神の恵みとヨハネの証言
ヨハネの福音書1章15節から18節をお読みします。
ヨハネは、この方について明かししてこう叫んだ。
私の後に来られる方は、私に勝る方です。私より先におられたからです。と私が言ったのは、この方のことです。
私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
律法はモーセによって与えられ、恵みと真はイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。 父の懐におられる独り子の神が、神を解き明かされたのである。
以上です。 今日はこのところから、好きない恵みと題してお話を取り付けます。
皆さんおはようございます。 今日から11月です。昨日はですね、ちょっと激しい雨になりまして、
今日、天気予報では連休中ずっと天気悪いなんて言ってたのでね、大雨の中皆さん大丈夫かなと思ったんですけど、晴れやかな朝になって良かったですね。
昨日なんかは静岡のあたりでトップや竜巻なんかもね、起こったようですけども、とにかく今日ともに礼拝が守れることを感謝しております。
さて、ヨハネの福音書をずっと学び始めておりましたが、1章の今日の18節までが序文になります。
長い序文、そしてこれから後のヨハネの福音書の中で、これまで18節の中で語られたことが詳しく語られていく、そのようなことが記されているわけです。
そしてその最後の部分から、今日はまた3つの点、尽きない神様の恵みということで見ていきたいと思います。少々お待ちください。
尽きない恵み。今日の15節のところはですね、バブティスマのヨハネの証言がまとめて書かれています。
それは1章の5つにありますように、ロゴスなる言葉、イエス様がですね、戦中の世界が始まる前から存在しておられたお方だ、そしてヨハネ自身よりも勝るお方だということを彼は告げているわけです。
その上で、ロゴスなる言葉について16節以降、詳しく恵みや救いに関わる内容が書かれている。それを3つ見ていきましょう。まず最初はですね、
これですね、これがバブティスマのヨハネ。こんな感じのイメージありますけれども、尽きない恵みというところを見ていきましょう。第一のポイントですね。
16節読める方、読んでみましょう。私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。ここではですね、命の光であるお方から
豊かな恵みが注がれている。無人像に与えられているということが語られています。皆さんは海を眺めた時のことを思い出すことができますか。
あるいは、 埼玉県は海がないです。海がないところ出身の方なんかは、川の流れを思い出すことができますか。
大河、 なんてありますけど。
で、まさにですね、寄せては返す波のように、あるいは絶えず流れ続ける川のようにですね、
神様の恵みはですね、尽きることがない。 寄せては返す波のように、そして
絶えず流れゆくタイがのように、神様の恵みは尽きることがないということがここで言われています。
この、 恵みの上にさらに恵みを受けたという言葉、これはですね、非常に珍しい言葉なんですね。
で、文字通り訳すと、 恵みに変えて、
恵みを与えられたということなんです。 同じ意味ですけれども、
そう繰り返されています。なぜそのように言われているか、それは、 先ほど言いました無人像の恵みが与えられるということが強調されているからです。
イエス様によって与えられる恵みの豊かさを、 その変わった言葉によって、
表現しているんですね。
このように言えるかと思いますが、イエス様は私たちが困っている時、あるいは私たちが末しさを覚えている時に、いつも助けを与えてくださるということです。
ご自身を信頼する人、 そのご自身を信頼する人にイエス様は絶えず、
豊かな祝福を与えてくださるということが表現されています。 そして、このようなことも言えます。
神様の一つの恵みが終わっても、 また別の恵みがそれにとって与えられるということです。
繰り返しになりますが、神様の恵みは寄せては返す波のように、 途切れることなく切れ目なく尽きることがない。
ある学者が言いますけれども、何によってもその恵みは邪魔されることがないし、 制限されることはないということなんですね。
イエス・キリストと律法の関係
その素晴らしさを表す聖書の言葉がいっぱいありますけれども、 私が好きな言葉を今日引用しますが、
旧約聖書、 愛科の3章の21節から23節です。
それゆえ、私は言う。 私は待ち望む、主の恵みを。
実に私たちは滅び失せなかった。 ここから読んでみましょうか。
主の憐れみが尽きないからだ。 それは朝ごとに新しい。 あなたの真実は偉大です。
主の憐れみが尽きない。
それは朝ごとに新しい。 あなたの真実は偉大だ。 エレミアが告白しているわけです。
そのように神様の恵みが与えられるということは無尽蔵でありますから、私たちは 檻にかなった助けを受けるために、大胆に神様の前に行って、
祈り、助けを求めることができるわけですね。 その上で2番目。
実現した恵みと真ということを見ていきましょう。 1章17節。
これも読めるか読んでみましょうか。 3番目。 律法はモーセによって与えられ、恵みと真はイエスキリストによって実現したからである。
ここで注目すべきは、序文からずっとですねロゴスなる言葉について語られてきましたが、 初めてイエスキリストという名前が出てくることです。
これまで説教の中で私は弁儀上ですねイエス様って言ってきましたが、 ヨハネの福音書に触れた人はここで初めてロゴスなる言葉が、命の光が、
すべてを作られて命を与えておられる方、それはイエスキリストなんだということが宣言されるわけですね。
そのイエス様はどんなお方か、それは 恵みと真を実現したお方だと言われているんです。
この恵みと真の真というのは、
ギリシャ語でアレ-セイヤという言葉で直訳すると真理なんですね。 真理という言葉も、ヨハネの福音書の中でたくさん出てくる言葉で、
イエス様が14章6節で私が道であり真理であり命なのですと言っています。 いろんな意味があるんですけども、特にその一つここでいう真理とは、
恵みによる救いを表しています。人は神の恵みによって救われるんだ。 それを信じることによって救われるんだということが真理であると言われているんですね。
後でもちょっと触れますけども、つまりですね、律法を守ることによって人は救われるのではなくて、
イエス様を信じ受け入れることによって神のことされる特権が与えられて、そして救われるんだということが真理である。
またそれが恵みであるということなんです。 私は昨日インフルエンザの予防接種を受けてきました。
皆さん受けました? コロナの予防接種受けました?
受けないですよね。私は迷っているんですけども。
なぜインフルエンザなどワクチン接種をすると病気が予防できるのか? その仕組みご存知です?
まあね、あの
それをですね、詳しく理解するには専門的な知識が必要ですね。
でも、そういう詳しい専門的な仕組みを知り尽くさなくても、ワクチンを受けたら予防できるわけじゃないですか。
全部わかるまで予防接種を受けません。まあちょっとそういうのも今多分ですけど、流れもないとも言えないんですけど。
その詳しくわからなくても、接種すれば病気を防げるというのは、イエス様を信じたら神のことになる、救われるということと似ているんです。
さっきワクチンの話になりますけど、なぜワクチンを接種して予防できるかといえば、ワクチン接種によって
細菌やウイルスに対する免疫がですね、体の中にできて、そして感染したときにそれを攻撃するということです。
じゃあなぜそれが起きるんだということを突き詰めていくと、とても難しくなるわけです。
まあそういう今言った簡単な仕組みなんですけども、今みたいに簡単な仕組みを
イエス様を信じて救われるという仕組みを、モーセの律法との関係でイエス様についてこう説明することができるんですね。
実はここにありますように、律法はモーセによって与えられたってあります。
実戒とそれに続く律法。
詳しく言うとこれは旧約聖書全部とか、ユダヤ教ということも言えるらしいんですけれども、律法がモーセによって与えられた。神様はモーセを通して律法を与えたんですね。
なぜかそれはいろんな意味があるんですけど、一つ例えば神様と契約を結んで、神の民はどうやって神様に答えてきたらいいんだろうかという、その神に答える方法が律法に記されているわけですね。
ただ、この律法に書かれている掟を一つも破らないで生き続けるということは誰にとっても不可能ですね。
そのことを指してパウロはこう言ってるんですね。
ローマ3章20節。 なぜなら人は誰も律法を行うことによっては、神の前ではに義と認められないからです。律法を通じて生じるのは罪の意識です。
先ほどのワクチンの簡単な説明のように、律法を行うことによっては誰も神の前で義と認められる人はいないんだ、とパウロは言っているんです。
じゃあどうするかということで、パウロは救いの福音を語って続けてこう言ってるんですね。ローマ3の22から23。
しかし今や律法とは関わりなく、神の義が示されました。
すなわち、ここから読んでみましょうか。3、イエスキリストを信じることによって信じるすべての人に与えられる神の義です。
こういうふうに律法を行うことによっては誰も神の前では義と認められませんよ。
だからこそ神がその義の道を示してくださいました。それはイエスキリストを信じることによって
神の義が与えられる。 これが恵みであり救いのための真理だ。
そしてその恵みであり救いによる真理はイエスキリストによって実現したんだということ、そういう仕組みなんですね。
繰り返しますが神はモーセによって律法を与えて人が神に応える道を示してくださいました。
しかし人はそれを行うことによっては不完全ですから義と認められません。
イエスキリストは恵みの真理、つまりイエス様を信じて救われるという恵みの真理を実現してくださった。
その物語がこれから福音書の中で詳しく書かれていきますという、後期期待ということになるわけですね。
神の解き明かし
3番目、その上でイエス様は何をなさったか。イエス様は神を解き明かすお方である。
大事な意味言葉ですね。いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる一人子の神が神を解き明かされたのである。
昭和世代の私はですね、いまだかつてというと、山田勝手というテレビ番組を思い出すんですけれども、
これまで誰も神を見た人はいませんとはっきり言っています。
神という言葉が最初に来ていて、ここの部分は強調されているんですけれども、
モーセはですね、神様の顔を見たい、見れると思ったんですけど、神様はモーセに対してこう言ったんですね。
あなたは私の顔を見ることができない。人は私を見てなお生きていることはできないからである。
こういうことで誰も神を見た人はいない。神の姿を見たという記述が聖書にありますけど、それは後姿なり、いわゆる幻に過ぎなかったわけです。
しかしイエス様は弟子のピリポにこう言われたんですね。ピリポがイエス様に父を見せてくださいと言うんです。
イエス様。するとイエス様は彼に対してこう言いました。ちょっと長いですが頑張って読んでみましょうか。
ピリポ、こんなに長い間あなた方と一緒にいるのに私を知らないのですか。私を見た人は父を見たのです。
こうはっきり言っているんですね。誰も神を見たことがないけれどもイエスを見た人は神を見るんだと
ヨハネが宣言しているわけです。
ところで、今年のノーベル平和賞はですね、
日本全国の被爆者の方々で作る日本減衰爆被害者団体協議会被弾協議ですね。
本当に誇らしいことで私も嬉しく思いましたけれども、いろいろその活動のレポートがテレビで流れますよね。
それまでの報道を見ると私がすごく感動したのは、被爆者の方々の体験を外国の人がですね、アメリカの方とかが聞いて非常に感動しているシーン、それが伝わってきました。
まさに言葉の壁を越えて国境を越えて、彼らの証言というのが人々の心に届いていった。その証としてこの受賞があったと思います。
しかし残念なことがありますね。
被爆者の方々が高齢になられて、残念ながらお亡くなりになる。生の声がもう聞けなくなるという課題がある。そのことも報道されていました。
証言者が将来いなくなってしまう。
そこで今、被爆者の実のお子さんとかお孫さんがその証言を受け継ぐようにという活動が始まっています。長崎の団体なんかもやっているんですね。お子さんやお孫さんは引き継いでくださいって募集しています。
実はこのことが、ヨハネの1章18節の御言葉を知るヒントになるんですね。
いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り言の神が神を解き明かされたのである。この箇所では、このロゴスなる言葉、イエス・キリストがこの神を解き明かしている。
まさに外国語に訳す通訳者のようにイエス様は人間が知ることができない神様の言葉を通訳するようなお方です。イエス様の言葉を聞いて私たちはイエス様の言葉を読んで私たちが知ることができない神様のことを知ることができるわけですよ。
その通訳のような解き明かすというのがエクソジーザスという聖書の専門用語でですね、聖書学の専門用語で、今私が皆さんにしているように聖書のギリシャ語とか歴史的な背景をきちんと踏まえた上で聖書はこういう意味ですよって解き明かすという言葉のもとになった言葉なんですけれども、そのように神様のことをイエス様は人間がわかる言葉で解き明かしてくださっているってことがわかります。
そしてこの父の懐におられる独り子のカニという言葉です。まさにですね、これは母親の懐に抱かれる赤ちゃんのように、あるいは父親のあぐらかいたその上に子供が抱かれるような姿をイメージさせます。それは父なる神様とイエス様の親密な関係を表しています。
一章一節で、この方は神と共におられたというのを覚えていると思いますが、神様に向かって対応していたということです。それがあるがゆえにイエス様はその親しさのゆえに神の言葉を解き明かす。厳しい現実ですけれども、被爆者のご家族だったからこそ生の声を真身になって聞けて、そしてそれを生きた証言として被爆者のお子さんやお孫さんが伝えられるような、
そのようにまさに親密な道との関係にあられたイエス様だからこそ、私たちが見ることも知ることもできない神様の真実を解き明かすことができますよとヨハネは言っているわけなんです。寸分たかわず神様のことをイエス様は解き明かすことができる親しいお方であったと言えるわけですね。
繰り返しになりますが、そのようなイエス様であったからこそ人間が知ることができない神様の言葉を私たちに解き明かしてくださいました。そして当時ヨハネの福音書が枯れたときにですね、イエス様を見た人たちはイエス様を見ることによってこの目に見えない神様を実際に見ることができたわけなんです。
被爆者の証言
そして実はイエス様のなさる御業を見ることによって当時の人々は神様が人を救うというのはこういうことなんだということを実際に見ることができました。今の私たちはそれを見ることができませんが聖書の御言葉を通してイエス様の御業を聖書から知ることによって神が私たちを救うというのはこういうことなんだなということが知ることができるわけなんです。
そしてこれからですねこのイエス様による神の解き明かしが詳しくダイナミックにされていくのがヨハネの福音書であるわけなんですね。そのことをこうご期待ということであります。
それでは1章18節を読んでこの時間を終わりにしましょう。
いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が神を解き明かされたのである。お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
ヨハネの福音書の序文から学んできました。
露骨なる言葉あなたの御子なるイエス様が私たちにあなたご自身を解き明かしてくださったその救いの真理を私たちが知ることができました。
これからさらに深くまたダイナミックに豊かに新たにあなたの救いイエス様の御業を私たちがヨハネの福音書を通して見ることができますように。
また新しく始まったこの月この週私たちが生活の中でイエス様にある神様の救い月の恵みを体験することができますように。
またそれを期待してあなたに助けを求めながら歩んでいくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主週イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。