2020-12-27 27:31

#38 2020/12/27 クリスマスのプレゼント

2020年12月27日録音。救い主キリストにより与えられたプレゼント。罪の完全な赦しなどを学びましょう。
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コロサイ2章20節からお読みします。
もし、あなた方がキリストと共に死んで、この世の諸々の霊から離れたのなら、どうしてまだこの世に生きているかのように、
掴むな、味わうな、触るな、といった定めに縛られるのですか?
これらはすべて、掴んだら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己比喩、肉体の苦行の上に、支えのあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。
以上です。
今日はこのところから、クリスマスのプレゼントと題して、御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
先週はクリスマスの礼拝、またバブテスマ式で、そして今日は今年最後の礼拝となりました。
この2020年は、やはり何と言っても新型コロナウイルスを倒した一年となり、
クリスマス25日、日本時間ですけれども、午後9時にはですね、
イギリスの変異型の新型コロナウイルスが日本で初めて確認されたと、厚生労働省から発表になりました。
その英国ですけれども、あるネットの記事で見つけましたけれども、
これは英国の代表的な場所にあるクリスマスツリーだそうです。
英国のクリスマスの特徴は、交通渋滞なんです。
日本の例に漏れず、年末に工事がいろいろあってですね、
道路は止まるわ、鉄道も混雑するわで、車では3時間とか1時間で行けるところ、
4時間、5時間もかかる、それが常なるクリスマスの風景でしたが、
今年はいわゆる密を避けるために、ロンドンでも例えば電車の本数を増やしたりとか、
そういう工夫をしてクリスマスの混雑を避けるように備えていたところ、
ジョンソン大統領からいわゆるロックダウンの指示が出て、
文字通りクリスマスはどこも行けなくなった、
そして街は本当に寒散としていたとあるジャーナリストが報告しているとおりです。
ただ、皆さんその海外で年末年始を過ごしたことある人はわかるかと思いますが、
イギリスなんかでもですね、クリスマスが終わっても、年明けてもクリスマスツリーが飾られているような、
そういうクリスマスとニューイヤーズ、ショーガスとクリスマスが続いています。
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しかし日本ではクリスマスが終わると途端にショーガスモードになって、
こういうイギリス人から下からでしょうかね、
クリスマスを祝った1週間後に初モーデルに行く日本人が滑稽に移るそうですね。
1週間の間に収支返してしまう。
そんな中、私もですね、教会のクリスマスのデコレーションどうしようか毎年迷うんですが、
クリスマスに早く終わったら片付けてしまいました。
でも、あってもいいと思いますけれども、そんな中で少しクリスマスの名残もありますから、
クリスマスの背景と関連しながら今日の御言葉をまず学んでいきましょう。
神様から与えていただいたクリスマスプレゼントについて、歴史について、
2つ目はそのギフトとしての開放について、
そして3つ目はギフトとして一つとされたということから学んでいきたいと思います。
パウロが今日の御言葉の冒頭でこう書いていますね、前に掲示しました。
もしあなた方がキリストと共に死んで、この世の諸々の霊から離れたのなら、
どうしてまだこの世に生きているかのように、
掴ぶな、味わうな、触るなといった定めに縛られるのですか、という御言葉です。
実はこの御言葉の背景には、コルサイビトの手紙の中で問題となっている異端の背景があって、
そしてそれは旧約聖書の背景とも関係しているんですね。
そういう意味でクリスマスと絡めて、そこに至る旧約聖書やユダヤ教の背景について少し説明しましょう。
ご存知のようにアブラハムを先祖とするユダヤ人は、旧約聖書の中で神様の民として選ばれました。
そして旧約聖書の立法は、神との契約として神の民に授けられました。
しかし、エジプトの金の拳の像の出来事が象徴しているように、彼らは何度も偶像礼拝に陥って、
そしてついにはその罪が極まって、外国の手を通して裁きを受けました。
それがいわゆる有名なバビロン法衆とかアシリア法衆です。
そしていわゆる神の約束の地であるイスラエルが責められて、滅ぼされて、
ユダヤ人たちはそれぞれの国々に捕虜として引かれていきました。
それがいわゆる歴史でもいうバビロン法衆とかアシリア法衆というわけですね。
そしてそのような苦い経験の中で、神様のあわびの中、ユダヤ人たちが再びイスラエルに戻り始めます。
そしてその時に彼らは決意したんですね。もう二度と同じ過ちを繰り返す前。
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そして何をしたかというと、旧約聖書の立法を実践するだけじゃなくて、そこからこと細かな解律を作りました。
実はそれが極端に、その約イエス様が来る400年くらいの間にできたんですけれども、
その極端な問題化したものが福音書に出てくる立法主義とかハリサイビドです。
生活のこと細かなところまで、それを実践させる掟を作った。
例えば食事の前に何回手を洗うとかですね。
どういう食べ物を食べちゃいけないとか、この間の話もちょっと。
それの良い点はありました。何か。
それは例えばですね、ユダヤ人が当時文字通り世界中に広がっていたんですけれども、
どこの国に行っても、神の民としてのアイデンティティを保つ、ユダヤ人としてのアイデンティティを保つ役割があったんです。
この際の手紙も出てきますが、食べ物の規定とか、祭りや新月についての規定というのは、
そういう季節の祭りとか、食べ物の決まりです。
私は何回かロサンゼルスに行ったことがありますけど、
チャイナタウンとかですね、リトル東京というのがあります。
アメリカの教会でちょっと研修した時に、アメリカ人の日本人を世話する宣教師がですね、
お店に連れて行ってくれたんです。
何を買ったかというとですね、ライスクッカー、いわゆる炊飯器を買って、
それでカリフォルニア米を買ってですね、これで食えと。
あっちのマーケットに行くとですね、醤油とか味噌とか普通に日本食が売っています。
皆さんも例えば横浜に行けば中華街があって、そこに中国人の人が集まって、
それで食べ物や種族や文化というのが、国を離れたそれぞれの民族にとって
アイデンティティを作る大きな役割を持っているわけですね。
いわゆる使徒の働きを読むと、当時のローマ世界のあちこちにユダヤ人の街道があって、
そこにユダヤ人がいた。ギリシャ語を話すユダヤ人というのはそういう人たちです。
そしてやがてその中から、パウロのようにイエスさんを救い主として信じる人が現れ始めました。
そしてそこで問題が起こったんです。
それは彼らの問題はですね、立法を誤って捉えた。
この立法の本来の意味は何度も言いますが、細かい規定を人間を守ることができない。
何度も罪を清める洗いをしたり、罪を犯すたびに犠牲を捧げなきゃいけないということを思い知って、
自分には救い主が必要だというように心を救い主に備えさせる意味があったんです。
皆さん、時間があったらぜひ読んでほしい聖書の箇所があります。
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それはヘブル人の手紙です。
そのイエス様はどんなに完全なあがないかと書いてあるヘブル人の手紙にこういう御言葉があります。
前に掲示しましたね。
10章の1節から4節。
立法は年ごとに絶えず捧げられる同じ生贄によって、
神に近づいてくる人々を完全にすることができないのですと書いてあります。
もしそれができたのであったら恋愛する人々は一度清められたものとして、
もはや罪を意識しなかったはずでありと書いてあります。
したがって捧げ物をすることはやんだはずです。
ところがかえってこれらの捧げ物によって罪が年ごとに、
年ごとの生贄の儀式があったんですね。
罪が年ごとに思い出されるのです。
お牛とヤギの血は罪を除くことができません。
こうヘブル人の手紙は立法の不完全さ、そして救い主の必要性を強調しているとおりです。
だからクリスマスに意味があったんですね。
立法を守れなくても知らなくても救い主イエス様によって世界中の人々が救われる。
神様の民になれる。
そこが立法に秘められた神様の計画、パウロが言うキリストの奥義なんですね。
それを世界的にお祝いしているからクリスマスという行事があるわけです。
でも何度も言うように、ユダヤ人はこの本来の立法の意味を見失って、
救い主イエス様を拒んで十字架にかけました。
そしてこの殺される人の手紙の問題は何ですか、覚えてますね。
違法人であってもイエス様を信じた人は一回ユダヤ人にならなきゃいけない。
つまり旧約聖者の立法を全部守って男性は滑稽を受けて、
イエス様を信じてもユダヤ人の立法と規定を守り続けなければクリスチャーになれない。
そうやって規定やルールで違法人を縛っていた。
後でも出てきますけれども、それが当時の土着の宗教、神秘主義なんかも一緒になって、
もっと問題がややこしくなっていた。
それがこの手紙の背景です。
これがクリスマスに至る歴史です。
じゃあ最後の二つはイエス様のプレゼントを見ていきましょう。
一つ目は、自己満足で無価値な宗教観からの開放というプレゼントです。
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パウロがこの殺される人の手紙の中で繰り返し教えていること、
それはイエス様の十字架と復活を信じていれば十分だ。
それを繰り返し教えているんですね。
実はその教えは、私たち日本人の中にある何となく根差している間違った宗教観から私たちを開放してくれるんですね。
2週間前、12月13日の説教、この際の2章16から19のところで触れました。
内容を詳しく話しました。
自分の聖書に書いてあるのを見てください。
ちょっと私読んでいますけれども、16節にこう書いてありますね。
食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで誰かがあなたを批判することがあってはなりません。
これ具体的に書いてあります。食べ物の地点。
そしてパウロは今日読んだ20節以降の箇所で、別の観点からこの問題を断罪しているんですね。
前にも掲示しましたけど、22節、23節にこうパウロが訴えています。
これらは全て、使ったら消滅するものについての定めで、人間の忌ましみや教えによるものです。
これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己比喩、肉体の苦行のゆえに、支援のあることのように見えますが、何の価値もなく肉を満足させるためだけです。
ここでパウロが言っている言葉は16節以降と同じなんですけれども、
当時のいわゆるユダヤ教やその背景を、そして当時の土着の宗教と相まった異端の問題です。
それは禁欲主義。自己比喩とか肉体の苦行というのは禁欲主義とか、肉体を痛めてですね、神秘主義です。
それによって幻を見ることができたという、そういう信仰でした。
霊的な幻を見る、そういう人間がなかなかできない苦行をする、日本にもそういう宗教がありますね。
それによって、権威を持った宗教家が人々を支配したり、そのように人々を導くことをして人々を縛ったのです。
でもパウロは言うんですね、それは一見苦行、一見知恵のあることのように見える。
つまり一見権威的に見えるんだけれども、その内実は同じように肉を満足させるだけです。
それは結局そうやってやって、苦行して禁欲しているけれども、人間のプライドという別の欲を助長させているから同じだと言うんです。
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禁欲主義や権威主義によってプライドが助長されているから、同じものだと。
実はこの箇所を訳すのが難しくて、新簡訳聖書でも古い訳と今の訳でちょっと訳が違ったり、皆さんの聖書の脚注にも別訳書いてありますけれども、
肉を満足させるだけだという今の訳と前の訳はですね、肉の欲に対して何の役にも立たないと書いてあるんです。
つまりそういう禁欲主義や神秘主義は、人間の罪を助長する肉に勝てない、無用のものだと。
だから人は救えないとパールはここで主張しているんですね。
今、少し無理やりかもしれませんが、前も話しましたが、新型コロナウイルスの特効薬を見つけることは非常に難しい。
特効薬が見つからないからワクチンの開発に精を出しているという考えもあるようですけれども、もし特効薬ができればそれに越したことはありません。
しかしイエス様の十字架の死というのは、罪に対する完全な特効薬です。
人間の罪を懲決にする、そして私たちを罪とその裁きである死から救う、完璧な特効薬がイエス様の十字架、イエス様の死によって成し遂げられた救いです。
ヘブル人の手紙ではそのことをこう約束しています。前に掲示しました。
この見心に従ってイエスキリストの体がただ一度だけ捧げられたことにより、これは十字架です。ただ一回だけ捧げられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
そしてキリストは聖なるものとされる人々、信じる私たちを一つの捧げ物によって、それはファウラも言っているご自分の体によって、永遠に全うされたのです。
永遠に私たちはイエス様の十字架によって完全なものとされたというのです。
聖霊も私たちに次のように言って明かしされます。これは神様の言葉の代弁として書かれていますが、神様はこう宣言するのです。
私はもはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。ここにイエス様の十字架の一度の犠牲による完全なる罪の許しが宣言されているわけです。
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これこそまさにクリスマスに与えられた私たちへのプレゼントですね。それが2番目です。
最後に2つ目のプレゼント、それはイエス様と一つとされる幸いということです。
もう一度ファウラの今日の御言葉に戻りますが、1章20節でファウラは宣言しています。
もしあなたがキリストと共に死んで、この世の諸々の霊から離れたのなら、どうしてまだこの世に生きているかのように、掴むな、味わうな、触るなといった定めに縛られるのですか?
この諸々の霊というのは、前の訳の聖書では、虚しい騙し事の哲学とか、虚しい教えとなっていますけれども、
ちょっと前も言ったんですけれども、この自然界を支配している原始から生まれる霊とかそういうことだ、と曖昧に問われられているものです。
でもとにかく、この世の教えからイエス様と共に死んで、解放されているというですね、
実は、今日の御言葉の隠れた裏テーマというのがあります。
それは何と言いますが、クロサイトの手紙のテーマであって、イエス様と一つになる。
それです。イエス様と一つになる。
英語でですね、難しいんですけど、Identity with Christと言います。イエス様と一緒になったアイデンティティ。
クリスチャンのアイデンティティはイエス様だと言います。
それは、パウロは特にここでは、イエス様の死とアイデンティファイ、一つになったという言い方をしています。
でも後では、イエス様と共に復活したとも言います。
それは私たちが今、イエス様と共に生きるということでもあるんです。
ある学者がですね、この箇所を解説してこう言っているんですね。前に引用しました。
私たちは本当にイエス様と一つにされているので、イエス様の身に起こっていることが、私の人生と命を新しくするのである。
ちょっとこれね、英語だったので訳すの難しかったんですけど、英語ではこうなんですね。
本当にイエス様と一つにされたっていうのはですね、So identified with Christ。
Soっていうのはですね、ウルトラソウルって歌ありますけど、強調でSo identified with Christ。
本当に本当にイエス様とアイデンティファイされているからって言っている。
だから、イエス様の身に起こっていることが、私の人生と命を新しくする。
これはですね、英語の言語ではですね、私たちのライフをリシェイプする、リシェイプ。
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シェイプって書いてあるでしょ。シェイプアップのシェイプ。形作る。
リシェイプっていうのはリだから、もう一回形作るって言うんですよ。
イエス様とSo identifiedされているから、私たちをイエス様にやってリシェイプされたらえない。
そういう風にですね、この箇所から学者は解説しています。そういうプレゼントです。
つまり、ファール・フォーディー・タイナーはですね、そのようにイエス様と一緒に死んだんだから、
この世の規定にあなた方は生きていないでしょって言うんですね。
掴むな、触るなっていうのは同じような意味で、ユダヤ教とかが言う、食べちゃいけないよっていう。
食べ物の規定とか。一般的には宗教的な禁止事項とか、それをしなさいと。
そういう細かな宗教的なこだわりや教えとか関係ないでしょ?
どこに行ったら汚れるとか関係ないでしょ?っていうファール・フォーディーって言うんですね。
だからイエス様と精霊に委ねなさいということが願蓄されているわけです。
まあ今の話題に無理やり関連させると僕が分かりませんね。
今この神殿、日本人にとっては大きな問題があります。それは初詣に行けない。
大きな神社、お寺、大変なんですね。
祭禅とかもあるかもしれません。
でも私たち、一年の穢れが取れないとか役払いができないとか心配はしなくていいんですね。
聖書が約束しているようにイエス様を救い主と信じ礼拝しているならば、
そういう一年の穢れとか、どこで初詣するかとかは、
そういう掟とは無関係なわけです。
もう一つ、英語のLifeという言葉、ギリシャ語のZoeという言葉、
日本語では命、人生、両方を表す深い広い言葉です。
その言葉の意味を踏まえて、
もう一つ、ここに関わる学者の言葉を紹介しますね。
私たちの内なる惑星の勝利は、この立法主義によらずですね、
十字架によって成し遂げられているすでに、
そしてその勝利は、とある命の中にだけ、Lifeの中にだけ見つけることができる。
そしてそれには始まりがある、その命、Lifeとは、
キリストの身姿に変えられ続ける命であり、
そのキリストの命にバプテスマされることによって始まるというのです。
私たちがイエス様を信じて洗礼を受けると、イエス様と一つになります。
何が起こったか、先週、藤崎島へバプテスマを受けて、
私も自分の洗礼式のことを思い出して感動しましたけれども、
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そのバプテスマ式の意味、それは水の中でイエス様と一つになった、
それが完成した、そこから始まるんだ、新しい命が。
どんな命が始まったか、それはイエス様の身姿に変えられ続ける命、
英語で難しい言葉なんですけど、Christ-formityですね、
クロスフォミティと言います。
とにかくイエス様の十字架、イエス様と同じ形になっていく、
そういう人生が始まったと言います。
そしてそのイエス様と一つになる、新しく始まった人生の中にだけ、
悪への勝利、その命を見つけることができる、パオラは言っているんですね。
このようなイエス様の命に一つとされた、
それがクリスマスに私たちに与えられたプレゼントでもあるわけです。
今日の聖書の箇所ではですね、パオラは特にイエス様と死んで、
罪に死んで、おきてに死んだというところを強調しましたが、
来年からはですね、この次の聖書の箇所、
イエス様と共に蘇った、
そういうアイデンティフィケーションについて学ぶ年になっていきます。
そのことをですね、期待しながら、
そしてバブディ様についても考えていく年の始まりともしていきたいと思います。
来年見るであろう御言葉の約束を見て、
説教終わりにします。
コロサイ3章1節、読んでみます。
こういうわけで、もしあなた方がキリストと共に蘇らされたのなら、
上にあるものを求めなさい。
そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちはクリスマスの礼拝を終え、
今日の礼拝を迎えています。
バブディ様式が取り行われ、
あなたと一つにされるということをまた学びました。
今、私たちはそれぞれがイエス様と結び合わされ、
またあなたの教会と結び合わされ、
新しい命に生きるものとされました。
その広く豊かで深い新しい命について、
どうぞ私たちがますます知ることができますように。
振り返ってみれば、この一年いろんなことがありましたけど、
まさにイエス様と一つにされた私たちは、
イエス様によって守られ、生かされてきたことを思い起こし、
27:02
あなたに感謝いたします。
残りの日々を守り下さり、
新しい年月に私たちを備えてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらく、それぞれ御言葉に応答してお祈りしましょう。
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