2024-07-21 26:49

# 221 ゲツセマネの祈り 24/7/21

マルコの福音書-42からの礼拝説教。2024年7月21日録音。このメッセージをしている時から丁度一週間前の日曜の夜のことです。日本の人気ロックバンド、スピッツの草野マサムネさんが自身の番組で、ジーザス・クライスト・スーパースターの最初のアルバムから「ゲッセマネの園」という曲を流して下さいました。今日の扱う聖書の箇所ではイエス様と3人の弟子たちの姿が対比されています。そこから弱さや恐れを覚える時に必要な祈りについて知ることが出来ます。1.ゲツセマネで眠るペテロたち()、2.ゲツセマネで知る福音()、3.ゲツセマネで祈るイエス()、という3つの点から学びましょう。(7/14よりBGMがなくなりました)

サマリー

イエス様と3人の弟子たちの姿が対比され、ゲツセマネの祈りを通じて大切な教えを学んでいます。 イエス様の必死な姿と祈りの言葉には深い意味があります。

ペテロたちの眠り
それではお読みします。
マルコ14章32節から42節です。
悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて目を覚ましていなさい。
それからイエスは少し進んでいって地面にひれ伏し、できることならこの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
そしてこう言われた。
アバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。どうかこの杯を私から取り去ってください。
しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。
イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペトロに言われた。
シモン、眠っているのですか。一時間でも目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。
イエスは再び離れて行き、前と同じ言葉で祈られた。
そして再び戻ってきてご覧になると弟子たちは眠っていた。
瞼がとても重くなっていたのである。
彼らはイエスに何と言ってよいかわからなかった。
イエスは三度目に戻ってくると彼らに言われた。
まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ行こう。
見なさい。私を裏切る者が近くに来ています。
今日はこのところからゲツセマネの祈りと題して神言を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
梅雨が先週明けまして、まさに梅雨の時も暑かったんですけれども、もうその夏が始まりました。
さて、毎週日曜の夜関東地区では9時から人気バンドスピッツの草野正宗さんがロック大陸満遊記という番組を持っていまして、
先週の日曜日の時に毎週彼がおすすめの曲を特集するんですが、
ミュージカルのジーザスクライスとスーパースターの初年の版の音楽アルバムを紹介したんですね。
そして一番最後に彼がかけた曲はこのゲツセマネの祈り草野という歌でした。
あまり詳しく言いませんが、当時有名なロックバンドのディープパープルというバンドのイヤンギランという歌手が熱唱した歌で、
非常に迫力のある歌、それがこのゲツセマネの草野のイエス様の気持ちを歌った歌だったんです。
そんな偶然も重なったと思うんですけれども、今日はこのゲツセマネのイエス様の祈りのところからともに学びましょう。
イエス様とそして3人の弟子たちの姿が対比されて描かれていて、
私たちに大切なことをこの御言葉から教えていると思われます。
3つの点、最初は聖書の言葉、失礼しました。
最初はですね、まずゲツセマネで眠るペテロたちということですね。
御言葉、ここに絵を最初に出すべきでしたが、このようなゲツセマネの様々なモチーフがありますけれども、
まず最初はゲツセマネで眠るペテロたち、一緒に読んでみましょう。
純陽書38節3、誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。
イエス様はいつものように3人の大事なというか格となる弟子たち、ペテロとヨハネペテロとアンデレとヤコボですね。
ともなっていったんですね。3人はしかし共通の過ちがあったんです。ペテロとヨハネペテロとヤコボでした。失礼しました。
実はこのまず直前、ペテロはイエス様にですね、あなたは私のことを知らないというしつまずくと言われたにもかかわらず、
二度も彼は狂弁して、たとえこの残りの弟子たちがつまづいても私はつまづかないし、命をあなたと一緒に失うことがあっても、私は決してあなたを知らないと言いませんと言ったわけですね。
そしてこの2人の他のですね、使徒、
ここがですね、
ヤコボとヨハネペテロはですね、このしばらく前の10章のところでイエス様に
あなたが王座についたら私たち兄弟を左右の座につけてくださいと図々しくもお願いしたわけです。
その時にイエス様からあなたは私が受けるバルテスマを受け、私が飲む杯を飲めますかと迫られたんですね。
すると彼らは飲めます、その杯を飲めますと言い放ったわけです。
そしてそんな時にですね、彼らはその後やはりペテロと同じようにつまづいていってしまうわけです。
この彼らはですね、そのような強がりを言った後、このイエス様に伴われて逮捕される直前、
このゲッセマネでイエス様の祈る姿を見つめているべきでした、その姿に習うべきでした。
しかしそのイエス様をよそにこの3人は眠りこけていたわけですね。
そしてイエス様は戻ってきて3人を見てペテロにこう言われました。
シモン、眠っているんですか?1時間でも目を覚ましていられなかったのですか?
そんな時の絵がここにもありますけれども。
ここで注目すべきはですね、ペテロに対してイエス様がシモンと呼びかけていることです。
実はペテロという名前はイエス様がシモンを弟子として召した後に付けた、
あだ名と言っていいか分かりませんが、彼がペテロ、岩という意味ですけれども、
岩のように将来教会を作り上げていく礎の一人になる、そういう意味が込められていました。
一方このシモンというのはイエス様と出会う前の、私たちクリスチャン風に言えば古い自分の頃の名前です。
新しい命や救いを知らない頃の名前がこのシモンという名前に込められています。
その眠りこけているシモン、このシモンという名前はですね、誘惑に負けてしまう人の名前なんですね。
そしてイエス様が今日のところの14の38で警告して、霊は燃えていても肉は弱いのです、
ゲッセマネで知る福音
というこの弱い肉を持った性質の人、それがシモンですね。
この弱い人を表すシモンという言葉、そのシモンはですね、
このシモンはですね、まさにイエス様が逮捕された後につまずいて、三度知らないと言ってしまう、その名前がシモン、古い人の名前です。
その肉についてですね、実は肉という言葉は聖書の専門の用語なんですね。
使徒パウロがローマ書の中でこのように言っています。
7章の18節、読める方はここの箇所一緒に前にもありますので読んでみましょうか。
私は自分の内に、すなわち自分の肉の内に善が棲んでいないことを知っています。
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに実行できないからです。
このまさに肉の性質を言い当ててパウロはこう言ってますね。
私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに実行できない。
それがこの肉の性質、シモンと呼ばれている肉なる人間の部分なんですね。
イエス様を信じ救われる前のこの古い性質が肉です。
それはイエス様を信じて新しく生まれ変わった後も私たちの中に存在している弱い部分と言えるでしょう。
またパウロはその肉について見た目と比べてこう言ってます。
第一コリント2章の14節。
生まれながらの人間、肉に属する人って言うんですけど、生まれながらの人間は神の見た目に属することを受け入れません。
それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。
この14章38節のですね、霊は燃えていても肉は弱い。
この燃えているという言葉、実はですね、英語の訳ではウィーリングってなってます。
もともとのギリシャ語ではですね、燃えるというよりはウィーリングという言葉が表すように願うということなんです。
霊は願っていても肉は弱い。だから目を覚まして祈りなさいという人が言ってるんですね。
霊は願っていても肉は弱い。そう言い換えることができますが、
つまり私たちの中で神様に従うことを願う霊、あるいはこの精霊の導きというものがあります。
それに反して先ほどが言っている肉の性質は弱いのです。
だから目を覚まして祈っていなさいとイエス様は教えたのですね。
この目を覚ますという言葉は何度も出てきますが、
今日の部分の鍵の言葉の一つでもありますが、
これは13章の最後の例え話と関係しています。
それはイエス様のサエリンと重ね合わせでですね、
弟子たちを門番に例えて、しもべに例えて教えた話です。
イエス様が帰ってくるまで目を覚ましていなさいという教えをですね、
門番が夜通し目を覚ましていて主人の帰りを待つように、
あなた方もそうしていなさいとイエス様が教えたわけですね。
ですから目を覚ますというのはどういうことかというと、
今がどういう時であるかということを悟るんですね。
そしてそのために何をしなきゃいけないかということを分かって実行する。
それらの行為や様子を目を覚ますという言葉でイエス様は表しています。
その目を覚ます行為とは反対に、
ペトロやヤコブエやヨハネ、この3人の弟子たちは、
これまで何の目を覚ましていなさいとイエス様に聞いていました。
それに関わらず今まさにどんな時かというと、
イエス様が逮捕されようとしている時、そして自分たちがつまづきそうになっている、
この危機が迫っているその時を悟らず、
そしてそれに備えて祈るということができなかった、眠りこけていた。
そういう状態をこの3人の弟子たちの姿は表しているわけです。
しかしですね、それでも救いの道が開かれている、それが2番目ですね。
この月世真似で知る福音、2番目は月世真似で知る福音という点です。
今日の14の41から42、最後の部分でこう書かれています。
イエスは3度目に戻ってくると彼らに言われた。
まだ眠って休んでいるのですか?もう十分です。時が来ました。
ここから読んでみましょうか。
みなさいから3、はい。
みなさい、人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい、さあ行こう。
ゲツセマネで祈るイエス様
みなさい、私を裏切る者が近くに来ています。
マルコの福音書はですね、西暦60年頃に書かれ、教会で広められたと言われています。
当時のローマ社会の中の教会でどんどん広められたんですけど、
その中でクリスチャンたちは信仰の危機に直面していました。
ある人たち、ある教会はまさに迫害の危機の中にあったわけです。
しかし幸いなことに、彼らもそして私たちもこの結末を知っていますね。
弟子たちの離散だけではなくて、イエス様が蘇った後に、
この11人の弟子たちは復活のイエス様と出会います。
そしてやがて聖霊を受けていく、そして帰られていくという結末を知っています。
ですから当時の教会の人たちや私たちも、この結末までのペテロたちの姿を見て、
自分も同じ弱さがあるなと思ったり、私もそうですけれども、
あるいはイエス様が逮捕されたときに、
躓いた弟子たち、危機に瀕した弟子たちの姿を見て、
私もどうしてしまうだろうかと不安になるかもしれません。
しかしイエス様はこの眠っていた弟子たちのところに訪れたわけですね。
そして彼らにこのように言いました。
時が来ました、見なさい。
人の子は罪人たちの手に渡されますとイエス様は言ったわけです。
ここで何がわかるかというと、
イエス様は逮捕されるべく決意に満ちて、
そして行きましょうと弟子たちに告げているわけです。
実はこの言葉には福音が込められているんですね。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
という中には福音が込められている。
それはどういうことか。
実はイエス様は罪人たちの手に渡されることによって、
多くの罪人たちの罪を贖うべく十字架にかけられている。
ちょっと難しい言い回しですけれども、
罪人たちの手に渡されたからこそ、
イエス様は多くの罪人の身代わりとして、
死ぬ罪を贖うことができたわけです。
その多くの罪人の中にはペテロたち3人、
他の弟子たちを含め私たちも含まれているわけです。
そしてこの弱い私たちもイエス様の勇気ある行動によって、
決意によって救われているし、
これからも救われ続けるんですね。
イエス様は最後に言ったわけですね、決意にして。
立ちなさい、さあ行こう、見なさい、
私を裏切る者が近くに来ています。
このイエス様こそ、誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていました。
そしてそれは私たちを励ますだけではなくて、
私たちの歩むべき模範でもあったわけですね。
それを最後に見ていきましょう。
それはゲツセマネで祈るイエス様。
3番目はゲツセマネで祈るイエス様です。
前後しますが、14の35から36でこう書かれています。
それからイエスは少し進んでいって地面にひれ伏し。
できることならこの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
そしてこう言われた。
ゲツセマネの祈り
これから読んでみましょうか。
私たちはこのゲツセマネの園のイエス様の出来事を知っています。
さらっと読んでしまいますが、
この祈る様子を描写しているこの言葉を丁寧に見ると、
イエス様の必死の姿が浮かんでくるんですね。
まず画面を変えて見ていきます。
地面にひれ伏してあります。
当時はアブラハムもそうでしたが、
手を挙げて祈るというのが常だったんです。
しかしここでイエス様は地面にひれ伏して祈っています。
次にイエス様はこう言っています。
これは何かイエス様が正直な気持ちをとろしていることがわかるわけです。
イエス様は神の子であり、父なる神様の道に忠実でした。
だから正しいことを成すべきことを知っていたわけですね。
何度も弟子たちに少なくとも3回も予告していますね。
罪人の手に渡されて苦しめられて十字架に死ぬ。
そのことがわかっているし、そう歩むべきだとわかっていたにも関わらず、
できることならこの時が自分から過ぎ去るようにと祈っています。
それと同じ繰り返しで、この杯を私から取り去ってくださいと言っているんです。
そういう目に遭いたくないということを正直に祈っているわけですね。
この杯という言葉も鍵で、
しばらく前にこの説教で見ましたけれども、
杯は私の地による新しい契約と言っていましたが、
この杯には聖書にはいくつかの意味がありますが、
苦しみを意味する杯です。
先ほどちょっと言いましたが、ヨハネとヤコブに、
あなた方は私が飲むこの杯を飲めますか?
この苦しみを共にできますか?ということを言っていました。
そしてもう一つ、杯は旧約聖書が主ですけれども、
神の怒りの杯という意味があります。
神の杯を飲み干すということは、
神の怒りや裁きを受けるという意味があるんですね。
イエス様は多くの人の罪を償うために、
その罰として神の怒りの杯を飲み干さなければならないと分かっていたわけですね。
ある牧師の先輩が20年くらい前ですかね、
正しいかどうかわからないのに言っちゃいけないかもしれませんが、
この杯はどんな杯かというと、
その杯に人間のいろんな醜いものが写っている。
その罪の杯をイエス様が飲み干さなければならないということを目にして、
懊悩していたんだということを言って、
なるほどと思いました。
その杯をイエス様ができれば取り去りたい、取り去ってくださいと、
父なる神様に正直に祈っています。
そしてもう一つ、祈りの言葉、
アバ父よとイエス様は言っています。
このアバというのは子供が言うパパとかお父ちゃんという言葉です。
当時のイスラエルではこのように祈ってはいけないと言われていました。
なぜなら聖なる神様に対してそのような言葉遣いは失礼だと考えたわけです。
しかしイエス様はまさに神の御子として、
アバ父パパお父さんと言って、
親しい幼子のように祈っていたわけですね。
それだけイエス様は父なる神様と親しい間柄だということがわかります。
しかし同時にイエス様は深く悩み悶え始め言われた。
私は悲しみのあまり死ぬほどですと人たちに告げた。
なぜこの悲しみのあまり死ぬほどですというのは、
死ぬほど悲しいです、死を選びたいほど悲しいですという意味があるようなんですけれども、
なぜこのような死に変わるような悲しみを覚え、そして深く悶え始めた。
皆さん深く悶えて祈ったことあるでしょうか。
なぜそのような苦しみを経験されたか。
今まで言った通りなんですけれども、
イエス様の苦悩
もう一つイエス様が十字架の上でこう言われましたね。
我が神、我が神、どうしてあなたは私をお見捨てになるんですか。
我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるんですか。
十字架の上でこのアバ父と呼べるほど親しい神様から自分が見捨てられる。
その罪人の罪を贖うために神に見捨てられる苦しみということを知っていた。
だから死ぬあまりの悲しみを覚えて深く悩み、悶えた。
それがこのイエス様の苦しみ、ゲツセマネの苦しみだったわけですね。
こう苦しみ抜いて正直に心の底からイエス様は祈られたわけですね。
そしてその後、自分の気持ちを正直に神様に、父親の神様に届けたイエス様。
ついにこう言われることができた。
こうおっしゃったんですね。しっかり読んでみましょうか。
しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。
これこそ私たち弟子の生きるべき姿とも言えるわけです。
しかし私も改めて今日思い立ったのですが、
イエス様がこれだけ苦しまれて正直に心の内を親しい神様に打ち明けた。
そしてその中でこのような神の御心に自分を任せるという祈りが生まれてきた。
そんなことを改めて知ったわけです。
冒頭話しましたゲッセマネの園という歌ですが、
インターネットで見ればその歌だけ見ることができます。
本当に心の叫びのような歌です。
描写が正しいかどうかは別として、
まさにイエス様の激しい祈り、気持ちがその歌に込められているのがわかります。
何よともあるイエス様がこのように正直に心の底から危機を前にして、
まさに目を覚まして御霊によって祈られた。
これこそ私たちの習うべき姿です。
まさに肉の弱さを抱える私たちこそ、
イエス様の祈りの意味
このようなイエス様の姿を思い浮かべながら、
目を覚まして祈ってお互いでありたいと思います。
このイエス様の姿を後の聖書著者がこのように描写しています。
ヘプル人の手紙具の5章の7節から10節ですね。
前半の部分だけ読んでみましょうか。キリストはから3回。
キリストは肉体を持って生きている間、
自分を死から救い出すことができる方に向かって、
大きな叫び声と涙を持って祈りと願いを捧げ、
その経験のゆえに生きられました。
ここから私が読みますね。
キリストは御子であられるのに、
お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全なものとされ、御自分に従う全ての人にとって、
永遠の救いの源となりました。
このイエス様の結成までの姿に私たちの救いがあり、
また歩むべき姿があることを覚えて祈って参りましょう。
天の神様、また救い主なるイエス様、
皆を賛美いたします弱い弟子たちの姿と、
まさに苦しみながらも勇敢に立ち上がったイエス様の姿を
今日見ることができました。
私たちも様々な状況で悩み苦しみ、
またあなたの道を踏み外しそうな時もあるかもしれません。
どうかそのような時に、イエス様のように
父なる神様に、また救い主イエス様に
心から祈ることができるように導いてください。
そしてどうぞ、御精霊によるあなたの新たな命と
新しい力を得ることができるようにどうか導いてください。
何よりもこのように私たちのために
救いを成し遂げてくださったこの勇敢なイエス様、
あなたに感謝いたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、イエス様は御言葉にお応えして
お祈りする時間を持ちましょう。
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