00:05
聖人への手紙3章1節から5節
三魂によって始まったあなた方が、今、肉によって完成されるというのですか?
あれほどの経験をしたのは無駄だったのでしょうか?まさか無駄だったということはないでしょう。
あなた方に三魂を与え、あなた方の間で力ある技を行われる方は、あなた方が立法を行ったからそうなさるのでしょうか?
それとも、信仰を持って聞いたからそうなさるのでしょうか? 以上です。
今日はこのところから、信頼と聖霊と題して見言葉を取り継ぎます。皆さんおはようございます。
5月になりましたが、巷ではゴールデンウィーク、しかも研究事態宣言など何もないコロナに入ってから、簡単に言うと公式な制約がない初めてのゴールデンウィークということで、
テレビなどでは帰省する人、旅行する人、果てはハワイ旅行も行く日本人の方々のことなど、そのようなことが報道されています。
しかし、私たちクリスチャンは、皆さん今日は旅をせず、ここまで旅のような形で来てくださった方もいるかも分かりませんが、
私たちクリスチャンの旅路は、このゴールデンウィークで終わりではない。
私たちのクリスチャンの旅路は生涯続く、それがクリスチャンの巡礼の旅ということなんですね。
このクリスチャンの巡礼の旅を、この地の旅路を歩むために大切なことを、三味一体の神様に信頼する、そこが秘訣なんですね。
そのことを、今日3つの点から学んでいきます。まず最初、長い導入なんですけど、背景を少し理解してください。
パウロはですね、強い口調で、嘆きの言葉を述べています。
ああ、愚かなガラテア人、十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、誰があなた方を惑わしたのですか。
このガラテアの人たち、クリスチャンと私たちが共通している点があるとすれば、それはですね、
ガラテアの人たちも私たちも、たとえイエスさんを信じクリスチャン生活を始めたとしても、悩みが尽きないということです。
いつも言ってますが、人生の試練、それだけではない、清廉潔白な人間になれない。
03:04
自分の罪に勝てなかったり、この誘惑を受けて、その誘惑との葛藤から、なかなか抜け切れない。
そのような、クリスチャンになればイエス様のような、清廉潔白な人間になろうと思って、バブテス負けたのに、それがなれない、そういう葛藤を経験するということでしょうね。
その時に、何かが足りないとしたら、こういう風にですね、おそらく彼らも思ったかもしれません。
どうやったら自分は、本当のクリスチャンになれるんだろうか。
その時に、実は、ガラテアの人たちにですね、忍び寄る影があった。
それがこの手紙の背景です。
それはですね、こういう教えです。
立法を守れば、自分も本当のクリスチャンになれる。
旧約聖書、あるいはユダヤ人が引き継いできた、立法を守れば、自分も神の民となり、本当のクリスチャンになる。
ひいては、この問題ない、清廉潔白なクリスチャンになれる。
そういう風に、偽りの教えを吹き込まれてしまった。
余談になりますけど、惑わしたという言葉はですね、新約聖書にここしか使われていない言葉で、
横縞な目を送るという意味なんです。
当時ですね、魔術師が目と目を見て、相手に魔術をかけて、
そして、相手を、なんて言うんでしょうかね、
まあ、悪しき者の、誘惑、悪しき者の手に落とさせるという、
横縞な目って書いてる、邪志って言うんですね。
目を使って相手を呪うという、そういうことが示唆されているんです。
だからそれと対比して、パウロはですね、
そうじゃない、あなたの目の前にイエス様の十字架という福音が、はっきり表されたのに、なんで、
偽りの邪志によって惑わされるんですか、ということがこの言葉の背景です。
まあ、これはあくまで余談ですね。
まあ、そのような惑わしを投げるパウロですが、
ガラティアのクリスチャンも、私たちもですね、信仰を持って、自分も覚えがあります。
クリスチャンになって、すぐ半年後に洗礼を受けたけど、
自分が思ったようなクリスチャン生活を送れない、そういう葛藤。
あるいは、長年クリスチャン生活を送っていてもですね、
この清廉潔白な人間になりきれない。
そんな時に、人間が落ち入りやすい過ち、
またこの聖書の背景にある過ち、それは、自分に立法化して苦しむということです。
簡単な言葉で言い換えるならば、
06:00
簡単な言葉で言い換えるならばですね、
正しいことを行い続けて神様を喜ばせる。
あるいは、悪いことをやめて神様を喜ばせる。
自分もそういうことをクリスチャンになってしばらくしていました。
これさえすれば神様を喜んでくださる。
これをやめれば神様を喜んでくださる。
そしてそれに挫折して苦しむ。
そのようなことをして、クリスチャンらしく歩もう。
清廉潔白な人になろう。
しかしそれは、パウロがこの箇所で避難する立法を行って、肉の力で完成を目指す。
肉の力によって完成を目指す。
そういう行為であるということなんですね。
これが導入です。
本題ですね。
救いの始まりと完成ということをまず第一に見ていきましょう。
パウロがこのように、
投げた後、
こう述べているんですね。
あなた方はそんなに脆かなのですか?
御霊によって始まったあなた方が今、
肉によって完成されるというのですか?
私たちが知るべきこと、それはですね、
イエス様を信じたこと、
そしてバブテス様を受けたことは、
始まりに過ぎないということなんですね。
その始まりに過ぎない。
この箇所でパウロはですね、信仰の
始まりと完成について、
今日の箇所で述べています。
私たちは福音を聞いて信じ、
精霊を受ける。
それはですね、
完成に向けた始まりに過ぎないということを
知らなければいけないということなんですね。
そしてさらに大事なことはですね、
私たちの信仰が完成するのは、
この地上の生涯を終えて、
私たちがイエス様とお会いする時に、
信仰が完成するのであるということなんですね。
そしてその信仰の完成の時まで、
この人生の長い巡礼の旅を
続けるということなんです。
そして私たちはですね、
罪の責めと罰からは救われました。
しかし、
私たちの
救いの完成は将来である。
罪の罰と責めからは救われました。でも、
その救いが完成するのは旅の終わりである。
そのことを心に留めなければいけません。
ですからその
完成の時までですね、私たちは
試練に遭ったり、
自分の肉の弱さ故に誘惑に遭うわけなんですね。
完成は旅の終わりであって、
09:00
旅の登場で、
自分の肉の弱さによって誘惑されて葛藤したり、
戦いが続くという意味でも戦いが続く。
理想の人間はクリスチャン像には、
遥かに遠い自分の姿に、私たちは
悩み続けなければならないということ。
そのことをまず心に留めておきましょう。
救いの始まりと完成がある。
2番目、
その中で大事なことはですね、
それでも神様に信頼し続けるということなんです。
人生の旅の中で、
神様とイエス様に私たちは
信頼し続けなければならないということなんですね。
パウルは今日の箇所でそのことをこう表現しているんですね。
これだけをあなた方に聞いておきたい。
あなた方が御霊を受けたのは、
立法を行ったからですか?
それとも信仰を持って聞いたからですか?
あなた方はそんなにも愚かなのですか?
最後の一文だけ読んでみましょうか。
御霊によってですね。
3、はい。
御霊によって始まったあなた方が、
今、肉によって完成されるというのですか?
信じて御霊を受けて始まった、
だから完成するまで神様を信頼し続けなさい。
そのようなメッセージも込められているわけなんですね。
皆さんは覚えていますか?
私もそうですが、
自分を救ってくださる神様と、
そして十字架の上で自分の罪の上がらないようなしてくださったイエス様を
信じることによって、
私たちの信仰は始まりました。
そしてその信仰が始まった後ですね、
クリスチャン生活を自分の力でクリスチャンらしく生きようというのではなくて、
その信仰生活の中でさえも、
神様に信頼し続けていくということなんですね。
私たちの救いを完成させてくださる神様に信頼し続けるということが、
クリスチャン生活の本質であるということなんですね。
私たちの救いを完成してくださる神様に信頼し続けることが、
クリスチャン生活の本質なんですね。
この私たちの救いを完成してくださる神様、
誠実な神様について、
パウロは別の聖書の箇所でこう教えています。
フィリピン1章6節ですね。
読める方一緒に読んでみましょう。
あなた方の間で良い働きを始められた方は、
キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、
12:01
私は確信しています。
さっきのパウロのガラティアの言葉のように、
始まりと完成があります。
そして、信仰によって私たちは入門したんですけれども、
私たちの救いを始めた方はですね、
良い働きを始められた方と言って神様だと言っています。
そしてその神様ご自身がですね、
イエス様の日が来るまでに、
私たちがイエス様と再会する日までに、
その救いを完成させてくださる、
そう私パウロは確信している、
そのようなメッセージなんですね。
私たちもこのパウロの信仰のあり方に習って、
例えば今苦しみやですね、
自分自身の弱さに葛藤したとしても、
私の信仰を完成してくださるのは、
私の救いを完成してくださるのは神様で、
必ずきっとそれを神様が完成してくださると、
この世の旅路の中で信じ続ける、
それが大事な秘訣だということです。
3番目、その中で私たちもう一つ大切なことがあります。
三密体の神様が案に示唆されていますけど、
精霊の体験を覚えて、
その精霊に信頼し続けるということなんですね。
この最後のとても大事なことはですね、
私たちがイエス様を最初に信じたときに体験した、
この精霊の技、そのことを思い出して、
それを覚え続けるということなんです。
そしてその最初に働いた精霊様が、
私たちの内に働いて、
これからも私の救いを完成させてくださると、
その精霊の働きに信頼することだということなんですね。
パールが空手屋三章五節でこう述べている通りですね、
ちょっとこれも読めるかと読んでみましょう。
3、あなた方に御霊を与え、
あなた方の間で力ある技を行われる方は、
あなた方が立法を行ったからそうなさるのでしょうか、
それとも信仰を持って聞いたからそうなさるのでしょうか。
精霊なる神様、父なる神様が私たちに与えて下さいました。
それは立法も持ったからですか、
それとも私たちが信仰を持って聞いた、
福音のメッセージを信じたから、
心に信じてですね、この福音のメッセージを聞いたから、
あなたは救われ、精霊を授けられたのですか、
そうアンにパールは言いながらですね、
精霊が与えられたのも信仰によるんだとパールは言っているわけです。
15:03
つまりどういうことでしょう。
皆さんこういう感覚を覚えてますか。
このイエス様を一番最初に信じた時、
あるいはいつでもいいです、
イエス様が本当に私の救い主だってわかって、
いろんな表現の仕方があってパターン化できないんですけども、
私はイエス様は私の心に入って下さいって祈ったんです。
人によってはイエス様はあなたを救い主として信じますって祈ると思います。
その時になんか目が開かれたような感覚ないでしょうか。
今までわからなかったイエス様の十字架がわかった、
それは福音に目が開かれる、
実はそれは精霊の働きです。
目が開かれたような、
新しく神様を本当に知ったような感覚は、
それは精霊が働いたということなんです。
精霊が心に注がれ、真理が示されたということなんですね。
あるいは皆さん、このイエス様を初めて信じた時、
イエス様を救い主と信じた時に、
心にこの喜びとかですね、開放感を感じなかったでしょうか。
それは精霊が皆さんの心に、
自分の心に働いて、喜びや開放感、
そのような精霊の力の技が働いたということです。
精霊がその時、与えられたということなんですね。
あるいはですね、言葉に表されないような不思議な経験、
人によっては奇跡を経験するかもしれない。
言葉に表せない力を心に感じるかもしれない。
そのような確かな力の感覚を覚えているでしょうか。
そのようなことも、
信じて精霊が与えられた救いの経験です。
そのような始まりの精霊体験というのがあるんです。
と同時に、クリスタン生活を送る中で私たちが、
苦しみの中で神様に祈って、
聖書に答えを探し、聖書を読んだ時に、
この新たに神に出会う精霊を受けた、
精霊が働いたという体験をすることがあるんですね。
29日の金曜日、今までお知らせしたようにですね、
スプリングセミナーというものがありました。
皆さんリモートで参加したんですがですね、
私は、
講師紹介とか主催者でもあったので、
会場のですね、
足立区竹之鶴にある東京中央バブテスト協会まで行って、
一緒に講師とご飯を食べて、
教科書とご飯を食べて、そして公演に参加しました。
公演の主講師はですね、
寺田ルカさんという、
クリスチャンホームの2世です。
30代半ばの兄弟で、
まあ、兄弟ではなかったですね、
東京学芸大学の
美術専攻で、今建築事務所で働いている方、
18:03
彼はいわゆるトランスジェンダーです。
で、あの、
まあ彼もそういう働きしてますから、
明らかに言いますけど、
身体は女性のまま、
でも心が男性なので、男性として生きている。
性転換手術はしてないんですね。
で、そういう方が、
クリスチャンの中にもいったん悩んでいるので、
そういう方々を、
助けるために約束の虹ミニストリーというのを
作り上げて、今働いて、
活躍しておられる方です。
で、まあ、
あの、
ルカ君ってね、呼ぶんですけど、
彼がですね、
明かしも含めて1時間ぐらい話してくださった中で、
一つ私印象に残っていることがあります。
もう彼は真面目なクリスチャンで、LGBTの方もよく悩むんですね、
クリスチャンの方。
自分が、
身体が女性なのに、心が男性であるっていうのは、
罪なんじゃないかと言って。
まあ、ある本人は、本人から聞いているんですけど、
ある本人は、そうやって、心を病むクリスチャンの方が、いっぱい、特にアメリカなんかに多いんですね。
自分が罪だと。
でも、どうやっても、
この身体と心の性が一致しない。
で、彼はその、
精神科のですね、
診療を受けて、
そして、
医師から、
はっきりとね、
性同一性障害という診断を受けたので、
そういう診断を受けたから、その通りに生きようということを決めたんですけど、
その中で、
彼はですね、やっぱりどうしても、
この自分の
身体と心の性の不一致に、
なんというか、
言いようもない苦しみがあったんですね。
私はクリスチャンとして、神の前に生きてていいんだろうか。
そして彼はですね、
その気持ちを正直に神様に、祈りの中で打ち明けた。
ぶつけたって言うんですね。
もちろん彼は神学校も出てたんですから、いろんな神学的な勉強もしたんですけども、
心からですね、神様にこんな私が生きてていいんですかって祈った時に、
彼がこう言ったんですね、
その時言葉で表せないんだけども、
ふっと心の中に神様から、
あなたはそれでいいんだよっていうメッセージをもらったような気がした。
彼はもらったって言うんです。
その時からもう自分は、
こう、開放を感じてですね、
自分に恥じることなく生きることができるようになりました、
という証をされたんですね。
本当に彼は実存的なところで、
神様と出会ったんだな、ということも分かりましたし、
まさにそれはですね、
祈り苦しみの中で、
精霊と出会う、
そういう体験だな、と今日のメッセージの準備をしてて、
改めて思ったわけです。
このように、私たちは、
自分のアイデンティティとかですね、
クリスチャンになっても、
清廉潔白に生きることができない。
当然、病や試練がある。
21:01
そんな中で、
自分は本当にクリスチャンでいいのだろうか、と悩むかもしれません。
でも、
イエス様が死んだ時に、精霊を受けたその体験を思い出し、
そして、
自分がいいことをすることじゃなくて、
イエス様、神様、精霊様に信頼し続けることによって、
自分の救いを完成するんだ、
完成されるんだ、と、
神様に信頼し続けるということ、
それが改めて、
今日のパウロのメッセージでもあるのかな、と思いました。
どうぞ、
皆さん、
私たちもですね、
そのようなクリスチャン生活の旅路の中で、
イエス様を信じ続け、
また神を求め続け、
精霊によって新たに変えられ続けていく。
そしてまた、神を信頼していく。
そのような歩みにお互い歩める。
クリスチャン生活を送っていけたらと思います。
最後にもう一度、
パウロの御言葉を読んで、
終わりにしましょう。ガラティア3章5節ですね。
あなた方に御霊を与え、
あなた方の間で力ある業を行われる方は、
あなた方が立法を行ったから、そうなさるのでしょうか?
それとも信仰を持って聞いたから、そうなさるのでしょうか?
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちは自分のクリスチャン生活がうまくいかない時に、
あるいはそうでなくても時に、立法主義に苛まれて、
またそのように道を踏み外すことがあります。
けれどもどうぞ、最初にあなたを信じた救いの喜びを思い出しながら、
また終わりに触れて、あなたに叫び求め、
祈りの中でまた様々な状況を通して、
御精霊を受けることによって変えられ続けていくことを感謝いたします。
言葉で表せない、また本当に説明するのは難しいですけれども、
どうぞ私たち一人一人が日々の歩みの中で、
あなたに出会い、あなたに信頼し、あなたの精霊を受け、
救いの完成の道を歩み続けることができるようどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく1分ほど