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それでは、お読みします。エペソ5章25節。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分を捧げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、御言葉により水の洗いをもって教会を清めて聖なるものとするためであり、御自分でシミやシワやそのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を御自分の前に立たせるためです。
同様に夫たちも、自分の妻を自分の体のように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろそれを養い育てます。
キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストの体の部分だからです。以上です。
今日はこのところから、花嫁なる教会と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、明けましておめでとうございます。
新年、最初の礼拝、このように皆さんとこの場でまたズームを通して、礼拝を守れることに感謝しております。
さて、この数年末、新型コロナウイルスの影響で移動が制限されましたね。
そしてもう少しで回帰になるかなと思いましたら、いわゆるオミクロン株の登場でなかなか緩和されそうにない。
それがどうなるかというのが今年の注目されるところかと思いますが、
そのような中でこれまで国境の移動、国を越えての移動どころか、最近よくなりましたが県外への出入りがすごく制限されてきた日々を過ごしましたね。
そんな中で、改めて自分の県をまたぐとか、自分の住んでいるところの県の違いを意識させられたのではないでしょうか。
日本は、すべて47都道府県が集まって一つの国となっていますが、ちょっと考えてみますと、
埼玉県だろうが東京都だろうが、日本という国の中に属していますよね。一つの国の中に。
そしてですね、日本自体もそうなんですけども、教会もニーザ式バブテスト教会だけじゃなくて、日本全国に散らばっていますが、
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しかし神様の目から見たらそれは一つの教会なんです。そしてそれは国境を越えても全世界一つの教会という考えです。
そしてですね、日本のことをもう一つ考えますと、都道府県の前、都道府県になるのに大きな革命的な出来事が明治に起こりましたが、
それを廃藩地権と言いますよね。見る方見ない方いらっしゃいますけど、大河ドラマでこの間渋沢栄一の主役がやってましたけども、
例えば鹿児島県だったら薩摩藩。そのように昔は藩だった。それを遡ると各藩もどんどんどんどん、
うよ曲折を経て新しく生まれたり亡くなったりしながら、日本の歴史ですと山大国って言うんですか。
その前からとにかくいろんな日本の中で小さな国のようなものができては消えしてきましたけれども、
どんなにそのような繰り返しが起こったとしても、一つの日本の国土というのは変わりがありません。
同じように教会も歴史上いろんな教会が生まれては消えてきました。聖書にあるエペソの教会なんて今ないです。
ピリピの教会もありません。こうやっていろんな教会が生まれては消え、歴史上存在してきましたが、それでも一つの教会なんです。
これをですね皆さんにいつも言ってますがわかっていただきたいんですけど、
普遍的教会というそういう専門用語があるんです。
だから今日の話を進める前に皆さんにその概念を入れていただきたいんですね、頭の中に。
私たちは今ニーザ式教会、何々教会の会員ですけれども、
普遍的教会、一つの教会の中に属する一人の神の民だ、同じ神の民だというそういうことを覚えておいてください。
そしてその教会はキリストを柏とするキリストの体として一つだ。
そのことを覚えながら今日は教会とキリストの関係、誕生から教会の完成までのことを三つの点で学んでいきましょう。
何度も言うようにこのエピソディットの手紙は教会の奥義が書かれているという。
それでせっかく今日は夫婦の関係の見言葉ですけれども、
教会に関わることが教えられていますので、年の初めてのこともありますので、
キリストと教会の関係をしっかり学んでみたいと思います。
最初の点はですね、教会はイエス様の捧げる愛によって生まれた、そういうところです。
読める方は5章25節、前の見言葉をちょっと声に出して読んでみましょう。
3、夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分を捧げられたように、あなた方も妻を愛しなさい。
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ここでキリストが教会を愛し、教会のために御自分を捧げられたと言っていますが、
御自分をというのは、英語の聖書ではhimself、彼御自身という言葉で、
ギリシャ語でもエアウトンだと思いますけれども、そういう単語がわざわざ入っています。
わざわざ入っている理由は、イエス様がそこまでして、私たち教会のために自ら率先して命を投げ出した。
イエス様が自ら率先して命を投げ出したという、その姿勢が強調されているんですね。
例えば、私たち身近なところでいうと、学校や職場で、私たちが何かミスをしたり、誰かのフォローが必要とするとしますね。
その時に、上司なり同僚が、損得を考えずに助けの手を差し伸べてくれたら、本当にありがたいことですよね。
何はともあれ、このようにいろんな仕事のミスを自分がした、誰かがした時に率先してフォローしてあげるというのは、尊いことです。
そして皆さんもお察しくださったと思いますけれども、まさにイエス様こそ、私たちの罪をあがなうために、自ら進んで十字架で命を投げ出した。
先週も言いましたが、自分を捧げられたのを捧げるという言葉は、パラディドマイと言って、生産式で読む御言葉、主は渡される夜という、自分を渡すという、罪人の手に渡すという意味です。
イエス様は、自ら進んで、私たちのクリスチャンの罪の身代わりとして、十字架で御寿命を捧げてくださった。
そして大事なことはですね、この十字架というのは、私たちが思った以上に大層なことで、ユダヤ人にとって十字架の意味、皆さん覚えてます?何度も言いました。
それは、神に呪われた証拠です。ユダヤ人が最も意味嫌う、神に呪われた罪にかけられる十字架。しかしイエス様はそれを率先していなかった。
それからもう一つ、ローマの世界に意味がありました。皆さん、日本の年末のテレビ番組の恒例番組って何ですか?
もう一つ、格闘技がありますよね。ボクシングとなんか。実はこのローマでは格闘技が流行っていた。その背景にはですね、いわゆる男はマッチョじゃなきゃいけない。
強くなきゃいけない。そして強く、そして人前で鉢掻かないで、人前で栄誉を得る人こそ男として立派だ、そういう価値観があったんです。
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だから十字架の上で死ぬなんていうのは、自分の支配権を全部人に委ねて、しかも当時おそらく、丸裸で死んだ。恥を晒すということで、ローマの男性からしたら最も弾引行為でした。
それをイエス様は罪がないのに、自ら進んで、私たちの罪のために十字架で死んでくださった。
見言葉にありますが、ここに愛がある。先週言ったアガパオ、アガペの愛があるということなんです。
パウロはこのことを別の見言葉でこう読んでいますね。ちょっと読んでみますね。前にあります。ローマ五書八説。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
まさに罪人の私たちのためにイエス様が率先して死んでくださったところに、神の愛が明らかにされていると言われているとおりです。
そして教会はこのイエス様の愛の賜物だということです。
当然私たちもこのアガペの愛のゆえに救われ、今ここにいるわけですし、教会が誕生したわけですね。
今日生産式を行います。同じパンを食べ、一つの杯から飲むというもともと生産式でした。
それによって私たちは一つの教会として、一人の体としてイエス様から救われている。
そのことを一つの器から飲み食いすることによって確認するわけなんですね。
時間と空間を超えた一つの教会としてイエス様に宴れていることをこの生産の時に思い巡らす。
まさにこの新しい年の始まりに、新たにイエス様の愛の犠牲、十字架を心に留めて生産に預かりましょう。
2番目、教会とキリストの関係。キリストが教会を聖なるものとしてくださり、清め続けてくださるということなんですね。
イエス様の十字架の意味がパウロの言葉でこう続いて書かれています。
キリストが捧げられたのは、御言葉により水の洗いをもって教会を清めて、聖なるものとするためで、
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御自分でシミやシワやそのようなものが何一つない聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を御自分の前に立たせるためです。
エペソ5章26節27節
イエス様の十字架の意味がここに明らかに伝えていますね。
この箇所は何度も言っていますが、パウロの一連の夫婦関係、夫が妻を愛するという教えの中での御言葉です。
実はこれはですね、結婚式に備える花嫁さんの身近くの様子をイメージしているんですね。
私が来年1月、結婚式があるかと取り置きなんですけれども、相談する方の一人にですね、美容学校の先生がいるんです。
なぜか、女性なら分かりますけれど、花嫁さん、お化粧したりとか身近くを整えるわけですね。髪の毛から肌の手入れに至るまで。
この水の洗いをもって境界を清めて聖なるものとするため、シミやシワやそのようなものが何一つないものとするため、
私も車を運転して右側ばっかりですね、太陽に当たるものですから、右側ばっかりシミが増えるんですね。シワと。
そういうのも今、男性でも格好良い化粧品が流行っていますけれども、
ここにはですね、まさにエスティシャンというかね、お肌の手入れ、髪の手入れという身体的なこの当時の花嫁さんへのケアが示唆されています。
それからまた、この中にはですね、いわゆる今でいうウェディングドレスを失礼する衣装的な準備、そういうことが頑築されているわけなんですね。
当時はこれらの準備、全て花嫁さん側が行っていたようなんですね。
しかし、花嫁なる教会と花婿なるキースとの関係では、花婿側がそれを行う。
そしてそのように妻をケアしなさいという夫への命令は、当時ある面革命的な教えだったんですね。
私もそうですけど、自分のシミやシワも取ることができない。
石鹸で笑ったりしたこともあるんですけど、取れない。
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それどころか、ここでのシミやシワやそのようなものは何一つない。
そこに頑築されていることは、罪からの清めなんです。
罪からの清め。
で、皆さんもご存知のように、私たちは自分の罪の穢れを除くことができません。
その罪の贖いをすべてイエス様が十字架の上で成し遂げてくださった。
そのイエス様の血潮が私たちを完全に清めてくださった。
実はですね、シミやシワや聖なるものと、教会を清めて聖なるものとするというのはですね、
一回目の決定的な出来事を言うんです。
イエス様を信じますと言った時に、私たちは神様の前で聖なるものになったんです。
だけども、いつも言いますが、その後罪の性質が残りますので、
この水の洗いをもって、御言葉によって清める。
私たちがパプテスマを受けて、聖霊を受けて、そして聖書を読む中で
私たちはこの世の旅路の中で清められ続けていく。
そういうことが示唆されているんですね。
私たちは自分の自主的な罪から清められ続けなければいけないんですけれども、
神の前ではもうすでに完全に清いということ。
実はそのイエス様の血潮の完全さということを旧約聖書と比べて、
聖書ではこう教えているんですね。
ちょっと長いんですけれどもね。
血を注いで罪の清めを行ったのが旧約聖書の教えですが、
もしヤギとオウシの血またメウシの肺を穢れた人々に注ぎかけると、
それが清めの働きをして肉体を清いものにするとすれば、
ましてキリストが傷のない御自身を常しえの御霊によって神にお捧げになったその血は、
どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ生ける神に使えるものとすることでしょう。
ここから読んでみましょうか。
この御心に従ってイエスキリストの体がただ一度だけ捧げられたことにより、
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私たちは聖なるものとされているのです。
旧約聖書ではですね、罪の度にあるいは毎年、
生贄に捧げなきゃいけなかったんです。
毎年毎回血を流す必要があったんですが、
イエス様の体はただ一度捧げられたことで私たちを聖なるものとしてくださった。
そのことがとても大事だということです。
イエス様の十字架の一度だけの御業が私たちを神の前で聖なるものとして、
そして私たちが生涯かけて清められていく、
その上での罪を例え犯してしまったとしても、
そのイエス様の十字架の効力は完全でなくなることがない。
私たちの信仰の旅路を支えてくださるということを、
新しい年を迎えにあたって覚えておきましょう。
最後、それによって、キリストによって栄光が約束されている。
ここの5章27節、これをもう一回読んでみましょう。
イエス様の十字架の贖いの意味は、
栄光の教会を御自分の前に立たせるためです。
ここにも結婚式のイメージがあります。
花嫁さんがいよいよ衰えられてですね、
新郎の前に立つ、
新郎の前に立つ、新郎の前に立つ、
花嫁さんがいよいよ衰えられてですね、
新郎の前に立つ、
その清らかで厳粛なイメージがこの御言葉に込められています。
そしてイエス様が私たちのために
贖いの師を成し遂げてくださったその目的は、
私たちが、そして教会が、
一人の花嫁として、
一つの教会として、
やがて完成の時にですね、
イエス様の前に、花嫁なるイエス様の前に
完成されて立つ日が来る、
イエス様がそのように私たちを、
教会を立たせてくださる、
そういう約束の御言葉なんですね。
この栄光の教会、
やがて神の前に栄光の姿で立つという約束、
今ちょうどですね、箱根駅伝がなされていますね。
昨日はニューイヤー駅伝が、
釈迦神の駅伝がなされましたけども、
この駅伝というのはですね、
たった一つの栄誉に向かってチームが結束して、
そして他の大学、他の会社と戦い合っていくわけですよね。
そしてその栄冠を掴むことができるのは、
たった一つのグループだけです。
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しかし私たち教会、世界様々あります。
歴史上いっぱいありますけれども、
この栄冠、栄光は全ての教会、
全てのクリスチャンにも備えられている、
約束されている。
そして私たちはやがてイエス様が、
私たちを完成してくださる時に、
まさに一つの教会として、
完成されたイエス様の身姿をもって、
イエス様ご自身の前に、
栄光の姿で立つことができるわけなんですね。
その栄光の約束、この新しい一年間、
いろんなことが私たちの身に起こるかもしれませんし、
教会にあるかもしれませんが、
その栄光のゴールを覚えてですね、
この一年間ともに走り抜けていきたいと思います。
そしてイエス様はゴールに至るまで、
私たち教会をですね、
ご自分の体としていたわり続け、
養い育てていって、
ゴールまでともに導いてくださるお方なんですね。
そのことを覚えて最後に御言葉を読んでみましょう。
5章29節から30節、
この御言葉をともに読みましょう。
3、はい。
いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。
むしろそれを養い育てます。
キリストも教会に対してそのようになさるのです。
私たちはキリストの体の部分だからです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様の贖いによって、
私たちが贖われまた、
教会が生み出されてきたことを感謝いたします。
新しい年が始まり、
様々なことが私たち自身、
私たちの教会また、
世界の教会の前に待っているかと思いますけれども、
どうぞ、共にあるあなたの約束、
あなたの完成の約束を覚えて、
この目の前の競争を忍耐をもって、
走り続けることができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、
私たちの救い主、
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではお一人お一人、
しばらく主に応えて、
お祈りしてください。