1. 名谷教会
  2. 2022/06/19:蒔き続けるイエス様
2022-06-19 29:45

2022/06/19:蒔き続けるイエス様

2022/06/19 聖日礼拝

犬塚直樹牧師

マルコの福音書 4:1-9


00:00
皆様、おはようございます。
今日、こうして森本聡君の展示式、またカメラを通して、
名谷の皆さんと共に、同じ聖書の箇所を開いて、
共に神様からのお恵みをいただきたいと思います。
イエス様のもとには、大勢の人たちがやってまいりました。
けれども、多くの人たちが、ちゃんとイエス様の話を聞いていなかったわけであります。
ですから、神様の大切な真理が投げ捨てられないように、
まず、大勢の群衆には、たとえ話を話されました。
この1節から9節、先ほど読んでいただきました箇所です。
普通の種まき。
その辺にある話であります。
けれども、やがて固くなら心が輝かされて、
神様の御言葉がその人の心の中に入り、
芽を張って、やがて芽を咲かし、花を咲かせる。
神様はあなた方が、魂に幸いを得ているように、
全ての天でも幸いを得、健康であることを祈っておられる。
御言葉には、私たちの魂を救う力があるだけではなく、
皆さんの骨に元気を与え、活力を与えてくださいます。
すなわち、皆さん一人ひとりが御言葉を通して、
喜びの信仰生活をもたれるということが、
イエス様の願いであります。
確かに、神様の御言葉は、聞く人の心の状態によって、
豊かに実を結んだり、あるいは実を結ばなかったりします。
ですからイエス様は、よく聞きなさい。
聞く耳のあるものは、聞きなさいと命じられました。
すなわち、私たちは聞くことが下手でありますから、
御言葉が頭の上を通り過ぎてしまうわけであります。
多分、今日集われた方々の、何人かの方々の心には礼拝をしながら、
03:06
この後は一体何をしようか。
それは、今日の昼は何を食べようかと思っておられると思います。
責めるつもりではありません。
けれども、注意深くそれを見るならば、
皆さんの人生にとって、たった一粒の種が、
30倍、60倍、100倍の実を結ぶんだと言っているわけであります。
そして当時の農業技術は進んでいませんでした。
機械もなければコンバインもない。
化学肥料も、あるいは農薬もありませんでした。
ほとんどが手作業でありました。
このタレスシナにおいては、作物の種をまく方法は二つありました。
一つは種をまく人が畑に行って、
この種を日本で言うならば、
節分のように種をまいていくわけであります。
広い広い荒野でありますから、
一つずつまくことはありません。
バラバラ、バラバラとまきます。
それが一つの方法。
もう一つの方法は、
ロバか何かに種が入った袋を背負わせて、
その一箇所に穴を開けて、
ロバが勝手に行くところを、
ポロポロポロポロまいていくわけであります。
日本は、耕した後に種をまきます。
ですから正反対であります。
けれども、どんなに種をまいても、
一生懸命に育てても、
台風や患抜や自然災害で、
全てがダメになってしまう時があります。
今年は例外で、
この勢いが高いとかですね、
あるいはですね、
玉ねぎが食べれなかったなとかですね、
3倍にもなったとか、
そのように苦労がたくさんあります。
農作物というのは生き物でありますから、
枯らすとなかなか元には戻りません。
さて、先ほど読んでいただいた種まきの中で、
4つの場所にまかれた種のうちに、
3つまでもがダメになりました。
3か所ですね。
道端に落ちた種、
そして岩地に落ちた種、
茨の地に落ちた種、
それはすぐに鳥がやってきてですね、
その種を食べられたりですね、
あるいは芽が出たけれども、
06:02
この芽がないために枯れてしまった。
でも芽が成長したけれども、
やがて茨によってこれ以上は成長しない
というところまでになったその場所、
そしてもう一か所は
30倍、60倍、100倍になったというわけであります。
さて、今日読んでいただきました、
このマルコの4章の、
見てくださいよ、
1節から9節まで。
さて皆さん、ここを読まれて、
神様は一体何を私たちに教えようとしておられるのか、
何が言いたかったのか、
わかるでしょうか。
わかりませんよね。
けれども、ある弟子たちは、
先生、あの話はどういうことなんでしょうか、
と言って、
弟子様に近づいて尋ね求める者に、
それ以降の箇所が開かれていくわけであります。
なぜ弟子様はこの時にこんな話をされたんだろうか、
どんな意味があったのか、
群衆にはわかりませんでした。
羽巻の話を聞いたけれども、
ちんぷんかんぷんでありました。
どうぞ皆さん、
お互い何となく聞くというのではなくて、
御言葉に対して、
この御言葉は一体神様は、
私に何を教えようとしておられるんだろうか、
どんな意味があるんだろうか、
私たちは何となく聞いてしまう弱さがあります。
このたとえ話には、
私たちの人生と重なる部分があります。
いろんな分野において、
いろんな身が結ばれるように私たちは努力をします。
けれども全てが報われることではありません。
そして私たちは死亡し、
そこで佇むわけであります。
けれども、
良い土地に落ちた種は、
100倍の実を結んだ、
一粒から100倍の実であります。
ダメになってしまった、
その種を引いても、
すごいことであります。
これは私たちの生涯において、
私たちの御言葉が、
本当に心の中にとどまるならば、
09:00
30倍、60倍、100倍の祝福になるんだ、
ということを教えています。
さて聖書に、
種とは神の言葉であると言っています。
聖書の言葉一つ一つは、
神の種であると言っています。
なぜそのように例えられたのでしょうか。
それはその種が生きているからです。
第一ペトロの1章の23節に、
あなた方が新しく生まれたのは、
朽ちる種からではなく、
朽ちない種からであり、
生けるいつまでも変わることのない、
神の言葉によるのです。
人様の小さな種、
種のように神様の言葉は、
つまらなくなるかもしれない。
あるいは小さいかもしれない。
けれどもやがてそこに命があるので、
それが成長して、
花を咲かせ、
実を結ばせるわけであります。
みなさん、固くてですね、
頑丈なアスファルトの中から、
本当に雑草が生えているのを
見たことがないでしょうか。
あるいはコンクリートの道にですね、
作物が生えて、
昔は何年前か知りませんけれども、
土根状大根というのが有名になりました。
ああ、こんなところにこの大根が
育ってきた。
それはみなさんも知っているように、
その小さな一粒の種に
命があったからであります。
図書館に行ってみてください。
たくさんの本があります。
そしてその中にも聖書があります。
聖書を見るならば、
他の本と同じようなものと、
他の本と何の違いもありません。
けれども、神様の御言葉は力があり、
生きていて、
人を作り変えることができるわけであります。
人を変えることによって、
私の人生が変わり、
みなさんの家族も変わり、
その社会が変わっていく。
小さなものであるけれども、
そこに命がある。
でも、そこにどんなに命があるといっても、
その土地が豊かでなければ、
水がなかったりするならば枯れてしまいます。
以前、プチトマトの種をプランターで育ったものを
12:03
神徒の方がくださいました。
でも同じ苗なのに、
私のところには10個ぐらいの実しかなりませんでした。
でもその神徒さんのところに行くならば、
100個以上の実がなったわけであります。
同じものなんですよ。
でも、同じものだけれども違うということは、
もうみなさんがわかるように、
その土地が違うわけです。
種をまく人は、
イエス様です。
畑とは、私たちのことであります。
同じ種でも、
私たちの受け止め方によって、
実がなることもあれば、実がならないこともある。
4種類の心であります。
どうぞ、私たちは心の中にその種をまき、
そして根を下ろし、
実が結ぶような生き方をしたいと思います。
そしてこの言葉は大切です。
自分という畑だけではなくて、
兄弟姉妹の畑、
あるいは心も御言葉を聞きやすく、
あるいは受け入れやすくなるように、
お互いしなければなりません。
イエス様が種をまかれた。
すなわち農夫が種をまかれた。
その一つは道端に落ちました。
心を閉ざした人たちがいます。
御言葉だけではなくて、
教会行事の様々なプログラムにおいても、
例えばデボーション講座であるとか、
あるいは伝道集会であるとか、
生会もそうです。
ある人はもっと知りたい、もっと学びたい。
そして祝福されて、
イエス様を伝えていくわけであります。
けれどもある人は面倒くさそうに、
やらされているかのようにやってしまいます。
教会にこういうことを皆さんと一緒にしましょうか。
そういうと、なぜ私がしなければ怒ってしまうし。
私の今までの信仰障害で、
役員の方々も、
CSの教師の方々も、
魂を気遣って、
休んでいる方々のところに訪問に行っていました。
けれどもある教会の中には、
15:00
何十年も役員をしながら、
なぜ私がしなければ、
という人もおられるわけであります。
この教会ではありません。
もう私はびっくり了点であります。
そういう人たちが多ければ、
それが教会の文化や、
あるいは雰囲気になってしまいます。
いろんなことを教会で同じことをしていても、
結果的には違いが出てくるわけでありません。
もう心を閉ざして、
あまり見言葉を聞きたくないわけです。
ある一イブライシュの姉妹が、
高齢で体が弱くて、
教会に来ることができませんでした。
もう食事がなかなかとれない。
何を食べてもおいしくない。
と言っておられました。
そしてその姉妹がですね、
ふと大会の前の、
八百屋さんのこのさすま芋なら食べれるかもしれない。
今ちょっと時期が違うけれども。
そして教会で時々食べていた、
あのバラ節だったら食べれるかもしれない。
と言いました。
それを聞いた姉妹は、
さすま芋を買って持っていきました。
小さな小さな親切です。
けれどもその小さな親切が、
そのおばあさんの心を輝かして、
見言葉を受け入れやすくしたということです。
こんなにも私のために思ってくれた。
じゃあ私もということで、
一生懸命祈りだしたということであります。
どうぞ私たちは、
自分という心の畑を何とかしなければというだけではなくて、
私たちの一言、あるいは一つの行為が、
隣の人の畑を柔らかくするわけです。
ですから私たちは、
私たちの家族や兄弟姉妹の心を輝かさなければなりません。
ある人は言いました。
先生、生徒とは一体どういう人ですか。
するとですね、
それはその人を見ていると、
神様を信じやすくなる。
ああ、私を見ると神様を信じたくなる。
希望が持てる。
ああ、大丈夫だ。
すなわちその人の心を柔らかくするわけであります。
18:02
さて、岩手に落ちた種は早く芽を出しましたけれども、
根がないためにすぐに枯れてしまいました。
御言葉を聞いたけれども、
それを心の中に留めませんでしたから、
どこかに行ってしまった。
教会で御言葉を聞きました。
でもこの街道を出た時にはですね、
もうその御言葉が半分になってしまいました。
そして家に帰る途中、近所の犬がワンと言ったらですね、
その与えられた御言葉もさらに小さくなって半分になりました。
そして家では家で、
あなたと言われたらですね、
とうとう御言葉、聞いた御言葉もなくなってしまう、
ということもあり得るわけであります。
茨の地に落ちた種は成長していきますが、
実を結ぶことはありませんでした。
雑草がその成長を妨げました。
根を取らなければなりません。
農夫はですね、植えなくても自然に雑草が生えてくるということはよく知っています。
私の心は、私の心です。
私の心は道端であり、あるいは岩地であり、
また雑草が生え茂っている心であります。
堅くなりカチカチです。
健康なこと、あるいは仕事のこと、将来のこと、
あるいは子供のことや両親のことで心配の連続では皆さんないでしょうか。
そして何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうか、
心配し始めるとですね、次から次へとその辺からもですね、
あちらこちらからもですね、心配を勢い上げるわけであります。
神様の御心を知りそれに歩むというよりも、
もうそれでいっぱいになってしまいました。
でもいいですか皆さん、イエス様はこんな私を放っておかれません。
神様は世界を創造された後に作りっぱなしではありませんでした。
お作りになった世界で身が結ばれるように聖書を見てください。
種を何度も何度も撒いておられます。
あなたに向かって私に向かって何度も種を撒いてくださっています。
ダメになってしまう種があります。
頭を通り過ぎてしまう種もあります。
そういう種の方が多いと思います。
聖書を通読します。あるいは信仰の領書を読みます。
21:08
御言葉に立って祈ります。デボーションをします。
皆さんいかがでしょうか。
この1年間どのような種を私たちは受けてきたでしょうか。
けれども思うことは私の場合ですよ。
ほとんどの種が枯れてしまいました。
人から見ると何度御言葉を与えても無駄のようになるかもしれません。
ダメになってしまう種の方が多いかもしれません。
けれどもイエス様は撒くのをおやめになりません。
今も撒き続けてくださいます。
何十、何百、何千という種が撒かれていきます。
そして枯れていきます。
でも百倍になる種もあるんです。
イエス様は私を愛してくださっている。
私が作り変えられるように。
またこの地上において愛と希望に満たされている。
人々の心の種、すなわち心の畑を耕すことができるように。
そこまで成長するように忍耐を持って私に撒いてくださっています。
良い地に撒かれた種とはどういうことでしょうか。
その畑がしっかりとその種を受け止めて
時が来るまで忍耐を持って待つことであります。
ですからどうぞ皆さん、私たちの心の中に
神様の御言葉を忘れてしまうかもしれません。
蓄えてください。
美しい言葉、元気になる言葉。
皆さんに聖書通読をお勧めします。
私はサラムリジマン時代にその教会で聖書通読がありました。
1年間、旧約1回、新約2回
読んでいても一体何が書いてあるのか
毎日頭の上を通り過ぎてしまうようなことでありました。
勤めは大阪でありましたから
24:05
御教会の赤木というところで礼拝を守り
そして夜は伝道集会がありました。
勤めの中で本当にしんどくて
人間関係においてももうこれでやっていけないと思って
上を渇きながら日曜日にも出ます。
礼拝にも出ました。
伝道集会にも出ました。
でも御言葉が来ませんでした。
一人JRのプラットホームで佇んで
大阪方面に行く電車を待っているときにですね
ふと後ろの方から
身を世の終わりまでいつもあなたと共にいるのである
私は決してあなたを見さず見捨てない
ああこれは何だろうか
またその時忘れてたんです。
でもそれは青春通俗の中で
ふーっと通り過ぎていた御言葉だけれども
その御言葉には命があるので
私が必要だと思うときに神様は
それを思い起こさせてくださった。
身を世の終わりまでいつもあなたが共にいる
ああそれで私はここからやっていけるというように思いました。
皆さんパソコンを持っていらっしゃる方もおられるでしょう。
スマートフォンを持っていらっしゃる方もいるでしょう。
素晴らしい機械です。パソコンもそうです。
でもそのパソコンというのは
その中にデータを入れなければ
ただのこの金属の鉄くずにしかすぎないわけです。
データを入れる。
私たちもそれが思い起こさないかもしれないけれども
私という心の中に神様の御言葉
あるいは美しい言葉
励ましの言葉
忘れてもいいんです。
たくさん入れてください。
入れたならば
必要な時に神様が思い起こさせてください。
喜んで御言葉を聞く人はどういう人でしょうか。
サムレが言います。
しもべ聞きます。
主よお語りくださいと言って
いつも心を開いて
聖書の御言葉に聞いていきます。
御言葉を聞いた時に理解できなくても
イエス様の母マリアもそうでした。
彼女が身をもって男の子を産むと言われた時に
27:01
理解できませんでした。
わからなかった。
でも聖書にこう書いてあります。
これらのことを全て心にとめて
思いを巡らしていた。
神様の声があったけれども
わからなかったけれども
思い巡らしていた。
するとその御言葉が
身を出し
花を咲かせ
身を結ぶようになった。
どうぞ
しもべ聞きます。
主よお語りください。
30倍、60倍、100倍になる。
そしてどうぞ皆さん
何度も言いますけれども
自分の畑だけではなくて
人の畑も耕してください。
その種が
無駄になったように見えても
諦める必要はありません。
自分の駄目さ加減に
絶望しなくてもいいんです。
イエス様は
毎日巻きついていてください。
イエス様は私を諦めないで
私の生涯に
私の家族に
私たちの教会に
日毎巻きついていてください。
イエス様が諦めていないのですから
私たちは諦める必要がありません。
いつもここに
希望を置いていきませんでしょうか。
イエス様が巻いてください。
ヘブルの4章の2節に
今日の中心的な御言葉でありますけれども
聞いた御言葉が
液となりませんでした。
御言葉が聞いた人たちに
信仰によって結びつけられなかったから
信じた私たちは
安息に入るのです。
御言葉を信じていくときに
どうなるとここに書いてあるでしょうか。
多くの人たちは
聞いた御言葉が液にならなかった。
でもその中で信仰を持って
受け止めた人たちのうちには
信じた人たちのうちには
安息があると書いてある。
安息に入るということです。
どうぞ御言葉をさらに読んでください。
一言お祈りを。
29:45

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