2023-01-01 22:01

#139 新年の祝福宣言 23/1/1

詩編1編からの礼拝説教。2023年1月1日録音。海外にはない日本独自のスポーツの駅伝は日本の年末年始の恒例行事です。元旦の今日は企業によるニューイヤー駅伝が開催されています。また2~3日に行われる今年の関東大学箱根駅伝には、この新座市の立教大学のチームが55年ぶりに参加するとのことで地域では大きな話題になっています。新年の駅伝は良いスタートを切りたいお正月に相応しいのかもしれません。「一年の計は元旦にあり」とも言われます。この格言のには一年の初めにその年の指針となるべきことを心に刻むという意味もあります。私たちの教会の祈り課題では「教会に集う1人1人が日々みことばに生かされますように」と掲げていますので、元旦の礼拝では神様のみことばに留まる一年となることを願って1.思い巡らして、みこころを知る、2.成すことはすべて栄える、3.もう一つの現実として、の祝福の宣言詩編の1編から学びましょう。
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詩編 第一篇一節 新開薬聖書2017年版でお読みします。
幸いなことよ、 悪しき者の計りごとに歩まず、
罪人の道に立たず、 あざける者の座につかない人、
主の教えを喜びとし、 昼も夜もその教えを口ずさむ人、
その人は、 流れのほとりに植えられた木、
時が来ると実を結び、 その葉は枯れず、
その成すことはすべて栄える。 悪しき者はそうではない。
まさしく風が吹き飛ばすもみがらだ。 それゆえ、悪しき者は裁きに、
罪人は正しい者の集いに立ち得ない。 誠に正しい者の道は主が知っておられ、
悪しき者の道は滅びる。 以上です。
今日はこのところから、 祝福の宣言と題して御言葉を取り継ぎます。
今日は日曜日が元旦ということで、元旦の礼拝になりましたね。
みなさん、明けましておめでとうございます。
いろいろみなさん、お家で新年の挨拶をしたかもしれませんけども。
日本独自の文化、スポーツ文化に、 益伝というのがあります。
アメリカとか海外にはないんです。 益伝。
それは年末年始の恒例行事で、今この時間まさに実業団益伝といって、 社会人の益伝がなされていますね。
群馬県前橋市で。 そして明日、明後日は大学の箱根益伝です。
みなさんご存知と思いますが、今年新座市、埼玉県新座市が湧き立っているのは、 初めて新座市にキャンパスのある、特に立教大学の中にですね、
この新座市に月間宿場がある陸上チームが初めてですね、 この箱根益伝に参加するということで、
新座市の四方に乗ったりですね、すごい騒ぎ、 この地域で話題になっているわけです。
この益伝というのはですね、良いスタートを切りたいというお正月にふさわしいから人気があるのかもしれません。
1年の計は元旦にあり、これはですね、1年の最初の元旦に今年の計画をしっかり作って良いスタートを切りましょうという意味です。
そしてもっと広く言うと、元旦や新年に今年こういきたいというものを決めていくことが大事だとよく言われて、 1年の計は元旦にありと言われます。
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私たちの教会ではですね、祈りの課題を配っていますが、その中に教会の人一人一人が日々聖書の言葉に留まり、
生き続けることができますようにということを教会の祈り課題として挙げています。 そういうことでですね、今日の元旦礼拝では神様の御言葉に留まる1年ということを願ってですね、
詩編の1編から学びましょう。3つのことからお話しします。 まず最初、思い巡らして御心を知るということです。
1節から3節読んでいますね。 幸いなことよ、悪しき者の計りごとに歩まず、
罪人の道に立たず、あざける者の座につかない人。 ここから読みましょう。3、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人、
その人は流れのほとりに植えられた木、時が来ると身を結び、 その葉は枯れず、その成すことはすべて栄える。
実はですね、この詩編というのは いくつあるか知ってます?
1章と言わないで、1編なんです。1編から150編あるんです。 この1編というのは、おそらく150編ある詩編のテーマとして最初に置かれたと言われてるんですね。
この中のテーマが詩編150編全体に貫かれている。
その一つがですね、主の律法ですね。主の言葉、神様の言葉に喜びを感じることの大切さとか、
そしてそこから得られる祝福ということをテーマとして挙げているんですね。 もう少し詳しく見ますと、その上でこの主の教え、
すみません。
実はですね、この詩編はですね、主の教えと言ってるんですけれども、 主の教えというのはですね、主の起きてとも言われています。
これはどういうことかというと、 当時の旧約聖書の全体から
主の起きてを学ぶということなんです。 もう少し説明するならば、こう言えるんですね。
今の私たちといえば旧約、新約の聖書全体から知ることができる 主なる神様の御心を指している。それが主の教えだって言うんですね。
大切なことはですね、私たちが聖書に親しむときに神様ってどんな人なのかなということがわかります。
それからですね、神様の御心、神は何を喜ばれるのかな?
私たちに何を望んでいるのかなってことが、聖書から全体を読むとわかる。 そしてその御心の中にはですね、教訓ですね。
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こう行きなさい、こうしたらダメですってことだけじゃなくて、 神様を信じる人たちに神様が約束している祝福ということも、この聖書全体を読むとわかる。
神の御心がわかるということになっているんです。 つまりですね、まず知っておきたいのは、これねドローンから見た景色ですけれども、
ドローンから景色を外観すると広くいろんなところが見えるように、 私たちも聖書を広く読むと
神様の御心がですね、聖書全体からバランスよく知ることができる。 例えばですね、1日1章を聖書を読むとします。
そうすると、新約聖書だと1日1章を読むと、1年間で全部読めるんですね。 旧約聖書は1日1章を読むと、3年間で旧約聖書を全部読むことができます。
皆さんね、聖書全体を広く読むと、ドローンで景色が変わるように、私たちもですね、信仰の景色を遠くからですね、
外観して美しいこの神の御心を知ることができる。覚えててください。 どうでしょう?今年1年、1日1章、あるいは一段落ずつでも聖書を読んでみてはどうでしょうか。
その上でとても大切な言葉があるんですね。 この二節の口ずさむ、主の教えを口ずさむ幸いな人の口ずさむとは、
この思い巡らすという意味なんです。 その前にこの口ずさむというのはですね、もともと一つには
声に出して読むことを言いますね。数年前に声に出して読む日本語という本が流行りましたけども、声に出して読むことももちろん含まれていますが、
この皆さんの聖書の脚注にもありますけど、思い巡らす、英語でメディテーションとかですね、そういう意味があるんです。
この思い巡らすということがとても大事ですね。 明治時代に文語訳聖書というのができました。
ヘボンと言ってですね、明治学院大学を作ったヘボンさんなんかが中心になって、この訳した
文語訳聖書にここの歌詞はですね、 昼も夜もこれを思うって書いたんですね。
だからこの昼も夜も詩の教えを思うと訳されている通り、 神様の御言葉を思い巡らすという意味に口ずさむということが含まれているわけなんです。
それ今日ぜひ覚えておいてください。 それはどういうことかというとですね、
言葉の意味を頭に思い巡らして、心に刻む、思いに刻む、
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そういう意味があるわけです。 で、皆さんね、
子供の頃から教会に行ったり、教会学校をやったことある人はですね、 有名な賛美歌を知っているかもしれません。
シュアレオアイスってね、シュアレオアイス。 シュは強ければ、それね、
よく聞くのはシュアレオアイスっていうののアイスをね、 アイスクリームだと思ってる子がいっぱいいるんですね。
でもシュアレオアイスはアイスクリームではなくて、 主なる神様が私を愛しているっていう、そういう意味なんですね。
これはよく歌い慣れた言葉、聞き慣れた言葉を間違えるという例なんですけども、
私たちも聖書のよく知っている言葉を勘違いしていたり、 あまり意味を理解してないで読み過ごしてしまう場合があるわけです。
そこに込められている素晴らしい約束や祝福を読み過ごしている時に、 勘違いしているかもしれません。
ですから、ただ聖書の言葉を読み流したり、聞き流したりするのではなくて、 思い巡らすという、そういう作業をしてみてはいかがでしょうか。
この短い聖書の言葉が自分の人生にとってどんな意味があるのかなということを、 目をつぶって考えたり、空を見上げてその聖書の言葉を思い出して、
自分の人生や考えに当てはめたりするという、そういうことが大事かと思います。 あるいはですね、
その短い聖書の言葉をメモに書いて持ち歩いて、機会があったらそれを読み返してみたり、 今であればスマホにメモして機会があるたびに、その自分が心に打たれた聖書の言葉をスマホから読み直してですね、
心に思い巡らすということができるかと思います。 実はですね、そうするときに
この木がですね、 地中深く深く根を
張り巡らしてですね、 そこから養分を吸い上げて、
この美味しいみかんをできるように、 私たちのこの生活にも
深い根からですね、種の栄養分をですね、 御言葉からいただいて、私たちの生活に身を結んでいくことができる。
ということなんですね。で、その身を結ぶことを次に2番目見ていきましょう。
3節でこうあるんですね。 成すことは全て栄えるというのが2番目ですけれども、
その人、種の言葉を思い巡らす人、それは流れのほとりに植えられた木、 時が来ると身を結び、その葉は枯れず、その成すことは全て栄える。
この歌詞はですね、特に力強いイメージを与えています。
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植物のイメージ。 そして、
御言葉に留まる人が、豊かに身を結ぶ木になっている。 とに反して、
悪者の計りごとに組みする人っていうのはですね、 風に吹き飛ばされるもみ柄、麦柄のようにですね、
この人の人生が虚しくなってしまう。 そういうことがここに、
わかりやすく比べられているんですね。 それを通してですね、このヨハネの15章にあるイエス様がですね、
ブドウの木、
どうぞ空いているところにお座りください。イエス様がですね、このブドウの木に留まって、 そして、
ブドウの木がですね、ブドウの枝が木に留まって豊かな身を結ぶように、 イエス様の弟子もイエス様の御子様に留まると、 そしてイエス様自身に留まると、豊かな身を結ぶと教えている。
このヨハネの15章にも似た、そういう考えです。 さらにですね、ここの、
成すべきことは皆栄える。 それはですね、成すべきことを全部成就するという意味に捉えられるんです。
すべての事柄がうまくいくという意味にも捉えられてですね、 これはいわゆる心とか霊的な問題ではなくて、
目に見える生活もうまくいくという、そういう思想、信仰なんですね。
でもちょっと考えてみてください。 現実社会と言っていいかわかりません。
そんな中で悪人が帰って、悪の故に栄えていく。
正しいことをしようと正直な人が、その正しさの故に滅びるという、そういういわゆる不条理が存在しているわけですね。
だからいわゆる、この因果応報論というんですけども、 善人が良い報いを得て、悪人が悪い報いを得るという因果応報論だけでは、この今の悪人が悪の故に栄えて、
善人がその善の故に滅びるという、この不条理の答えが見つからないという。 それでもなおですね、
正しく生きる人の祝福された生涯と、悪人たちの末路がここであるということを、 紙編の一番最初に断言する。
そして、その思想を紙編150編の中に、 張り巡らされているという理由があるんです。
じゃあ、その不条理と思える中で、なぜこの 真っ直ぐな真理が語られているか、それを最後に少しだけ学びましょう。
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3番目、それはもう一つの現実としての祝福の宣言ですね。
もう一度読みますね。
幸いなことよ、悪しき者の計りごとに歩まず、罪人の道に立たず、 あざける者の座につかない人。
主の教えを喜びとし、日でも夜もその教えを口ずさむ人。
これはですね、どういう意味があるか。 先ほども言いましたね。
因果応報論とは反対に、悪人がかえって栄えて、 善人が苦しんでいるとき、
そのことを目にするときこそ、この主の教えを心に留める人が、 幸いであるとあえて宣言した、と言うんですね。
悪がまかり通るときに、あえて正しいことを宣言するというのは大事です。
例えば、婦人警官のポスターでよくあるのは、「ダメ!絶対万引きはダメ!」というのがありますよね。
そういう正しいことを宣言するということの大切さが、そういうところにも現れているわけです。
どういうことか。
どうですか?神様を信じて真面目に生きていると思っている人。
そういう私でも苦しいことが起こると言って苦しむことがないでしょうか。
あるいは、 聖書の御言葉にあえて言いますけど、真面目に従って生きているのに、
なぜ報われないんだろうと。 関係なく生きている方がよっぽど幸せなんじゃないかと、
そのように感じることがあるかもしれません。 しかしその時こそ、この神様の真理を、
祝福の真理の宣言が必要だと言うんですね。
ここを解説してある学者さんが、こういうことを言っているんです。
あえて社会に横行する策略や暴戯に 組みしない人こそ、
幸いだとここで宣言したのである。 この主の立法、主の掟を心に刻み、
欠然と生きる人の中に他に比類ない 幸福の姿を見たからである。
それは主の義に身を委ねて生きることを決断した人の目に、 くっきり映るもう一つの命の事実である。
これはギリシャ語の聖書の写本なんですけどね。 この神の立法を心に刻んで、
私はその生き様を貫くんだと決心した人。
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その中に本当の幸福の姿が見られる。 詩編を書いて編集した人がそれを見た。
だからこのあえて幸いだと言ったわけです。 その神様の義に身を委ねて、
今は報われないように見えるかもしれないけれども、 正しい神様に身を委ねて私は生きるんだと決断した人の目には、
はっきり映る もう一つの現実というのですね。
悪が横行する その先にあるいはその横にあるいはその裏に見える
神様の正しい命の事実というものを見据えて、 この幸いだと宣言したということなんですね。
私たちも今年1年間、 神の御言葉に留まって生きると決断して、
心がくじけせの時に、この詩編のように本当に幸いなのは 神の御言葉に生きることだと宣言したいみたいと思います。
最後に具体的なこと一つだけ述べます。 御言葉を思い巡らす時どうしたらいいか。
さっきも言いましたけれども、 自分が気に入った御言葉をメモして、
遠く見ながらでも、跪いて祈りながらでもいいですから、 その短い聖書の言葉を頭の中でイメージする。
私が行った神学校では、イエス様が語る場面とか癒す場面を 自分の頭の中でイメージして、
疲れた自分にイエス様が語りかけている、 そういうところをイメージしてリラックスしてみましょうという、
そういう木造の実践もありました。 そのような深くイエス様の言葉、神の御言葉に根を張っていくと、
この深い根から樹木が、
水や養分を汲み上げて、先ほどの絵にあったような、 この美味しい甘いみかんの実を結ぶように、私たちの中にですね、 神の御言葉から神の命が
行き巡ってですね、時が来ると実を結ぶという、 そのことを覚えていきましょう。
最後にイエス様がですね、 この発した御言葉を読んで終わりたいと思います。
ここで読みますね。イエスは言われた。 読みましょう。3回。
幸いなのは、むしろ神の言葉を聞いて、 それを守る人たちです。ルカ11-28。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。 1年の初めに、あなたの御言葉に留まる、その幸いについて学びました。
世界を見渡したり、身近なところを見渡すときに、 悪人が栄え、また善人が苦しむという矛盾があるかもしれません。
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自分がそのような経験をするかもしれません。 しっかりその中で、あなたの御言葉に生きる、
それを思い巡らし、そこに生きること、そこに幸いがあると、 御言葉と共に宣言し、またそのように御言葉に留まっていく、
1年となりますように。 そのような私たちを通して、あなたのときに身が結ばれていきますように、
どうか導いてください。 この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それでは1分ほど、聖書の言葉に応えて、それぞれ黙祷してください。
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