00:07
それでは読み始めます。
その頃、全世界の…。失礼しました。
ルカの2章1節、新開薬聖書15ページです。
もしくは110ページですね。失礼しました。
その頃、全世界の住民登録をせよという直例が、皇帝アーグストスから出た。
これは、キリニュースがシリアの総督であった時の、最初の住民登録であった。
人々は皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリデアの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ登って行った。
身おもになっていた、言い名づけの妻マリアと共に、登録するためであった。
ところが彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子のウイゴを産んだ。
そしてその子を布にくるんで、カイガオケに寝かせた。
宿屋には、彼らのいる場所がなかったからである。
さてその地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜晩をしていた。
すると主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
御使いは彼らに言った。
恐れることはありません。
皆さん、私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。
今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ主、キリストです。
あなた方は布にくるまって、カイガオケに寝ているミドリゴを見つけます。
それがあなた方のための印です。
すると突然、その御使いと一緒に、おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
糸高きところで栄光が神にあるように、地の上で平和が御心にかなう人々にあるように、御使いたちが彼らから離れて天に帰った時、羊飼いたちは話し合った。
さあ、別れへむまで行って、主が私たちに知らせてくださった、この出来事を見届けてこよう。
続いて、新約聖書コロサエビトの手紙、2章の11節から13節です。
新約聖書403ページです。
コロサエビトの手紙、2章、11節から13節をお読みします。
03:06
キリストイエスにあって、あなた方は人の手によらない滑稽を受けました。
肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの滑稽を受けたのです。
バクテツマにおいて、あなた方はキリストと共に葬られ、またキリストと共によみがえらされたのです。
キリストを死者の中からよみがえらせた、神の力を信じたからです。
その気の内にあり、また肉の滑稽がなく、死んだ者であったあなた方を、神はキリストと共に生かして下さいました。
以上です。
今日はこのところから、バクテツマ洗礼の意味と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
そして一足、二足、早いんですけれども、クリスマスの挨拶をしましょう。
クリスマスおめでとうございます。
メリークリスマス。
昨日ニュースを見ておりましたら、今年はもう新型コロナウイルスの一触の一年でしたね。
それを象徴するように、イタリアでは12月24日以降の外出が禁止になった。
もうクリスマス礼拝に行けないんですね。
イタリアといえばパウロの旅の終着点ローマのある、まさにキリスト教を代表する国の一つです。
このように世界中の国々でクリスマスの礼拝が大きな制約を受けています。
私たちの教会もいつも行っている午後の食事会ができません。
しかし今日はバクテツマ式があるわけですね。
そのように食事会などできませんけれども、バクテツマ式という特別な日、
そのようなことを迎えながらクリスマスをお祝いできることは、神様からのギフトじゃないかと思っています。
バクテツマ式に臨むにあたり、せっかくですので、
先日取り上げたクロサエビトの手紙をもう一度復習しながら、バクテツマの意味について3つのことを考えていきましょう。
バクテツマ式には主観的な体験が客観的なものになるという意味があるんです。
実はバクテツマの意味について、ある学者はこのように述べています。前に掲示しました。
神の子供となることは、主観的には信仰を通して、客観的にはバクテツマを通して起こるということ。
この客観性ということがバクテツマの意味があるわけです。
主観的というのはこういうことです。
つまり、私たちは、皆さんは、自分の意思でイエス様を救い主として信じます。
06:06
声に出して、あるいは祈りの中で告白して、クリスチャンになるわけです。
神様の子供になります。
これはそれぞれの体験ということであって、いわゆる主観的です。
それはつまり、他の人が見ることができない、認識することができない、あなただけの体験になるわけです。
一方、客観的とはですね、このバクテツマを受けるという儀式は、誰の目から見ても明らかになります。
大げさに言えば、歴史の時に刻まれる事実になるわけです。
今日、姉妹がバクテツマを受けますけど、バクテツマを受けると文字通り水に浸かるという、
寒いんだか暖かいんだか分かりませんが、体験をするわけですよね。
それと同時に、今日ここにいる皆さん全員がその承認になります。
誰の目から見てもそれが起こった、そういう客観的な事実とバクテツマになるわけなんですね。
それは、その人が公に神様の子供になったということを宣言していることです。
それが2番目のポイントにつながっていきます。
バクテツマ式とは、クリスチャン生活の正式な入り口ですという意味です。
このクリスマスに私たちはイエス様の誕生をお祝いしていますね。
そしてイエス様の十字架と復活があったからこそ、教会が誕生しました。
この教会というのは何か。それは客観的に目に見える神の民の集まりです。
教会についてある学者はこう伝えているんですね。前に掲示しました。
前を見てください。
神の民は、神の目にしか見えない民ではなく、実際に時間と空間に存在する人々の集団、
すなわちキリストを主と告白する教会である。
この目に見える神の家族に外側から入るのがバクテツマの儀式だというのです。
続いて言いますね。
建物の入り口に建物の名前が書いてあるように、うちの教会にも看板があります。
そのようにバクテツマの儀式、セレモニーはクリスチャン生活の入り口である。
ここはある学者は、今日読んだクロサイキの手紙の歌詞を解説して述べているわけです。
何度も言っていますが、私たち日本人は違法人ですね。
この違法人、それはユダヤ人という教学聖書の神様が最初に定めた神の民とは違うという意味です。
09:06
しかし、イエス様を信じてクリスチャンになるというのは、
違法人が神の民になった、そういう意味があるんですね。
つまり、違法人が養子縁組をされて神様のためになった。
それが私たちがクリスチャンになるという意味なんです。
そして、どうですか。皆さん養子の方は見たことあると思います。
私も何組も、教会でよくあるんですね。
養子縁組、そして教会でクリスチャンの方がその子を迎える検事式も何回も見たことがあります。
そのような儀式を行っても、その子が本当の家族になるためには、
役所に届けなきゃいけないわけです。
その届けを出して、正式に家族の一員になるわけです。
同じように、実はバグテスマ式もクリスチャンの人が正式に神の家族となるという、
そういう儀式的な意味がある。
そのようにぜひ覚えておいてください。
そして3番目。
バグテスマ式というのは、イエス様の死に実際に預かるということです。
もっと広く言うと、イエス様を信じた人は主体的にイエス様と一つになるんです。
共に死んで共に蘇る。
今イエス様の死ということだけ目に留めますけれども、
パウロは、さっき言ったこのローマ、ローマの教会にあげた手紙の中でこう言っています。
前に書いてあります。
見てください。
キリストイエスに尽くバグテスマを受けた私たちは皆、その死に預かるバグテスマを受けたのではありませんか。
私たちはキリストの死に預かるバグテスマによって、キリストと共に保護られたのです。
こう述べているわけです。
つまり、ここで言っていること、パウロもこう信じているんですね。
クリスチャンが、私たちが洗礼という儀式によって水に浸される時に、実はその水の中で何が起こっているか。
その水の中で洗礼を受けた人は、イエス様の中にバグテスマされている。
そういうふうにパウロは考えているんですね。
だからある意味、バグテスマという水の中に浸かる儀式によって、人はイエス様と水の中で結びついている。
そのようにパウロも考えていたというのです。
私はですね、実は一般の仕事で営業とかもするんですが、
教会でイエス様を信じた人にバグテスマを強く進めることは、ためらいを感じるんです。
12:03
なぜかというと、強制するということを印象付けて、そういう方をですね、後ろめたくさせる、そういうことを心配しちゃうから進めません。
でも、ここまで説明してきた通り、バグテスマというのは、パウロ、そして聖書。
イエス様自身もバグテスマのヨハネから洗礼を受けました。
その時にバグテスマのヨハネはですね、私のような癒やしい者から、神であるイエス様がなぜバグテスマを受けるんですか?と聞いた時に、
イエス様は何と答えたか覚えています?皆さん。
いや、すべて神様において正しいことをすることは、神の御心ですと言ったんです。
イエス様でさえ罪がないのに、バグテスマを受けられた。
そして当然、学者たちも言っていますが、キリスト教の伝統の中で言えることそれは、
イエス様を信じた人がバグテスマを受けるということは、自然なことだということなんです。
でも例えばですね、私も何人か知っていますが、病床でイエス様を信じた方で洗礼を受けないまま天国に行く方がいらっしゃるんです。
でもそれは事情があって特別なケースなんですけれども、そういうことを抜きにして、
通常はイエス様を救い主として信じたならば、バグテスマを受けることは当然なことです。
それによって、今まで説明していましたが、神の家族に加えられますよう、正式にクリスチャン生活がバグテスマによって始まりますよということなんです。
ですからイエス様を信じたのならば、ぜひバグテスマを受けてください。
それが聖書から言える私のおすすめなんです。
最後に、皆さんこのコロナ禍において1年間よく辛抱しました。いろいろがんばしました。
いろんな制約がある中の一つ、私は仕事でよく子育て中の人たちと接します。
多くの制限の一つに、出産に立ち会えない家族、奥さんが一人で出産する。
しかも、極端な場合は、入院から退院までたった一人という場合がよくありました。
いわゆる立ち会い出産ができなかったというのがコロナ禍の中の一つの制約です。
一方、私たちはこの新しい誕生の儀式、バグテスマ式に今日立ち会えるんですね。
昨日散歩しながら素晴らしいなと思い至りました。
もう一つ、皆さんに聞きます。皆さん、自分が生まれた日のことを覚えています?
どんな天気?医者が何て言っていました?看護師さん、受産者さんは何て言っていました?
15:02
私、子供の出産に立ち会ったので、その子供の出産のことを覚えていますけれども、
自分の出産を覚えていたら、それはドラマになりますよね。
でも、この新しい例の誕生のバグテスマ式というのは、受けた人、生まれた人の記憶に残ります。
誰が一緒にいてくれたのか、どんな天気だったのか。
子供の出産の時に慌ただしくなって、家族と喧嘩したなとかですね。
いろんなハプニングが起こる、そういうことも覚えているし、
天気やある人は音や匂いや感触を覚えることができる。
それがこのバグテスマという儀式の祝福でもあるんだなと私は思うんですね。
このようにバグテスマ式の様々な祝福や歴史があります。
ぜひバグテスマを受けたことのない方々も、これらの意味や祝福を覚えて、
イエス様の誕生を祝う今日、この日にですね、
ぜひご自分のバグテスマ、新しい誕生日であるバグテスマについても考えてほしいと願う。
そしてバグテスマを受けたことのある皆さん、
その皆さんはですね、ぜひ自分のバグテスマ式の日のことを思い出してください。
そして今日の誕生の喜びを共有してですね、
イエス様のお誕生を共に祝う日としましょう。
お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたがバグテスマ式というイエス様の受けられたバグテスマとして、
私たちが新しくまた正式に歩むバグテスマという日を定めてくださったことを感謝いたします。
どうぞそれぞれが神様にあって思い至りまた決断することもあると思いますが、
私たち一人一人の思いや決断を、あなたにこのままに導いてください。
これからバグテスマを受ける姉妹の上に、神様の豊かな祝福と守りがありますように、
そして私たちはその姉妹の新しい誕生とともに、
救い主イエス様の誕生をお祝いすることができるよう導いてください。
この願いをイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではいつものようにしばらく一分ほど祈りましょう。
18:35
私が18歳の時にバグテス共和連合の専教師ジョン・メイン先生が家の近所にあるお自宅で礼拝をされていました。
私はメイン先生の主催するバザーやバイブルクラス、英会話クラスなどでお話を聞きました。
けれども先生の限られた日本語力もあって印象に残ることはあっても
聖書の内容や礼拝の様式次第など何年もの間理解できずにいました。
しかしメイン先生と日々偶然お会いすることがあった時など
どうしていますかと尋ねてくださり、
聖書の教えに導いてくださる時とは違う先生のお気遣いが強烈に印象に残っております。
メイン先生の教会が閉鎖となった時に
先生に依頼し、秘書先生を紹介していただきました。
2003年、新座式をテスト協会に何度か教会に足を運びましたが
そこでも信仰を持つにはいたりませんでした。
そんな中でも仕事中に交通事故などで命を奪われそうになった瞬間に直面し
自分の力を超えた神様の守りを実感することがありました。
2018年10月からの大学での学びの中で
西洋芸術や近代医学、福祉分野において
キリスト教の背景なしではありえないことを学びました。
2.鍵となる二人との出会い
そんな折、二人の人との出会いが大きなきっかけとなり
キリスト教信仰について真剣に考えた方が良いという迫りを感じました。
今思うと神様が周囲の人々を通して私に語りかけられていたのだと思います。
一人目は当時私が勤めていた老人ホームに入居していたクリスチャンの女性です。
その方の元に神父さんが何度も訪ねていました。
またその方から直接息子さんが牧師をしているという話も聞いていました。
ある日その方とのある会話の中で
私は彼女にこう伝えました。
カトリックリスチャンのように命の危険を犯してまで
信仰を貫くべきではないし
日常生活牧師のように全て捧げる必要はないのでは。
すると彼女ははっきりと私にこう言ったのです。
21:02
藤崎さんが言っていることは違います。
これらの会話も含めてその方と接する中で
その方に対する私の向き合い方や責任についても考えさせられていました。
その中で私はこう後悔したのです。
洗礼を受けていればその方のことをよりよく理解できたし
もし自分はバクテスマを受けていたらその方の力に慣れていた。
さらに自分のアイデンティティがぼんやりしていることにも気づかされました。
そしてその方を通してキリスト教信仰という良いものがあるのに
今までそれを明確に知ろうとしなかったことに後悔をしたのです。
次に二人目の方についてですが
老人訪問を退職後に勤めた保育園の同僚職員の方でした。
彼女はクリスチャンで私を教会に誘ってくれました。
その方は家族に信仰を反対されその他の人生の苦難がある中でも
キリスト教の信仰を持ち続け聖書研究にも参加していたのです。
私は彼女の教会には足を運びませんでしたが
彼女の信仰に対する何か引力のようなもので支え込むようなものとは別の何かがあると確信しました。
そしてその姿、内容をこの目ではっきり認識したい
無視できない存在だと思うようになりました。
3.コロナ禍における結論
そんな折今回のコロナ禍になりました。
周囲の誰か感染していくかわからない目に見えないメイグスに不安を感じました。
テレビを通して流れる映像、死体を穴に埋めて処分し処分する場所さえなくなっている映像には驚きました。
しかしテレビなどのマスメディアを通じてキリスト教の病院で奉仕するクリスチャンや神様を信じ
礼拝している人たちを見て自分のそのような生活を試してみたいと思うようになったのです。
さらに明確な拠り所を持って日曜日毎週礼拝肉生活をすべきだと思うようになりました。
職場では話せないし答えも見出せない、この問題を誰かと共有したいという思いが強くなりました。
そしてコロナを忘れてはいけないし、かといって頭にあって職場ではうかつに口には出せません。
しかし教会ならコロナについて話せるし答えを見つけられるとも思いました。
さらにはこう考えるようになりました。
将来この歴史的危機を振り返った時に自分は何を思い出すだろうと。
その時に自分がコロナ禍の中で洗礼を受けたという出来事とともに
この歴史的な危機の時間を思い出したいと思うようになり
日本のターニングポイントになる今、バプテスマを受けるべきだと思うようになったのです。
そんな折、かつて足を運んだメイザ式バプテスト教会に再び足を運ぶことを考え、今に至っています。
24:00
4.信仰告白
毎週礼拝で告白している信条について私も信じます。
そして聖書が神の言葉であることを信じます。
私はイエス・キリストが私の罪のために死に、3日目によみがえられたことを信じ
イエス様は私の罪から救い主であると信じます。
私自身をイエス様に御枝にしてお捧げします。
その証としてバプテスマをお受けします。
あなた方の仲間の一人、キリストイエスのしもべエパフラスがあなた方によろしくと言っています。
彼はいつもあなた方神の御心のすべてを確信し
成熟した者として固く立つことができるように
あなた方のために祈り励んでいます。
文西人への手紙、4章12節
お明かしをありがとうございました。
最後はですね、御言葉は藤崎姉妹が
この式に臨んで選ばれた聖句です。
この世界的な福音の広がりや
会ったこともない人、会っている人も含めた
クリスチャン同士の広い交わり
そのようなことがこの言葉に凝縮されている
それがまた御本人の
海外にメイ先生もいれば私たちもいるという
そういう目に見えないクリスチャンの交わりや
福音の広がりということを認識させる御言葉ということで
選んでいただきました。
お明かし聞きながら、2003年に初めて
古い街道に出会いに来たということで
もうそれだけでも17年で
メイ先生と会って、差し支えなければ
だいたい何年くらいですか?
25年前
25年前の初めての聖教師との出会いを経て
今に至っています。
本当に神様の目に見えない導きを覚える
お明かしでしたね。
ありがとうございました。
一言お祈りし、また姉妹の着替えを待って
式に臨みたいと思います。
天の神様、あなたの不思議な節位の中で
このような日を迎えることができたことを
ありがとうございます。
どうぞ主がこれからバブテスマを受けられる
藤崎姉妹を
あなたの御手の中でお守り下さい。
また、その式の中でイエス様と共に
文字通り結び合わせて下さいよ。
お祈りします。
また私たちは主にある家族として
その聖人として集いました。
共に誕生祝い、また共に歩む兄弟姉妹として
この場を共有できることを感謝いたします。
27:02
この願いと感謝をあなたにお捧げして
私たちの救い主、主イエス様のお名前によって
お祈りします。
アーメン