イエスとニコデモの対話
ヨハネの福音書3章9節から15節。ニコデモは答えた。どうしてそのようなことがあり得るでしょうか?イエスは答えられた。あなたはイスラエルの教師なのに、そのことがわからないのですか?
まことにまことにあなたに言います。私たちは知っていることを話し、見たことを証しているのに、あなた方は私たちの証を受け入れません。私はあなた方に地上のことを話しましたが、あなた方は信じません。それなら天上のことを話をして、どうして信じるでしょうか?
誰も天に上った者はいません。しかし、天から下ってきた者、人の子は別です。
モーセがアラノで蛇をあげたように、人の子もあげられなければなりません。それは信じる者が皆、人の子にあって永遠の命を持つためです。
以上です。
今日はこのところから、蛇と十字架と永遠の命と題して見事をお届けします。
皆様おはようございます。
今日は3月19日です。
サンビカを歌いながら、明日、3月20日、アメリカで新しい大統領が就任します。
色々な意味で世界は揺れていますが、讃美歌にありますように、神様が全てを支援しておられるということを信じて歩んでいければと思います。
寒い朝となりました。
今日、病気の方はいませんが、体調の都合や学業の都合で、血跡やオンラインの方もいらっしゃいますが、ともに礼拝が守れることはありがたいと思います。
さて、先週見た3章の始めから、イエス様とニコデモの対話が始まりました。
今日はそのところの続きです。
そして、ニコデモが今夜やってきたというところで、ニコデモが今日のところにもありますが、
ユダヤ教の教師である、あるいはサンヘドリン国会議員や、また最高裁判所の裁判官のような立場。
そのような立場なのに、どうしてイエス様が言った新生について、新しく生まれることについて理解できないのかということを語っています。
これまで神の国に入るためには、新しく生まれなければならないということをイエス様はニコデモに話してきたわけですね。
そのことを理解できず信じられないニコデモに対する言葉が今日の箇所なんですけれども。
イエス様の言葉を、冒頭の部分、今日のところの冒頭の部分を要約しますと、このように告げているんですね。
私が言うところの新しく生まれる、つまり先週見たとおり上から生まれる、その教えは信じるに値するんだ。
それなのになぜそれを信じられないのか。また私がなぜこの伝えていることを証言が信じるに値するものであるのか。
それは私はその上から下ってきたものとして、その事実を神のもとで目撃したからである。
そういうことをイエス様は案に告げているわけです。
先週も見ましたが、新しくは上からですね。
そしてそれはまあちょっと前置きなくなってしまいますけれども、天に属すること、神に属すること、そして今日最後取り上げますが、永遠に属することだ。
イエス様は今年の初めの礼拝の説教で見たように、神ご自身として天から下って来られた人となって来られたお方だ。
そのように天で見たことを証言しているのだから、事実は証言されるべきであって、私はそれを事実として目撃者として証言しているから信じるべきなんだということを案にイエス様は今日の箇所で伝えているわけですね。
そしてそのさらに内容を深めていくのが今日の十五説のところまでなんですけれども、三つの点を今日見ていきます。
ヘビと十字架ということで、旧約聖書の中のイエス様からの引用について最初は少し話します。
そして2番目はその旧約聖書の内容との共通点は信じることなんだということを話します。
そして最後は永遠の命ということについて話します。
最初ですね、ヘビと十字架ということを取り上げましょう。
ここの部分を読んでみましょうか。三章十四説ですね。
ヘビと十字架の象徴
三、はい。
人の子というのはマルクのところでも説明しましたが、イエス様がご自身を受難のメシアとして指すときに一人称として使った言葉ですね。
そして上げられるというのは実は十字架に上げられることを意味します。
そしてそれと関わることとして旧約聖書の民数記の出来事をイエス様は引用するんですね。
長いんですけれども、そこのところを本文全体を引用します。
簡単に前置きを話しますと、40年間イスラエルはアラノを旅しましたね。
旅も中盤か終盤に差し掛かるところ、アロンが亡くなった直後の出来事のようです。
そしてその時にですね、簡単に言うと襲われた時にですね、イスラエルはそれと戦って勝利した。
しかしその後に問題が起こったその部分を、長いんですけれども、21章の4節から9節をそのまま引用しますね。
皆さんにも知っていただきたいということもある。
彼らイスラエルの民はホルサンからエドムの地を迂回しようとしてアシの海の道に旅立った。
しかし民は途中で我慢ができなくなり、神とモーセに逆らっていった。
なぜあなた方は我々をエジプトから連れ登ってこのアラノで死なせようとするのか。
パンもなく水もない。我々はこの惨めな食べ物に飽き飽きしている。
そこでここに彼らの不信心が現れているんですけれども、そこで主は神様は民の中に燃える蛇を送られた。
蛇は民に噛みついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
民はモーセのところに来て言った。
私たちは主とあなたを非難したりして罪を犯しました。
どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。
モーセは民のために祈った。すると主はモーセに言われた。
あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ。
噛まれた者は皆、それを仰ぎ見れば生きる。
では最後のところだけ読んでみましょうか。
モーセは一つの聖堂の蛇を作り、それを旗竿の上につけた。
蛇が人を噛んでも、その人が聖堂の蛇を仰ぎ見ると生きた。
水木の21章の4節から9節の出来事です。
日本の江戸では今年は蛇年ですね。
それにちなんでか分かりませんが、ちょうど蛇のことが出てきました。
毒蛇に噛まれた人たち、不信仰の民がこのように蛇を仰ぎ見て救われた。
皆さんもお察しになったと思うんですけれども、
ここではモーセによって掲げられたこの聖堂の蛇とですね、
そして十字架の上にあげられたイエス様が重ね合わされているんですね。
イエス様のこと。
このようにですね、旧約聖書には多くのこのような事例があります。
どんな事例かというと、イエス様による救いを暗示するような事例です。
それはキリスト教というか聖書の専門の言葉で型、タイプというんですね。
私も新学校で言いました。
これはイエス様の救いのタイプですよ、と。
例えば有名なのはエリコの城壁が崩れた時に、ラハブが赤い布を掲げていた。
その赤い布があるところをイスラエルの人たちは攻撃しなかった。
それはイエスの血による救いのタイプだ、みたいなのがありましたけれども、
聖堂の蛇が掲げられた、それを仰ぎ見て生きたというのは、イエス様の十字架のタイプ、型だということですね。
大事なことはですね、この蛇、聖堂の蛇に魔力があったということではないんですね。
あくまでもタイプ、型なんです。
蛇が救ったということではなくて、次の点。
じゃあイエス様の十字架と聖堂の蛇の共通点は何だということを見ると、この意味がわかってきます。
それが2番目、信じるという共通点なんですね。
今日のイエス様の御言葉3章15節を読んでみましょうか。
それはから3、
それは信じる者が皆、人の子にあって永遠の命を持つためです。
ここでもイエス様は御自分のこと、受難のメッシャーとして人の子と言っております。
もうお分かりのように、聖堂の蛇と十字架の共通点は、神様の救いの言葉を信じて生きるということなんです。
民数期の出来事でこうありましたよね。
すると主は孟子に言われた、あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよう。
噛まれた者は皆、それを仰ぎ見れば生きる。
そして旧説に結果が示されていましたよね。
蛇が人を噛んでもその人が聖堂の蛇を仰ぎ見ると生きた。
ダービンが来たっていうNHKでやってる番組、しばらく前に蛇特集だったんですよね。
キングコブラってね。
キングコブラ、なぜキングコブラっていうか知ってます?
何がキングか。
それはですね、キングスネークって言うんですけどね。
蛇を食べるから、蛇の王様でキングコブラって言うんです。
キングコブラを殺しちゃうと困るのは、キングコブラは他の毒蛇を食べるから、
そうすると毒蛇が増えなくて済む。
ちょっと蛇、個人的に好きなので話が達成しましたけどもね。
毒蛇に噛まれても、聖堂の蛇を仰ぎ見れば救われるという神様のメッセージをモーセが伝えました。
それを見てね、バカバカしいって言った人は死んでしまう。
それを素直に神の救いのメッセージだと言って、聖堂の蛇を仰ぎ見た人は生きた。
これは十字架のイエス様の贖いを信じて、イエス様を仰ぎ見る。
つまり信じた人は生きるということと共通している。
その辺がいわゆるタイプ型ということですね。
繰り返しますが、今私たちが聖堂の蛇を拝んでいいとかですね、
それが私たちを救うということとは関わりがない。
信じることの重要性
あくまでも救いのメッセージを信じる人が救われる、生きるということです。
イエス様はこの中でおっしゃっているのはですね、
聖堂の蛇を見上げた人が毒蛇によって死ぬべき運命にあった。
キングコブラに噛まれた人は神経毒で死ぬんです。
まあそれは去っておきまして、その蛇に噛まれて死ぬべき運命にあった人が
神様の救いの言葉を信じて、聖堂の蛇を見上げたら生きた。
同じように死すべき運命にある人も、私たちも十字架のイエス様を見上げたら生きるというメッセージですね。
それを繰り返しますが、3章15節でイエス様は、
それは信じる者が皆、人の子にあって永遠の命を持つためです。
そのために人の子はあげられたと言うんですね。
ここにはいつものように、ヨハネの福音書の言い回しがあります。
つまり同じようなことを別の言葉で言い換えて、広く豊かな表現にする。
そういうヨハネの手法が見え隠れしているんですね。
どんなことか。先週見たテーマをもう一回思い出してください。
それは新しく生まれる神聖ということでした。
それは別の言葉では、神の国を見る、神の国に入る。
救いということがそのように神聖、神の国に入るということで言い換えられているように。
その救いの豊かさがそのように表現されているように、
今日は永遠の命を得る、永遠の命を持つということに、
イエスと永遠の命
救われるということが理解られているというか、その豊かさが表されているわけなんですね。
実はこの永遠の命という言葉はヨハネの福音書で大切な言葉なので、
3番目最後に永遠の命ということを見ていきたいと思います。
3番目は永遠の命を持つということです。
話が前後しますけれども、今日見ている箇所ではイエス様のある動きが表現されています。
それはイエス様が下ってきて上げられるという、
降りてきて上がるということが描写されています。
そして皆さんもお気づきのように、イエス様は天から下ってこられた神である。
それが1章の冒頭のテーマである。
今年の初めの礼拝のメッセージの時にも触れましたね。
その中でそういうことと関連して、
今日の3章13節でイエス様はこう言っていますね。
誰も天に登った者はいません。
人間は誰も自分の力では天に登れないし、それは傲慢だという聖書の箇所にもあるとおりです。
しかし天から下ってきた者、人の子は別です。
イエス様はまさに天から下ってこられたご自分について、ここで言及しておられるんですね。
そのことをまず覚えておいてください。天から下ってこられた神なるお方がイエス様だ。
そしてその中で、今日のこの永遠の命という言葉ですね。
この永遠の命という言葉は、実はヨハネナ福音書でとても大事な言葉で何回も出てきます。
何回出てくるかというと、17回も出てくるんです。
永遠の命。
もう少し面白いこと、興味深いことは、その大事なテーマが今日初めて使われたのが三章十五節の言葉です。
一回目にですね、この永遠の命という言葉が今日出てきたわけです。
初めて。
そしてその初めて出てきた言葉ですけれども、まさに永遠の命という言葉とは何ぞや。
それこそ広くて深いテーマなんですね。
そしてその永遠の命とは一体どういうものであるかということが、これからヨハネナ福音書の中でイエス様の口を通して、あるいはいろんな出来事を通して明かされていくわけなんですね。
今日永遠の命の最初ということもあって、いくつか今までわかることだけ取り上げていきます。
それはですね、まず永遠の命をいつも言ってますが、1月5日の時にも話しましたが、ヨハネナの冒頭、1章1節から4節では、イエス様が永遠に存在しておられる神であるということが
このような表現で語られていますね。
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この方ははじめに神と共におられた。
ここに実はイエス様が、永遠から存在しておられた神だということが隠されているとか語られているわけですね。
そしてこの部分を読んでみましょうか。
この方には命があった。この命は人の光であった。
こういう4節の言葉で、イエス様に命があり、その命とは永遠の命だということが暗示されているんですね。
繰り返しになりますけれども、ここからわかることは、永遠の命とは神様の命である。
そしてその命はイエス様にこそあるということがわかるわけです。
そしてさらに、今日のことも含めてわかってくることがあります。
先週まで見たところから言えば、この永遠の命とは、新しく上から神様によって生まれたものに与えられるんだよ。
そしてそれは、風のような聖霊の働きなんだよということがわかります。
そして今日のところですね、はっきり永遠の命と言っておりますけれども、その永遠の命を得る方法というか道としては、
信じることの重要性
イエス様によって救いが与えられることを信じて、十字架のイエス様を見上げる。
つまり、十字架に挙げられたイエス様を救い主として信じることによって、永遠の命を得ることができる。
今日は詳しくは言いませんけれど、罪によって死すべき運命にある私たちは、十字架に挙げられたイエス様を仰ぎ見る、信じることによって、
永遠の命をもって生きるものになる、ということが今日言われているわけですね。
このようにですね、イエス様について、イエス様が救い主であるということについて、神であるということについて、
ヨハネの福音書では広く深い表現で豊かに言い表されてきました。
そして、そのイエス様によって救いを得るということを、私たちはヨハネの福音書を通して知るんですけれども、
その豊かさを、永遠の命、イエス様にあって救われていることの豊かさや広さを、私たちはどうやって知るのか。
ただ聖書を読んだりするだけではなくて、実は食べ物もですね、よく噛んで味わって食べていくと、
その味がよく分かったり、栄養価も高まるように、神様の言葉もよく噛んでよく味わう。
それは、読み過ごすんじゃなくて、その意味について考えたり、あるいは時に、
黙想とか瞑想とか言いますけれども、その聖書の言葉の意味を思いの中で巡らす、
それにじっくり味わうということが必要なんですね。
そうすることによって、実は私たちはイエス様によって救われていることの豊かさや幸い、
それをですね、新鮮な気持ちでまた味わい続けることができるんですね。
実はそのように、イエス様によって自分が救われて生かされているということの幸いを知ること、
実はそこに生きていくということが、実は永遠の命につながっている、そういう幸いなんですね。
まあ、広くて深いこの永遠の命について、これからよく知っていきましょう。
また、それを信じる幸いについて共に知っていく、学んでいくお互いであればと思います。お祈りします。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
あなたが十字架のイエス様によって私たちを救い、私たちに永遠の命を与えてくださっていることを感謝いたします。
その豊かで広い永遠の命について、私たちは知り尽くすことができませんけれども、
どうかあなたの導き、御言葉やまた、聖霊のお助けによってその永遠の命を与えられている、
その幸いをさらに深くよく知ることができるように、これから導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それではしばらく1分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。