2024-07-14 25:13

#220 強がりのつまづき 24/7/14

マルコ-31 からの礼拝説教。2024年7月14日録音。今日取り上げる箇所で予告されているペテロの「つまづき」とは、後に彼がイエス様のことを「知らない」と否認することを指しています。しかし彼は「たとえ死ぬような目にあっても過ちは犯さない」と言い張りました。強がりはつまづきの元です。そのつまづきを慎み、甦られたイエス様と神様の言葉を信じて生きるということを、1.聖書のことばを拠り所としたイエス様、2.私たちのガリラヤへ導くイエス様、3.弱さを知らず強がるペテロ、の3つの点から考えていきましょう。(今週からBGMがなくなりました)

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お読みします。マルコの福音書14章27節から31節です。
イエスは弟子たちに言われた、あなた方は皆、つまづきます。
私は羊飼いを討つ。すると、羊は散らされる。と書いてあるからです。
しかし、私は蘇った後、あなた方より先にガリラ屋へ行きます。
すると、ペテロがイエスに言った。 たとえ皆がつまづいても、私はつまづきません。
イエスは彼に言われた。まことにあなたに言います。 まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言います。
ペテロは力を込めて言い張った。 たとえご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。
皆も同じように言った。 以上です。今日はこのところから、強がりのつまづきと題して御言葉を取り付けます。
みなさんおはようございます。
猛暑の梅雨でしたけれども、先週木曜日ぐらいからですか、 新潟市あたりも涼しくなって、金曜はですね
雨降りで相当涼しくなって、30度まで最高気温がいかなかったりして、 そして今日もまたですね、雨降りですけど過ごしやすい日になったのではないかと思います。
そんな中共に礼拝守れることを感謝しています。 さてずっとですね、いわゆるイエス様の最後の晩餐、過越の食事のところから、
受難へと話は続いていきます。 そして今日はですね、その過越の食事を終えて、イエス様と弟子たちは当時の習慣通りですね
詩編の歌を歌いながら、いわゆる皆さんが知っている ゲツセマネの園へ向かっていく、その途中おそらく
夜と言いますかね、あちらの1日は夕方から始まりますから、その夜に、夜中に向かっていく時間帯に歩きながらイエス様が今日の言葉を語ったのではないかと言われています。
簡単に言うと有名なところで、弟子たちがつまづく、ペテロがつまづくということを予告した言葉です。
そこからですね、3つの点から考えていきます。 強がりのつまづきということで、まず最初、第1のポイントは
イエス様は聖書の言葉をもとに語られたということです。
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絵がこうありますね。
マルコの14の27でイエス様の言葉がこう記されています。 イエスは弟子たちに言われた、あなた方は皆つまづきます。
私は羊飼いを討つ、すると羊は散らされると書いてあるからです。
このようにイエス様はご自分の逮捕と、ユダ以外と言っていいかもしれませんが、弟子たちの離散や裏切りの予告をしたのです。
それを旧約聖書の言葉に基づいて弟子たちに伝えました。
この言葉は旧約聖書、ゼカリア書の17章の7節から9節の引用です。
7節だけ見てみますが、ここですね、ゼカリア13の7
剣よ目覚めよ、私の羊飼いに向かい、私の仲間に向かえ。 万軍の主の言葉
羊飼いを討て、すると羊の群れは散らされてゆき、 私はこの手を小さい者たちに向ける。
ゼカリア13の7
これは旧約聖書のいわゆるメシア予言です。 救い主が来た時に何が起こるかということを、当時のちょっと先にイスラエルで起こることを重ね合わせて
予言書に記された言葉です。
打たれる羊飼い、これはご存知のようにイエス様を指しています。
そして散らされる羊、それはこの後、受難のイエス様を見捨てて離散していく弟子たちを指しています。
イエス様は、いわゆる不幸とも思われる出来事をこのように予告していましたが、それをですね
神様の御心のゆえに起こることだということで受け入れていました。 受け入れ、またその道を行く覚悟をイエス様はしていたんです。
そしてその、まあ、拠り所と言いますかですね、 その一つ拠り所として
聖書の言葉、旧約聖書の言葉があったわけです。
神様の御子であるイエス様でさえ、この聖書の言葉を
これから向かっていく試練や困難に向かっていく、それを受け入れていく 拠り所としていたのですから
ましてやですね、私たち弱い人間であれば この聖書の言葉を拠り所として、これから起こるであろう困難
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人生の試練、生活の難しさに立ち向かっていく。 それを神様の中にあって起こっていることだと受け入れていく必要がある。
ちょっとまた簡単に言い直しますと、私たちこそ 試練に
向かっていく、試練を受け入れていくのに、聖書の拠り所が必要だということをここで覚えておきたいわけですね。
皆さんご存知のように 富士山登山するときにですね、今問題なのは弾丸登山というものが問題となっています。
皆さん富士山登ったことあります? 私3回登りました。
今から2、30年前ちょっと間を空いて、そのうち3回のうち2回は登頂に成功しました。
でも真ん中の2回目は失敗したんですね。 まさに弾丸登山とまで行きませんでしたけれども、軽走で行ってしまった。
夜8時頃ですね、アメリカ人友達2人と登り始めて、
そして御来光を見ようとして登ってたんですけど、 7月の山開きのすぐ後で寒くてしょうがなかったんですね。
風がビュービュー吹く。 そしてまあいわゆる鉱山病になりまして、私はなかったんですけれども、持っている人から酸素をですね、
もらって吸って、頭痛の中に酸素を吸って休暇をしのいだ。 そして下山の時困ったのが砂利がいっぱいあるんです。
浅い靴を履いていると砂利が靴の中に入って痛くてしょうがないんですね。 それでもちろん登頂まで山頂まで行けませんでしたし、
降りてくるときも本当にもう疲労困憊の状態でですね、何とか足元を悪くしながら降りてきた。
そんなことで実はそこから約半月後ぐらいにもう一回登ったんです。 その時は
暖かい格好をして、しかも靴をちゃんと買ってですね、 登山用のハイカットの靴を買って、そしていろんな装備をして登っていきました。
このようにですね、きちんと装備を備えて登山をするならば、何かあった時に対応できるわけですね。
同じように私たちの生活や人生も思わぬアクシデントに直面することがあります。
その時にこの聖書の言葉を蓄えておくと、それが私たちの備えになるわけです。
あるいは私たちも毎日できれば少しでもいいから聖書を読み進めていく。
そうする中でよく起こることは、自分の今の状況にぴったり当てはまる聖書の言葉、神の言葉に出会うということがあるんです。
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このように私たちが普段から聖書の言葉を心に蓄えていたり、あるいは日々少しずつでも読み進めていくと、
試練に直面した時の心の備えになったりですね、その時にかなった聖書の言葉が与えられて、神の助けとかですね、
試練に立ち向かっていくこの勇気というものを与えられることがあるわけです。
そのことをまず最初のこととして覚えておきましょう。
2番目、今度はイエス様の
次の言葉、2番目。私たちのガリナヤへ導くイエス様。イエス様がこの
裏切りの予告をした後に続けてこのように言われました。マルコ14の28節。
読める方は前のこのしかしから読んでみましょうか。しかし私は蘇った後、あなた方より先にガリナヤへ行きます。
イエス様は弟子たちの離散や裏切りの言葉だけを伝えて終えることはしなかったんですね。
続けて弟子たちに福音とも言えるこのような救いの言葉も宣言されたということに注目してください。
実は先ほど挙げた旧約聖書のゼカリア書の続きにもこのつまづきの後の回復の言葉が記されているんですね。
ゼカリア書13章8節から9節。 全地はこうなる種の言葉その3分の2は絶たれ死に絶え
3分の1がそこに残る。私はその3分の1を火の中に入れ
銀を練るように彼らを練り、金を試すように彼らを試す。 彼らは私の名を呼び、私は彼らに答える。
ここで見ましょうか。はい、私はこれは私の民と言い、彼らは主は私の神と言う。
ここで書いてあることを要約しますと、これは当時のイエス様が登場する数百年前のイスラエルの状況を予告して語られています。
当時の神の民が神様に背いて裁きが下る。 そして罪の家の裁きが訪れてもその中の3分の1の者が救われる。
そしてその残った人たちと神様ご自身との間に 神様が残された人たちをこれは私の民と呼び、また残された人たちは主は私の神と言う。
その神様と神の民との間に 親しい関係が新たに生まれるというある面、福音がここに語られているわけです。
そして同じように このイエス様がご自分の逮捕と弟子たちの離散や裏切りの暗いメッセージの後に
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私は蘇った後にあなた方より先にガリラヤに行きますと 福音、イエス様ご自身の約束が告げられているんですね。
実はここで注目すべきは
あなた方より先にガリラヤに行くという言葉、これは英語の ニューアインターナショナルバージョンなんかでもですね、こう訳されているんですね。
I will go ahead of you into gallery そのgo aheadというのは先に行くよという意味です。
日本語の訳と同じですね。この先に行くという言葉が大事で、それにはですね 羊飼いが
羊の群れの先頭を行って羊を導いていくという意味が込められているんです。 弟子たちは
イエス様を捕らえられて離散するかもしれない。しかしこの羊飼いであるイエス様を蘇って ガリラヤに先に行く。羊飼いのように弟子たちをガリラヤへ導いていく。
あるいはそこで待っている。そういう意味、良い知らせがここに込められているわけです。 そしてこのガリラヤはどこですか。皆さん覚えていますか。このガリラヤとはこの地図を見てください。
イエス様が今捕らえられようとしているところがエルサレム。その北、ここがガリラヤ地方です。
ガリラヤはこの周り。エルサレムはずっと北ですね。これはどんなところだか覚えてますか。 これは弟子たちをイエス様が召し出した場所。いわゆる弟子たちの地元ですね。
ある学者はこのイエス様のガリラヤへ先立っていくということを解説して、このようなことを言っているんですね。
ガリラヤは弟子たちの出身地である。すなわちそこは彼らの家の庭のようなところであり、日常生活の場なのである。
イエスはいつも先に立ち、私たちの日常生活のガリラヤにおけるイエスとの新しい出会いに我々を招いているのである、ということを言っているわけです。
このガリラヤはペテロたち12人の弟子が最初にガリラヤ後半で、
ペテロをはじめヤクブやヨハネがガリラヤ後半で、私についてきなさいと言って最初に召し出された場所です。
そして彼らの生活の場であり最初のこの活動拠点でしたね。
マルコの前半に書いてありますが、イエス様と弟子たちの最初の選挙はこのガリラヤ地域でなされたわけです。
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そしてだんだん下っていって今のエルサレムに来ているわけですが、このようにですね、
ガリラヤというのが彼らの日常生活の場所だったように、 そしてそこで復活したイエス様が弟子たちと再び会ってくださるように、
私たちの日常生活の場でイエス様は私たちと今出会ってくださる、 そのような復活した救い主なんですね。
実際イエス様の予告通り弟子たちはこの後イエス様が逮捕されると、 そして十字架につけられるとですね、イエス様を見捨ててしまうわけです。
3年間も一緒に過ごしたイエス様を、いとも簡単に裏切って離れていく、 この弟子たちとしては考えられないような罪を犯してしまうわけですね。
けれどもイエス様は復活して地元のガリラヤで先に行って待っていてくださる、 という良い知らせが既に告げられているわけです。
ここから考えられること、 私たちはですね、この日常生活の中で例えば命の危険を脅かすようなことが起こる、
あるいは私たちが取り返しのつかないような罪を犯してしまった、 としてもですね、
復活したイエス様は目には見えませんが、 一緒に私たちとともに生活の場の中で生きていてくださると信じることができるんです。
復活したイエス様を信じているとはどういうことですかというと、 まさに今の生活の場にイエス様がともにいてくださるということです。
厳しい死霊の中にあっても、たとえ私たちがイエス様を見捨てるような過ちを犯したとしても、 イエス様は復活したお方としてともにいてくださる。
それが復活したイエス様を信じるということでもあるわけですね。 その中で
ある学者は その信仰をこのようにですね、告白として言い換えているんですね。
どのような試練の中にあっても、私たちがまた自分自身 つまずいてしまったとしても、こう宣言することができるというんですね。
生けるからですね。生きる神の子キリストがともに生きてくださる 死の力よ知りづけ
私たちは命に生きる こう宣言できるというわけです。
生ける神の子キリストがともに生きてくださる 死の力よ退け
私たちは命に生きる そう宣言できるというんですね。
これがある年イエス様の弱い私たちに対する 弟子たちに対する福音だったわけです。
最後、しかしと言っていいでしょうか。3番目 弱さを知らず強がるペテロ
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弟子たちの姿があるわけです。 今日の最後の部分を読んでみましょう。マルコの14章30、31節
イエス、最初にあなたはつまずきますとペテロは予告された後ですね。 私はたとえ彼らが他の弟子たちがつまずいても私はつまずきませんって
強弁するんです。 それに対してイエス様は答えられました。
イエスは彼、ペテロに言われた。 誠にあなたに言います。まさに今夜鶏が2度鳴く前にあなたは3度私を知らないと言います。
ペテロは力を込めて言い張った。 たとえから読めるか読んでみましょうか。
たとえご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。
皆も同じように言った。 ペテロはですね
自分は決してイエス様につまずくことはない。 そして大口を2回も叩くんですね。
最初は今先ほど言いましたが まああえて
乱暴な言い方をすると、11人の弟子たちを見てですね。 こいつらがつまずいても私はつまずかないよって言うんです。
ペテロらしいですよね。 そしてイエス様に
このようにですね鶏が鳴く前になんて言われると、もっと強くなって
たとえ死んでもあなたと一緒に死ななきゃいけなかったとしても、あなたを知らないとは言いませんよと言うわけです。
結果を知っている私たちとしたら滑稽ですよねその姿。
私なんかもよく子供の頃から
過ちを犯したら親に対してとかですねもう二度はしません。 やっぱり仕事でも何かすると
決してしませんと制約書とか書かされるわけです。 でも弱さがあるから
大事に至らなくても何かつまずいてしまうというのが私たちの弱さかもしれません。
で 実はですねこの狂弁2回も
ペテロが言っている。そこにはですね 自信が満ちている。
ペテロは弟子の代表として出てきますが実はこの最後の言葉、皆も同じように言ったって言うことは、それはどういうことかというと
12人同罪ということなんです。12人全員が強がっていた。 そんなこと決して死ななきゃいけないかとしても決してあなたは知らないといけませんと
全員が狂弁した。 福音書には書かれているんですね
でこの自信過剰が落とし穴になる。 そしてしばらく前に見たユダの裏切り。ユダの裏切りと彼らの、あえて言うと裏切りの違いは何かというとユダは意図してイエス様を裏切りました。
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イエス様を売ろうとして。そしてそれを売りに最初たちに遂げました。 けれどもこの11人は
意図してなかったんですね。彼らの 弱さ故にイエス様を知らない。小さな裏切りをしてしまうわけです。
それは 外側のプレッシャーが、外からのプレッシャーによって知らないと言ってしまう。
計らずも言ってしまう。 それは自分の弱さから知らないと言ってしまう。
不意にあなたもあの男の弟子ですか? 弟子ですねって言われて、私は知らない。
不意に問われて弱さ故に思わず知らないと言ってしまったわけですね。
罪とまで言っていいかわかりませんけれども、罪にはそのような弱さの故に、外側からのプレッシャーの故に
イエス様を知らないというような私たちが言動してしまうということがあるかもしれません。
残念ながら私たちいつの間にか、神様の言葉や共におられるイエス様の助けも必要ないという考えで行動してしまうことがあるかもしれませんね。
だからといっていつも失敗してしまうとビクビクする必要もないし、罪を犯さないように気をつけようと言っておどおどする必要もありません。
でもそしてまたですね、いつでもどこでも機会のようにですね、神様感謝しますと言っていればいいわけでもないわけです。
ただ知っておくべきことは弱さの故に、イエス様を知らないというがごとく立ち振る舞いをしてしまう弱さがあるということを自覚していくということなんですね。
そしてそのことを知ってまさに目を覚まして共におられるイエス様に頼って、そして聖書の言葉に支えられて歩んでいくお互いであり教会でありましょう。
そしてたとえ私たちがつまづいてもがりがりに先立って待っていてくださる復活のイエス様に信頼して歩んでいきましょう。
最後に弱さに関わる福音的な御言葉を読んで終わりにしましょう。ヘブル4の15から16。
私たちの大祭司はイエス様ですね。私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯しませんでしたが、すべての点において私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですからから読んでみましょうか。
ですから私たちは憐れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
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お祈りしましょう。
救い主のイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
ペテロや他の弟子たちのつまづきを御存知であり、それを弟子たちに告げられ、また復活の後、羊飼いとして弟子たちを導かれる、そのような尊い約束を与えて下さいました。
その中で私たちもペテロと同じように強がったり、あなたのことを忘れて歩むことがございます。
どうぞ弱い私たちをあなたが守って導いてください。
私たちがつまづくとき、つまづきそうになるとき、共におられるイエス様、またあなたの御言葉を思い出して、あなたに支えられ、歩んでいくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど黙祷しましょう。
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