅にフォーカスしたいんだけれども、次回一編の話を踏まえる中でそのあたりの全体感もお伝えできるかなとは思っています。
うん、わかりました。
最初に少しだけ神羅の人となりみたいなところをお伝えしたいんですけれども、もともと神羅は久芸などである、いわゆる貴族階級の出身なんだよね。
そうなんだ、はいはい。
そうそう。貴族って言っても、平安から鎌倉みたいなところでお伝えした通り、貴族もどんどん増えていくわけですよ。
はいはいはい。
その中では中流みたいな、要はこれ以上上に行けないんだけど、貴族として定名は保たなきゃいけないみたいな、結構苦しいところだったらしいんですよね。
苦しいんだ。貴族でいるのにも金がかかるみたいな話なのかな。
神羅の思想と阿弥陀仏
そうそうそうそう。
そうなんです。一応おそらく京都の生まれだろう、京都周辺だろうみたいな話はあるんだけど、あんまり小さい頃の話は残ってなくて。
明確に比叡山に神羅も入っていって、天台宗含めて、いろんな宗派の仏教を学んでいたようだというのは残っています。
やっぱりその辺は共通というか、ある意味そっちを目指す人たちの基礎というか、そういう話なのかな。
だからもう仏教を学ぶなら比叡山に行けみたいな感じで、神羅になるなら東西に行けみたいな、多分そんな感じだったんだと思うね。
そこ行くと天台宗だけじゃなくて、他の宗派ももちろん比叡山で学べるよ、学べようという話なのね。
そうそうそうそう。
で、その後ね、本殿が開いた浄土宗に出会って、そこに救いの可能性を見出すんだけれども、
そういった中でね、いろんな夢のお告げとかもあったらしくて、比叡山を出ますと。
その後が面白いんだけど、神羅は結婚をしてるんだよね。
へー、そうなんだ。
肉食、肉を食べるのと妻を芽取るというのは基本的にはNGなんだよね。
なので、普通はそれやったらお坊さんじゃないというか。
ああ、そっか、まあそうだね。
そうそうそう、戒律を破ってみたいな感じなんだけれども、
神羅に言わせちゃうと、お婦さん、妻っていうのも、それも阿弥陀仏の働きであって、
むしろ妻という存在を通して王女を果たさせていただくのだ、みたいな。
それはどうなの?みたいなロジックなんだけれども。
結構しゅはりの歯が早そうだね、なんかね。
そうね。
だいぶ破ってる感じあるけどね。
破ってる感じはする。
でも確かに言われていればわかるみたいな話もありつつ、
実は神羅は1173年に生まれてるんですけれども、90歳まで生きてるんですよ。
おお、長生き。
めちゃめちゃ長生きで、だからこそたぶんそういういろんなことを経験とかもしながら、
たぶん自分の境地に行っちゃったんじゃないか、みたいな。
そういう人生も送ってます。
人生の話をするとそれだけでまた一回分になっちゃうんで、
ちょっと早速神羅の思想と阿弥陀仏って話をしていきたいんですけど。
人生ここまで、とりあえずね。
さっきやっぱりサラッと夢のお告げなどもあってとかさ。
人間の心と阿弥陀仏
はいはいはい。
結構サラッといったね、神秘体験。
神秘体験。
神羅の。
いや、阿弥陀仏ってそっちよりはどっちかっていうと結構神羅のロジックが普通に面白いんだよね。
はいはいはい。
なのでちょっとそっちの方が気に入って、もしまた気になったら雑談とかで触れたいんですけど。
面白いよね、この宗教の話というか仏教とかの話だと、
その神秘体験をサラッと流さなきゃいけないんだよね、そこはね。
そうそうそうそう。
そうなんです。
はい。
なので、神羅のある種独自性というか、
なぜあえて浄土宗と浄土神宗って違うように今なってるんだけれども、
それと違うものとして広がったかという話なんですけれども、
もうちょっと大事なので何回でも繰り返しちゃうんですけど、
浄土教にとって重要なのか、
やっぱり念仏、阿弥陀仏ってそうあれば救われますというのだけれども、
その救われるっていうのをどんなふうにして確信するのか信じるのかっていうことなんだよね。
はいはいはい。
だから、確かに阿弥陀仏っていうのは遠い昔に悟りを開いて我々を救ってくれるんだけれども、
そのためには条件として、僕ら人間の方が極楽浄土に行きたいですっていうのを、
本当に心の底からもう混じり気なしに願わなきゃいけないんですよっていうのが、
法念までの解釈なんだよね。
浄土教にそう書いてあってしまってるからね。
そうそうそうそう。
書いてなきゃいいのにね。
書いてなきゃいいんだけど、書いてるんですよ。
はいはい。
当然それはそういうもんだっていうふうになってるわけなんだよね。
難しいよね。そこを多分都合よく解釈して、そこ見なかったことにしちゃうと、
多分他の宗派からそこを突っ込めたときに困るって話なんだよね、きっとね。
そうそうそう。困るし、それは当然ね。
書いてるじゃんって言ったら、おっしゃるとおりですっていうふうに言うしかない。
うーん。
ただね、そこも面白くって、書いてるって話もこの後進むんですけれども、
信蘭から言わせると、心をそこからね、
自力なしに応助をしたいです、悟りを開きたいですって思えるっていうのは、
その視点である種人間離れしてるんだと。
へー、ほいほい。
なんでかって言うと、人間っていうのはね、
遥か過去の時代から今に至るまで、
基本的には偽りの心しかないと。
あー、まあ、そっかそっか。だからね、極楽というか、
そっちのね、悟りの世界行けないんだよって話ね。
そうそうそう。
行けてないんですよって。
行けてないし、そもそも仏の世界から見たら、
人間なんていうのは、いわゆる汚れた世界で、
他の動物とかと変わりないんでしょって話なんだよね。
だからこそ、もちろん釈迦様みたいな例外とかはあるかもしれないけれども、
基本的には清らかな心で仏を信じ切るなんていうのはないことなんだと。
あー、なるほどね。悟れる人例外なんだろうね。むしろね。
そう、悟れる人は例外。
そもそも修行をそこまで打ち込める人も例外だし、
ここには神覧自身の迷いというか、
自分自身も修行をすれどもすれども、
本当に自分はこれを信じてるんだろうかとか、
内省したときに、内省するってことは疑ってってことだよねみたいな、
多分そういう思いがあったんじゃないかと思うんだよね。
まあ、そうね。だって破ってね、奥さんとかもね、再退してるしね。
そうそうそう。だからこそ、そんなことは土台無理な話だと。
心の底からね、ブラックゾードに行きたいと願い切るなんていうのは無理な話だから、
やっぱりその前提で考えなきゃいけないんだっていうことを神覧は言っていくんだよね。
いやー、いいね。これはなんか、本気で修行すればなんとかなると思ってる人よりも、
ある意味すごいことかもしれないよね。一旦ゼロベース、無理なのではないかって思うっていうのはね。
そうそうそう。
ちょっと好きな。
ちょっと人間。やっぱり人間らしいところがすごくあるんだよ。
神田仏の心の働き
やっぱり、要は自分こそが心の奥底まで気慣れなく仏の世界を目指しているって思うこと自体が傲慢じゃないかみたいな話とか、
それって結局、来世というか未来に救われたいっていう、そういうエゴが出てるじゃないかみたいな、
そこに目が向いちゃう人だったんだと思うんだよね。
すごい。結構はぐれ者じゃないけど、ちょっと個性強そうだね。
そうそうそう。やっぱり独自性がそこにあるんですけど、どうするかっていうとまさに兄貴が言ってくれた通りで、
要はタイトルジャンっていうことをどう解釈するかっていうような話なんだよね。
もっと言うと翻訳の話で、要は浄土教の経典っていうのは中国語で書かれてます。
なので、さっき僕が心から極楽浄土に生まれたいと信じて、
神田仏っていう念仏を唱えるんだっていうことがどう書かれてるか、漢文でどう書かれてるかっていうと、
知人信行っていう、知人っていうのは心に至る。
信行っていうのは信じると楽、音楽とかの楽を行って読むらしいんだけど、
それが心から願うみたいな話で、
欲生我国っていうのが欲っていうのは欲するね。
欲生は生まれる。
我国は我の国っていうので、要は神田仏の国極楽浄土にっていう話で、
欲生我国はわかりやすいね。神田仏の極楽浄土に生まれたいと欲するっていう話。
知人っていうのはまさに心を尽くして信じるっていうような話なんですけど、
経典にはこの漢字8文字しか書いてないわけよ。
なるほど。
書いてないというか、漢字8文字をある種翻訳して、
心から極楽浄土に生まれたいと信じて尽くして願うならみたいな風に訳してるわけなんだよね。
でも実はこの神田っていうのはまさにすごい人で、
この知心、心を致す、尽くすみたいなことを、
あえて我々人間が心を尽くすんじゃなくて、
これは神田仏のことを言っているんだっていうふうに解釈するのね。
つまりこの心を尽くすっていうのは人間の働きなんじゃなくて、
神田仏がやってることなんだと。
だから神田仏は心を尽くして我々のために祈ってくれているとか、
仏の力っていうのを人間に分け与えてくださっていると。
だからそれを信じるんだっていう風に捉え直すんだよね。
おー、なるほど。
信号書いてないからね。
そうそう、信号書いてないから。
こうしちゃうと要は、自分の心を信じるとかっていう我のことじゃなくて、
神田仏のまさに自貧の心とか、利他みたいなことを信じるので、
特に自分っていうのは関係ないんだみたいな、
そういう風なロジックが出てきます。
一方さっき言ってた、
要は自分の心みたいな問題が問題じゃなくなるのって分かるかな。
分かる分かる。
心から願えば我が国に生まれこれますよって言ってるのを、
全部祈ればじゃなくて、
私はみんながこれるように心から祈ってますよって神田仏が言ってくれてるんだよ、
安心しなさいっていう風に捉えれば、いいじゃん、解決じゃんみたいな話だよね。
そういうこと、本当そうなんです。
だから絶対たれきみたいな、まさに自分で救われるんじゃなくて、
神田仏様にも救っていただくみたいな、
本当にそれ一つだみたいな話になってくるんだけれども、
ここで言うと、今やにけい言ってくれた通りで、
どうすれば清らかな心で神田仏、生神田仏と言えるかじゃなくて、
どうすれば、いわゆる清らかな神田仏様の心の働きっていうのを埋めとれるかみたいな、
そういう風にテーマが変わっていくんだよね。
すげー、なるほどね。発信する側から受信する側になれるわけね。
そうそう、まさに受信。アンテナになっちゃうんだよね。
そしたら別に結婚したようが肉を食おうが、別にそれだけで悪いってことにならん。
ならないんだ、それは。
ならない。
そのロジックはまだわかんないけど、そうなんだね。
もちろんね、そういう風に神田仏が救ってくれるから何やってもいいみたいな、
犯罪を犯してもいいしとか、実際さ、経典読むと前回おっしゃった通り、
仏、いわゆるお坊さんを傷つけるとか仏像を傷つけるとかやっちゃダメだよみたいなことが書いてるわけだもんね。
そんな風に何してもいいんだみたいに開き直るっていうのはダメだと。
それは本願ぼこりっていう言葉があって、
今しみるような言葉もあるんだよね。
ただ神田自身は別に救ってくれるから何してもいいじゃんってことじゃなくて、
結局修行をしきった上で、やっぱり自分自身っていうのはそんな清らかな存在にはなれないと。
むしろそれをないものとして捨て去って、自分は清らかなんだっていう風に言うことこそが間違いで。
別に例えば結婚した人がいるとか肉を食いたいとかっていう気持ちになった時に、それにもむしろ素直に従いましょうと。
なぜならそれも神田仏が働いている、要は自分には神田仏の慈悲の心が働いているから、
自分が本当に純粋にしたいと思ったことを抑えつけるんじゃなくて、するっていうことがむしろ神田仏様の心にかなっているんだみたいな。
そんな風にある種翻訳というか変換していくんだよね。
都合いい感じはするけどすごくありがたいね。
大衆からする。
やっぱりね、凡人、子孫も残したいとかって思うじゃないですか。
という時に我々凡人からすると、それでいいんだってなるわけなんだよね。
いやー、確かにね。
なので、やっぱり厳密さというか、修行みたいな感じからすると、
法念の浄土宗ともやっぱり一歩二歩全然違ってきてしまう。
まさにこの自分の心から、神田仏の心はまさに発信側から受信側へみたいな。
それでやっぱりガラッと雰囲気が変わっちゃうんだよね。
全然違うね。
本当に面白くて。
逆にね、それで問題が全部解決かというと、そんなこともなくて。
やっぱりさっき言った通り、神田仏の心の働きを受け取らなきゃいけないんだけど、
それでどうやって受け取るの?みたいな話とか。
それがある種自分の心と一致する?
はいはいはい。
要はさっき言った通り、焼肉食いたいとかっていう時に、
それって本当に神田仏があなたに働きかけていることの結果なの?
っていうことはまだ残るわけなのよね。
あー、なるほど。そっかそっかそっか。
そこは本当にただの煩悩なのか、神田仏が願ってくれている結果なのかはわからないんだ。
まだそこは混ざっちゃってるから。
行為でもそこは違う可能性があるのか。
難しいね、結局。
やっぱり行動の前に心があるとすると、やっぱり心はまだ問題になっちゃうんだよね。
そこってどういうふうに考えていきますか?っていう話があって。
すごいシンプルにはなったんだけれども、
要は神田仏の救いを受け取りましょう。
受け取ったままで行動しましょう。生きていけましょうって話なんだけど。
やっぱりそこにもまだ難しさとか複雑さは残ってますね。
そうだね。客観的にあの人受け取ってるわーってまだわかんないもんね。
そうそうそう。
逆に念仏とかにしても、
要は念仏、生神田仏、生神田仏、一斉に唱えていますとしても、
神田に言わせれば、
神田仏の慈悲をちゃんと受け取ってますか?と。
受け取った上でちゃんと念仏してますか?っていうのは問われちゃうんだよね。
だから受け取ったとは言いながらも、
なんだかんだ自分の名声を高めるためとか、
あるいは自分が救われようみたいに思って唱えちゃうと、
それは神田仏の慈悲の心を信じるとか受け取るっていうところから遠ざかるばかりじゃないかと。
それは有害だっていうふうに言うんだよね。
信蘭がね。
その辺は真面目というか、都合がいいだけでもないんだね。
受信にした上で実際どうするのっていうロジックをめちゃくちゃ考えてはいるって話なんだ。
本当に受け取れてますか?っていうのは、
自分の心を一切曇りなく清らかにする必要はないんだけど、
神田仏のあなたを救いますよっていう心を本当に受け取ってますか?っていうことはまだ残るんだよね。
まだ分かんないね。
言ったもん勝ちな感じがする。
そういう意味では浄土宗の一心に信じて念仏を唱えると、まだ解決してない気がするね。
そうだよね。
似てちょっと進んでるんだよね。
自分の心は清らかである必要はないんだけど、
神田仏の心を本当に信じてる必要はあるっていう意味では、
シンプルだけど難しいみたいなふうには言われるんだよね。
自分の心を捨て去る
神田仏の救いは信じるみたいな話でいくと、
あ、ごめん。ただじゃない。ちょっと言い直すね。
シンプルだけど難しいっていう話はあって、
神田仏に本当に救っていただくためには、
自分、自我とか自分の心っていうものを徹底的に粉砕しなきゃいけないみたいな。
だから自分の思い計られたものを全部捨て去って、
例えば仮に自分の心があったとしたら、
心を空っぽにして、
そこを神田仏の慈悲の心で満たさなきゃいけないみたいな。
そういうふうな話になっていくんだよね。
なるほど。難しいこと言うね。
でも神田は多分それができる方の人だったってことなんだね。
さっき言った通り、一心に信じて修行をするとか、
本当に信じるってのは人間無理だよっていうのは、
多分本当にそれは悟ったんだろうね。
そうそうそう。そっちは無理だと思ったんだよね。
やっぱり人間の心をきれいにするのは無理なんだけど、
その汚れたものを捨て去って、
神田仏の受け取ったものを満たすということができるということまではやっぱり言ったんだろうね。
なるほど。はいはいはい。わかるわかる。難しそうだけど。
だから別に神田もただただそういうことを考えたんじゃなくて、
やっぱり必死に修行をして悩みに悩んだ結果、
やっぱりここに至ったって話ではあるんだよね。
そう言われるとすごいわかる気がしない?
神田の言っていることだよね。
神田の言っていることとか気持ち?
こういうふうに考えたくなる気持ちだね。
ある意味、法念と似ている部分があるよね。
営みとしては。
自分がやってもやっても悟れない。
そこにどうするかっていう話と、
そこで自分がやり切った時に挫折というか、
無理だと思った時に何を考えるかというのが多分大事だと思うんだけど、
そこで神田は、
いや、そんな信じるとかって無理じゃね?っていうところに
めちゃくちゃ本当に思ったみたいな話で。
そうだね。
なんかね、それを自分の心を捨て去るって表現してるっていうのは、
これは多分あれだよね。
自分みたいにめちゃくちゃ修行をしなくても、
そういう意識を持って自分の心を捨て去るみたいな意識を持っていれば、
一般大衆もできる可能性があるよっていう話をしてくれてると思うんだけど、
すごく難しい話だよね。
法念っていう師匠が言って診断でぶつかった壁が違うと思うんだけど、
これと同じことが診断と弟子だったりとか、
信じる大衆にもありそうで、
自分の心を捨て去らなければって思ってる時に、
じゃあどうなるっていうね。
阿弥陀仏の救いと悟りのステップ
悟りと似てるよね。悟らねば、自分の心を捨てればみたいな。
そこが目標になった時にそれを達成する難しさってあるよねっていうのは。
そうだね。
でもそう伝えなきゃいけないっていう難しさもね、言葉でね。
それもわかる気がする。
逆に言うとそこまで徹底して、
自分の心は絶対に清らかにならないっていうふうな確信を得るというか、
そこを生き切ったからこそ、
阿弥陀仏にすがるっていう転換が起きるみたいな、
そういう結構究極的な教授だと思うんだよね。
はいはいはい。
確かに僕ら漢人にしても、
やっぱり君たちの心ってその綺麗にならないでしょとは言うとは思うんだけど、
信蘭も。
受け取った側がね、本当におっしゃる通りです。
だからこそ自分の心を捨てればなりませんってなるかっていうと、
なかなかそれは難しいと思うんだよね。
実際一編の時に次に言おうと思うんですけど、
一編の時代はこの信蘭の教えっていうのが一定広まってた時代なんだよね。
ああ、そうなんだ。
だからこそ信じるというか、
阿弥陀仏にすがればいいっていうのはみんな頭ではわかってるんだけど、
それができませんっていうのは今度は課題になってくるんだよね。
ああ、まだ難しかったんだ。
まだ難しかった。まだまだやっぱり阿弥陀仏には届いてなかった。
そう言っても実践できなかったって感じなんだよね。
ただやっぱりこの信蘭みたいなある種、
ちゃんと天台宗というか比叡山に学んで、
いろんな修行をした人からすると、
そういった自分の力じゃなくってまさに絶対たれきで、
絶対っていうのは本当に預け切るとか、
自分っていうものを捨て去るっていう意味での絶対って感じなんだけど、
そういうふうに自分自身を捨て去って阿弥陀仏にすがる、
そこに本当に全力を注ぐっていうのが、
やっぱり新しい救いの形というか、
信仰の形なんだっていうのがやっぱり導き出される。
うわー、はいはいはい。
まさに完全な受道的態度としての浄土、真宗っていうのが感じなんだよね。
わー、面白いねー、なるほどなー。
そのー、見遂げしたいんじゃないけどさ、
やっぱりこの自分の心を捨て去るってさ、
もう最後の結論じゃん。
あ、見遂げしたいんだっていうか、
最後の、これを理解したものを捨て去らればならないっていうね。
隣りつくせでもない、ついた地にも置き去ればならないっていうのが、
フォリト・ゲンシュタインのロニテ・バルーンコードの最後の言葉だったよっていう話だよね。
そうそうそう。で、ただそれを理解するためには、いろんな話があって、
それを理解することで、それまで使ってた言葉も全部無意味だったことが分かった段階で、
やっと沈黙っていうことの意味が分かるよみたいな話ってあると思うんだけど、
これ、フォーネンもチンダンもさ、天台宗っていうか平山できちんと、
当時のさ、ちゃんと修了をして頑張った上で、
自分の心を捨て去らねばとか、そういう絶対大器だっていう、
ある意味本人たちなりの悟りみたいなものに至ってるわけで、
そうするとそれまで修了してきたいろんな大変だったものは、捨て去るわけだ、ハシゴとして。
信じ切ることの難しさ
そうだね。
それと同じだよね。お前ら沈黙しなきゃダメだぞって大衆に言ったとして、
あ、沈黙しなきゃ、沈黙しなきゃってさ、難しいから、
それの反動としてさ、これやっちゃうと、やっぱ修了しなきゃね、みたいな風になって、
その後、やっぱ修了無意味だったっていう、やっぱ道のりみたいなものは出てきそうだなっていうのと、
やっぱ結論から言う難しさみたいなものを感じるけど、
でも結論が、自分の心を捨てる生網羅仏を受信しろ、みたいなさ、
その分かりやすい話がなければ人はついてこないし、
誰も本開かないし、みたいなさ。
話聞いてくれないしね。
そういう難しさと面白さを感じるから。
本当にたぶんそうで、まさに沈黙が教えを言うとしたら、
網羅仏に絶対にすがりなさい、頼りなさい、自分の力で王女を仕事なんてしないでくださいって言うと思うんだよ。
やっぱりその沈黙の言葉の根底には、まさにリアルな体験というか、
何回も言っちゃったんだけど、やっぱり自分の力では無理だと。
網羅仏の偉大な慈悲っていうものをリアルに体験したからこそ、
こっちでいいんだって確信みたいなのがあったと思うんだよね。
それはロジックだけでは無理だし、
マニュアルとしてこれをこの通りにやればいけますよっていうものでもない。
一人の人間としてのリアルな生々しい体験みたいなのがあったんだと思うんですよね。
そうだよね。
その修行も含めちゃえばいいのにね。
それは何種類になるか知らないけどさ。
たとえば比叡山、みんな比叡山行けばいいんだよね。
むしろ義務教育で2年間ぐらい。
どこだ、じゃあ中学校と高校の間ぐらいで2年間ぐらいにしようか。
そこでみんな行けばいいんじゃないの。
そうすれば、たとえばさ、
そこの修行で悟れる人もいるかもしれないじゃん。
きちんとした修行をして自ら悟ったって本当にそういう人もいるかもしれないし、
そういう修行を2年間やった上で、
やっぱ俺こんだけやってもあいつ悟れたけど俺はやっぱ無理だった。
自分の心を捨てることの重要性
やっぱ俺は絶対足りんきやーみたいなさ。
そういう経験があれば、
やっぱ俺上等進修みたいなさ。
悟れた人は俺は信仰の修みたいなさ。
そうね。
それでいいんじゃないと思うと。
それができないから困ってんだよね。
言うてね、今日ご飯食べなきゃいけないんだぞって俺たちは。
そういうこと、飾らなきゃいけないんだそうだし、
悟りたくねーよみたいな話だとすると、
その2年間もね、結局何のために行くのだみたいになっちゃうから。
いいんじゃない?
やっぱり俺悟りたくなかったって。
それとは日本の今の大学生と一緒じゃん。
別に俺働きたくないし、勉強したくないし、
みたいな感じで4年間遊んじゃうみたいな話は近いと思う。
じゃあいいじゃん。大学行く代わりに冷え座に見なきゃいいじゃん。
どうせ遊びに行くんだったら。
大学をしたら冷え座に行こうと思ったから別に。
それすごいいいと思うんだけど。
そんな滑り台みたいな気持ちでは来てほしくないでしょ。
ダメだよ行っちゃう。絶対ダメだよ。
ダメかな。
それでも受け入れてくれるのがね、阿弥陀仏の救いであると信じてね。
やっぱ行くのはありだと思う。
甘いだねそれは。
そう言ったら親がすごいびっくりしてましたけどね。
そんなことはいいんですけど。
信頼に戻るとですね、
そういうふうなことがやっぱり重要だ。
要は自分の心の問題か、阿弥陀仏に備わっている問題かっていうところまでは
ある種ロジックで行けるでしょうと。
今みたいに言葉で言って、
確かに兄貴もそういう考え方はなんとなくわかるよねっていうところまでは
行けるわけじゃない。
そうだね。結局解決してないなとは思うんだけど、
心の問題みたいなところは。
たださっきの発信、本気で祈るっていうのと受信だよね。
ある意味自動でいいっていうところはだいぶ楽になっている気がするから
あとはどういう心持ちで受信すればいいのかさあ教えてくれっていう感じはするよね。
それでいいのかなっていうのはちょっと疑問あるけどね。
悟りってそういうものなのかなって思っちゃう部分もあるけど。
考えれば理解できなくはない。
さっき言った最後教えてくれっていうその一歩は
やっぱり自分で踏み出せばならぬ。
踏み出さればならぬというか、
腹の底に落ちるかどうかっていうのはその人の体験の問題だみたいな。
やっぱりちょっとそこはもう宗教としては信じるというか
体験するとか、それこそお告げを得るとか
そういう世界に入ってきちゃうんだよね。
そこまではそうね、診断でも無理なはずだよね。
はいOKとならないっていうね。
そうそう。
やけやけそれ言っちゃうとやっぱりそれは嘘になっちゃうというか
診断的にはそこまでは無理であろうと。
そのギリギリのラインがやっぱりこの涙物を絶対に信じる。
ただその信じるっていうところの確信は
自分でなんとか持ちなさいよっていうようなラインだったんだと思うんだよね。
はいはいはいはい。
というような話ですと。
ちょっと話が変わっちゃうんだけれども
これまさに歴史の教科書から出てて覚えてる人は見ればって感じなんですけれども
シンラは本を書いていて
その本のタイトルが教行新書っていう本なんですよ。
教っていうのは教えね。
行っていうのが修行の行を行うと。
はいはい。
信っていうのは信じるで、
証っていうのは証って話なんですけど
これはシンラが言うところのね
証っていうのが悟りなんだけど
その悟りに至る3ステップか4ステップかな
その最終ステップが悟りだとしたらその4ステップっていうのを示してます。
へーほいほいほい。
いうような話らしくって。
実際これ面白い僕もちょっと初めて知ったんだけれども
それまでの大乗仏教っていうのは
教を教えて信じて
行を修行をして悟りに至るっていう
そういうステップなんだよね。
はいはいはい。
確かに言われてみればそうで
いろいろな教えを学んで
この教えで確かに悟れそうだという風に信じて
修行に打ち込んでその結果悟りを得る。
それは三派抗議ってめちゃめちゃ朝日の時代なんだけどみたいな
そういう話なんですよ。
もっと言うと悟るためには修行をしなければならん
っていうようなのがこれまでの大乗仏教なんだよね。
でも実は信覧っていうのはこの
信と行との逆転させて
教・行・信・証という順番にしましたと。
はーはいはいはい。
だからさっきまで言った通り
その悟るためには修行じゃなくて信じるっていうのが
その前段階のステップなんだっていう風に言ってるんだよね。
へーはいはいはいはい。
じゃあその教とか行って何になるのかって話なんだけど
実はこの教とか行っていうのは
これはもう阿弥陀仏様の教えであり
阿弥陀仏様が行った修行だっていう風に捉え直すんだよね。
はいはいはい。絶対大義だからね。
絶対大義だからそう。
なので修行とかっていうのは
自分がやるんじゃなくて
この阿弥陀仏様が
その十八行儀っていう
めちゃめちゃ長い時間修行をしたっていう
そのことを信じ切るんだと。
それを信じれば救われる悟れるんだっていうのが
この教・行・信・証っていう4つの文字に含まれてるらしいんだよね。
へーあーなるほど。
そっかじゃあただ順番逆にして
先に修行をすれば後から信じれる
みたいなのがついてくるよとかでもなくて
阿弥陀仏を信じきることの重要性
もう阿弥陀仏様やってくれてるってことも踏まえて
そこまで教・行まではいってるでしょと。
あとはそれを信じさえすればもうすぐ悟れるよっていう
全然違うことを言い始めてるんだ。
これ順番だけじゃないんだって。
そうなんだよね。
チコピーで言うのは教・信・行・証っていうのは
みんな知ってるわけよね。学んでる人は。
それを教・行・信・証っていう風に言って
ある種みんなに耳なじみがいい言葉をひっくり返して
新しい自分の言葉を広げようとするみたいな
そういうセンスもある人なんだよね。
あれかPDCAみたいな話だね。
まあね、確かに。
そこをCPDAの方が重要ですよって言って歩いてるけど
実はそんな単純な話でもなくて
このCはねみたいな話ができるみたいな。
キャッチコピーを作ってるのがわかりやすい。
で、何々って興味を持たせて自分の教えを伝えるみたいなね。
こんな風に言い表していて
あとはね、歌とかも残って
いわゆる和歌というか
そういうので教えるっていうのも残ってて
ちょっとねそれをお伝えしたいんですけど
三田の本願、真鶴べしと
これ阿弥陀仏様の本願
仕業の時に立てた願いというか
これを実現するぞってやつね。
本願、真鶴る人は皆摂取不舎
これはことごとした阿弥陀仏が人々を見捨てずに救おうとすることを
摂取不舎と言うらしいんだけど
この摂取不舎の利益にて
無常枠、この上ない悟りというのを悟るなりと
三田の本願、真鶴べし
本願信ずる人は皆 天主不舍の利益にて 無常学をば悟るなり
という五七五条の言葉を残しているんだけど とにかく信ずるって書いてないんだよね
まあそうね ずっと信ずるし
そうそう 阿弥陀仏を信ずるでしょ
しかもそれっていうのは 仏教の教え自体よとか
自分自身の力をとかじゃなくて 阿弥陀仏の本願 それを信じるんだと
それしかなくて それができれば 実はね 念仏を唱えることすらも必須じゃないんだ
っていうところまで 神談は言ってるんだよね
へー はいはいはい
だって行じゃないんだもん 信だから 信ずればもう救われるみたいな
本当に信じるものは救われるみたいな世界だから
なるほど
念仏を唱えるという修行すら 仏だけ必要ないんだよね
はいはい 行動いらないんだな
なるほど
そうそうそう いらない
ただ本願を読むと 念仏を唱えれば救われると書かれていると
うんうんうん
神願に寄せる何かっていうと 本当に阿弥陀仏を信じきる
ある意味信じきるというか 阿弥陀仏を信じさせていただく
信じることが救いへの道
自動的にすることができたときには 自然に阿弥陀仏に敬愛します
ということをある意味唱えてしまう
むしろそれを宣言しちゃうよね というふうに言ってて
あーなるほど
それ自体がそのまま救いに繋がるんだ というようなことを言い切ってるんだよね
だから前回10回言えばいいよ みたいな話だと思うんだけど
神談に寄せれば1回でいいんだと
ただ1回っていうのは 阿弥陀仏の救いというのを完全に信じきって
それを満たしたときに出てきた 一言
それで全部オッケー みたいな感じなんだよね
なるほど
どうですかこの徹底ぶり
あーいやーでも確かにそのね 信じきって10回唱えろ
10回以上唱えろより
なんかそうはね
あのーわかりやすいというか
うんうんうんうん
まあ難しいけどねどうやる
結局その1回の阿弥陀仏が自然に どう出てくるのかっていうのは難しいかもしれないけど
ただなんかもっと救いがある感じがするよね
無心必死に唱えろって言われるのを
お前必死にやってるかって言われて
やってますって言ってもまだまだだとかって
それってやっぱ難しいけどこっちは
まだこう信じて信じていつか
頼み出して心から言えるようにみたいな
なんかそういうのもある気がする
なんかまさにそういう救いというか
民衆の立場からあるよね
本当僕らみたいな人からしたら
まあ確かになんかできるかもしれない
そうっていうとそれこそ肉じき最大はダメとか言われてさ
じゃあでももう結婚もしてるし
ご飯もね言って食べなきゃいけないしっていう
身ではじゃあ救われないのかっていう人がいたときに
いや別にもうそれもいいんだと
とにかくもうあの阿弥陀仏の働き
払いによって生きてるっていうことさえ信じるんだったら
それで救われるんだよっていうのは
もうそれについてのやっぱり救いになるんだと思うんだよね
そうはね確かに
これは今悟りまでの道のりもだいぶ楽
発信から受信へっていうのが楽になってるし
それ以上にその肉じき最大みたいなさ
タブーみたいなものがちょっと突破現れてる感じが
すごいそっちの方がでかそうだよねむしろ
そうだね
一般の人に広まるっていう意味だわね
浄土教の立体的な考え方
普通に生活してても悟れるんですよって言ってもらえないとむしろさ
信じれないから
そうそうそうそうハードルが高すぎ
最初のハードルが高すぎるじゃない
それこそなんかいいねって言ってた
例えば浄土宗か
そこは多分まだ最大禁止とかそういうのが
たぶん残ってたって話なんだね
それはでかそうだね
やっぱり出家するとか家庭を捨てるとか
原生を捨てるのがもちろん浄土宗なわけなんだけど
前回ととおり天皇の次女も
ある種その身分を捨ててとか
そこから抜け出して行くわけだよね
そうかだからか
なるほど
もし信蘭の浄土宗宗だったら
別にそのままでいいんだと見預かりをしながらでも
救われるって言うようになったかもしれない
ちょっとそういう風に言ってたかどうかわからないんだけどね
でも確かそうだね
それが原因でさ
王年も信蘭もさ島流しというかさ
だいぶ変境の地に追いやられたわけだもんね
そうですそうです
確かになその師匠を見てる信蘭か
思うとこはあったんだろうね
そうかもしれないね確かに
王年があまりに魅力的な教えを解いちゃったから
こそ見預かりしているような人たちが出家したわけじゃん
だから王年もある意味罪な男であって
男というか罪な人であって
信蘭はこんだけ強力なもの
やっぱりその人が集まってきちゃうものを
やっぱり出家しなきゃ無理っていうところに
これはもうダメだと思ったんだろうね
そこを解放しないとおかしなことになると
でも確かに変えてみればそうだよね
だって全員出家したらさ滅びるからさ
おかしな話なんだよね
でも滅びればいいのか
人の世は仮だから
むしろ滅びてみんなが悟りの方に行くのが自然なのか
ある意味
どうなんだろうね
どうなんだろうね
その観点はあんま考えてなかったな
全員出家したら全滅じゃん
全滅だしそれがいいとは言ってないんだよね
要は元々仏教の教団も
普通に生きている人がいてその人たちに恵んでも
要は福発とか
食べ物とか恵んでもらって
逆に教えを伝えることで
まず協力関係で生きているっていうのが
インドから続く仏教集団だから
それもうずっとインドからついてるんだ
サンガみたいな話があって
そこは全員出家せよみたいな感じでもないんだよね
やっぱりこの現世っていうのも大事なんだ
確かにそこちょっと僕もわかんない
それは調べてみたいなと思ったんですけど
ぜひそうだね
だってそして誰もいなくなるよ
そうだよね
全員極楽浄土に行っちゃうわけだからね
最後の一人とか
宅集もしてもらえないじゃん
誰もいないからね
そのままどうするんだ
確かに
ガッシーしてそのまま王女をするのかっていう話じゃん
確かに
それを調べてみようと思います
でも兄貴が言ってくれた通りで
出家するしないとか
今のこの生活のまま
救われる救われないみたいな
結構そっちの方が
そっちもすごく大きいんだろうなって
確かに今話して思ったな
だからこそやっぱり民衆に広がるとか
やっぱりこれだけね
今の世の中でも浄土新衆っていうのが残ってる
すごいニーズあっただろうもんね
本当そうだと思う
ただやっぱ兄貴が言う通り
とはいえ最後の一歩
本当にこれは阿弥陀仏の
慈悲の心を受け取っていただいているのか
徹底できているのかっていうのは
やっぱりそこにはまだ一番その難しさがある
すごく難しいと思う
っていう時に
実はそれをまさに乗り越えた
乗り越えようとしたのが一編ですと
だからさっきの話で一編からすると
阿弥陀仏の慈悲を信じることすら
もはや問題じゃないんだとか
信じるとか信じないとかって
どうでもいいんだみたいな
そこまで行くのよね
ただ念仏を唱えればいい
診断は念仏っていうのは別に重要じゃなくて
たまたま信じた時に出てくれれば
それが一回の念仏でいいんだって話なんだけど
一編は念仏をとにかく唱えるのだ
それが大事なんだと
いう風に言っていくんだよね
全然違うんだね
結構対照的なので
比較してみていくことで
診断と一編もそうだし
本念から続くというか
日本の浄土教
浄土の教えっていうもの自体も結構ね
いろいろ立体的に見えてくるかなと思うので
それもまだまだ浄土教だけだから
そこに禅とかさ
いろんなものももちろん
本当はその外側にもあるんだけど
日本の浄土教とか鎌倉仏教の中の
そういう高さみたいなものも
ぜひちょっと感じていきたいなというところで
次回も浄土教一編という話をしていきたいな
という風に思っております
はいわかりました
いやーそうだね
みんな念仏って言えばいいとかさ
思ってるけど
その奥にはこんだけのロジックだったりとか
が集まってるんだよと
それはねそれを専門でね
勉強して修行というかね
やめる人はいるよねっていうのを
すごいなんか
わかった気がする
そうね本当にね僕もなんか
だからそういう面白い
本当はね
1,2回で終わらせちゃおうかなと思ったんだけど
あれちょっと面白すぎて
これは持ちきれいと思って
ちょっとねこんだけ膨らんじゃってるんですけど
でもなんかね
こういうのを知っておくだけでもさ
やっぱりどうしても日本人の心のというか
なんとなく真宗教官の奥にはある感覚だと思うから
いやーそうだね
極楽とかさ
実際やっぱりそのね
初回言った通りでさ
ちょうど真宗が2200万人だっけか
親鸞の「阿弥陀仏を信じ切る」の意味
実際うちらもね家がそうだし
本当の意味で身近だからさ
聞いといたら本当に
損はないというと偉そうだけど
むしろちゃんと
それこそね全員姫さん行ったらいいじゃないかと思うぐらいには
なんか面白いと思ったな
ちょっと極さんだけどね
常にね
そんな感じで
次回も楽しんでいきましょうというところでございます
次回も引き続き
浄土教の流れということで
一編ですね
見ていきたいと思います
ということで引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました