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マルコ、マルコ12章35節から37節。 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの、あ、失礼しました。
35節からですね。イエスはミヤで教えていた時、こう言われた。 どうして立法学者たちは、キリストをダビデの子だというのですか。
ダビデ自身が精霊によってこう言っています。主は私の主に言われた。 あなたは私の右の座についていなさい。私があなたの敵を、あなたの足台とするまで。
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。 大勢の群衆がイエスの言われることを喜んで聞いていた。
以上です。今日はこのところから、なぜダビデの子と題して読み言葉を取り継ぎます。 皆様おはようございます。
先週はですね、ちょっと暑い日もありましたんですね。 で、
今朝のニュースを見てましたら、 日本の南西海上にですね、温帯低気圧が、熱帯低気圧にあったとしてですね、
台風になるんではないか、台風1号になるんではないかなんてニュースもありました。 まあ、あの5月らしい日なんでしょうかね、今日はね。
そんなこともありますけれども、共に見言葉から学べることを嬉しく思います。 ちょっとズームの調整をさせてください。
今日取り上げる箇所はですね、これまで見てきた神殿を巡る、 神殿の中でのですね、イエス様の箇所からの続きです。
これまではイエス様の敵対勢力のサンヘドリンの議員たちとの論争が中心でした。
そしてここからですね、イエス様が一人問わず語りかける場面です。
これまではイエス様が質問されていましたが、今日のところはイエス様が逆に質問をしている箇所です。
実はこの今日の出来事は、ルカ、マルコ、マタイ、3つの副印象に書かれているので、 教会に来ている方には馴染みが深い箇所だと思います。
しかしこれはですね、聖書の中で、私もありますが、よく知っているけども何となく意味がわからない、
そういう箇所の一つの典型的な例なんですね。 その意味をですね、今日の聖書の背景などを説明しながら明らかにしていきたいと思います。
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よくわからなかった意味、箇所の意味がはっきりわかることによって、私がそうなんですけど、とても喜びを感じるんですね。
そういうことを皆さんにも味わっていただきたい。また僕は使ったことないんですけど、VRゴーグルなんかを使うと、実際に目の前にないものが本当にあるように見えるんですけども、
背景がわかると、当時の人たちがイエス様の言葉を聞けたような、聞くような、そういう一緒にイエス様の言葉を聞ける、そういう体験にもある程度入れるのではないかと思います。
そしてイエス様について新たな発見、別の視点から理解したり、また私たちについて学べることも出てきますね。
そんなので3つのこと、今日の引用の箇所の背景と意味、そしてイエス様の問いかけの意味ですね。
矛盾ということなんですけども。そして最後はそのイエス様の回答から、その3つの点から学んでいきます。一番最初はですね、引用箇所の背景と意味、2人の主という言葉の意味なんですね。
ちょっと読める方、イエス様の言葉を読んでみましょうか。ここからラビデから3回。
ダビデ自身が聖霊によってこう言っています。主は私の主に言われた。あなたは私の右の座についていなさい。私があなたの敵をあなたの足台とするまで。
この箇所から、どうしてキリストはダビデのことを言われているのかという話が展開されていきます。
ここは36節ですけれども、これはですね、詩編の110編の1節、ダビデが書いたとされている見言葉なんですね。
まず、旧約聖書とイエス様の時代の常識を私たちは知る必要があります。
言い換えるならば、当時の人は何の説明もなくこの言葉を聞くだけでピンときた、そういう前提があったんです。
だから、この物語をイエス様の問いを聞いていた当時の人も、また当時この物語を読んだ人もですね、何の説明も必要なかったんです。この詩編の意味、またイエス様の質問の意図を知る上で。
じゃあどういうことが言われているかと言いますとですね、この詩編はですね、ダビデによって書かれたんですけれども、鍵となる言葉があります。
メシアの到来として当時この言葉は前提としてみんな知っていたんです。 約束の救い主がダビデの子孫から起こるという、そのことをみんな知っていました。
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で、ここの言葉を理解する上で注目すべき最初の点、それはですね、主という言葉が使い分けられていて、それぞれの意味をしっかり捉えることなんですね。
まず2つの主が出てくるんです。 ダビデが後でも言いますけれども、ダビデがおそらく幻でしょうか。
そして2人の主の掛け合いを見た。
で、最初の主はですね、赤い字でここで書きましたが、主なる神様のことです。
ヘブル語ではそれを示すヤハウェという言葉で書かれていました。
で、次の主、それはですね、私の主の主ですね。
それは青字のところは、いわゆるメシアを意味していたってことをみんな知っていたんです。
つまりヘブライ語ではですね、それはアドナイという主という意味で、一般的な主人を指す言葉なんですね。
で、これは当時の人はこう理解していました。
後の時代に主なる神様によって使わされる約束の救い主、メシアのことを指していたってことを当たり前のようにわかっていたわけです。
その上でイエス様が問いかけていく。
つまりこの詩編自体の意味を私たちがわかりやすく言い換えるとですね、こう言っているんですね。
ダビデが幻の中でこういう光景を見ましたと、ダビデが自分で問わず語りで告白している。
そしてどんなことを見たかというと、主なる神様がやがて到来する約束の救い主、メシアについてこう言っていた。
その主なる神様の言葉、メシアであるあなたは主なる神である私の右の座についていなさい。
主なる神である私がメシアであるあなたの敵をあなたの足台とするまでは、そういう意味なんですね。ちょっとしつこい訳し方かもしれません。
これがイエス様の今日のこの問い上げている箇所。
このイエス様の時代に立法学者を含むイエス様に敵対するサンヘドリンの議員たち。
そして多くの群衆はこのような理解を当たり前のこととしてこの詩編に関して持っていたんです。
その上でメシアが来るときに滅んだ、衰退したイスラエル王国を復興してくださる。
つまりこの当時はローマによって強いたげられていた。
それがかつてのダビデの王の時代のように繁栄するその王国を復興するメシアが来る。それがある人たちは群衆はイエスだと期待していたんですね。
そこから次2番目のポイントです。 イエス様の問いの意味です。ダビデのこの矛盾ということをイエス様はここで指摘しているんです。
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ちょっと読んでみましょうか。ここからイエス様の問いかけ3回。ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。
ここまでですね。大勢の群衆が喜んで聞いていた。 つまり
当時の人々は イエス様の時代の人々は約束の救い主であるメシアキリストのことをダビデの子だって表現していました。
その典型的な例が 以前見たマルコの10章の47節6節以降の
盲人の癒しの箇所で出てきますよね。盲人で物語をしていた、一節によるとバルテマイという人が
ダビデの子よ私を憐れんでくださいって言ってました。それはイエス様を救い主として信じていたから 旧約聖書の約束通り私の目を開けてくださいという
言葉だったんですね。 で
ダビデの子の子というのはですね ダビデの子孫
という意味の子なんです。で実はその子供という言葉もですね 相続の権利がある長男などを指す特別な息子という言葉なんですね
まあこれを覚えておいてください。でその上でもうちょっと見ていきますけれども
ここでやっぱりイスラエルがですね 旧約時代に資産をなめた国が滅んだということをちょっと知らなければいけません
皆さんご存知のようにイスラエルは ダビデ王からその後分裂しました。そして神様に背いて
アシリア帝国に来たイスラエルが。そしてその後 バビロンにですね南ユダが
占領されてですね保守というアシリア保守 バビロン保守と言って当時まあ
文字通り国が滅ぼされたわけです。旧約聖書の時代で まあその時にですね
特に2番目のユダが完全に滅びる前後にエレミアという預言者が出てきましたね で例えばそういろんな預言者によって
やがて神様はダビデの子孫から キリストを
起こす そしてそのキリストまあダビデの子孫
ダビデの子を 起こすそしてその時にその救い主がキリストがダビデの子孫がイスラエルの国を
再興するよというそのような約束を預言者たちを通して
神は イスラエルのために告げたわけです
それをずっと彼らは希望として持っていた イエス様の時代はもうローマに征服されてましたからそのことも
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期待していたわけです。例えば バビロン保守の前後にエレミアによって通して語られた神様の言葉にこんなのが
あるんですね。よくわかりやすいと思うんですけど 33章14から17節にこんな言葉があるんですね
長いんですよね その時私はイスラエルの家とユダの家に語った慈しみの約束を果たす
その日その時私はダビデのために銀の若枝を芽生えさせこれはメシアです 彼はこの地に公正と義を行う
その日ユダは救われエルサレムは安らかに進み こうしてこの都は主は私たちの義と名付けられる
最後だけ読んでみましょうか誠にから 誠に主はこう言われるダビデにはイスラエルの家の王座につくものが立たれることはない
これを当時聞いていた人はですね大雑把に言うと外国の捕虜になっていました でダビデの末裔のある王はですね
目をくり抜かれて手かせ足かせをですね されてその国に連れて行かれたりとかですねそんな状況だった
でもとにかく食べ物がなくてですね 食べてはいけないものを食べたりそういう中でこのようなダビデの末裔によって
国が最高される ダビデの末裔から王が立たないという約束がなされ
まあその希望通りですね バビロン
のあの報酬からまあ救われて1回イスラリューが最高しますがまたイエス様の時代に ローマに侵略されてまあ
霊俗を強いられるわけですですからイエス様の時代の人たちはこの約束通り ダビデの子であるメシアがやってきてキリストがやってきて私たちの国を
最高してくれるそういう希望を持っていたわけですね しかしここでこのイエス様は
この矛盾点をですね指摘しているんですね どんな矛盾点か
それはですね この矛盾点を指摘することによってイエス様はイエス様を救い主として信じない
敵対勢力 立法学者たちを追い込んでいるんですね
この前はイエス様が追い込まれそうになりましたよねなぜ復活がどうのこのとか まあそれはそれとしてどんなことでイエス様は言ってるか
イエス様はですねこの最初の箇所で
ダビデ自身がキリスト主と呼んでいるのにどうしてキリストがダビデの子なのでしょうか っていう
これが何が矛盾なのかということを詳しく見ていきますね それはまず
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ダビデが自分の子孫のキリストを私の主と呼んでいます 通常はどうですか先祖の方がたっと言ってされているわけですね
だから先祖ダビデが自分の子孫のキリスト私の主と呼んでいる
ここに矛盾はないんですか
それはあなた方普通に信じるじゃないですかその上でなぜ まあこの裏返しなんですけどその上でなぜキリストをダビデのことを呼ぶのですか
それは矛盾してないんじゃ矛盾してない矛盾してないのではないですか というわけです
偉大な王ダビデですね待ち望んでいるのに この
ダビデのことを呼びながら実はこのダビデのことを呼ばれるべき キリストを先祖のダビデが私の主人ですって言うんで
まあ日本人がわかるように言うとですね初代徳川将軍家康がですね 最後の将軍吉信をですね私の主人だ呼んでいる
まあいうようなもんですよね まあなんか誰が言ったかですねよつないをしかわかりませんけどね
真ん中の将軍がそんなこと言って言うなまあこういう矛盾があるのにどうしてあんた方は 立法学者偉そうにそんなこと平気で信じてるんですか
ということでイエス様が実は切り込んでいるわけで その上で
このようにですね 今一体のことでイエス様は立法学者たち
ユダヤ人のリーダーの矛盾をついていますあなた方がダビデのことしてキリスト メッシアをみなしている
しかしそのダビデは自分の子孫を私の子として崇めているじゃないですか ここに矛盾はないんですかあなた方はこれを矛盾として考えず当然のこととして受け入れて
いますがこの逆転現象ですね それは問題じゃないんですかと案に通っている
じゃあそれに対してイエス様は これまでの死人の復活の問題などに見られるような明快等してですね最後
イエス様の回答この矛盾の解決 実はこの矛盾に対するに対する矛盾に見える
よくある聖書の相反するとぶつけ合わせてあの相手を責めるという方法なんですけどちょっと 実はイエス様がその答えだって言うんです
イエス様自身どんな答えか なぜならまずイエス様はダビデの子孫ですよね
んあのマリアの夫ヨセフはダビデの末裔だっ 誰でも知っているというか聖書には
だからダビデの本当に子孫ですイエス そしてしかもイエス様はキリストです
で イエス様がそのダビデの子孫でありキリストであるということがもこの矛盾を解決しますよ
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なぜならまずイエス様はダビデの子孫ヨセフのことをしてダビデの子です そしてイエス様は神の子です
だから先祖ダビデに負わせる立場だって言える だからこの矛盾をイエス様は解決している
先祖ダビデから受け継いだ 約束の救い主でありユダヤ人の王です
と同時に ダビデが崇めるべき
先祖ダビデが崇めるべき神の子として ここにいるということなんですね
ちょっとあの難しいかもしれませんがこういうことなんですね実はあま 言い換えますとね
しつこいかもしれませんが こういうことですダビデの子であるイエス様は神の子である
だからイエス様はダビデの子孫の王であり 彼が主として崇める
ダビデが主として崇める約束の神キリストでもあるということです でもう一つ大事なこと
さっきの主と同じようにここでは子という言葉が鍵になります ここの子という言葉イエス様が使っているこの言葉は
ギリシャ語のヒュイオスという言葉で先ほど言いました 特別な相続人である交差します実は
神の子救い主の神の子の子もダビデの子孫のダビデの子もこの ヒュイオスという言葉が使われていて当時の人はこの言葉が
あれば神の子でありダビデの子だということを連想したわけなんですね
その上でイエス様は 群衆の問題を指摘している案にあるいはもちろん
パリ西部で立法学者の問題を指摘しているそれはイエス様は約束の救い主ではあります ダビデの末裔であって国を再興するお方です
でもそれは武力ではないということなんです 武力によってではない
その点で人々の期待とは違う神様の見心を貫いた 神の子でありダビデの子なんですねなぜか
それはイエス様が人の子であるからなんですね つまり
使えるしもべ命を与えて人を救うお方であるからなんです 実はちょっと言いましたけれどもそのイエス様はご自身を指して使う
ごめんなさい 子という言葉
人の子の子も同じヒュイオスという言葉 ヒュイオスアンソロポスという言葉を使っています
その上でイエス様は 使えるべくして私がこの地に来て
人間の国でなく神の国を再興するべく ダビデの子孫救い主王としてやってきました同じように
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弟子たちに私たちに使える下部としてイエス様にお従いするようにと 呼びかけておられるわけでその見言葉がちょっとここには印象で金をできませんでしたが
皆さんのレジュメ一番最後ところをご覧ください マルコの10章の45節ですね
これ有名な見言葉ですマルコ10章45節 非常に読める方読んでみましょうレジュメの一番最後の2行です
はい人の子も使えられるためではなく 使えるためにまた多くの人のための贖いの代価として自分の命を与えるために来たのです
このイエス様が救いの下だということをより理解してですね イエス様に希望を置いてイエス様に人々に使えていくお互いでありましょうお祈りします
天の神様皆を賛美いたします あなたは約束された救い主キリストであられます
そして今目には見えませんが共に生きておられ また十字架の上でその救いを成し遂げてくださいました
どうぞ私たちがその神の子救い主ダビルネットの子であるイエス様 そのお姿その見姿をさらに深く知りまたその足跡に従うもの
またイエス様のその恩恵をさらに深く知るものとしてお導きください この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それでは1分ほど 黙祷の時間を持ちましょう