カナの婚礼の奇跡
ヨハネの福音書2章1節から11節を朗読します。
それから2日目に、ガリラヤへのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に間抜かれていた。
武道主が亡くなると、母はイエスに向かって、武道主がありませんと言った。
すると、イエスは母に言われた。
「女の方、あなたは私と何の関係がありますか。
私の時はまだ来ていません。」
母は宮司の者たちに言った。
「あの方が言われることは何でもしてください。」
そこには、ユダヤ人の清めの式たりによって、石の水亀が六つ置いてあった。
それぞれ二あるいは三メトレテレス、三メトレテス鉄入りのものであった。
イエスは宮司の者たちに言われた。
「水亀を水で一杯にしなさい。」
彼らは水亀を淵まで一杯にした。
イエスは彼らに言われた。
「さあ、それを組んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」
彼らは持って行った。
宴会の世話役は、すでに武道書になっていたその水を味見した。
組んだ宮司の者たちは、それがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。
それで花向子を呼んで、こう言った。
「みなはじめによい武道書を出して、よいが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたはよい武道書を今まで取っておきました。」
イエスはこれを最初の印として、ガリライのカナで行い、ご自分の栄光をあらわされた。
それで弟子たちはイエスを信じた。
以上です。
マリアの信頼
今日はこのところから、カナの婚礼と題して、読み言葉を取り継ぎいたします。
みなさん、おはようございます。
今日は12月8日、大公節、アドベントの第二主日です。
いつも言っていますが、私たちの教会では、クリスマス礼拝までは、普段学んでいる聖書の歌唱を取り上げます。
ヨハネの1章、1節からずっと見てきまして、今日は2章の初め、1節から11節のところです。
この出来事は、カナの婚礼という出来事として有名なものです。
婚礼というとお祝いの席で、私も何度か婚礼に参拝をしたり、
縁があって、何人かの方の国家組織の試飾などもしました。
数年前、コロナ禍の頃は、あるところで試飾をして、その時は披露宴をやったのですが、
食べ物はなしということで、スライドを見たりするだけでした。
去年、5年があって、結婚式を式場でしましたが、
その時、新婦の方が、簡単に言うとクリエイティブな方でした。
例えば、200人くらいの席だったと思うのですが、
1個1個のテーブルにその方が手作りのキャンドルを置いて、
持って帰ってくださいと言って、
披露宴の内容も、新郎新婦が結婚式場だったのですが、
クイズも催して、非常に個性的な披露宴になったことを思い出します。
今日の席では、引き取りのキーパーソンとして、もちろんイエス様の母マリアのほかに、
この宴会の世話役がいるのです。
今はなかなかないのですが、分かりやすく言うと、おそらく、
結婚式場の一番の、新郎新婦の間を取り持つ責任者みたいな、
いつもウロウロしている人がいると思うのですが、そういう形です。
ただ、当時はその人が参列者でもあった、そういう文化の中で、
今日のことが起こりました。
今日の出来事は、ピンチが訪れた。
どんなピンチかというと、今と違って、結婚式は7日間ほど行われました。
そして、その中で武道士が亡くなると、訴訟に発展したそうです。
新郎が食事の全部の責任を負って、そういうことが起こると、
参列者から、親戚は恥をかいた。
参列した人は、なかなかの理由で、とにかく新郎を訴えるという、
そのような問題が起こったそうです。
それほどの危機的な出来事だということです。
今日の箇所では、三つの伝からお話ししますが、
最初は、イエス様の母マリアに投げかけた言葉が分かりにくい。
どんな意味があるかということを、まず見ていきます。
2番目は、ぶどう酒ができてきたということは、
新たな喜びの訪れを告げているのです。
それがどういう意味かということをお話しします。
3番目は、弟子たちが信じたという中で、
信じる人だけが見ることができる栄光ということについてお話しします。
一番最初、イエス様の言葉の意味ということで見ていきましょう。
マリアがイエス様に、武道士が亡くなりましたと言ったときに、
イエスは母に言われた。
女の方、あなたは私と何の関係がありますか。
私の時はまだ来ていません。
何も知らずに読んだ方は、非常に無礼な言葉だと受け取るかもしれません。
しかし、背景が分かると、その意味がよく理解できるようになります。
まず、女の方という呼びかけの言葉。
これは、無礼なものではないし、日本語にない表現です。
英語でレディーズ&ジェントルマンという、寝室女たちということもありますけれども、
英語でもなかなかない言葉で、ここに込められている意味があって、
それは相手に対する信愛、そして尊敬の意味を込めて、女性に呼びかける言葉です。
この後、何度かこの言葉が出てきますので、覚えておいてください。
決して無礼な言葉ではない。
しかし、母親に使うには、他人行儀で不自然な言葉が、この女の方という、
丁寧な信愛を込めた呼びかけなんですね。
これが次のイエス様の言葉、次の言葉を解く鍵になるんですけれども、
次にイエス様がこう言っています。
あなたと私に何の関係がありますか?という言葉です。
この言葉はどういうことか。
これはですね、イエス様の母とイエス様の関係が、
もう変わったんだということが宣言されているんです。
どういうことか。もはや世間一般の常識で考えられているような、
母親と息子の関係ではありません、という意味なんですね。
つまり、このイエス様が神様から使わされた救い主として、
歩んでいるということの宣言でもあるんです。
それがあなたと私に何の関係がありますか?という意味なんですね。
その証拠に次の言葉が出てきます。
私の時はまだ来ていません、という言葉です。
私の時というのは、イエス様の十字架と復活を意味します。
そしてその時とは、さらに言うと、
その時が来ると、イエス様の栄光が地上で完全に表されるという意味なんです。
救い主として、神の御子としての栄光が、
十字架と復活を通して完全に表されるという意味の、
私の時ということなんですね。
実はこの時、おそらくマリアは夫ヨセフを亡くしていたのではないか。
おそらく少なくともこの後すぐに、
マリアは夫ヨセフを亡くすのではないか。
死んでしまうということが言われています。
何が起こるかというと、イエス様は長男です。
ですから、夫を亡くした母親を長男は責任を持って面倒見るということが、
当時強く習慣としてあったわけですね。
しかしそのような援助を一切受けることができない、
してあげることができないということが、これらの言葉に込められているんです。
それには、神から使わされた救い主として、
これから私は歩んでいかなければいけないからですという短縮があるわけですね。
そしてこの私の時がまだ来ていないということの中には、
実は一番最後に出てきますが、
今日のカナの婚礼の奇跡は、
イエス様のその十字架と復活という究極の栄光と奇跡の前触れとしての、
イエス様の栄光を垣間見る奇跡だということがわかるわけなんです。
新たな喜びの到来
実は前後しますが、
この母マリアの厳しい立場ということを、
別のルカの福音書で書かれているんですね。
幼いイエス様の誕生物語から、
イエス様のミヤモーデ、幼いミヤモーデ、八日目の活礼を終えてですね、
神殿に、当時神の前にマリアとヨセフがですね、
幼いイエス様を連れて神の前に行った時にですね、
その中でシメオンという老人に会うんですね。
そしてそのシメオンという老人が、
この幼いイエス様についてこのように言ったんですね。
ご覧なさい。
この子は人々の反対に合う印として定められています。
そしてマリアに対して、
あなた自身の心さえも剣が差し貫くことになります。
生涯かけての今言ったような救い主としての愛み、
そしてマリアとの関係が離れていかざるを得ない。
最後には十字架の上で、
そのイエスが絶命するところを見ることも含まれていると思います。
まあそのような言葉や、
天使たちの幼いイエスに対する見た幻についてですね、
マリアも討伐するんですけれども、
その中でマリアは討伐しながらもですね、
神のしもべとして、
自らその救い主の母となった役割を受け止めていたんですね。
そしてルカの福音書の中でよく出てくる言葉がこういう言葉なんです。
マリアはですね、
これらのことをみんな心にとめておいた。
これらのことをみんな心にとめておいた。
このシメオンの厳しい言葉の後にも出てきますし、
まさに受胎告知の時にですね、
まだ夫を知らないのに身こもった。
そのことを知った後も、
これらのことを心にとめておいたということが記されています。
マリアの覚悟がそこで見てとれるわけです。
その上でマリアはイエス様の、
この何の関係がありますか。
私の時はまだ来ていませんという言葉を受けて、
今日の2章5節で、
救治する者たちにマリアはこう言ったんですね。
ちょっと読めるか読んでみましょうか。
あの方が言われることは何でもしてくださいと言ったわけです。
そしてイエス様はご存知のように、
水を葡萄酒に変えられたわけなんですね。
それで次の点、第2のポイントです。
では新たな喜びとは何かということを見ていきましょう。
その葡萄酒が配られた後、
宴会の世話役の言葉が出てきますね。
2章9節から10節。
宴会の世話役は既に葡萄酒になっていた。
その水を味見した。
そして花婿を呼んでこう言った。
皆はじめに良い葡萄酒を出して、
酔いが回った頃に悪いのを出すものだが、
あなたは良い葡萄酒を今まで取っておきました。
訴えられる危険があったこの花婿ですけれども、
このような称賛の言葉を世話役は投げかけている。
これらの出来事に、
新たな喜びということがわかるわけなんです。
それはどういうことでしょうか。
実はこの奇跡には福音が示されているわけなんですね。
どんな福音がこの中に示されているか。
それはイエス様によって新たな恵みと
救いの喜びがもたらされるということが
ここに示されているんです。
つまりこの奇跡には、
ユダヤ教のしきたりや宗教的な儀式によっては
満たせないもの、それを超えたイエス様の
恵みの救いの喜びがもたらされるという
メッセージが込められているんです。
どういうことかと言いますと、こういうことなんですね。
ユダヤ教のしきたりに従って
清めのための水亀がいくつありましたか。
6つありましたよね。
水亀は石でできていたそうなんですけど、
とても大きくて、ちなみに余談なんですけども、
今の私たちの目方で換算すると
だいたい500リットルから700リットル入りだったそうです。
どんなぐらいかなと思ってちょっと考えたらですね、
この617リットルの冷蔵庫が売っているんですね。
これがだいたいこの水亀と同じぐらいで、
高さが180センチで、
横幅と奥行きがだいたい70センチの
大型の冷蔵庫と同じぐらいの水亀が6つあったわけです。
これ価格だいたい30万円ぐらいするそうですよね。
うちじゃこんな変わりませんけども。
何はともあれ、6つあったということです。
どういうことか。
完全数は7ですよね。
だからそれに1個足りないということなんですね。
7つしかなかったということなんです。
それはユダヤ教の極めの指揮体は
不十分だということを示唆しているんです。
そしてイエス様がそこに水を満たして
汲んで配りなさいと言って
イエスの奇跡とその意味
最高級の葡萄酒は配られた。
当時はストレートじゃなくて薄めて飲んだそうです。
でも最高級のはよくここまで取っておいたと
旧人に世話を言わせた。
まさにおそらく名廷していたんじゃないかと周りは。
名廷しているときに
この悪いものを出してごまかすのが普通なのにという
そういう眼蓄があるんです。
その時には単なる良い葡萄酒が出てきたということ以上のものがあります。
それはこのイエス様がもたらす
この意味はですね
イエス様がもたらす救いや喜びというのは
この葡萄酒とかですね
いわゆる物質的な豊かさにとどまらないということなんです。
それはそれを超えた心の平安とか
喜びとか愛
そして人生をより豊かにする祝福があるということが示唆されているんですね。
さらにはこの世の私たちの体や命も大事だけれども
それと同時にそれ以上に大事な
神様との新しい関係や
永遠の命の祝福があるということに
この奇跡の意味が込められているということなんですね。
信じる者の栄光
それをまず覚えておいてください。
新たな喜びがこの奇跡に。
そして最後の3番目
信じる人だけに見える栄光
信じる人だけに見える栄光という点を最後に取り上げます。
2章の11節でこう締めくくられています。
読める方、イエスはから読んでいいでしょうか。
イエスはこれを最初の印として
ガリデアイのカナで行い
ご自分の栄光を表された
それで弟子たちはイエスを信じた
ここに最初の印とあるように
この後ですね、印が続いていきます。
7つと言われているんですね。
そして繰り返しますが、その究極の印が復活と
十字架と復活、そして
完全な栄光がそこで表される。
その前振れとして栄光をこの奇跡によって
垣間見ることができるよという意味が込められているんですね。
ここで大事なことはですね
このカナの婚礼の奇跡、印
そこで信じたのは
たくさんいる人たちの中で弟子たちだけだったということが
ここで記されている点なんですね。
宴会の参列者、そしてもちろん世話役は
信じるに至らなかった。
そしてその水を汲んで葡萄汁に変わったということが
おそらくわかったであろう旧人たちも
信じるとは書いてなくて
弟子たちだけがイエスを信じたと書いてある点が
注目に値することです。
言い換えると弟子たちだけがそこに
イエス様が表した栄光を見たという
言い換えることもできるんです。
信仰の目を持つこと
実はここで印という言葉に注目する必要があるんですね。
奇跡ではなくて印と書いてあるんです。
英語では奇跡はミラクルと言うんですけれども
英語の聖書でもミラクルではなくて
サインという印と書かれています。
皆さんのおそらく聖書の脚注を見ると
そこの印の下に
証拠としての奇跡と書いてあるんです。
それが大事なんですね。
これは奇跡と何が違うかというと
奇跡はこういう過ちが
驚くべきことを人々に見せつける
そして力を誇示するだけに終わってしまうということなんですね。
もちろん他の福音書にはそのような意味で
イエス様が神の子であるということを
明かしするための奇跡が記されていますが
ヨハネでは違うんですね。
証拠としての印ということは奇跡に意味があります。
分かる人だけがそこを見て悟ることができるという
意味も込められているんですね。
神様から使わされた救い主であるということが
垣間見られる奇跡記したということなんです。
最近NHKでも手品師の
マジシャンの番組をやりますよね。
アメリカの本番に行って活躍する10代の子とか
この間も出てましたけども
まさにマジシャンのマジックによって
人々驚くわけですよね。
目の前で怒っているわけです。
マジックというのは誰の目にも明らかで
トリックはあるんですけども
この凄さというかが分かるわけです。
しかしイエス様の印
イエス様の証拠としての奇跡は
それを信じる人だけに
神の栄光を見ることができるという意味があるんです。
この後ですね
イエス様が奇跡を行っても信じない人が
それを恩恵を受けても信じない人が
いっぱい出てきますけども
信じる人にだけ神の栄光が見ることができる
という意味があります。
私たちこれからですね
カナダの婚礼の時のように
生活の中でピンチに会うかもしれません。
その中で私たちが助け求めていく。
そして日常生活の中でイエス様の救いを
体験していくと思うんですけども
そうやってイエス様が手を差し伸べてくださった時に
信じるものにしか分からない方法で
それがなされていくということがあるわけですよね。
私たちにしか見えない方法で
イエス様の救いの手が
差し伸べられていくということがあって
時に私たちは当たり前のこととして
見逃してしまうことがあるかもしれません。
しかし私たちは
イエス様を救い主として既に信じるものとして
神の御子としてイエス様が
成してくださる救いの技を悟り
見抜いてですね。
そしてその中にイエス様の神の子としての栄光を見て
まさにイエス様が
ここにおられるという
体験をしていくことが幸いだと思うんです。
先週の話ちょっと言い忘れていたんですけども
先週の話、ヤコブの
はしごの話とイエス様が
あなた方がそれ以上のことを見るようになると言いましたよね。
あの時にヤコブは
こう言っているんですね。私は気がつかなかった。
神がまさにここにいることに私は気づかなかったんだ
と困難の中で言っているんですね。
私たちもヤコブのように
神が弟子たちのように信仰の目を持ったときに
気がつかなかったけどまさにここにイエス様の
救いの技が起こっているんだということを
実感するようになるんです。そして神の栄光を知って
イエス様感謝します賛美しますと言って
神様を褒めたたえていく
そのようなものとしてイエス様の弟子として
歩んでいくことができるわけですよね。繰り返しです。
ということで
この私たち信じる者にだけに知り得る
神の栄光について実は
ヨハネの福音書の最後の方で
イエス様はこのように述べているんですね。
それを最後に読んで終わりにしましょう。
ヨハネの福音書の20章の29節ですね。
復活のイエス様を疑った
トマスに対しての言葉です。
イエスは彼に言われた
あなたは私を見たから
信じたのですか。見ないで
信じる人たちは幸いです。
イエス様を信じて神様の栄光を
実感していく。そのようなお互いであり
教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
あなたが救い主として
巫女イエス様をこの地に使わせて下さいました。
そのことに思いを馳せる
アドベントでありクリスマスです。
どうぞ私たちが日々の生活の中で
心からあなたに助けを求めることができますように。
またその時にあなたが
助けの手を差し伸べて下さる
その救いの御業を信仰の目によって
悟ることができるように導いて下さい。
そしてそこに神様の栄光を見て
あなたを褒めていく。そのようなお互いであり
教会でありますように。またそのようなことが
明かされていくお互いであり
教会でありますようにどうか私たちを導いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主
シュイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を
持ちましょう。