2023-04-02 21:17

#152 荒野の救い主 23/4/2

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マルコ1:9-13からの礼拝説教。2023年4月2日録音。4月は日本では入学入社など新たにスタートをする月です。今日の聖書に出てくるイエス様のバプテスマは、救い主としての就任式やお披露目の意味もあります。先週見た通り荒野の川でのバプテスマ故に、荒野の中でスタートを切ったことになるのです。新たなスタートに不安を抱く人もいるかもしれません。今日の箇所には荒野を通って新たな一歩を踏み出したイエス様の様子が描かれていますが、そこには救いの福音を垣間見ることが出来ます。新たなスタートを迎える私たちが知るべき福音として、1.寄り添う救い~理想の上司や名医のように、2.天が裂け下ってくる救い~天を見上げる、3.共にある救い~臨在を信じて、の3のことを見てゆきましょう。
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マルコの福音書1章9説 その頃イエスはガリダヤのナザレからやってきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
イエスは水の中から上がるとすぐに、天が裂け、天が裂けて、ミタマが鳩のようにご自分に下ってくるのをご覧になった。
すると、天から声がした。 あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ。
それからすぐに、ミタマはイエスを荒野に追いやられた。 イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。
イエスは野の獣と共におられ、見つかりたちが仕えていた。 以上です。今日はこのところから、荒野の道と題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。 今日は4月2日で、まさに日本では新しい年度がスタートしました。
入学式、入社式などに出る方もいるかもしれません。職場が変わる方、環境が変わる方もいるかもしれません。
今日の歌詞は、イエス様の就任式です。救い主である、そのことが公にされるお披露目の時でもありました。
先週見た通り、このイエス様のバブテスマ、これは荒野の中でバブテスマを受けたわけですから、すぐに荒野の中でイエス様の歩みがスタートするわけです。
この新たなスタートに不安を覚える人もいるかもしれませんね。 今日の歌書には、荒野を通って新たな一歩を踏み出したイエス様の様子が書かれています。
そこには、その荒野のスタートなんですが、これから私たちが知る福音を垣間見ることができるんですね。
そんなことで、この新たなスタートを迎える私たちが知るべき福音として、3つのことを学んでいきたいと思います。
まず第一は、寄り添う救い。理想の上司はメイのようだって言いますね。
1章19、1章の9節、12節、13節。 その頃イエスはガリアイのナザレからやってきて、ヨルダン川でヨハネからバブテスマを受けられた。
ここで読みましょうか。3、それからすぐにミタマはイエスを荒野に追いやられた。 イエスは40日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。
これ英語の絵ですけどね。 Jesus was baptized by John.
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イエス様はヨハネによってバブテスマを受けたという絵です。
先週見たヨハネの予告通り、すぐにイエス様がナザレという生まれ故郷からやってきた。 そしてそのイエス様、ヨハネが言った自分より力がある方。
そして聖霊によってあなた方にバブテスマを授ける方。 やってくると言ったらすぐにイエス様が現れて、そのヨハネから洗礼を受けたわけです。
そこで、その予告通りの登場なんですけれども、
この 天から声がした、父なる神様の声と言われています。
あなたは私の愛する子。 そういう私はあなたを喜ぶという声が聞こえた。
そして天から聖霊が鳩のように見える形で下ってきた。 このように見える形、こういうふうに2つのはっきりした出来事をもって
イエス様は約束された救い主であるということが 明らかにされたというわけなんですね。
しかしすぐにイエス様はここにあるように、荒野で試みに遭われたというわけです。
すなわちイエス様は神の子であって救い主であったにも関わらず、 いわゆるその地位に偉かったらアグラを書いている。
私は神だ。 死も死もの人間の苦しみなんか関係ないって言えないこともなかったんですが、
そうはせずにイエス様は人間としてもこの地上を歩まれて生涯をかけて、 試練を体験する。
今日からキリスト教では受難集になりますけれど、まさに十字架への道をイエス様が人間としても歩まれたということがここで予告されている、予兆されているわけです。
それはどういう意味でしょうか。 イエス様は私たちの弱さも知っておられるということです。
イエス様は私たちの弱さも知っている。 それは上から目線ではなくて、
私たちと同じ体験をしたお方として、試練の中にいる私たちに寄り添って、 そして私たちを救ってくださるお方。
まだ私テレビ見てるとWBCのことやっててもいいじゃないかと思うんですけれども、 この間興味ある記事をネットで見つけたんですね。
この前にありますが、最低選手だった栗山秀樹がなぜ世界一の監督になれたのかという記事でした。
最低、自分も認めたって言うんですね。 実は彼は東京学芸大学といって先生を養成する、
野球では名門でも何でもないところの出身だった。 そして周りも反対して自分も活躍できないってわかっていても、
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諦めずにプロの選手、しかもテストを受けて、 テスト生としてドラフトじゃなくて、
ヤクルト・スワローズになんとか滑り込んだ。 そして二軍に入ったんですけど、二軍でも自分の力が等に及ばないということを思い知らされた。
二軍の選手でさえ、あいつが出る試合に出ると負けるから出たくないって言われたそうです。
そんな中、彼はいわゆる居残りで、 二軍の監督が彼の練習に付き合ってくれたそうです。
そしてその監督がこう言ったんですね。 俺はお前が一軍で活躍することも大事だけど、そんなことは考えてないんだ。
なんて言ったかというと、俺はお前が人間としてどれだけ大きくなれるのか、 その方が俺にとってよっぽど大事なんだよ。
だから周りがお前のことをどう思うと関係ないんだ。 明日の練習で今日よりほんのちょっとでも上手くなっていてくれたら、
俺はそれで満足なんだよ。 他の選手と自分を比べるなって、そう言ってくれたそうです。
彼は自分の本の中で、この言葉が自分の体に染み込んできたというんですね。
それでこの記事をライターはこうまとめています。 栗山監督は苦しい状況を周囲に支えながら克服し、
多くのことを学んできたからこそ、指導者としても選手を信頼し、 成長させる術を知っているということではないだろうか。
苦しんで自分が支えられたからこそ、自分も監督として選手を指導するんじゃなくて、
寄り添ってその人が輝けるようにするのが私の使命だって彼は言ってました。 そういうことが見て取れる記事です。
皆さんね、話があって、キリスト教ってどんな神様信じてるんですか?って聞かれたら、なんて答えますか?
一つ言えることはですね、 キリスト教の神様それは、
人間の痛みを知っておられる神様だと言えることができるんです。 それは大事なことなんです。
日本人一般、なんとなく神物にすがる、祈るということをするかもしれません。
でも、どんな神様に助けを求めるかってことを知って、その神様に人格的に向き合って祈れるというのはですね、
大きな安心もたらします。それは例えるならばですね、 病気になった人が、
名医に頼る。しかもただの名医じゃなくて、その名医が自分も大病を患って、その同じ患者の気持ちで、
しかも名医という素晴らしい技術を持って関わってくれる。 そういうお医者さんに向き合う患者のように、
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どんな神様、特に痛みを知っている神様、イエス様ってことを知って祈れるってことは、 私たちに大きな安心をもたらすことができるわけです。
そのイエス様について聖書はですね、こう証言しているんですね。 新約聖書ヘブル4-15-16。
私たちの大祭司、つまり救い主イエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯しませんでしたが、全ての天において私たちと同じように、 心身に憐れたのです。
心身に憐れたのです。 ちょっとここから難しいかもしれませんが、読めるかで読んでみましょう。
ですから私たちは、憐れみを受け、また恵みをいただいて、 織りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
弱さを知って、弱い人を助けてくださるイエス様って知っているんですから、
そのイエス様の憐れみを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうと言っているんですね。
ですから苦しむ時に、こう祈ってみてください。 はっきりとイエス様、
イエス様、あなたは私のこの試みも、試練も御存じです。 どうぞ私を憐れんで救ってください。
こう祈ってみてはどうでしょう。 2番目、
天が裂けて下ってくる救い。 天を見上げるということです。
読める方は読んでみましょう。 石野今日の一章10節3。
イエスは水の中から上がるとすぐに、天が裂けて、 御霊が鳩のように御自分に下ってくるのをご覧になった。
この出来事は何か。 一点だけ注目したいと思うんですけども、それは
天が裂けて御霊が下ったということです。 鳩のようにですね。
この裂けるという言葉にはこういう意味があるんです。 遠い存在の神様が
身近なお方として、私たちがその神様に近づけるようになったという、そういう信仰です。
この裂けるという言葉は同じ言葉がですね、 イエス様の十字架の出来事にも使われています。
イエス様が十字架にかかって何が起こったか知ってます? いろんなことが起こった一つは、
神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けたというんです。 それはどういうことかというと、
当時の神殿は一番奥にですね、最も清くて神がいるとされている場所があって、 そこに人間は近づけないことになっていたんです。
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でもイエス様が十字架の上で体を裂いたことによって、 神殿の幕が裂けた。
それは、イエス様の十字架によって罪ある人間の罪が許され清められたから、
その神殿の奥にいるような清い神様に近づけるんですよ、そういうメッセージです。 そしてもう一つ意味があります。
それはですね、旧約聖書の伝統から引き継がれた素晴らしい信仰です。
それはですね、こういう信仰です。 天が破れて、天が裂けて、その天から神様が下り、私たちを助けてくださるという信仰です。
詩編という祈りの本ではですね、それが大胆にこう表現されているんですね。
ちょっとここだけ読んでみましょう。最初の1行だけ。 3、主よ、あなたの天を押し曲げて降りてきてください。
山々に触れて、墳苑を上げさせてください。 詩編144の5、これはですね、火山が噴火する様子をモチーフにしてるんですけども、
まさに神様が天をですね、引き裂いて、そこから降りてきて、私を助けてください。
そういう信仰です。そういう祈りです。 このように、
天が裂けて、神が下ってくる。 そして助けに来てくださる。
そういう神様は誰か? イエス様ですよね。天から下ってきた救い主、イエス様がそのお方だってことを、この出来事も示唆しているわけです。
この天が裂けて、精霊が下ったってことも、そこにも関係しているわけです。
来週、この教会でやるガン哲学ガイダーカフェのですね、創始者の日野浩夫先生というお医者さんがですね、
言葉の処方箋でこういうことを語っていますね。 発砲塞がりでも天が空いている。
発砲塞がりでも天が空いている。 だからですね、どうぞ私も含めて、皆さん試練の中にあるときに、そのことを思い出していきましょう。
この信仰の希望を思い出しましょう。 そしてどうぞ、天を見上げてね、こう祈ってみてください。
神様、天を引き裂いて降りてきてください。 そして私を救ってください。
春はね、本当に空が澄み切って、 高く見えます。またこの間はですね、金曜日だったかな、雨上がりの中にですね、
ヤコブの階段って英語で言うんですけど、雲がね、避けるとそこから光が差すでしょ。 それがたくさん何本もですね、この間金曜日夕方見えました。
そういうことも見上げながらですね、苦しい時に、 カニ様どうか天を引き裂いて、イエス様どうか天を引き裂いて、私を助けにやってきてください。
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イエス様助けてくださいと祈ってみてはどうでしょう。 2番目、
最後、 共にある救い、臨在を信じて、難しいですけどね。
共にある救い、臨在を信じて。 1章13節読めるかで読んでみましょう。
イエスは40日間アラノにいて、 サタンの試みを受けられた。
イエスは野の獣と共におられ、 御使い達が仕えている。
ここにはですね、 4つの登場人物が出てきます。まずイエス様主役。
そしてイエス様の敵が2つ。 サタンと野の獣。
何かよくわかんないんですけど、 多分サタンの手下の悪霊の使者かもしれません。
この2つの敵、そして1人の味方。 まあ1つの味方、天使達、御使い達ですね。
いわゆる天使たちが、その試みに遭ったイエス様に 仕えていた。そういう4つの存在が出てきています。
で、このサタンの試みを受けあって、 イエスが野の獣にいたっていうのは、こういうことを表しているんですね。
冒頭も言ったように、イエス様はアラノで、 人間として何らかの試みを受けていた。
そういうことが表れています。 実はですね、今から学び始めたマルコの福音書には、
クリスチャン生活についてこういうイメージを持っているんです。 それはアラノを旅する。
クリスチャン生活には試練がつきものだという、 そういう信仰です。
実際ですね、いろんな説ある中で、マルコの福音書は、 ローマ帝国の中で迫害や苦しみに遭っているクリスチャンを
励ますために書かれたという説もあります。 しかし、そのアラノにおいてですね、私たちと同じ人間の姿をとったイエス様。
そのイエス様をですね、密会天使が支えた。 書いてあるの、使えたというのはですね、
イエス様を、人間イエス様を、 支えた存在として密会天使が登場しています。
でね、実は天使ってあんまり聖書出てこないんです。 あんまり詳しく述べるべきじゃないんですけれども、おそらく
神様が私たちを助けるということを、 ここで表していると考えればいいと思います。
つまりそれはですね、たとえ私たちが試練の中にあっても、 神様の守りや神様のご加護があるということを、
密会が使えたということで表している。 そう信じていいと思いますね。
さらにそのイエス様は当然、人として試練に遭いましたけれども、 その試練に屈することがなかった。
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勝利の救い主だということもここで表しています。 だから試練の中にある私たちも救うことができる。
そのことがこれからマルコの中で語られていくということがわかるわけです。
このアラノ、イスラエルアラノ、これはですね、 神様がいないという、
そう思わせる場所だとも言われているんですね。 でも、たとえ神様がいないと思えるような試練や苦しみの中にあっても、
天から下った精霊は信じる私たちの中に間違いなく宿っておられるということです。
そしてその目には見えませんが力強いイエス様も今、 私たちの
傍らにいて私たちを支えてくださる、ご臨在くださる、 そういうメッセージも読み取ることができるわけです。
そのようなですね、 新しい私たちは新年のスタートを切ります。
期待や不安があるかもしれません。 試練にすぐ直面するかもしれません。
しかし、私たちと共におられ、苦しみを知り、 私たちを支えてくださるイエス様が共におられる。
天を裂いて私たちを助けに来てくださった救い主がおられるということをですね、 信じて共に歩んでいきたいと思います。
最後にその 救いの希望の御言葉を読んで終わりにしましょう。
詩編の18編の16節、19節 主は意図高きところから御手を伸ばして私を捕らえ
大水から私を引き上げられました。 最後だけ読んでみましょう。
主は私を広いところに導き出し、 私を助け出してくださいました。
主が私を喜びとされたからです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆お賛美いたします。 新しい年度がスタートしました。
どうぞ私たちの行くべき道を導いてください。 イエス様が新しいスタートの中、すぐに荒野に導かれました。
どうぞ私たちそのような試練の中に導かれたとしても、 共におられるイエス様の救いを知りながら、
精霊の支えを知りながら、またその助けを呼び求めながら、 あなたに会って歩むことができるようにどうか導いてください。
どうかこの荒野にある救いを一人でも多くの方々が知ることができるように、 これからも導いてください。
あなたにお祈りして、イエス様の名前によってお祈りします。 アーメン。
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それではそれぞれ1分ほど、御言葉に応えて祈る時間を持ってください。
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