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本日の御言葉を朗読します。 新約聖書 ピリピジンへの手紙2章25節から30節です。
私は私の兄弟、同僚者、戦友であり、あなた方の使者で、私の必要に仕えてくれたエパフラディトを、あなた方のところに送り返す必要があると考えました。
彼は、あなた方が皆を慕っており、自分が病気になったことが、あなた方に伝わったことを気にしているからです。
本当に彼は、死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼を憐んでくださいました。
彼だけでなく、私をも憐んでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。
そこで私は大急ぎで彼を送ります。 あなた方が彼に会って、彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
ですから大きな喜びをもって、主に会って彼を迎えてください。 また、彼のような人たちを尊敬しなさい。
彼はキリストの働きのために死ぬばかりになりました。 あなた方が私に使えることができなかった分を果たすため、命の危険を犯したのです。
以上です。今日はこのところから、悲しみが重ならないようにと題して、笑み言葉を取り継ぎます。
皆さん、改めましておはようございます。 今日からアドベントに入りました。
お知らせしていたあれと違いましたけど、今日からということで、 教会もクリスマスの飾りとなっております。
この1週間、日本の大きな話題といえば、サッカーのワールドカップで日本がドイツに勝ったということでした。
皆さんはご覧になりましたか? 私はもうどうせ負けるなと思ったのと、夜なのでどうも見れないということで寝てしまってですね、
明け方4時頃ですか目が覚めて気になって、枕元のスマホで検索したらですね、なんと日本が勝ってたという、とてもびっくりしましたですね。
それでこの1週間、その話題で持ちきりですが、いろんな理由もあるんでしょうけども、おそらく昨今、暗いニュースが日本でも世界でも多い中、特に日本ではですね、そういう明るいニュースということで、心を強められた方が多かったのではないでしょうか。
実は今日のパウロの手紙の部分も、悲しみに悲しみが重ならないようにということで、エパフロディトに起こったことが、パウロにとってそのような神様の慰めとなった。
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そんなことをですね、考えながら3つのことをともに見ていきたいと思います。 まず最初、エパフロディトについて祭祀として使えたということです。
ちょっと長いんですが、25節の2言葉を読めるかと読んでみましょう。
私は私の兄弟、同僚者、戦友であり、あなた方の使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなた方のところに送り返す必要があると考えました。
パウロが先週はティモテの推薦書を書いたのですが、今日はエパフロディトの推薦書を書いているわけです。
ちょっと前後しますが、先週ティモテがパウロの手紙を口実筆記したと言いましたけど、一説によればエパフロディトが口実筆記したんじゃないかという説もあるようです。
おはようございます。
それは何をともあれ、パウロが5つの言葉でエパフロディトをフィリピンの教会に紹介しています。
1つ目は、私の兄弟、イエス様にある仲の良い家族という意味です。
道路者というのは、
福井の選挙のために一緒に働いた道路者ですね。
名前あるけど多分今日来ないから大丈夫だよ。
道路者というのは、英語のコワーカー、ショネルゴイと言うんですね。ションというのは一緒にエルゴイというのを働く人と言います。
そして専有というのは、ションストラティオ、共に働く、まさに福井のためにですね、
エパフロディトも、パウロにとっては共に命をはがいて福井のために戦った友だと言っています。
そして一方ですね、フィリピンの教会の人々にとって、このエパフロディトは使徒だって言うんですね。
使徒というのはアポストロスという言葉です。パウロのような特別な職を言う場合もありますが、一般的にですね、使い、お使いという意味です。
ある役割を担って、ある人のところにあるところに行く人、そういう意味でフィリピンの教会の役割を受け取って、パウロのもとに来た使いだ。
そして今注目したいのは最後の言葉、私の必要に使えてくれたという言葉です。
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これはですね、いいよ、置いといていいよ。 実はですね、本当は英語では、ギリシャ語では一つの言葉なんです。
使えてくれたっていうの。 それはですねレイトルゴスという言葉で、その役割はですね、
祭祀という意味なんですね。 実はどういうことかというと、
この使いという意味と関係しているんですが、エパフロディトは フィリピン教会からある使命を受け取っていました。
それは パウロのもとにフィリピン教会の支援金を届けるためだったんです。
そのお礼の手紙でこれ書いたと言われています。 当時のローマの囚人はですね、実は生活の家庭、必需品は自分で用意しなければいけなかったんです。
悲しいことにね、今の日本では飲み食いできるから、わざと捕まるなんていう人もいるじゃないですか。
ローマの場合は例えば家族とか友達が差し入れをして生活してたのが、一般的な囚人の様子だったんです。
そのパウロに フィリピン教会からのお金を持っていった。
さらにはパウロのそばで、獄中のパウロを フィリピンの人々に代わって、彼が使えるという役割を持っていたわけですね。
それと関係している、 私の必要に使えてくれたというのはですね、
祭祀なんですね。神殿の祭祀を表す単語なんです。
この直訳するとですね、私パウロの必要のために奉仕する祭祀であるエパフロディトってなっているんですね。
30節では前にも書いてありますけれども、こう述べられています。
彼はあなた方が私に使えることができなかった分を果たすため、と書いてあるんですね。
だから繰り返しますが、エパフロディトはフィリピン教会の人々に代わってパウロにお仕えするという使命を持った祭祀だったと言えるんですね。
このことから、とても興味深く、さらに大事なことが浮かび上がってきます。
まずエパフロディトがパウロに使える行為は、 祭祀が神殿で、捧げ物を捧げる奉仕になぞらえられていたということです。
エパフロディトの肉体労働が神殿の奉仕に、祭祀の尊い奉仕と同一されていた。
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つまり彼のパウロへの奉仕が神様への礼拝行為にあたるということだ。
そこから分かることは、もし今まで教わってきたように、私たちが誰かの必要のためにその人に使えるなら、それはまさに祭祀のように、祭祀として尊い奉仕をしているということになるんです。
これまでフィリピ教会の手紙の中で教えられてきたように、自分のことだけではなくて他の人の必要のことを変えりみなさいという教えがありましたが、
その行為は神様への立派な奉仕になる。 神殿の祭祀と同じ行為だということを覚えておきましょう。
そしてさらに、このことは献金について教えている。 先ほども申し上げましたけど、フィリピ教会の人々は、極中のローマのパウロのためにお金を届けた。
それを持っていったエパフロディト。それを祭祀の奉仕と名ぞらえているわけですね。
すなわち、 フィリピ教会の人々の献金は、祭祀、エパフロディトによって捧げられた神殿礼拝の捧げ物そのものである。
知っている方はいると思いますけどね。旧約聖書のイスラエルの神殿、エルサレム神殿では、 文字通り動物を捧げました。
それに代わって、今、パウロへのこの献金は、 神殿の捧げ物である、神への捧げ物だと教えられている。
ここでわかること、今あるカルド教団の献金のことで、 悪質献金のことが話題になってますよね。
あの悪質性、いろいろ言えるんですけど、一つ言えることは、 献金することによって罪が許されると教えているんですよ。
本人の罪もお金で贖えるとか、 そして先祖が贖えなかった罪を献金によってあなたが償うことができると教えるわけですよね。
だからいくらでも捧げる、そういうマインドコントロールの 仕組みがあるわけです。
何が言いたいかというのは、まずお金で 罪の許しを買うことはできないということです。
クリスチャンであればよくわかるようにイエス様の十字架によって、 私たちの罪は全ても贖われている。
それが大事ですよね。 一方、献金は何をするか、それは
神様への捧げものです。 自分自身の体を捧げる代わりに、その献金の現れとして献金をするというのが正しい行為だということなんですね。
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そしてもう一つ、パウロはこの献金を、 ピリピの一生御説で福音宣教に参加することであると、
ピリピのその献金を評価していたんです。 かつての献金の活動。こう言っているんですね。
あなた方が最初の日から今日まで、今日まで 福音を伝えることにも携わってきたことを感謝しています。
これは詳しいことを抜きにして言うと、献金によってパウロを捧げたということを、 この福音を伝える交わりだとパウロは言っている。
このようにもう一つ献金には、自分の体の代わりにお金を捧げることによって、 その福音宣教に参加したり、
福音宣教に携わっているパウロに使えるという、 そのような意思の表れとして、そのような献金という意味があるんだということを覚えておきましょう。
このようにですね、エパフロディトとピリピ教会の人々の捧げる行為によって、 極中のパウロは多くの慰めと励ましを受けたことでしょう。
最初はとにかく、まず見たことを、妻子として使えたエパフロディトということでした。 そしてその妻子として使えたエパフロディトの行為や、ピリピ教会の人々のこの捧げ物が、
極中で試練にあっているパウロを少なからず捧げました。 ある面、悲しみにあるパウロを捧げました。
2番目。 悲しみが重ならないようにということを思って見ていきましょう。
2章27節を読める方は、読んでみましょうか。
本当に彼は死ぬほどの病気にかかりました。 しかし神は彼を憐れんでくださいました。
彼だけでなく、私も憐れんでください。 悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。
実はこのエパフロディトは、ローマにいるパウロにお金を届けるその途中で、病にかかったと言われているんです。
パウロは30節でもこう言っているんですね。 彼エパフロディトはキリストの働きのために、つまりこの今回の旅行のために、死ぬばかりになりました。
あなた方が私に仕えることができなかった分を果たすため、命の危険を貸したのです。 この30節にも書かれているように、
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このパウロは短い中で2回あるいは3回もエパフロディトが死にかかった。 瀕死の状態に陥ったと語って、事の重大さを語っているんです。
彼の病気が瀕死のこの渋滞だったという状況が、相当大きな試練だったということが、パウロにとって相当大きなショックだったということが見えておれるんです。
ある学者に言わせれば、私たちはこのことをさらっと読んでしまうんです。
前にも書いてありますけど、医療の進んだ私たちには、考えられないほど当時、生死の境をさまよった人が生還するということは本当に少なかった。
あれだったんですね。 そしてパウロはですね、聖書から私たちが知る以外にも
兄弟姉妹、クリスチャンの兄弟姉妹が、迫害とか病によって命を落とす場面に何度も遭遇したに違いないと言われているんです。
その多くの死別、その体験して、悲しみをパウロは知っていたとよく学者も言っているんですね。
ましてやこのローマで、倒獄中の試練、
それに続いて訪問してくれたエパフロディトが、命を目の前で落とすとなると、
その悲しみは、私たちの想像を遥かに超えた痛みになるに違いなかった。
実はパウロはそのような悲しみや苦しみの経験を、第二コリント一章八節で告白しているんですね。
兄弟たち、アジア、ガラピアの方ですね、アジアで起こった私たちの苦難について、あなた方に知らずにいてほしくありません。
ここから読んでみましょうか。
私たちは非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。
この短い文からもですね、どれほどパウロが苦しんだか、命の危険を体験したか、それを目の当たりにしたかということがよくわかるわけです。
ですから、このエパフロディットの生還の喜びを私たちはさらっと受け流してしまう。
それ以上にですね、パウロにとって、このエパフロディットの回復が計り知れないほどの喜びとなり、慰めとなったということを覚えておきましょう。
この第二コリントの一章四節五節でも、パウロはこのようなことを述べているんですね。
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ちょっとこれも長いかもしれませんが、読めるかと読んでみましょう。
神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます。
私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。
同じように、神様はどのような苦しみの時も私たちを慰めてくださる。
私たちの時に応じた時に応じてですね、神は救いの手を差し伸べてくださる。
そして私たちもパウロと一緒に告白できるんですね。
神様は私たちを憐れみ、私たちの悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。
しばらく前に配った教会のお祈り課題ですね。
一つ入れた課題があるんです。それは教会全体の祈りの中で、私たちが日々の生活の中で、
精霊によってイエス様の救いを体験できますように。
日曜日だけがクリスチャン生活じゃないですよね。 平日の様々な状況の中で、
神様が私を救ってくださったという体験、 それを精霊様によってすることができるように、
神のこの慰め、憐れみを体験できるようにお互い祈り合っていきましょう。
3番目の項目を書くのを忘れてしまいましたけどね。 パウロとエパフロディとの思いやりですね。
2章26節にパウロはこう語っていますね。
彼エパフロディとはあなた方皆を慕っており、 自分が病気になったことがあなた方に伝わったことを気にしているからです。
最後はエパフロディとの思いやり。 パウロはこのエパフロディとをピリピの教会の人々に送り出す理由を述べているんですね。
なぜなら彼自身が、 エパフロディと自身が自分の病気のことを知ったピリピ教会の人々のことを心配していたからだった。
見えにくいかもしれませんけど、エパフロディとはですね、 ここのですねピリピからおそらくお金と使命を託されて
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ちょっと図がちっちゃくなりましたけど、
こっちの方はですね、 ローマまで
おそらく陸路でしたかね。 旅して行ったわけです。
その旅の途中で病気にかかったのではないかと言われています。 そして一人ではなかったので、同行していた人がピリピに戻ってエパフロディとが病気になったということを
派遣元のピリピ教会に伝えたと言われているわけです。 で、エパフロディとが
このピリピ教会の人々に対して自分の病気が知られたことで、気を揉んだ、
この元の言葉ではですね、激しく心を患ったと書いてある。 その理由はいくつかあるんですけど、一つは純粋に
ピリピの人々が自分の病気のことで心配している。申し訳ないなと。 心配かけて申し訳ないなと思った。
2つ目はですね、ピリピ教会の人々がエパフロディとが役割を果たすことができなくなったのではないかと、
心配しないよう、無事届けたことを配慮した。それを伝えたいという、そういう配慮があったわけですね。
これ前にも書いてありますけれども、ピリピ教会の人々がですね、 預けたお金は無事パオロの元に届いたのか。
エパフロディとは獄中でパオロ先生に十分使えることができたのか。 そう心配していたと思ったので、ですから
彼は少なくともですね、献金を届ける使命は無事果たしましたと伝えたかったわけではないかと言われています。
最後にですね、そのエパフロディとが 自分のこと以上にピリピの人々のことを気にかけていたということがここから伝わる。
この思いやりが伝わってくる。 今度はですね、パオロの思いやりについて触れましょう。
最後にですね、パオロは 何をしたかを注目するんですけども
この部分はピリピ教会の人々にエパフロディと推薦したという内容があるんです。 先ほども言いましたが、おそらくこの手紙はエパフロディとが後日筆記したとも言われているんですけど
その手紙を持って 彼がピリピの教会に行くことになった。
その時にエパフロディと推薦するためにこの部分を書いた。 どういう風に推薦したか。
彼は命、病気で倒れたんじゃないよ。命がけでイエス様のために働いたがいうにここまで来れたんだよ。
彼こそ神と人のために使える無犯だということを伝えた。 30節でそう述べているんですね。
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そしてさらに素晴らしいことにパオロはエパフロディと自身の評判がピリピにおいて落ちないように気にかけていたようなんですね。
つまり 今でもあるかもしれません。
病によって託された使命を果たす その半ばで帰ってきたエパフロディと、どうしてパオロ先生のもとでずっと使えなかったんですか。
そういうようにですねエパフロディとがある面 失格者扱いされないようその推薦状としてこの手紙を書いたとも言われています。
29節でこうピリピの人々に書いていますよね。 見えますかここ。
ですから大きな喜びをもって主にあって彼を迎えてください。
そしてまた彼のような人たちを尊敬しなさいと言っている。
病によって志半ばでピロについたエパフロディと自身も 役割を完全に果たさなかったと自分に失望していたかもしれませんね。
しかしエパフロディと自身にも悲しみが重ならないようにパオロはエパフロディとのために、そしてピリピ教会の人々のためにもこのような
ことを書き送った。 このパオロの思いやりということが見てとれますね。
そしてどうでしょう。 神様は私たちが
志半ばで挫けそうな時、挫けてしまった時、私たちが再び立ち上がることができるよう
励ましと慰めの言葉をかけてくださるお方なんですね。 今日のところから
神様は悲しみに悲しみに重ならないように救いの宮座をなしてくださる。 励ましと慰めの言葉をかけ、また
キリストのために働いた、よくやっている忠実な姉妹だと声をかけてくださる。 そのことに思いをかせましょう。
最後にもう一の2章27節を読んで終わりたいと思います。 読んでみましょう。
ここだけ読みますね。 本当に彼は死ぬほどの病気にかかりました。
しかし神は彼を憐れんで下さいました。 ここで読みましょう。
彼だけでなく私も憐れんで下さい。 悲しみに悲しみが重ならないようにして下さいました。
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お祈りしましょう。 私たちの天の神様皆を賛美いたします。
あなたは私たちを、あなたご自身と人々に仕える妻子として、 使者として召して下さいました。
そのような中で私たちは、志半ばで倒れることがあるかもしれません。 しかしそのような時でも、あなたは救いの御手を差し伸べ、
慰めの言葉をかけ、悲しみに悲しみが重ならないよう、 私たちを導いてくださること、救ってくださることを感謝いたします。
どうぞこのあなたの与えてくださる御言葉、 あなたの与えてくださる助けをもって、
どうか私たちが、あなたのためにまた人々のためにお仕えしていく、 あなたの福音のために前進していこうものとなることができます。
どうか導いてください。 この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それでは1分ほどそれぞれその場で主にお答えして祈ってください。