ヨハネへの問いかけ
それでは朗読します。ヨハネは1章19節から28節。
さて、ヨハネの証はこうである。
ユダヤ人たちが、祭司たちとレビビトたちをエルサレムから使わして、
あなたはどなたですか、と尋ねた時、ヨハネはためらうことなく告白し、
私はキリストではありません、と明言した。
彼らはヨハネに尋ねた。
それでは何者なのですか、あなたはエリアですか、ヨハネは違います、と言った。
では、あの預言者ですか、ヨハネは違います、と答えた。
それで彼らはヨハネに言った。
あなたは誰ですか、私たちを使わした人たちに返事を伝えたいのですが、
あなたは自分を何だと言われるのですか、ヨハネは言った。
私は預言者イザヤが言った。
主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声です。
彼らはパリサイビトから使わされてきていた。
彼らはヨハネに尋ねた。
キリストでもなく、エリアでもなく、あの預言者でもないなら、
なぜあなたはバブテスマを授けているのですか、ヨハネは彼らに答えた。
私は水でバブテスマを授けていますが、
あなた方の中にあなた方の知らない方が立っておられます。
その方は私の後に来られる方で、
私にはその方の履物の紐を解く値打ちもありません。
このことがあったのはヨルダン川の向こうのベタニアであった。
ヨハネはそこでバブテスマを授けていたのである。
以上です。
ヨハネの告白
今日はこのところから、ヨハネのアイデンティティと題して御言葉を取り付けます。
皆さんおはようございます。
今朝は寒い朝になりましたね。
しばらく夏日が10月まで続いたりしてですね、
先週の木曜日ですか、小枯らし1号が吹いて、
驚きましたけれどもね、風が強くて、
あっという間にの冬の足音が聞こえてきております。
今日は雨の予報でしたけれども、遅くからということでですね、
雨を降らずに皆さんとこうやって会話ができることを感謝しております。
バブテスマではないヨハネという説教タイトルの時にお話ししましたが、
ヨハネの福音書では、このバブテスマのヨハネの役割が、
キリストを明かしするという一点だけで強調されていて、
今日のところで少し言われていますが、
バブテスマを授けたということは取り上げられていないんですね。
その上で、今日の箇所は彼のタイトルにもありますけれども、
アイデンティティ、ヨハネは誰なのかということに関する問答が繰り広げられているんですね。
注目されるヨハネ
いつもお伝えしていますが、
今日の箇所でも、この問答の背景にある聖書の箇所とか、
当時の文化的なものを知って、より表層的でない深い意味がわかる、
また新たな発見がある、そういう箇所でもあります。
ですから、そのことを説明しながら、
まず第一に、この祭司たちの問い、
そしてそれに対するヨハネの答えについて説明していったり見ていきます。
そして二番目は、ヨハネの自らの答え、
私はこういうものだという答えについて取り上げていきます。
そして最後に、三番目に、あなた方の知らない方という謎めいた言葉、
その意味について取り上げていって、
アイデンティティについて考えていく、そんな機会となればと思っています。
さて、まず最初。
あなたは誰か?という最初の点ですね。
18節、19節を読んでみます。
さて、ヨハネの証はこうである。
ユダヤ人たちが、祭司たちとレビュー人たちをエレサレムから使わして、
あなたはどなたですか?と尋ねた時、
ヨハネはためらうことなく告白し、
私はキリストではありませんと明言したということですね。
話が変わりますが、今日から大相撲の吸収場所が始まりますね。
それで15日間の入場券が完売することを、
ふだ止めと言いますよね。
実は大関の大野里の横綱昇進がかかっているかもしれないということで、
非常に注目されていて、今月の2日でしたか、
吸収場所もふだ止めになったという知らせがあって、
その結果、2024年の1年の6場所、合計90日、
全部がふだ止めになったと言うんですね。
実はそれは1996年以来、28年ぶりの解去と言いますか、ニュースだと言うんです。
その頃は若高時代でしたね。
そのような、歴史的とまで言いませんけど、
28年ぶりの全期間ふだ止めということがスポーツニュースで言われています。
大野里も、大関昇進の時に石川県出身ということもあって、
テレビなどいろんなところで彼の人となりとかについてたくさん報道されました。
ついこの間、ワールドシリーズ制した有名な大谷昇平選手についても、
ずっと彼の老いたちとか恩師などが取り沙汰されていた。
何かというと、これらは彼らについて多くの人たちが、
どうしてそんな偉業を成し遂げることができたのか。
まだ老い長も言えないのに大関になった大野里とか、
50-50を達成した大谷もそうです。
なぜこの人が注目に値する人なのかという理由を探りたいわけです。
そして聞いていえば、この人は一体誰なのかという、
そういう関心にたどり着くのが、大谷昇平や大野里、
いろんな有名人に関する報道がなされている理由だと思うんですね。
実はこのバブテスマのヨハネも当時、多くの人々の注目を集めたわけです。
実はマタイの福音書にはそのことが取り上げられています。
3章の5節から6節にこうあります。
読める方はちょっと頑張って読んでみましょうか。
その頃から。
その頃、エルサレム、ユダヤ、ゼンド、ヨルダン川周辺のすべての地域から、
人々がヨハネのもとにやってきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバブテスマを受けていた。
ここでわかりますように、全土とかですね、
すべての地域と書いてあるように、非常に多くの人たちが、
ユダヤ、ゼンドからヨハネのもとに集まってきたということが書かれています。
エルサレムの指導者、前のマルコではサンヘドリンと言ってましたけれども、
宗教と政治の中心70人ほどの議員からなるサンヘドリンから、
今回は祭司とレビュート、祭司階級の人たちがヨハネのところに使わされてきたわけです。
そして、このカチューの真ん中にいるヨハネは一体誰なんだ、それを探りに来たわけですね。
サンヘドリンが知りたかったわけです。
この騒ぎの注目度は、さっき言った大野里や大谷商兵、足元に及ばないほどでした。
これだけ全国に広がっていただけではなくて、実はそれはですね、キリスト到来の知らせと関わっているのではないか。
つまりイスラエルの王が約束通り、聖書の約束通りやってきて、そしてローマ帝国に反乱を起こす、あるいはローマを転覆させることができるのではないか。
そのようなメッセージを伴っていたので、大きな注目がヨハネの言動に集まっていたわけです。
そしてヨハネは、問いかけに対して3つ否定しました。
まずキリストではない、その私を約束されたメシアではないと明言して否定した。
さらに彼は2つのアイデンティティについて否定しています。
まあ今聖書の箇所を触れませんけども、皆さんも読んだ通り、
偉大な預言者エリアの再来、正確にはエリアのような預言者の再来では私はありませんと言っています。
エリアのような預言者の再来については、旧約聖書マラキ書の4章5節、旧約聖書の一番最後のところに希望を告げるかのように書かれているんですね。
私は主の大いなる恐るべき日が来る前に預言者エリアをあなた方に使わす。
世の完成、否定的に聞こえるかもしれませんが、世の終わりの時にエリアのような預言者、偉大なアハブ王に対決した偉大な預言者エリア、そのようなものを使わすという予告があったんですね。
エレストラリウムからの支援者たちは、あなたはキリストじゃないならばこの約束のエリアなんですかと言いました。彼は違いますと答えたんですね。
次に、あの預言者ですかという問いかけ、そのあの預言者、その預言者、特定の預言者については、新明紀18章15節に書いてあります。
読める方は読んでみましょうか。あなたの神主はあなたの内から、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなた方はその人に従わなければならない。
この一人の預言者というのがまさにあの預言者ですかと言っています。
皆さん、私のようなと言っているこの私は誰かわかります?この私のようなと言っている私は誰ですか。この私と言っている本人は、モーセですね。
あのエジプトの奴隷から神に乗ってイスラエルを解放したの偉大な指導者モーセが私のような預言者がやがて来る。それが希望だと言っている。その預言者、それがあなたですかとヨハネに問うてるわけです。
ヨハネがその預言者だったら、まさにモーセのような解放が起こるという期待が大きくなるわけですね。あるいはそういう期待から多くの人が集まったかもしれません。
キリストを含めたこれら3つの人物は繰り返しますが、旧約聖書の中で神の民イスラエルが回復し、御国が完成する時に登場すると約束されていました。
ヨハネとメシアの期待
キリストは完成者として、ダビデ以来のまことの王としてやってくるメシアですね。そしてその前触れとして、あの預言者やエリアがやってくる。そういう約束だったんです。
ですから彼らの到来、この3つの人物の到来は神の民イスラエルにとって、特にローマの圧勢の中にあった神の民にとって希望の証でありました。と同時にローマ帝国にとっては、イスラエルの王が起こる反乱の兆しにもなったわけですね。
その上で祭司たちは、自らを使わせたエルサレムの指導者たちに報告しなければいけません。実はイスラエルにいたサンヘドリンの指導者たちには相反する感情があったんですね。
まずこれが偽物のエリアや偽キリストの到来であれば、余計な反乱をローマに加え立てたとして、ローマから厳しく問い詰められる。そしてイスラエルの指導者たちは自分たちの地位を失う、特権を失うという危機があったので警戒していました。
反対に、もし本当にそれが旧約のメシアであれば、私たちが理想とする国を再興してローマを打ち倒す真実のメシアが来るんだという希望もあったんです。そのような相反する思いもありましたから、真剣に死者たちにヨハネは誰か突き止めて来いという、そういう使命を託したんです。
しかし、ヨハネがこれら3つの人物ではないと否定したので、彼らはさらに問い詰めるんですね。
あなたは誰ですか?私たちを使わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか?とさらに問いが続きます。その答えを見ていきますが、
2番目、私は声、しもべにも及ばないと答えました。
ちょっと繰り返し多いんですけども、読んでみましょうか。私が読みましょう。
1章23節でヨハネは言った。私は預言者イザヤが言った。主の道をまっすぐに背負うと、荒ので叫ぶ者の声です。
彼の答えは、実は謎めいています。皆さんもこの言葉を何度も聞いたかと思いますが、どういう意味なのかなと、今一つ掴みかねていると思いますが、
彼は、これから見る彼の答えというのは、さっき1番目に見た3つの否定的な答えと、その本質は同じなんです。
どういう本質かというと、彼は自分はキリストの証言者に過ぎないという立場と一致しているんです。
声としてのアイデンティティ
もっと言うと、キリストと自分を比較して、自らを減り下らせる態度なんですね。
その中で、自らを減り下らせて、私は神といえば、その人物たちではなくて、声に過ぎないんだ。荒ので叫ぶ者の声に過ぎないのだという、そういう謙遜さがここに現れているんです。
このイザヤが言うところの声というのは、イザヤ書の40章3節で書かれている言葉です。
ちょっとこれを読んでみましょうか。
荒ので叫ぶ者の声がする。主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために王子を真っ直ぐにせよ。
これはちょっと詳しい文章になるんですけど、イザヤ書は66章までありまして、40章から後半になるんです。
40章から後半は、当時バビロンやアシリアに保守の中にあったイスラエルが、回復するよという、回復と希望のメッセージが始まるんです。
よく知っている方は40章の初めに、慰めよ慰めよという、慰めのメッセージが始まります。
そしてその中でこの荒ので叫ぶ者の声がする。主の道を用意して真っ直ぐにせよ。
これは第一義的には、保守の地からイスラエルに帰っていく民のために、荒れ地に文字通り道を真っ直ぐにして帰る準備をしなさいという意味なんです。
そしてこれが翻って、ヨハネが言う文脈では、人々が救い主に向かっていくためにその道を準備せよということでもあるし、
人々の行いを正して真っ直ぐの救い主が来るために人々を清めさせようという、そういうメッセージでもあるんですね。
そしてバブテスマを授けたということになるわけです。
このように、彼は自分を声に過ぎないと謙遜にしているところに身を置いて、
同時に彼は自分のアイデンティティの拠所を聖書の言葉にしたとも言えるわけですね。
さらに続けて声に過ぎないと言ったんですけれども、もっと彼は自らをへり下らせてこう言っているんですね。
前後しますが、私の後に来る方がいますよと言った後に、彼はこう言っているんですね。
1章27節、私の後から来る方、答えてしまうとキリストです。
その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履物の紐を解く値打ちもありませんと言っています。
これを読めば、へり下っているなということがなんとなくわかりますけど、
当時の文化的な背景を知ると、もっとその意味の深みがわかります。
実は当時のイスラエル・律法とかユダヤ教の教師たちは弟子をとっていました。
そして弟子は授業料とか家庭教師のような人たちにお給料を払わなかったんです。
その代わり何をしたかというと、その先生に使えたんですね。
どう使えたかというと、奴隷のように使えなさい。
奴隷ってあんまり否定的な意味ではないんですけど、身の回りの世話をする下辺の役割に徹しなさいと言って、文字通り身の回りの世話をしたんです。
その中で、いくつか奴隷の仕事でも、この癒やしい仕事はしてはいけないと禁止されていたんですけど、
そのうちの一つが、主人の靴の紐、履物の紐を解くということです。
奴隷のように使いなさいでも、主人の履物の紐を解くような癒やしいことだけはしなくてよいですよと言われていたんです。
だから、ヨハネはそれさえも、最も奴隷が癒やしいとされる、サンダルの紐を解くことさえも、私はキリストに対してする資格がないほど低いものなんですよと言って、キリストを高めている。
自分は明かし人に過ぎないんだ、ということに徹しています。
彼が徹していた言葉は、先週でしょうか、見た?この言葉にも修練されているんですよね。
私の後に来られる方は、私に勝る方です。私より先に来られたからですと言ったのは、この方のことです。
まさに、後から登場するキリストは、私に勝る方、後から登場するお方ですけれども、ロゴスなる言葉として、私より先に、いや、世界全宇宙が始まる前から神として存在した方なんですと言った。
その、キリストを立て、自分は明かし者に徹底するという謙遜を彼は、秋物の紐を解く値打ちもないという言葉によって強調したわけなんですね。
何がここからわかるか、少し考えてみてください。
バブテスマの意味
先ほど申し上げましたが、今風の表現で恐縮なんですけれども、大野里や大谷昌平以上のセンセーショナルな存在、イスラエルの希望となり、またローマを転覆させるかもしれないという、そのきっかけになりうる、彼の影響力というのが絶大なものだったわけですね。
そして、もし彼はそれを自分の評判や地位を向上するために利用すれば、できたと思うんです。
しかし、そのようなことをしないで、私は声に過ぎないし、しもべがする最も癒やしい奉仕をこの方にする資格さえないんですと言って、自らをへり下らせた、そのようなことがここからわかってくるわけです。
最後ですね。
では、ヨハネが言っている3番目。
あなた方の知らない方とは一体何か。
ヨハネは彼らに答えた。
失礼しました。
その前に、この答えを言う前に、サイヒ達はヨハネに言ったんですね。
実は、あの預言者でもなくてキリストでもないのに、なんであなたはバブテスマを授けているんですか。
実はここにも背景があって、当時ちょっと不思議に思うかもしれませんが、普通にバブテスマを行っていたんです。
どうやってやってたかというと、違法人がユダヤ教に戒心する場合に、いわゆる洗礼を授けていたんです。
それが勝手にきますよね。
神を恐れる違法人というのが、使徒の働きにも出てきますけれども、違法人がユダヤ教に戒心するときにバブテスマを授けられていました。
そして、自分で水の中に入ってバブテスマを授けたということが多かったそうです。
ここから2つのことが分かるんです。
ここでヨハネは、神の民ユダヤ人にバブテスマを授けているんです。
それは、違法人とユダヤ人を同じレベルに、ユダヤ人を引き下げるほどのことであって、
違法人が受けるべきバブテスマを何でユダヤ人に、あなたは神のために授けているんですか?
キーストでもないのに、あの預言者でもないのに、という眼中がここにあるんです。
そういう驚きの中で、何でじゃあお前は一体そんな立場がないのに、これだけのことができるんだという問いなんですね。
それに対してヨハネはこう答えています。
なぜか、いろんな理由があるかと思いますが、これ以上自分に注目が集まることを避けていたのかもしれません。
その上で、本当に彼が明かしすべき方を、この言葉によって指し示していたんですね。
ヨハネは彼らに答えた。
お前は誰だということについて答えないで、こう答えたんです。
私は水でバブテスマを授けていますが、あなた方の中に、あなた方の知らない方が立っておられます。
ここまでしか書いていないんですね。
ここにはどういう眼中があるかといったら、先ほど申し上げましたように、
私の後から来る方は、私より先におられたということなんですけれども、
ここではさらに展開して、
私は非常にセンセーショナルなことをやっているかもしれませんが、
ヨハネのアイデンティティ
所詮、水でバブテスマを授けているに過ぎないんですよ、と言っているんです。
その先は言わずに、私より後に来る方はあなた方の中にいて、
文字通り、あなた方は誰かを見たこともないし、聞いたこともないでしょう。
でも、その方はあなた方の中に今いますよ。
そして、その方がやがて来るということを眼中、
含みを残して、この言葉をみんなに告げているんです。
どれほどの方なんだろうか。
それが来週以降、いわゆる広報期待というところにつながっていくんですけれども。
今日はそこから離れて、
ヨハネを見たこともない、誰も知らない方、
皆さん知っているとおり、答えはイエス様ですね。
今日の箇所で、一つだけ皆さん不思議に思ったことはないですか?
ヨハネのことをよく知っていれば、一つだけ不思議なことがあるんです。
それは、ヨハネは自分のことをエリアではないと言っているんです。
でも、新約聖書をよく見ると、実は彼は約束のエリアなんです。
それをイエス様が、彼こそ約束のエリアですということを福音書の中で言っています。
ここから何が分かるか前後しますが、
イエス様は、女性の中から生まれた人の中で、
ヨハネより偉大な人はいませんとまで言っているんです。
そして彼こそ約束のエリアですと言っているんです。
これは何かというと、ちょっと難しいかもしれませんが、
ヨハネは自分はエリアでない、認識がなかったのかもしれません。
でも一番大事なことは、ヨハネはイエス様が認め知るところの自分でありたいと思ったわけです。
イエス様が認め知るところのアイデンティティを自分のアイデンティとしたわけなんですね。
つまり彼は自分で自分の評価を上げたり、価値を人々に証明したり、
自分が誰であるかということを表現しませんでした。
でもイエス様によって彼は本当の意味付けをしてもらったということなんです。
イエス様によって彼の本当の意味、アイデンティティが確立された。
そして彼のアイデンティティの拠り所は聖書の言葉とイエス様ご自身の評価だったということなんですね。
そういう意味で私たちが何がここから学べるかといえば、
私たちも自分のことをどう評価するか、高く見るか低く見るかわかりません。
でも私たちはヨハネと同じようにイエス様を受け入れ、
イエス様に知られ認められている存在だということなんです。
誰が何と言おうとその私たちのアイデンティティの拠り所は変わらない。
イエス様ご自身と聖書の言葉が私たちのアイデンティティの拠り所となり、希望となる。
そんなことを今日のところから聞き取れたら幸いだと思うわけです。
神に知られること
それと関連する御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
パウロが第1コリント8章3節から4節でこう言っていますね。
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知るべきほどのことをまだ知らないのです。
じゃあここから読んでみましょうか。しかしから3。
しかし誰かが神を愛するなら、その人は神に知られています。
神に知られているそのことを私たちの拠り所として歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
バブテスマのヨハネのありようから御言葉を学んできました。
どうぞ私たち自らを見るとき、また自らではなく世間や人々の評判を考えてしまうときに揺るがされてしまうことがあるかもしれません。
どうかその世の中で私たちがイエス様を愛し、またイエス様に知られ、愛されているそのことを拠り所として歩んでいくことができるように導いてください。
そのことの幸いをどうか新たに、新鮮に、また深く知ることができるように、どうか私たちの心にあなたが問いかけてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく、僕としイエス様に答える時間を持ちましょう。