命の光の紹介
1章3節から5節。
すべてのものはこの方によって作られた。
作られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方には命があった。
この命は人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
闇はこれに打ち勝たなかった。
以上です。
今日はこのところから、命の光と題して御言葉を取り付けます。
みなさんおはようございます。
先週から10月の礼拝に入りました。
先週も申し上げましたが、日本の年度では霜期、新しい後半の期に入るということで、
たまたま私たちの教会でもですね、マルコの福音書を9月で終えて、
先週から新しく、ヨハネの福音書を礼拝で取り上げるようになりました。
マルコと違って、言い方は何かと思うんですが、少し哲学的な響きがする。
哲学的な響きがするのがヨハネの福音書です。
はじめに言葉があった。
そういうことで始まります。
そして18節までが序文であって、
ドラマや物語の最初のように、ここに福音書で明かされようとしているイエス様の実態ですとか、
あるいはイエス様をどう受け入れるか受け入れないかということが凝縮されて書かれて、
残りのヨハネの福音書への準備となっています。
10月で今日は晴れやかな日になりましたが、
今朝散歩していたら、ソメイヨシノが咲いているんです。
やはり季節外れで。
2、3輪あって、写真を撮る年配の男性から声をかけられたので、
桜咲いていますよと言ったら、そうだねとびっくりしていました。
そんな季節外れの中ですが、温かい中で共に御言葉から学べることを感謝します。
前後しましたけれども、
このロゴスが世界の創造者だということを、
今日のところから展開していくわけです。
前後しますが、先週から見ている主題はロゴスなる言葉ですね。
ギリシャ語でロゴスなる言葉として表されているイエス様が、
ダイヤモンドをあちこちから眺めてきらめかせるように、
いろんな側面がヨハネによって、
豊かな表現で記されているのがヨハネの福音書です。
先週のカギはですね、
世界が始まる前からロゴスなる言葉、答え言ってしまいますけれども、
イエス様は永遠の前から存在していた。
そして、神なる創造主なる父なる神と対話していた。
しかし別の人格と言えるんですけれども、
神でもあったという、
そのようなヨハネ独自の人間の頭では理解しきれない、
神秘的で広く深い表現がとられていたわけです。
今日もですね、この短い説を深く学んでいきます。
あるいは広く聖書から取り上げていきます。
広く深くこの聖書を学ぶと、
新しい発見とかですね、喜びも出てくるのではないか。
そのところから3つの点からまた皆さんにお伝えします。
ヨハネが展開するロゴスなる言葉の流れに沿って3つですね。
まず1番目は創造の言葉です。
1章3節前半ここにありますが、どれか一緒に読んでみましょうか。
3、はい。
全てのものはこの方によって作られた。
先ほど申しましたが、言葉が最初からあって、
そして神と対話していて、そしてその言葉は神ご自身であった。
そしてそこから展開して、
実は全てのものはこの言葉によって作られたということが展開していきます。
実は本題に入る前に言ったら変なんですけども、
聖書についてですね、皆さんにちょっと知っておくと良いこと、教養があるんですけども、
実は旧約聖書というのはもともと何語で書かれましたか。
今の話題の国です。ヘブライ語で書かれました。
しかしですね、その後やがていわゆるアレキサンダー大王が出てきて、
ギリシャ帝国が世界を統治するようになると、ギリシャ語が世界の公用語になりました。
そうするとギリシャ語を話すユダヤ人や神の民も増えてきて、
新約聖書と同じギリシャ語で旧約聖書が書かれるようになったんです。
それを70人約聖書と言って、それが当時広がっていって、
そして新約聖書が書かれた時代、ローマ帝国が支配していましたけども、
まだこの頃の公用語はギリシャ語だったんです。
だから同じギリシャ語で新約聖書が書かれました。
ちょっと端休めで余談を入れますけどね、私大学生時代にキリスト教の学校に通っていたんです。
それで一般教養というのが当時40年くらい前にありまして、
土曜の朝一番にローマ書を読むという授業があったんです。
それは出れば絶対にAをもらえる、一番Eのもらえる。
土曜の朝一なんでみんな来ないんだけども、行けばもらえるよ。
そこの先生が、月本昭夫先生と言って、後で新学校に行ってヘブル語の先生に聞いたら、
当時日本で一番ヘブル語ができる先生ですよって言われていたんです。
その先生、旧約が専門なのにローマ人の手紙を抗議するんです。
その時にその先生はヘブライ語が専門なのに、
ギリシャ語の聖書をそのまま読んで、何の解説もつけずに、
このギリシャ語の聖書を見ながら抗議する。
すごいなと思ったんですけども、後で分かったのは旧約聖書を勉強する上では、
このギリシャ語の旧約聖書を知らないといけないから、
自然にギリシャ語を学んで旧約の専門でありながら、
新約聖書もギリシャ語で読めるようになったというからくりです。
これは本当に余談です。
そういう意味で、イエス様の福音書が書かれた時代に、
ユダヤ教の人やクリスチャンの中に旧約聖書のギリシャ語が浸透していたわけなんです。
そして、このギリシャ語の旧約聖書を読んだ人たちが、
このヨハネの福音書の冒頭を読むんです。
すると、大変興味深いことが分かってくるんですね。
先週お話ししましたように、ヨハネの福音書の冒頭は、
初めに言葉があったという冒頭は、
旧約聖書の初めに神が天と地を創造されたという言葉からできたわけですね。
この創世紀の一番最初、1章3節。
創世紀の1章3節に、こうありますね。
読んでみましょうか。
神は仰せられた。光あれ。すると光があった。
この創世紀の冒頭の3節目の言葉がこれです。
この光があったというのを、ギリシャ語の旧約聖書を直訳すると、
光あれと言った、そして光があったの、この光があったをギリシャ語を直訳すると、
その通りに作られた、その通りになったという言葉になるんですね。
実はこの1章3節のギリシャ語の作られたと、
全く同じ言葉を使って、ヨハネはこの1章3節で、
全てのものはこの方によって作られたと書いてるんです。
ちょっと難しいんですが、それは動詞のエゲネトという言葉なんです。
エゲネト。
これが作った、なった、ちょっと難しく言うと英語で言うとBeingとかBecomeとかですね。
そういう動詞なんです。
実はこのエゲネト、その通りになった、作られたという言葉が、
創世紀の1章のギリシャ語を見ると、20回も使われてるんです。
先週もちょっと言いましたが、神が覆された、するとその通りになったという時のなったがこのエゲネトです。
20回使われてる。
この、なった、作った、創造したという言葉は、
神の言葉によって、あるいは創造の神の見業によって何かが出来上がったということを表す動詞なんですね。
ですからもう皆さん気が付いたと思いますけれども、
この旧約聖書の創世紀の1章に慣れ親しんだ人が、
このヨハネの福音書の冒頭、
全てのものはこの方、ロゴスによって作られた、という言葉を見ると、
ロゴスというのは創世紀1章で言われている神の言葉、創造に関わった神のロゴスなんだということがピンとくるわけです。
新しいロゴスという言葉が出てきて。
そのような繋がりをヨハネはあえて冒頭、福音書に持ってきて種明かししてしまうと、
ロゴスなる言葉で表されているイエス様は、
イエス様は実は創造の初めの時に言っただけではなくて、
創造の宮座に神と共に携わった神なんだということを伝えているんですね。
繰り返しになりますが、創世紀で神が仰せられた、するとその通りになったと、
20回も繰り返されている、その神が仰せられた言葉こそ、
このロゴスなる言葉、ヨハネが言うところのロゴスなる言葉であった。
しかもそれは神が発した単なる言葉ではなくて、
人格を持って、先週話したように、神とコミュニケーションを持つ神なる存在であったという、
命の言葉の意義
この不思議な響きが伝わってくるんですね。
この難しい概念、どうやったらわかるかなと思った時にちょっと考えたのは、
皆さん、電気って読んだことありますかね。電気。
電気があるかわかりませんけど、先週話題になったのは、
ユニクロが世界3位の売り上げを達成したって話題だった、屋内社長でしたっけ、のことが出てます。
例えば彼が電気を書いたら、彼の言葉は、その電気は彼自身なんですよね。
その人の発する言葉、書いた言葉っていうのはまさにその人そのものなんです。
だから神が発する言葉、それは実は神そのものである。
しかしそれで不思議なことは、それが単なる言葉ではなくて、
神という人格を持ったお方なんだという、
この何とも言えない不思議で神秘的な響きが、このヨハネの遺書から伝わってくるわけです。
ちょっとあちこちきましたけども、とにかくヨハネは、
想像の始めに、想像の宮座に関わった全てをあるものとした、
それはそこにロゴスなる言葉、イエス様もいたということを伝えているわけです。
2番目、次はそのロゴスなる言葉は命の言葉であったって言うんですね。
じゃあ1章3節4節読んでみましょうか。
作られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方には命があった。
ここでヨハネは、ロゴスなる言葉によって、
作られなかったものは何もないと強く宣言をしているわけです。
あまり最初から種明かしもするものなんですが、
とにかくロゴスなる言葉で表しているイエス様によって、
作られなかったものは何一つないと強く宣言しているんですね。
ちょっと今日難しいんですけど、どうなっちゃうんですけども、
ここでは動詞の時勢に注目すべきなんですね。
実はここで、
作られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
とにかく何が言いたいかというと、
ここは完了形といって、
過去から今に至るまでずっとアクションが続いているということなんです。
今まで言ったように、ロゴスなる言葉は最初の世界と宇宙の始まりの創造に関わりました。
でもそれで終わりじゃなくて、
今に至るまでずっとロゴスなる言葉は創造の宮座を行ってきているんですよということなんです。
先ほど言ったこのソメイヨシノを見るときに、
実はそこにもロゴスなる言葉の働きがあって、それが存在している。
昨日の夜の月、ご覧になった方います?
昨日は13夜の月。
来週の木曜日が満月です。
上限の月かな。
すごい綺麗です。
その月を見るときにどう思うか。
批判じゃないですけど、拝む人もいるかもしれません。
そうじゃなくて、私たちは、
あの月をもイエス様がお作りになったんだと見ることができるわけですね。
なぜそうなのか。
ここにありますが、
全宇宙と世界の始まりはもちろん、今に至るまで、
神とロゴスなる言葉の相当な働きが続いているということを言っているんですね。
それはなぜか、
あるいはなぜかというちょっと論理的な繋がりがどうか分かりませんが、
そしてヨハネは、なぜなら、
命の重要性
この方には命があったからだ。
ロゴスなる言葉は単なる言葉ではなくて、
そこに命があったんだ。
だから命を作り続けることができるんだと言っているんですね。
よくね、イエス様を信じた人を
見方が変わると言いますけど、
先日ですね、今よく医療で言われている、
スピリチャルケアというのがあるんですね。
クリスチャンの人であろうがなかろうが、
人間は病気とか死の危機に瀕したときに、
霊的な痛みを感じる。
それをうまく解消したり解決するのが、
今は臨床宗教師という資格があるんですけどもね。
それが医療の分野でもいろいろ注目されていて、
アゲヨの聖学院大学に、
もう10年以上前ですけども、
クボデラ先生といって、
日本のスピリチャル学会の代表の先生がですね、
今も就任されているか分かりませんけども、
就任されていて、
講演をいろんな先生を呼んで読んだんです。
それをまとめた本があるんですね。
これ、医療者も宗教者も読むんですけども、
シリーズの中で、スピリチャルペインに向き合う、
霊的な痛みに向き合うためにということで、
その中で一人ですね、
お医者さんが書いているんですね。
西野博さんといって、
千葉県の阿波地域医療センターの当時の
メディカルディレクターだった方です。
アメリカの名誉クリニックなどにも
勉強に行った人なんですけども、
あるきっかけからその人は脳神経外科、
脳神経外科だったんですけども、
アメリカのいわゆるスピリチャルケアの
学びに参加してはどうかと言われて、
病院からお金をもらって
アメリカと日本を行き来して勉強したんです。
そこはキリスト教の母体がやっているセミナーなんですね。
簡単に言うとその方はそこで
イエス・キリストを信じるんです。
ちょっと詳しく言うと、
自分のスピリチャルペインといって、
人間的・霊的な痛みがわかって、
ある夜、号泣して、
ある方に助け求めて
イエス・キリストを信じた。
その時のことを
西野先生が書いて、
こんなことを言ってるんですね。10年以上前の本ですけども。
不思議なことにその後、
永遠の命につながったという実感があったのです。
感覚の問題ですが、
何かわからないのですけれども、
永遠の命につながったと実感したのです。
号泣した後ですけども、
その後はぐっすり寝ました。
アメリカの研修の知事だったんですけども、
明るく朝起きたら、
びっくりしました。
外が雪で、
銀世界になっていました。
雪が降って、あたかも私の罪が清められたかのごとく、
非常にきれいな銀世界になっていました。
そのあくる日から、
本当にいろんな不思議なことが起こり始めました。
東京から行った女性に、
先生、今朝顔が変わりました。
と言われたんですね。
彼はこれを続けて書いています。
そしてもう本当に驚くようなことがありました。
神経内科の脳を専門にしている医者が言うのもおかしな話ですが、
スライドの絵が飛び出してくるように見えたり、
山が動いているように見えたり、
鳥が語りかけてきたり、
本当に驚くようなことがいろいろ起きました。
聖公会の方なんですけれどもね。
最後に、本当に医者でありながら、
脳の科学を相当勉強してきた医者でありながら、
本当に不思議なことがいろいろ起こり、
目から鱗というか、世界がガラッと変わるような、
この世界が全部神様のメッセージとして動いているような不思議な体験をしました。
一線で働くドクターが、
そのように本に寄稿している。
興味深く読んだのを思い出しました。
とにかく彼は不思議なことに、
何か永遠の命につながったという実感があったのです。
そういうことを彼が述べているんですね。
おそらく今言うロゴスのある言葉イエス様の中に命があったということ、
これは関係しているのではないかなと思って紹介した次第です。
光の象徴
3番目の最後の点。
そのロゴスのある言葉、それはですね、3番目。
人の光のある言葉であったということなんですね。
じゃあこれ、4節5節読んでみましょうか。
このようにヨハネは今度は、想像から命へ話を転換していって、
さらに最後にというか、今日のお話の最後ですけども、
今度は光へと話を発展させていくんですね。
繰り返しますがロゴスのある言葉はイエス様のことです。
そしてヨハネはイエス様の実態をいろいろ豊かな言葉で表現していって展開していく中で、
今度は命、そして命の光ということを明らかにしていくわけなんですね。
先ほども言いましたが、イエス様は全てを作られた命なるお方である。
全てのものに命を与える命なる方である。
そしてその命は人の光であったって言うんです。
それがどういう意味か、これから福音書の中で転換されていくんですけれども。
人を照らして人を命に導く光とも言えるわけなんですけれども、これからも学んでいきましょう。
そして興味深いことに神様が世界の創造の始めに作られたものも光でしたね。
神様がこのように作られたということが、創世紀の冒頭の1節から3節に書かれていますね。
初めに神が天と地を創造された。地は暴爆として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の表を動いていた。
ここからだけ読んでみましょうか。
神は仰せられた。光あれ。すると光があった。
繰り返しますが、この光があったのあったは、さっきのエゲネトですね。
このように、ここでは光は神ではないんですけれども、世界のこの世の創造の始まり。
神様が一番最初に創造して闇を打ち破ったものは光だったんですね。
そしてそのことを反映するように、ヨハネはこのように述べているわけなんですね。
読んでみましょうか。
この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
このように、最初の創造の時に闇の中に光が輝き出たように、イエス様が今このように輝き続けているということをこれからも共に学んでいきたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたが御言葉を通して、イエス様の豊かなお姿、宮座、そのことを私たちに明らかにしてくださっていることを感謝いたします。
私たちの知恵では理解しきれず、捉え切ることができません。
しかしどうぞ、あなたの創造の宮座を見る時に、私たちを見る時に、イエス様にある命を私たちも知ることができますように、
イエス様ご自身を知ることができますように、どうか導いてください。
そして、闇に輝く光、闇に打ち勝つ光であるイエス様を私たちがこれからも知っていくことができますように、どうか私たちの目を開き、導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。