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ルカの福音書2章1節から14節を朗読します。
その頃、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストスから出た。
これは、キリニウスがシリアの総督であった時の、最初の住民登録であった。
人々は皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリダヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ下って行った。
身を守りになっていた、言い名づけの妻マリアと共に、登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の産子を産んだ、そしてその子を布にくるんで、貝羽桶に寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 さてその地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜晩をしていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。皆さん、私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。
今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ、主キリストです。 あなた方は布にくるまって、貝羽桶に寝ているミドリゴを見つけます。
それが、あなた方のための印です。」 すると突然、その御使いと一緒に、
おびたらしい数の天の群勢が現れて、神を賛美した。 意図高きところで、栄光が神にあるように、
地の上で平和が御心にかなう人々にあるように。
以上です。 今日はこのところから、クリスマスの平和宣言と題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
メリークリスマスという挨拶は、25時の朝ですので、今が本当にするのにふさわしい挨拶ですね。
メリークリスマス!
私が言うと安っぽくなってしまいますが、素晴らしい喜びの知らせという事を学んでいきましょう。
昨日、一昨日から、いわゆるクリスマスカンパーが日本に到来しています。 新潟などでは、四捨が出ているようなものです。
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私もかつて住んでいた名古屋市でも、昨日10センチを超える積雪がありました。
2014年から8年ぶりの積雪だったんですね。 実はこの世界で最初のクリスマスも、それほど寒くはありませんでしたが、
寒い夜に、この羊飼いたちが羊の夜晩をしていた。
そしてその時に、眩い光が差し込んできて、見つかりが現れて、救い主誕生の宣言がなされました。
この有名なルカ2-14-11の言葉ですね。 今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。 という言葉です。
そしてその後ですね、続いて、 神の栄光と人々の上の平和の宣言がなされたんですね。
見つかりによって。ちょっとこれを読んでみましょう。
3、意図高きところで、栄光が神にあるように、 地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように。
今日歌った賛美歌は、実はこの聖書の言葉が元になってできた賛美歌です。
それはさておきまして、今日ですね、この宣言から皆さんと一緒に考えたいことがあるんですね。
その考えたい言葉、それはですね、 地の上で平和が御心にかなう人々にあるように、という言葉です。
そこについて3つのことを話しますが、まず最初に大事なことはですね、 平和と支配者の関係です。支配者と平和ということです。
この宣言はですね、救い主イエスキリストの誕生によって、 この地に平和が訪れたという宣言なんです。
そしてそこにはですね、こういう信仰が告げられています。 神様御自身が支配者となられるとき、完全な平和が実現する、そういう聖書の信仰が表されています。
皆さんご存知のように、今年の重大ニュースまぎれもなくですね、 ロシアのグライナー信仰ですね。
実は私、1987年にあの昔のケーフとですね、 オデッサに行ったことがあって、そこでイエス様を信じた人たちがいたものですから、 すごく心を痛めて、私の身近にもそういった方がいるんですけれども、
このグライナー信仰、そのことからわかりますように、 まだまだこの地の上で平和は実現していないですね、残念ながら。
実は、その戦争の原因となっていると言っていいと思うんですけど、 誰がその国の支配者かによって、平和が実現するか壊れるかということがわかりますよね。
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あえて言いませんけど、たった一人の独裁者の判断によって、平和が壊されてしまった。 このように誰が支配者になるかによって、平和というのが大きく左右されてしまいます。
そこで、神様ご自身が支配者になる時に、完全な平和が実現すると聖書は告げているんですね。 こういう言葉があるんです。
イザヤの52章7節。 平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、あなたの神は王であると、死を入人。
あなたの神は王であるという言葉は、 平和を告げ知らせる、幸いな良い知らせ、いわゆる福音だと言うんですね。
シオンというのはですね、うちの犬シオンと言うんですけども、シオンというのはエルサレムの子と言います。
そうやって神様が王となる時に、世界の平和が実現するということはここにあるんですが、
大事なことはですね、しかし私たちは本当に平和が完成する時を、イエス様が今来たとはいえ、まだ待ち続けなきゃいけないということなんです。
平和が完成する日を、まだ待たなければいけないということなんです。 今日は難しいんですので、そのことは詳しく説明しませんが、そう覚えておいてください。
その時にですね、改めてでは考えなければいけないことがあるんです。 地の上で、
平和が御心にかなう人々にあるようにという言葉。 クリスマスの時に宣言、2000年前に宣言されたこの御言葉。
じゃあ、平和が訪れるべきこの地の上で御心にかなう人々、
一体誰でしょう。御心にかなうとはどういうことかということなんです。 2番目はですね、御心にかなう人々ということを考えましょう。
実はですね、この御心にかなう人々というのはですね、 簡単に言うと神様が惚れ込んだ人たちという、そういう言葉とも言えるんですね。
そして惚れ込んだ人たちのために神様は良いことをしてあげたい、祝福してあげたい、平和を授けたい、そのように切に願っているということなんです。
実はですね、 クリスマスプレゼントの話、先週もしましたが、
みなさん今年も買いました?家族に。
子供が小さい頃ですね、なぜか今年もそうですけど、 ポケモンの新しいソフトはクリスマスの時に出るんですよね。
ほとんど買えない。 ポケモンソフトじゃなかったですけど、私も子供が小さい時にですね、
ベイブレードというのが流行ったんですよね。 なかなか手に入らないです。
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クリスマスの時にあげたいと思って、あちこち探したり、ネットをサーフィンして手に入れたりをしたわけです。
何が言いたいかというとですね、私たちは家族や友達、自分が大事な人のためには、この努力や労苦を厭わずにプレゼントを探し求めますよね。
寒空に並ぶかもしれません。 それはどうしてか?
嫌々ながらそれをしますかね? 嫌いな人のためにしますか?
嫌々ながらしなくて喜んで労苦を厭わないんですよね。 それはなぜか。
それは相手の存在そのものを喜んでいるからなんですね。 ですからこの身心にかなうというのは、少し特別な言葉でですね、
ギリシャ語でエウドキアって言葉です。 日本語に一言で訳せない言葉なんです。
元の言葉ではエウドキアというんですけども、このプレゼントの例を挙げたように、 相手に好意を持っている。その相手のことが好きだ。
そしてその相手が好きでたまらないから、そのために良いことをしてあげたい。 そしてその相手の存在を喜んでいる。
そのためにですね、その相手の好意、好きだという気持ちが前提になって、相手に良いものをあげたいという、そういう一連の
その人の好意、好きっていう字にね、意識のいいですね。 好意から努力をして相手にプレゼントを授ける。
そういうものを持ってですね、この身心にかなう。 エウドキアっていう意味があるんです。
なんかね、私たちクリスチャンの方、特に真面目だからね、身心にかなうなんて言ったら、 私なんかそんな身心にかなうような立派な人間じゃありません。
思うかもしれませんけど、私たちがそんなことを思う前に神様というのは、私たちのことがですね、もう
惚れ込んでいる。本当に良いものを授けたい。 平和を授けたい。祝福したい。そのことを覚えていてください。
20年ぐらい、30年ぐらい前ですか、
道場するなら金をくれ。大体わかんないですけどね。 道場するなら金をくれっていうのが流行りましたけど、
お金ではないんですけども、イエス様の誕生こそが、この神様からの私たちへの最大のプレゼントだ。
なぜなら、神様が私たちのことが大好きである。 何よりの証拠が、愛する独り子イエス様をこの地に使わすという、そういう行為なんですね。
実はこの聖書の言葉が、それを美しく表現しています。 ヨハレの3章16・17にこういう言葉があるんですね。
読んでみますね。神は実にその独り子イエス様をお与えになったほどに、
よく愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
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これ読んでみましょう。神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
そして旧約聖書にもこういう言葉があるんですね。 読める方、私まず最初に読みますね。神様がですね、私自身、
あなた方のために立てている計画をよく知っている種の言葉。 ここから読んでみましょう。
それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。
エレミア29-11。 その神様の私たちへの思いというのはこの言葉に凝縮されています。
私たちのための計画それは、 災いでなくて平安、平和を与えるプラン。
将来と希望があるプランだ。それを用意しているとおっしゃっておられるんですね。 このようにですね、
神様は私たちの存在を喜んでおられて、良いもの、平和、平安を与えようとしておられます。
ぜひこのことを、このクリスマス、心を止めておきましょう。 そして実はですね、神様はこの良いものをですね、
愛のプレゼントを全世界の人に例外なく 届けたいと願っているんです。
全ての人が神様の平和のうちに過ごしてほしいと願っておられます。 だけども、
考えてみてください。プレゼントというのは、やがっている人に無理してあげることができませんね。
中身が良かったらできるかもしれない。 でも原則は、
欲しくない相手に無理にプレゼントをすることはできないんですね。 同じように、神様はイエス様を無理に信じさせるために人を強制することはなさらないんですね。
また、神様に背く人たちをですね、 無理辞にですね、自分に従うようにギリギリギリってこうなんて言うかね、
自分に従わせるために無理辞することは決してないわけ。 その結果ですね、
もちろんイエス様を信じない神なんていないっていう人の中に、 この平和を乱す争いを生むという人が残念ながら起こってしまう。
それがまだこの世界に平和が実現しない。 神の完全な支配を待たなきゃいけないという理由なんですね。
最後、イエス様を救い主と信じる人々に平安が訪れる。
実はですね、先ほどちらっと言ったんですけど、大事なことを言わなかったんですが、この
平和と訳されている言葉は、英語のpeaceと同じで、 平和と平安と同じ意味があるんです。
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もともとの聖書の言葉でエイレーネというのは、 平和と平安という両方の言葉があります。
平安というと日本語では、私たち一人一人の心に宿るこの平安と思うことができると思います。
そしてその上で大事なことを覚えておいてください。 この身心にかなう人々、
広い意味ではですね、先ほど言った 全世界すべての人々という意味です。
そして狭い意味で、と言い方で抵抗あるかもしれませんが、 限定して考えて確実に言えること、それはですね、
イエス様を救い主として信じている人々のことを言います。 私たちと言えるかもしれません。
このイエス様を信じている人たち、
それは、平和をもたらす全知全能の神様を知っている人たち。
その平和をもたらす全知全能の神様に助けを求め、信頼している、そういう人たちのことです。
そこで大事な言葉ですね、旧約聖書の四辺という言葉、四辺の四章六節にこういう言葉があるんですね。
祈りの言葉です。ちょっと読んでみてください。
主よ、どうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください。
神様にですね、神様の御顔の光を照らしてくださいという言葉です。
御顔が指すと言いますけどね。聖書の神様は御顔も指すかもしれませんが、顔が輝いて、
私の方を向いてください。 皆さん、自分の好きな人とか、自分に関心を持ってほしい人に、私の方を向いてくださいと言いますよね。
そういうように、神様、苦しい私の方を向いてください。 御顔の光を照らしてください。救ってくださいという祈りがここに込められているんですけども。
これはですね、神様に対して、好意、熱い思い、思いやりのある温かい心を私に示して、親切にしてください。
私を救ってください。 そういう祈りの言葉なんですね。
実はこの言葉をですね、ある学者が 解説しているんですね。
それは こういうことなんですね。
私たち、皆さんね、神様の声を聞いたことある人いますか? ほとんどいないでしょう。その学者の。
神様の声は聞こえないことの方が多いかもしれない。 でも私たちは祈りの中で実感することができるんです。
何を? それは、祈りの中で全知全能の神様に、その全知全能の神様の中に、私は生かされているんだということを、祈りの中で実感することができるというんです。
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自分の何かのピンチに陥った時にですね、 本当に心から
座って、跪いて、神様助けてくださいって祈ったことがある人なら、このことがわかると思います。
その時にですね、声は聞こえないかもしれないけど、 全知全能の神様の中に自分は抱かれているんだってことを実感することができるってことです。
で、その上でですね、平安についてこの人はこう言うんですね。 そこに、その祈りの実感の中に、何者にも勝る心の喜びが与えられ、安らぎが訪れる。
こうして祈りは、神にしか頼れない弱者を、 安らぎと喜びへと導くのである。
ここに祈りの対話性と働きがある。 祈りの中で、神の力を実感しですね。
そうすると、喜びと平安が私たちの心にやってくる。 これこそ祈りの働き、神との対話だって言うんですね。
残念ながら、先ほども言いましたが、 世界を見渡しても、
戦争はなくならないですね。なくなっていない。 そして私たちの身近なところでも、争いがなくならないかもしれません。
しかし、私たちがですね、この全知全能の神様を信じて、 その愛のプレゼントであるイエス様、
その愛のプレゼントである救い主イエス様の名によって祈る時に、 私たちの心の中に平安が訪れる。
争いが、 戦争が、残念ながら収まらなくても、
その時、平安が訪れるよ、 ということですよね。
そしてその時、私たちはですね、自分が心の中で 安らぎを体験するだけにとどまらずですね、
やがてイエス様がクリスマスの後ですね、もう一回この地に帰ってくる時に、 本当の平和が実現する。
そのような、 確信や希望をですね、抱く時に、
また新たな平安が与えられます。 そして私たちはそういう、今は実現しないけど、必ず神が帰ってきて、
本当の平和が完成するということを、希望として、 生きてですね、
そのことを、生き様によって、言葉によって、 証しする。
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そのような、平和のメッセンジャーとしてですね、 この地を歩んでいく。
それが私たちの在り方ではないかと思うわけです。 このイエス様が、再びこの地に姿を現した時に、
完全な平和が実現することを信じてですね、 その平和の希望を胸に抱いて、
それを証ししていくものとして、 この地を歩んで参りましょう。
最後に、もう一度今日の大事な御言葉を、 共に読んで終わりたいと思います。
この2行を一緒に読んでみましょう。
意図高きところで、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように。
お祈りをします。 天の神様、皆を賛美いたします。
残念ながら、この私たちが生きる世界では、 まだ争いが絶えず、苦しんでいる方々がおられます。
どうか主が憐れんでください。 あなたの到来の時に、本当の平和が訪れる、 そのことを信じ待ちのぞいます。
同時にどうぞ、私たちが日々の生活の中で、 あなたからいただく救い、平安を味わいながら、
平和の使者として、この地を歩んでいくことができますよう、 どうか導いてください。
今日、この会堂にいる私たち一人一人に、 あなたの平安がとどまりますよう、どうぞ主を導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、 主イエス様のお名前によってお祈りします。
それでは目をつぶって、 1分ほど神様に応える祈りの時間を持ちましょう。