2024-07-28 23:49

#222 裸で逃げた青年 24/7/28

マルコの福音書-52からの礼拝説教。2024年7月28日録音。今日取り上げる箇所に登場する「裸で逃げた青年=ある青年」は、イエス様の逮捕劇を描いた4福音書の中でマルコにだけ登場します。逃げ出した彼は本来は勇敢な人でしたが、ここでは弱さが露わにされてしまったのです。このように聖書の箇所を深堀して新たな発見をすることは、聖書を学ぶ醍醐味です。そのような中から、1. ユダと武装集団—頑なさと後ろ暗さ(),2.ある青年の謎—イエス様逮捕と弟子の離散の目撃者(),3.ある青年の意味—たとえ勇敢で賢くとも(),の3つの点を取り上げます。レジメはこちらです:「裸で逃げた青年」 マルコ14:43-52 2024/7/28 – 新座志木パプテスト教会 (niiza-shiki.org)

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それではお読みします。マルコ43章、失礼しました、14章43節から52節。
そしてすぐイエスがまだ話しておられるうちに、12人の一人のユダが現れた。 最司長たち、立法学者たち、長老たちから差し向けられ、
剣は棒を手にした群衆も一緒であった。 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、私が口づけをするのがその人だ、
その人を捕まえてしっかりと引いていくのだ、と言っておいた。 ユダはやってくるとすぐ、イエスに近づき、先生と言って口づけした。
人々はイエスに手をかけて捕らえた。 その時、そばに立っていた一人が剣を抜いて、大祭司の下辺に斬りかかり、その耳を斬り落とした。
イエスは彼らに向かって言われた。 まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って私を捕らえに来たのですか。
私は毎日宮であなた方と一緒にいて教えていたのに、あなた方は私を捕らえませんでした。 しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。
皆はイエスを見捨てて逃げてしまった。 ある青年が体に天布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。
すると彼は天布を脱ぎ捨てて裸で逃げた。 以上です。今日はこのところから裸で逃げた青年と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。 今日も暑い日が続きましたが、共に礼拝が持てることを
ありがたく感謝しております。 先週パリオリンピックが始まりまして、少しずつ
アスリートの状況などがニュースなどでもなされています。しばらく2週間ほどでしょうか。そんな日が続くようですけれども。
さて、今日は4福音書の中でマルコの福音書にだけ登場する裸で逃げた青年のことを後で取り上げます。
その実例を含めて、聖書の中にはいつも申し上げていますように、その箇所を丁寧に読むことによって見えてくることがあります。
その聖書の奥深さに触れることは、私もそうですが、大変興味深いことです。
その上で、イエス様の福音にも私たちの目が新たに開かれるということがあります。
そのことを願いながら、さらに
そういう深みを私たちが福音において得ていくということを願いながら、今日はこのイエス様に敵対したり、イエス様を見捨てた人々に注目して、3つの点から見ていきたいと思います。
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まず最初は、ユダと武装集団、その固くなさと後ろ暗さということですね。
ここにも絵がありますが、イエス様逮捕のシーンです。
今日のところの冒頭でこう書いてあります。
そしてすぐ、すぐというのは先週見ました。ゲツセマネのそのでイエス様が祈り、そしてもう十分だ、時が来たと言って、おそらく立ち上がってみなさい私を捉える者が近づいてきたと言った後ですね、すぐに
こういうことが起こったと。イエスがまだ話しておられるうちに12人の一人のユダが現れた。
蔡司長たち、立法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
このユダの裏切りの冷酷さ、皆さんなんとなく気がついているかもしれませんが、
それはこの箇所の言葉、彼の言葉と彼の態度によく表れています。
この親密な関係を表す口づけと言いますかね、頬づりかもしれません。それをまず
裏切りのサインとした。
そしてこの先生という呼びかけ、これは元の言葉ではラビーと言うんですが、
このユダヤ教の弟子たちが教師らを尊敬して呼ぶ言葉です。
この信頼と尊敬の言葉をですね、いわゆる裏切り、イエス様を引き渡すサインとしたところに、この冷酷さや闇がわかるわけです。
なぜそういうことをしたか。それは薄暗い明け方のことでしたから、そして
イエス様の顔をはっきり、当時今のようにマスコミなどないですから、イエス様の人数を見分けることが非常に難しかった。
ですからこのユダが近づいていって、このようなことをして、この男がイエスだということを捉える人々に指し示すという目的があったわけです。
このようなユダの言葉や態度、ここに裏切り行為の重大さが見て取れるわけです。
続いてこのやってきた武装集団、どんな人たちかと言いますと、
最秘長たち、立法学者たち、長老たちから差し向けられたと言います。 今まで話してきたように、ユダヤの最高権威の議会、裁判所、いわゆるサンヘドリンから使わされた
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武装集団というか、グループです。
一説には神殿警察も兼ねていた、あるいは神殿警察であったとも言われているわけです。
この剣と棒を持ってきた、この剣わかりますが、棒は何か、今も世界中のデモ隊を警察が制圧している時に出てきます。
棍棒を使って群衆を叩いて、そして沈めるという、そのための棒です。
そういう剣や棒で武装した集団が、神殿警察がイエス様一人を捕らえにやってきている。
イエス様は彼らに向かって、まるで強盗にでも向かうかのようになってくるのかと言いました。
これは神の子であるイエス様を強盗のような犯罪者と見立てた彼らの、特にサンヘドリンの議員たちのこの堅くなさを指摘しているわけです。
さらに白昼堂々と神殿で捕らえることができたはずにもかかわらず、夜、秘密裏にやってきた。
イエス様は49節でこう言っていますね。
私は毎日宮であなた方と一緒にいて教えていたのに、あなた方は私を捕らえませんでした。
過越の祭りの間おそらく2週間近くだったと言われています。
毎日宮で教えていた。そしてその時にイエス様を捕らえるチャンスが何度でもあった。
それなのに捕らえなかった。
なぜそうしなかったか。夜遅くにそれをした理由、群衆の面を恐れたからだったんです。
イエス様のことを支持している人たちがたくさんいたから。
後でわかりますが、またイエス様を捕らえる明確な根拠がなかったとも言えるわけです。
このように陰謀は秘密裏に夜行われるというのは、いつの時代どの場所でも共通していることのようにも伺われます。
これらの出来事の背後にもイエス様は神様の御心を読み取って受け入れた。
そこにイエス様の見事さ、先週見たゲステマネの祈りの姿がわかるわけです。
49節の最後にこうありますね。
しかしこうなったのは聖書が成就するためです。
さあそこからもう少し見ていきましょう。
この青年のことをあと2回取り上げていきます。
2番目、ある青年の謎。イエス様逮捕と弟子のりさんの目撃者ということですね。
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ちょっと長いんですけども、私のほうから読んでいきましょう。
14章の51-52、ある青年が体に天布の一枚まとっただけでイエスについていったところ、人々が彼を捕らえようとした。
するとから読んでみましょうか。
すると彼は天布を脱ぎ捨てて裸で逃げた。
この51-52節の今読んだ言葉、そしてこの裸で逃げた青年は、歴代の聖書の研究者の中で最も有名な人物の一人であり、最も有名な歌手の一つなんです。
話題に富んだ言葉です。なぜなら4つの副印象の中でマルコにだけ書かれている出来事なんです。
この裸で逃げた青年が誰なのか、どんな意味があるのかということで様々な説が解かれてきたわけですね。
結論から言うと、誰だかわからないというのが一番妥当だと言われています。
ただ、使徒の後の時代、教会教父、教会ファーザーと言いますけれども、使徒の後の時代の教会の指導者たちの伝統では、この青年はマルコの副印象の著者のマルコでなかったかと言われていて、そういうこともですね、わりと知られています。
なぜそのように言われたか。その一つがですね、
雨布をまとっていたってありますね。これは裕福な家庭の人が着る服だったそうです。普通は
帽面とかですね、毛をまとっていた。朝なんですね、今夏だから朝の服とか着ますけどね、なかなか私たちも着ませんけども、そういう裕福な人の服だ。
まあ、そういうこと、使徒の十二章の十二節に、そのマルコはエルサレムに住んでいた裕福な家庭の人物だと言われているということも関係しているようです。
そして、よく見るとですね、体に雨布の一枚まとっただけってどういうことかというと、裸で素肌に一枚この布をまとっただけだったって言うんですね。
どういう状況かというと、彼は寝ていたところですね、イエス様のこの逮捕されるっていう騒動を聞きつけて急いで、
裸で寝ていたんでしょうね、急いでその裸の上にバスローブを羽織るようにでしょうか、この雨布を羽織ってこの様子を見に行ったようです。
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そして実は、このイエス様が過ぎ越しの食事をした、いわゆる最後の晩餐をした家はどこだったかという中に、この裕福な家、マルコの家だったという説もあるんですね。
この逮捕された月世真似から、この最後の晩餐の場所まで大して離れてませんでしたから、この騒動を聞きつけて、この青年は大変だと、イエス様をなんとか助けに行こう、私もイエス様について行くのだという思いで、おそらく雨布をまとって駆けつけたようですね。
この場面、著者であるマルコは、弟子一人誰もイエス様について行くことがなかったと書いているんですね。その目撃承認であるということが、この裸で逃げた青年を登場させることによって後押ししているんじゃないか、自分は目撃したよと匂わせているんじゃないかとも言われています。
ここで、ユダ以外の11人の弟子たちについてですね、14章50節でこう書いてあります。この赤いところから読んでみましょうか。3回、皆はイエス様を見捨てて逃げてしまった。
このですね、皆はという言葉、全員という意味で英語のallです。ギリシャ語ではパンテスという意味なんですね。
ここで何がわかるか、興味深いことは、ギリシャ語というのは言葉の順番を変えられるとよく言いますが、この皆はという言葉が一番最後に書かれているんです。
イエス様を見捨てて逃げてしまった全員が、ジャジャジャーンって感じです。
そこで目撃したこの著者は、イエスに死んでも従おうと言った先週も見ましたけど、あの11人でさえイエス様を見捨てて逃げてしまったのですという時期迫る状況、このパンテス全てが、しかも短い簡潔な言葉で言い表しているということがわかるんですね。
繰り返しますが、イエス様の予告通り、死んでもあなたのことを知らないとは言いませんと強がりを言ったペテロ、そして他の10人たちが皆、この世に逃げてしまった。
ゲッセマネ先週見たところでは、ペテロとヤクボとヨハネもイエス様の側で苦しみに乗っている姿を目の当たりにしながら、祈りなさいと言われながら眠りこけてしまった。
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そしてとうとう、全員がイエス様を見捨てて逃げていってしまったと、この著者は証言しているわけなんですね。
その上で最後の点が注目すべきことです。3番目、ある青年の意味ですね。なぜこの青年が登場したか。
たとえ勇敢で賢くとも、ということです。
実はこの51節の裸の青年の青年という言葉はギリシャ語でネアニスコスということなんですね。
この言葉の大事な意味がありまして、それは強くて勇敢である、誠実で賢いものである、そのような意味合いがネアニスコスという言葉に含まれているんです。
こちらの写真にありますが、兄弟、阿部悲文歌兄弟。
史上初2大会連続兄弟金メダルを取るかということで注目されていますが、このお二人のようにクレバーで勇敢で強い。
そういうニュアンスがネアニスコス青年という言葉にあったわけなんですね。
そしてさらに興味深いことなんですけれども、この51、52節の、すみません、言ったり来たり。
この青年が裸で逃げたという言葉、これは旧約聖書の
アモス書の2章16節の言葉を連想させるって言うんですね。 これ読んでみましょうか。
有志のうちの心の強い者もその日には裸で逃げるようになる。
アモス2の16。 よく言いますが旧約聖書には当時語られてた背景がありまして、これは簡単に言うと当時のエルサレムの
補修にまつわる神の罪の裁きの冷酷さを表した直接はそういう言葉なんです。 しかしそこに
旧約聖書の預言書にあるようにいくつかの失差がある。 著者マルコはこの言葉を重ね合わせながら
裸で逃げた少年のことを書いたのではないかと言われているんです。 有志のうちの心の強い者もその日には
裸で逃げるようになる。 先ほども言いましたがこの裸で逃げた青年は
寝ていた時の騒ぎを聞きつけてイエス様がまさに逮捕されるという危機が迫っていることを知って 慌てて寝床から飛び出してきた。
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勇気を振り絞ってありったけのこの知恵を使って そして
イエス様を助け出そうとした。あるいはついていこうと思ったのかもしれません。 しかしここにありますようにこの群衆、武装集団に捕まりそうになって
この服を捕まれたんでしょうね。
するとどうでしょうか。恐れをなしてこの 捕まれた服を置いて裸で一目散に逃げていった。
それがこの歌唱が言うところであります。 心の強い勇士も裸で逃げたということが
背景に聞こえてくるわけです。 たとえこれがマルコだということで今話した
話しますけれども、マルコということを言った ついでにもう一つ申し上げますと実はマルコにはもう一つ逃げた事件があるんです。
それは使徒の働きの中でパウロが第一次伝道旅行にこのマルコを伴って行ったと
名指して書いてあるんですね。 しかしほどなくマルコは一行から離れてしまったとも使徒の働きに書いてあります。
そして第一次伝道旅行が終わって第二次伝道旅行に パウロが出ていくとき
バルナバという当時のもう一人の教会指導者と組んで行ったときに このマルコを連れて行くかどうかでこの二人が反目しあったという激しく言い争った
というんです。 当時の教会の指導者が反目し合うほどこのマルコの逃亡劇というのは当時問題だったわけですね。
しかしパウロは後に晩年、 殉教前にした牢獄から手紙を書いてこのマルコについてこう言ってるんですね。
第二伝を持って四章十一節 ここも読んでみましょうか。マルコから3、はい
マルコを伴って一緒に来てください。 彼は私の勤めのために役立つからです。役に立つからです。
イエス様に従っていく上でたとえ強く勇敢であって知恵があるものであってもこのイエス様を見捨てに逃げる
そういうつまずきを経験した。 そしてもしそれがマルコであるならばこのパウロの電動旅行においても逃げ出してパウロとバルナマが喧嘩する原因も
なった。しかしそのようなことがあったとしても
このマルコであればマルコは神と人のために用いられてきたということを覚えておきましょう。
マルコの福音書を書いたということであれば。 このように
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勇敢であって知恵があってしかしそういうものが逃亡したということは実は私たちにとって
救いの知らせであり福音でもあるんですね。 先週その前から言ってますが私たちがもし弟子たちと同じ状況にあったらイエス様への献身を
貫くことができるだろうか。 日常の些細なことでこの青年で言えば外側からの強い圧力がかかったときに
私たちは正しいことができるだろうか。 そういうもし自分の弱さということを
気づいたり少しでも思い悩むことがありましたらこの裸で逃げ出す青年、それとその後の成長物語のことを思い出していきましょう。
なぜそんなことが起こったかそれは 他でもないイエス様が神様の御言葉に従って勇敢に受団の道を進んで歩んでくださったからこそ
私たちはあがなおれ、そして復活の恵みに預かり今がある。 そのことを覚えておきましょう。
最後に旧約聖書の力強い言葉を読んで終わりにしたいと思います。
少し長いかもしれませんが頑張って読んでみましょうか。
若者も疲れて力尽き、若い男たちもつまずき倒れる。 しかし主を待ち望む者は新しく力を得、
わしのように翼を広げて登ることができる。 走っても力衰えず、歩いても疲れない。
お祈りしましょう。 天の神様皆を賛美いたします。
イエス様逮捕の出来事から、 また裸で逃げた少年のありさまから、あなたの救いの深さ、
私たちの弱さを超えて余りあるあなたの恵みを学ぶことができてありがとうございます。
暑い日が続き、もちどおり私たちは疲れ果てることがございます。 身体的に弱さを覚えることもあります。
どうぞそのような時に、 また心を折れそうな時に、あなたがうちなる私たちの人をそのご精霊の力によって、
あなたの恵みによって支え、強めを導きください。 そしてあなたの道を歩むことができますよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン
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