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ソラテア3章6節から14節、新海約聖書2017年版でお読みします。
アブラハムは、神を信じた。それで、それが彼の義と認められた、とあるとおりです。
ですから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である、と知りなさい。
聖書は、神が違法人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、全ての違法人があなたによって祝福される、と前もって福音を告げました。
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人、アブラハムと共に祝福を受けるのです。
立法の行いによる人々は皆、呪いの下にあります。立法の書に書いてある全てのことを、あまり行わない者は皆、呪われる、と書いてあるからです。
立法によって神の前に義と認められる者が、誰もいないということは明らかです。
義人は信仰によって生きるからです。立法は信仰によるのではありません。立法の掟を行う人は、その掟によって生きるのです。
キリストは、ご自分が私たちのために呪われた者となることで、私たちを立法の呪いから贖い出して下さいました。
木にかけられた者は皆、呪われている、と書いてあるからです。
それは、アブラハムへの祝福が、キリストイエスによって、違法人に及び、私たちが信仰によって約束の御賜を受けるようになるためでした。
以上です。
今日はこのところから、一番大切な関係と題して、二言葉を伝えます。
皆さん、おはようございます。
今日はゴールデンウィークの最終日でありますが、このように皆さんと礼拝を守れることを感謝しております。
ガラテアビトの手紙をしばらく学んでいます。
これは、パウロの最も大事な福音が要約された手紙である、学者の中でも非常に研究の価値が高い手紙だということです。
その中で、ここの背景になっていることは、違法人、ここで言えばガラテアの人々ですけれども、
昔の、今のトルコ地域に住んでいる方々ですね。
ユダヤ人以外のガラテア人や私たち日本人やアジア人も、旧約聖書やユダヤ教の教えが言うところの立法を守らなければ、
本当の神の民になれない、クリスチャーの本物になれないという、そういう議論が当時あったんです。
特に何を立法の中で守るかというと、食事の規定ですね。
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よく言うのは、うなぎや豚が食べれないとか、あるいは、
違法人の偶像の神殿に捧げた肉を食べてはいけないから、ユダヤ人はこと細かにですね、この肉がどこから来たかということを調べた。
そして、そういう中からですね、ユダヤ人は違法人と一緒に食事しなかった。
それを違法人のクリスチャーも守れていました。
そしてもう一つ大事なことは、ユダヤ民族、神の民の印としての滑稽を男子が全員受けなきゃいけない、
そういう立法に生きることを強要されていたわけです。
その問題にパウロは、特にガラテア人の手紙の背景にそういう問題がありましたから、答えてこの手紙を書いているわけです。
いわゆる宗教改革で有名な信仰義人という、そのことが生まれた、言われる元となったのもこのガラテア人の手紙の一節でもあるわけです。
その今日見た箇所でパウロは特に、このアブラハムの信仰に習う人こそが神の前で義とされる。立法を守る人ではない。
アブラハムの子孫とは、アブラハムの信仰に習う人である。それが神の民となって、アブラハムの約束の祝福を受けるんだということを言っているんですね。
そのことが大切だと、前にも書きましたけど、今日の箇所で3回同じことを繰り返しています。
ちょっと読める方に6節だけ読んでみましょう。
アブラハムは神を信じた。それでそれが彼の義と認められたとあるとおりです。
ですから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であると知りなさい。9節ですね。読んでみましょう。3、はい。
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人、アブラハムの友に祝福を受けるのです。
このように、信仰によって生きるということ、それはすなわちどういうことかというとですね、神様との信頼関係に生きるということなんです。
それはどういうことかということを、今日3つの点から学びます。
一番大切な関係というのは、神様との信頼関係の中に生きることだということ、関係だということなんですね。
まず最初、創造心は信頼を裏切らないということなんですね。
皆さんね、よく分かっていると思いますが、人間関係の基本は何ですか?
それは信頼関係ですよね。
特殊詐欺というのは、それを逆手に取ったもので、電話を受けた、例えば女性だったら、息子の言うことには嘘がない。
そして息子と変わった弁護士の言うことにも嘘はない。
そしてそれと変わった警察官の言うことは信頼できる。
このような無意識の中で信頼してしまうというところを逆手に取っているわけですね。
これは不健全な例ですが、健全な例としてはここの絵にもありますけれども、
幼い子が親を無条件に信頼している。
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それがこの信頼。
そしてその背後には、信頼する相手は信頼に値する人だという。
そういう信頼関係です。
レジュメなどに書いてないんですけれども、ここで大事なことは、
信頼の対象、その対象とする神様ご自身のことにフォーカスされています。
そしてアブラハム、そして私たちが信頼する神様はどんな神様かというと、
創造神、クリエイター、クリエイター・ガッド。
それはどんな神かというと、パウロが言い換えているのは、
死んだと同然の100歳のアブラハムとサラの夫婦。
そこからですね、多くの子孫が生まれるという、
そういうことを約束できる神様。
その神様のことをアブラハムは信頼したということなんですね。
ローマの4章書いてあります。
この信仰、信頼の本質ということについて、
ある学者はこのような表現をしているんですね。
ちょっと今日書き忘れてしまいましたね。
ここで書いてありますね。
これは創造神、つまり死者に命を与え、
存在していないものを呼び出して、
存在させる神による約束だ。
ちょっとここで大事なことなんで読んでみましょう。
このからですね。
この神の前で人は信仰、すなわち純粋な信頼以外に応答する術を持たない。
この無から有を創造する命の源の神様に対して、
私たちは純粋な信頼以外に応答する術がないと言われているんですね。
さらにそのことと関係してもう少し詳しく見ていきましょう。
2番目。
それではアブラハムの信頼に倣うとはどういうことでしょうか。
言い換えるとアブラハムの信仰に倣う。
それはですね、信頼できる神様に私たちは誠実をもって応答するということなんです。
つまり約束する神様も誠実をもって私たちに約束を果たしてくださいますが、
私たちもその信頼に値する神様に誠実をもって答えるということなんです。
英語だとわかりやすいんですね。
Truthという言葉、それは真実と誠実ということと同じ意味なんですね。
真実な神に対して誠実に答える。
こういう関係です。
それはですね、ここに黄色い図がありますけれども、一方通行じゃないんですね、信頼関係。
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神様が誠実に私たちに答えてくださるように私たちも神に対して誠実に応答するということなんですね。
信頼関係が通い合うような関係です。
これまたある学者は同じ人なんですけれども、こういう表現してですね、
アブラハムは大きな期待をもって信じた。
それはただ神に頼る信仰だ。
そしてこれは、神の約束に確信を抱き、完全に信頼する非造物の信仰だ。
この信仰の根拠は、神が約束したという事実に尽きるんですね。
ただ神に頼る信仰。
神の約束に確信を抱いて、完全に信頼する非造物の信仰だ。
神に作られたものとして当たり前の信仰だ、生き様だって言うんです。
根拠は何かと言ったら、それには神が約束したという事実に尽きるんですね。
実はここでとても大事なことがあるんですね。
その何度も今繰り返してしまいましたけれども、
私たちアブラハムが神様を信頼できる根拠は何ですか?
それは単純に、神様が約束したからです。
それしかないというんですね。
その上で、神が裏切らない。
なぜなら、どういう事が言えるか。
神が約束したという事のさらにその先ですね。
じゃあなぜ神様は約束を裏切らないのかという根拠。
それはですね、神が想像心である。
神が想像主になる神であるという事。
それ以外にないという事なんですね。
その事をパウロはローマ書で、別の言い方で言い表していますね。
ちょっと読める方、ローマ4-20-21を読んでみましょう。
彼は不信仰によって神の約束を疑うような事をせず、
反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を期し、
神には約束された事を成就する力がある事を固く信じました。
なぜ神が言ったから約束が守られるのか。
それは先程言いましたが、
神は無から有を想像する、想像主になる神様だから。
だからその神様が言う事には間違いがない。
そういう論理になるわけなんですね。
さらに私たち幸いな事は、その証拠や根拠を遡る事が出来ます。
それは死んだも同然の100歳のサラから遺作が生まれた。
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そして死んだと思ったイエス様が神様によって蘇らされた。
このような事を私たちは知る事が出来る。
根拠として知る事が出来るわけですね。
そしてそのようなサラから生まれたアブラハムの子孫、
そこからまたイエス様が生まれ、
そしてその復活したイエス様から教会が生まれ、
この私たちが今ここに存在する。
そういう経路をたどっている。
そこからも神の約束に信頼する根拠を見つける。
そこにも神の約束を信頼する根拠を見る事が出来るわけなんですね。
そして別の観点から言うと、
私たちが今の時代に神様はイエス様を死人の中から蘇らせた。
そう信じている事自体がアブラハムと同じ信仰に習っている事なんです。
無から有を作られた相当の信頼ある神様に信頼しているという事。
それがアブラハムに習う信仰であるという事も覚えておきましょう。
3番目、しかし現実的な問題があるんですね。
行く前に呪いではなく祝福として精霊を受けるという事があります。
その約束の御言葉を読んでいますね。
キリストは御自分が私たちのために呪われた者となることで、
私たちを立法の呪いから贖い出して下さいました。
木にかけられた者は皆呪いが呪われていると教約聖書に書いてあるからです。
ここから読んでみましょう。
それはアブラハムへの祝福がキリストイエスによって違法人に及び
私たちが信仰によって約束の精霊を受けるようになるためでした。
この呪いと祝福という事を見ていくんですけれども、
私たち実は神様を信じて生きていても、現実的には失敗する事があるんです。
神様に誠実に答える事ができない失敗を経験します。
そしてその失敗を経験する中で、とても大事な事があるわけです。
私たちはクリスチャンとして時に罪を犯してしまっても、
それでも私たちは救われ続けて神様の祝福を受け続ける事ができるのです。
空いてる席にお座りください。
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それでも私たちは神様からの祝福を受け続ける事ができるのです。
なぜかそれはイエス様の十字架の贖いがあるからなんですね。
実は私たちは自分の信仰をしっかり確立するために、
その信仰の内容がどういうものであるかという仕組みを時に知る必要があるわけです。
その中身、どういう中身なのか、どんな意味があるのか、
どんな仕組みで私たちは贖われているのか、
その理論的なところを知ると私たちの信仰の土台も揺るがなくなるという事があるんですね。
繰り返しになりますが、私たちはイエス様を信じても誘惑にあいます。
葛藤します。時にそして神に背く事があります。
しかしイエス様が十字架で私たちの全ての罪を担ってくださったがゆえに、
私たちはその罪の呪いから解放されているんですね。
イエス様の十字架にどんな意味があるか、
それはイエス様は十字架の上で私たちの穢れをその身に負ってくださったんですね。
穢れたものと見なされてしまったんです、十字架の上で。
その穢れが何が起こるかというと、イエス様が穢れたものとして十字架で死んだという事は、
信じる私たちの穢れがそのイエス様に乗り移ったという事なんです。
そしてイエス様が十字架の上で死んだという事はですね、
穢れたものとして自分の死をもって、命をもって神に償いをしたという事なんです。
その何が起こるかというと、その穢れを背負って罪の償いをした時にですね、
そこの神の清め、清さというものをですね、そこでイエス様は受け取るわけです。
それで何が起こるかというと、そのイエス様が受け取った神の清さというものが、
イエス様を信じる私たちに乗り移るという事ですね。
私たちのものにその清さが乗り移ってくる。
そういう事がイエス様の十字架の上で私たちとの間で起こっているという事を覚えておいて下さい。
そしてですからそのような仕組みが十字架の上で起こっているからこそ、
私たちが罪を犯してしまった時に十字架を見上げます。
その十字架の贖いの宮沢にすがります。
その時に私たちは神の許しと清めを自分のものとして、
約束の精霊を神から受け続ける事ができるんですね。
言い換えれば、そのような神様に私たちは精霊を与えて下さるんだ、
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信じるだけで精霊を与えて下さるんだという事を信じ続ける事ができるんですね。
それが信頼の継続です。
これらの内容というのは信じ難い事かもしれませんね。
私たちに精霊が与えられているという実感がなかったり、信じられないかもしれません。
あるいはそのあまりにも恵みのきまいの良さが大きすぎて、
きまいが良すぎてですね、そんな事あるもんか。
そんな甘い話あるもんかと思うかもしれません。
あるいはですね、自分の罪とか罪悪感は確かなんだけれども、
その神の許しとか精霊の実感というものはそれほど確かなものでなくて、
あやふやに感じるかもしれませんね。
つかみどころがない。自分の罪の実感に比べたら、
つかみどころがない精霊の臨在やイエスタムの許し。
あるいはですね、ただ単純な毎日の生活が繰り返されていく。
パウロのような劇的な事が起こらない。
あるいは自分の存在はですね、平凡な存在に過ぎない。
そんな中に本当に精霊が与えられているんだろうか。
命が与えているんだろうか。
と思ってしまうかもしれません。
こういう事でですね、
信じるだけで精霊が与えられている。
罪許されて精霊が与えられたということが
思いもよらない事だと思うかもしれませんけれども、
それは無効化の事実だということを覚えておきましょう。
そのような思いに私たちが苛まれる時にこそ、
無から有を生み出す創造神である神様。
その神様が約束してくださったということを思い出していきましょう。
また私たちはですね、
そういう自分の実感がないかもしれない。
でもその時こそですね、
100歳も死んだも同然のアブラハムとサラの夫婦から
遺作が生まれて今に至っているんだな。
あるいは、あ、そっか。
死んだイエス様が蘇ったんだな。
死んだイエス様を神が蘇らせたんだな。
そこに思いを馳せるわけですね。
そうしてですね、その同じ命と同じ力強さ、
その同じ信頼性によって
神様は私たちを許し続けてくださって、
精霊を与え続けてくださって、
私たちを祝福してくださることを信頼続けていきましょう。
アブラハムに与えられた祝福、約束された祝福というのはですね、
実はパウロからすればですね、
二つあって私たちが神の子となった。
もう一つは私たちに精霊が与えられた。
そういうことが、それがですね、
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私たちに与えられたアブラハムの祝福だそうなんですね。
それを受ける手段、唯一の手段それは、
神に信頼し続けるということであるということなんです。
このですね、大事なことはですね、
信仰を通して恵みによって約束を賜るというこの手段は、
神様が人間に関わる最も根本的な原則であるとある学者が言っているんですね。
信仰を通して恵みによって約束を賜るというのはですね、
英語で言うとBy Grace Through Faithですね。
信仰によって恵みを通して、ごめんなさい、失礼しました。
信仰によって、信仰を通して恵みによって、
この約束、神の祝福、精霊を賜る。
そういう方法はですね、
人間は神に関わる最も根本的な原則だということなんですね。
で、これはですね、学者がこういう風に言っている。
ちょっとこれを皆さんで一緒に読んでみましょう。
約束は信仰からでなければならない。
なぜならその時、神が人と関わる最も根本的な原則、
信仰を通して恵みによってが明示されるからだ。
神的恵みへの信頼が無条件でない限り、
それはアブラハムの信仰とは異なる。
この信じることを通して神が恵みを施してくださる。
それは実は人間の神の最も根本的な関係の原則なんだということなんですね。
これは実に単純で、どうでしょう。
自分を信頼してくる幼子に対して無条件で良いものを与えることが
良い親の最も本質的な性格ですよね。
それと、この神と人間の関係の本質というのはとても似ていることなんですね。
この私たちが習うべき神様とアブラハムの信頼関係に生きること、
それが最も大切な関係です。
そのことをパウロが別の聖書の箇所で言っていますから、
それを最後におさらいして、説教終わりにしたいと思います。
アブラハムはおよそ百歳になって自分の体が死んだも同然であることと、
サナの体の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。
ここから読んでみましょうか、3回。
彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、
反対に信仰がますます強くなって神に栄光を期し、
神が約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
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だからこそそれが彼の義とみなされたのです。
お祈りしましょう。
天の神様、みんなお賛美いたします。
私たちは自分自身の頼りなさを知っており、
またこの世の出来事や物事の儚さを知っています。
その中で命を作られ、無から有を生み出す
まことの創造主なる神様を知っていることは幸いなことです。
どうかそのあなたに信頼すること、
信頼する私たちにあなたは無条件で良きものを備え、
また祝福し、精霊を与えてくださるということ、
そのことを純粋に単純に信頼して、
あなたにより頼むことができるように、
おさなこの心を私たちに与えてください。
その中でどうかあなたの命、ご精霊の命、
あなたの祝福を体験しながら、
またあなたのことをして、あなたの祝福を他の方々に受け継いでいく、
そのようなものと私たちを作り替え用いてください。
あなたが私たちを召してくださったこの幸いを感謝して、
私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉にお答えする時間、
黙祷の時間をとりましょう。