2022-12-04 27:02

#135 喜び、誇れ 22/12/4

ピリピ3:1-6からの礼拝説教。2022年12月4日録音。サッカーワールドカップで日本はスペインに勝利し1位で次のステージに進みました。国の代表の勝利つまり良いパフォーマンスが、国民を喜ばせ国民としての誇りを高めます。そこには国やチームの歴史も関わっています。このように、様々な要素が複雑に絡み合いながら一つの国と国民のアイデェンティティーが関わっているのでワールドカップに人々は熱狂するのでしょう。これは今日のパウロの指摘と関係しているのです。1.主にあって喜ぶ、2.キリスト・イエスを誇る、3.神の御霊によって礼拝するの3つの点から学びましょう。

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それでは、お読みします。 ピリピジンへの手紙、3章、1節から6節。
最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。 私は、また同じことをいくつか書きますが、
これは私にとって面倒なことではなく、 あなた方の安全のためにもなります。
犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。 肉体だけの活霊のものに気をつけなさい。
神の御霊によって、礼拝し、 キリストイエスを誇り、
肉に頼らない私たちこそ、活霊のものなのです。 ただし、私には肉においても頼られるところがあります。
他の誰かが肉に頼られると思うなら、私はそれ以上です。 私は生まれて、8日目に活霊を受け、
イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、 ヘブル人の中のヘブル人、
立法についてはパリサイ人、 その熱心については教会を迫害したほどであり、
立法による義については非難されるところがないものでした。 以上です。
今日はこのところから、 喜び誇れと題して、読み言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。 毎週言っておりますが、早いものでもう12月になりました。
そして今、日本ではですね、興味ある方ない方に関わらず、 サッカーワールドカップで盛り上がって、
視聴率がドイツ戦とコスタリカ戦で42%。 この間のスペイン戦は17%です。
スペインに勝って第一ステージ1位で、 次のステージに日本が進んだというわけです。
この国の代表の勝利、つまり良いパフォーマンスが、
この国民を喜ばせ、そして国民としての誇りを高めるということがありますよね。 そこには国とか、日本も同派の悲劇からいろいろ、どの番組でも振り返ってますけども、
チームの歴史にも関わってきています。 そしてその様々な要素が実は複雑に絡み合いながら、
この一つの国と国民のアイデンティティが関わっているから、 ワールドカップというのはことほど左翼に盛り上がっているわけですよね。
この熱狂の根拠となるこれらの出来事は、今日のパウロの指摘とも関係しているわけなんです。
どういうことかと言いますと、実はこの 今日の一つの話は、神の民イスラエル民族
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前、ガラティア人の手紙でも学びました。そのことを思い出してください。 そのイスラエル民族にとって、
割礼や立法を全部守るというパフォーマンスは欠かせませんでした。 だからこの
ユダヤ人クリスチャンの中に、違法人クリスチャンも割礼を受けて、立法を守らなければいけないという人たちが出てきた。
その危機にピリピ教会も偽教師の影響による危機が迫っていたというわけだったんです。
実はパウロは今日の読んだ箇所で偽教師たちを国表しているんですね。 犬に気をつけなさい。悪い働き人。
肉体だけの活性のものに気をつけろという、過激でいわゆる sns の炎上案件のような言葉遣いです。
実はここでも言うのも恥ずかしいことがいくつかあるんですけども、犬というのは例えば、ユダヤ人は違法人を犬って呼んでて、
避けすんでいました。いろんな理由があって犬は死体を食べてた。 そういうので穢れた動物だとかですね。そういうものがあって違法人を穢れたとして犬と、
この神のために言っていた。それをこのユダヤ人、 ユダヤ教にしがみつく偽教師たちに当てはめている。
悪い働き人というのも文字通り。肉体だけの活霊のものというのはですね、 活霊というのは断正義に傷をつけるんですけども、これは過激な言葉で、
昔の異教の祭祀とかですね、 カンガンのように全部切り取ってしまったという、そういう意味なんです。
非常に過激な言葉で、この偽教師を批判して警告を発しています。
そして、4節以降の私には肉において誇ることがありますというところはですね、
この偽教師が誇っている肉の分野、人間的なものであったら、私なんか負けないよと。
そういうマウンティングと取られるような表現で、 この間違った教えを否定しているんです。私はそんなものはそれでも
無価値だったって後で言ってるわけですけどね。そんなことからですね、 今日は3つの点から私たちの喜びや誇りの根拠ということで、
喜び誇れということで学んでいきます。まず第一、主にあって喜ぶということです。 3章1節読めるかと読んでみましょう。
最後に私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。 私はまた同じことをいくつか書きますが、これ私にとって面倒なことではなく、
あなた方の安全のためにもなります。 このパウロの書いているピリピリとの手紙は信仰の釘でよれています。
特にいろんな特徴がある中で、喜びの手紙といってたくさん喜びという言葉が出てきます。 喜びなさい、喜びましょうという命令の中で、今回初めて主にあってという言葉が出てきているんです。
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それはどういうことか。 それは喜びの理由や根拠をイエス様において喜びなさいということなんですね。
例えば、今わかりやすいんですけど、サッカーで言えば勝敗が喜びや悲しみの根拠になります。
良いことがあれば誰でもそれを喜びの理由として喜べるわけです。 しかし私たちが考えるそういう表面的と言っていいかわかりませんが、自分の価値観だけで良しと思うものだけを根拠にすると、
予想外の出来事が起こるとその喜びが消え去ってしまうということがあるわけですね。
実は主を喜びの根拠とするということはこういうことなんです。 主が私たちを救ってくださるゆえに喜ぶということです。
イエス様を喜びの根拠とするということは、私たちを救ってくださるイエス様を喜びの根拠として、
イエス様が私を救ってくださる、だから私は今の困難の中でも喜ぶということです。そういう態度を持つということです。
そのような試練の中にあっても、救い主であるイエス様を信頼して生きるということですね。
そのイエス様を、ある学者に言わせれば例えば礼拝で歌いますけれども、そのイエス様に喜びをもって賛美を捧げ、褒めて与えるということだというわけなんですね。
実はこの主イエス様を喜ぶ、救いを根拠に喜ぶということは、旧約聖書から受け継がれた信仰の伝統です。
詩編の中にいくつかありますが、33編20節、21節だけ取り上げておきます。読めるかと読んでみましょう。
私たちの魂は主を待ち望む。主は私たちの助け、私たちの盾。
誠に私たちの心は主を喜び、私たちは聖なる皆により頼む。
主は私たちの助け、私たちの盾ということで宣言して、本当に私たちの心はその主を喜び、その聖なる皆、主ご自身により頼むと告白しているわけです。
最初は主にあって喜ぶ、喜びの根拠は救い主イエス様、救ってくださるイエス様にあるんだということですね。
2番目、イエスキリストを誇る。
これ、今日の大事な聖書の箇所、3章3節です。読んでみましょう。
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神の御霊によって礼拝し、キリストイエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ活霊のものなのです。
ちょっと説明になりますが、 活霊のものなのですというのはですね
活霊を主張する者が言うところの本当の神の民です、という意味です。
簡単に言うと、パウロはイエス様を信じている私たちこそ、正真正銘の神の民だ、ガラディア人の手紙で何回も説明した通りですね。
何が問題か、ニセ教師たちはですね、自分たちがイスラエル民族と直接関わりがあるということを誇りとしていたんです。
その活霊を受け、立法をすべて守ることがその民のアイデンティティとして必要不可欠であると考えていたんです。
この歴史や国とのつながりをそこに見出していたわけですね。
ちょっと言い忘れましたけど、もっとややこしいことはですね、そういう国のアイデンティティとか誇りにですね、宗教が絡んでいるということがちょっとここではややこしかったわけです。
何はともあれ、そこでこのニセ教師たちは、クリスチャンであっても本当のイスラエルにつながる神の民になるためには、
活霊と立法を守らなければいけない、ピリピリの教会の人々に押し迫ろうとしたわけですね。
そのパウロは、神の民というアイデンティティ、イスラエル民族というアイデンティティをですね、実はそういう人間的な誇り、
ここちょっと今日は触れませんけど、見てください。3章3節の肉に足らない私たちというのは人間的なものを誇るという意味なんですけども、
パウロはニセ教師たちが言うところの民族とか立法を守るという人間的な誇りで競争するならば、私の方が遥かに勝っていますよと、さっき言ったマウンティングをしているわけなんですね。
どういうことか。私は生まれて妖神に活霊を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人ですと言っているわけです。
この3章5節の告白、どう意味があるか。まずですね、ニセ教師の中には、実はディアスポラ、いわゆる外国生まれのユダヤ人がいたわけですよね。ギリシャ語を話すこのユダヤ人って出てくるわけです。
そういう人たちは、実は後で活霊を受けて、ユダヤ教に監視して、そういう人はいっぱいいたわけです。
そして、あるいはですね、両親のどちらかが手も手のように違法人だったという人もいたわけです。
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悪く言うと、いわば後付けのイスラエル民族、神の民と言えなくもなかったわけですね。
そのような人たちに対して、私は純粋なイスラエル民族ですよってことをエバって見せるというかね、こういうふうに主張したわけです。
どういうことか。
これ、生まれて8日目に活霊を受けたというのは、もう立法の通り、自分が選ばれる前から生まれてすぐに活霊を受けましたよ。
そして、イスラエル民族でベニヤミン部族の出身というのはですね、ベニヤミン、英語でベンジャミンです。
ベニヤミンというのは、ここから有名な人出ましたよね。誰ですか。
ベンジャミンフランクリンですか。違いますね。ベニヤ民族からイスラエル最初の王様、サウロ王が出たんです。
非常にその誇りとしていました。今でもね、徳川家が出たとか、いろいろ誇りをするように。
そして実は、パウロのヘブル名何ですか。サウロでしょ。このサウロ王と同じ名前つけられるぐらい、このベニヤ民族という誇りを持っていた。
そしてヘブル人の中のヘブル人というのは、私の両親ともこの純粋なイスラエル人ですよって言ってるんです。
だからあなたたちと勝負したら私のがずっと上なんですよってことを主張しているわけなんですね。
この喫水の神の民イスラエル人、人種的にもそうで家柄も申し分ないと言って、わざと誇っているわけです。
しかし、来週多分見ると思いますけれども、私はイエス様のゆえにこれらのアイデンティティの根拠はイエス様によってチリアクタのようだと言っているわけです。
そしてその上で、パウロは今日の言葉ですよね。キリストイエスを誇る人、
パウロやピリピ教会の人々こそ、本当の神の民、イスラエルに属しているんだということを強調しているわけです。
ですからこのパウロもピリピ教会の人々も、そして私たちもこの
民族的な誇りやですね、 国のパフォーマンスとか、または自分のパフォーマンスを自分の誇りの
拠り所にしてはいけないんです。 もちろんね、私は仕事努力したり勉強して懸命します、そういう仕事や勉強に打ち込むことは当たり前なんですけども、
それを誇りとしてはいけない。ましてや民族的な誇りというものを気をつけなきゃいけない。
それらはですね、儚い。そして他の人を蔑む危険さえご潜んでいるということを覚えておきましょう。
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実はこのパウロのイエスキリストを誇るという価値観は 教約聖書の言葉にも由来しているんですね。
最初の部分だけ読んでみましょうか。3、はい。 主はこう言われる。知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。ここで言いましょう、私は。 富ある者は自分の富を誇るな。
ここで最後に言いましょう。3、はい。 誇る者はただこれを誇れ。悟りを得て私を知っていることを。
エレミア9章23、24節。誇る人はですね、ただこれを誇りなさい。 悟りを得て私、主なる神を知っていることを、ということです。
私たちの誇りの根拠はイエス様ご自身を知っている。 周りを笑いしみますが、イエス様に知られているという。
それを私たちの誇りのアイデンティティの根拠とするわけですね。 最後。
神の御霊によって礼拝する。 本当の神の民の、一番最初にですね、神の御霊によって礼拝し、と書いてあります。
実はですね、この礼拝するという言葉はですね、 こういう毎週集まって回収で礼拝するという意味よりも、
日々の献身という意味があるんです。 本来はこの旧約聖書のですね、祭祀、
神への奉仕のために特別に選ばれた、レビートや祭祀が行う神への奉仕という意味で、この礼拝という、
ラトレイオーというとおっしゃったと思いますけども、それは使われた言葉なんですね。 実はこれは、
かつては祭祀だけの特別な奉仕だったんですけども、パウルはそれを、 イスラエル民族だけじゃない、全てのクリスチャンに当てはまる行為であって、
それはその人の生き方自体が神様への奉仕となるという考え方なんですね。 何が言いたいか。
実はこの、 つまりですね、この旧約聖書の祭祀や今で言えば、牧師や宣教師だけに限らないで、
クリスチャンそれぞれが、自らを神様に捧げて生きる、いわゆる献身という意味か。 献身と言うとですね、例えば桜井さんや私たちの世代はね、
ビリー・グラハム大会でね、献身して牧師になりたい人って言って、宣教師になりたい人って言って、
ビリー・グラハムや本田孝治先生に呼ばれたと思いますけども、そういう特別な意味もあるんですが、 パウロが言うのは、
クリスチャン誰でも神に身を捧げている人ですよって言うんです。 この祭祀のような特別な奉仕者なんですよって言うんです。
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どうやってじゃあ奉仕をするか。 宣教師や牧師じゃなくても、
それは日常生活に対する考え方や態度に関わってくるんですね。
実はこのパウロが想定していた偽教師たちというのは、
間違ってこの献身を考えていたんです。 何度も繰り返しますが、神へのこの特別な奉仕者、
選ばれた民になるために、さっきも言いましたが、 活礼を受けて立法を守ることがこの神への献身だって考えたんです。
それはどういう過ちがあるかというとですね、 この偽教師たちの過ちというのは、
生き様よりもルールを守ることが献身だ、そこに固執した。 一方でパウロは、じゃあそういう立法について守って生きる生き方で言えば、
さっきも言いましたが、立法については今度はパリ裁備と、 その熱心については教会を迫害したほどであり、
立法による義についてならば、非難されるところがないものだったって言っちゃってます。 家柄も負けないけど、民族的にも負けないけど、立法による行いでもあなたたちに負けませんよ。
すごいマウンティングをしているわけですね。 実はこういう意味です。かつての自分は、さっきも言いましたが、生まれながら活礼を受けたばかりでなくて、
立法の規定について最も厳格なパリ裁備とでした。 そしてその立法の規定を守ることには落ち度がなかった。
それはですね、食べ物の規定とか、飲み物の規定とか、あるいは何かの秘を守るとか、そういう行いを言うわけです。
罪を犯さないって言うんじゃないんですよ。 でもそれに関しても私は、
それによって、 基準の義においても、
非難されるところがないものでしたよ。 つまり、
偽教師たちはパウロの足元にも及ばないと、下げすんでいるように聞こえる。 そして、さっきも言いましたが、そんなパウロが実は誤りであったと後で告白しますから、これは大変衝撃的で、
説得力のある言葉なんです。 その本人がこう言っているわけですから。
遵守して落ち度がない人がそう言っているわけです。 私たちここから何を学べるか。私たちもですね、聖書をルールブックと捉えて、
クリスチャン生活はですね、そのルールを守って生きることであると思い違いしてはいけないんですね。 実はクリスチャンの献身というのは、立法を守るという、ルールを守るということではなくて、
実は生き様に関わる、もっと根本的なことである。 そしてもっと豊かなものだ。
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実はそのことをパウロはピリピの1章21節で一言で言ってますよね。 私にとって生きることはキリストです。
表現しているわけです。そのことをもうちょっと最後に詳しく見ていきますけれども、 それはどういうことか。それは別の言い方をすればですね、
私たちがイエス様が生きたように生きるということなんです。 生き様っていうのですね。私いつもやっているあの
三聖堂の辞書で調べたら、その人の人間性を様々と示した生活態度は生き様だったんです。 人間性を示した生活態度は生き様って言うんですね。
その人間性とは何かというと、その人の本性だって言うんです。 だからクリスチャンの日々の奉仕というのは、
イエス様の本性をその生活態度で表すこと。 これが私たちの日常の神への奉仕だとパウロは考えています。
そのことをパウロは繰り返し2章で教えてきましたね。 ある学者はキリストに限らず、
神ご自身のキャラクター属性を生き様で示す。 例えば、自分のことだけではなくて他の人のことも帰り見なさいとか、
2章のところにずっとそのイエス様の使える態度などが書かれていた。 その生き様なんですね。
Keep walking with Jesus、イエス様と共に日々歩み続ける生き様だって言うんです。 このように
私たちは献身ということをパウロから言われていますが、 実はそこで一つ問題が生じますよね。
人はですね、私はそうですが、自分の力ではイエス様のように生きることができない。 さらに立ちが悪いのはですね、
パウロは今日いう肉的なものに頼って誇りとして、 自分の力でそれができたときに、自分の手柄にしてしまうことがあるんです。
ですからパウロは、
神の精霊によってより頼んで、 私たちがこの生活の中で
イエス様を表すということを 教えているんですね。
神の御霊によって礼拝するというのは、 神の精霊により頼むことによって、私たちが生活の中でイエス様の本性を表すことができるというんです。
神の御霊によって礼拝するというのは、 神によって授けられた精霊に私たちが信頼することによって、
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私たちは日々の生活の中でイエス様の本性を表すことができるということなんですね。 大事なので繰り返しました。
大事なことはですね、たとえ実感がなくても、 イエス様を信じる私たちの中に
精霊が宿っておられるということを信じるんですね。 皆さん自分の中に命が宿ってるって実感ないって言ったら変ですけど、
食べたものが自分の体の栄養になっているという実感があるかどうかわかりませんけど、 必ず食べたものは自分の体の栄養になってエネルギーになっている。
同じように、 私たちの中に御精霊様も宿っておられるんですね。
そして、 祈りながら、頼りながら生活するんですね。
神様、私のうちにおられる精霊様によって、私の生き様を通してイエス様が 崇められますように、そのようにしてください。
私のうちにおられる精霊によって、神様どうか私の生き様を通してイエス様が崇められ ますように導いてください。
そのように、祈りまた神様により頼んで、御生活していくことではないかと思います。
このようにコエルが言うところの、神の御霊によって奉仕をし、 人間的なものに頼らないでイエス様を誇っていく。
そして救い主イエス様に会って喜んでいくお互いであり、 イエス様を明かしし生きていくお互いでありたいと思います。
最後に今日の大事な御言葉を読んで終わりにしましょう。 ピリピ3章3節ですね。読んでみましょう。
神の御霊によって礼拝し、キリストイエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ 活霊のものなのです。
お祈りしましょう。 天の神様皆お賛美いたします。
私たちの周りには、私たちのアイデンティティ、誇りに、喜びに直結する様々な要素や出来事があります。
どうぞ私たちがその世の中で、時に試練の中で、イエス様の救いを希望とし信頼し、
また家に宿る聖霊様に頼りながら、イエス様を誇り、イエス様を生きていく。 イエス様を明かしし、
イエス様の生き様に習っていく。 そのような奉仕者として日々導いて下さい。
これらの言い尽くせない思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それではそれぞれ御言葉に応え一分ほどお祈りして下さい。
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