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テサロニケビトへの手紙第1・5章23・24 平和の神御自身が、あなた方を完全に聖なるものとして下さいますように、あなた方の霊、魂、体のすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのないものとして保たれていますように。
あなた方を召された方は真実ですから、そのようにして下さいます。
以上です。
今日はこのところから、ゴールを目指してと題して御言葉を取り継ぎます。
おはようございます。
今日は5月10日、日曜日ですね。午前10時を回ったところです。
今日は、昨日と打って変わって、少し今は晴れやかな朝になっております。そして今日は気温が上がるとのことですが、御言葉から共に学んでまいりましょう。
いよいよ今日と来週で、この手紙が終わりになります。
その締めくくりを、パウロは今日、このところで、締めくくりの言葉を書いております。
その内容は、テサロニケのクリスチャンの完成を神に願う祈りです。
すなわちこのような言葉に変えられます。
人生のゴール地点で、テサロニケのクリスチャンが、あるいは今信じている私たちが、罪なき者とされるようにとの祈りです。
この間も緊急事態宣言が政府により延長されました。
この外出自粛が続く中で、このような嘆く声を聞きました。
何と戦っているのか分からない。
そうですよね。また先が見えない。出口戦略が見えないとも言われています。
このゴールが見えないという今の不安があるでしょう。
しかし、クリスチャンの人生にはゴールがあります。
では、今日の話のゴールを目指して話していきます。
今日は、まず最初に前提として知るべきことをお話しします。
その中で、その次に3つの点でお話しをし、最後に結論を述べます。
まず最初に、私たちの知るべき前提、成果と栄果についてお話しします。
ぜひ皆さんに覚えておいてほしい、キリスト教の専門用語があります。
難しく言うと、神学的な用語と言います。
それは、成果と栄果です。
まず成果。この字は、聖書の聖という字に化けるという字を書いて、成果と言います。
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つまり、清められていくということです。
クリスチャンが生涯をかけて、この罪が清められていく、その生涯のプロセスを成果と言います。
そしてそのゴールは、イエス様と同じく罪なき姿と私たちが成ることです。
それが栄果、もう一つの大事な点の栄果です。
栄果とは、栄光の栄、栄えるという字に変化の栄と書きます。
その栄果の状態、私たちがイエス様と再び会って、罪なき者とされる状態、
そのことが今日読んだ5章23節にこうあるわけです。
私たちの主イエスキリストの来臨の時に、
責められるところのないものとして保たれていますように、ということです。
しかし、私たちが実際、クリスチャンとして生活を続けていく中で、
罪を犯さなくなるということはありません。
そんな中、私もそうですが、できないと言って打ちしがれることがある。
また、その中で自分を責めることがあるかもしれません。
しかし、神様は私たちが自分を責め続けて、
この人生の旅路、成果の途上を、道行きを諦めてしまう、
そういうことを望んでおられないんですね。
この成果の段階では、いわゆるあり程に言えば何度も失敗したり、挫折をします。
しかし、その中でも必ず、私たちは聖なるものと変えられ続けているのです。
イエス様の十字架の身代わりの死によって、
私たちは立場的には神様の前でも聖なるものとされていますが、
この実質的に清くなっていくというプロセスは生涯続く。
いわゆるマラソンのようなものですね。
あるいは旅のようなものです。
苦しいこともありますが、必ずマラソンは完走し、
旅も良い終わりを迎えることができるわけです。
それでは3つの点から話していきましょう。
まず第一は人生というマラソン、つまり栄華を目指す成果の歩みということでしょう。
パウロは自分の書いた別の手紙で、
自分の人生をマラソンのような都教祖のようにたとえています。
第一コリントの9章26節です。
私は結晶点がどこかわからないような走り方はしていません。
このようにです。
また同じように聖書では、私たちの人生、クリスチャンの人生も、
このようなレースや旅に例えられているわけです。
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地上では旅人であり貴族者だとピリピンの手紙にも書いてありますね。
そしてその人生のゴールは、
この手紙にもあるようにイエス様と再会する時です。
再輪と言われていますから相手は再会と言いますが、
そのイエス様との再会が人生のゴールです。
それはいつか、つまり私たちがこの人生の生涯を終える、いわゆる死を迎える時か、
あるいは私たちがもし生きているならば、
その間にイエス様が再び天から帰って来られるという再輪の時か、
この二つが私たちの人生のゴールなわけです。
再輪については、4章の16から18節をまた見てください。
さて、今日読んだこの5章の23、24で、
パウロはそのゴールを見据えた上で、こう言っているわけです。
その歌詞をもう一回読みますね。
平和の神ご自身が、あなた方を完全に聖なるものとして下さいますように。
そして、あなた方の霊、魂、体のすべてが、
私たちの主イエスキリストの来臨の時に、
責められるところのないものとして保たれていますように。
先ほどから申し上げているマラソンやレースに例えて解釈すると、
こう言い換えることができるでしょう。
神様は私たちの人生のマラソンを完走させてくださる。
そしてそのゴールは、私たちを人として完成させてくださることであるということです。
人生、私たちを人間としてイエス様の姿へと完成させてくださる。
それがこのマラソンのゴールだ。
つまり私たちがこの人生のゴールを切った時、
私たちは神様の見舞いで、
責められるところがないもの、罪なきものとされる。
そしてその罪がなく、イエス様と同じ姿に完成してくださるということです。
そして、パウロの手紙によれば、こうも約束されているわけです。
この生涯を私たちが完走できるように、
そして私たちが生涯マラソンを走っている間も、
たとえ失敗したり、諦めたくないそうになっても、
私たちの霊と魂と身体を清め続けてくださる。
それが神の約束だということです。
昨日、NHKで夜7時半から、
東京五輪の水泳の代表選手であった池入加子選手。
彼女は昨年の2月に白血病を公表しましたが、
それが彼女の糖病生活の中でリハビリを経ながら、
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水の中に入ってまた泳ぐというところまでをドキュメントしておりました。
非常に心を打つものでしたね。
彼女が言うところの、
当たり前であったことが当たり前でなくなった時に、
当たり前のことが愛おしく感謝に値する輝いて見えることだと言っておりました。
そういうことが非常に心に迫ってきましたが、
この池入加子選手しかり、
このオリンピックということを考えた時に、
オリンピックでは聖火ランナーがおりますね。
聖火ランナーは聖火台に火を灯すことがゴールです。
そのゴールを目指して聖火を携えて、
聖火ランナーを走るわけです。
クリスチャンはですね、聖火台の光というものではなくて、
神の栄光、また自分が栄光輝く姿になるという、
その栄光の姿を目指して、
その栄光の光を目指して、
聖火を手に持ってではなくて、
この自分が聖火される、
この聖火の道を走る、
それがクリスチャンランナーのアイドルとも言えると思います。
さて、この栄光を目指して、
聖火の道を走り続ける、旅路を歩み続けるということ、
それが第一のポイントでしたけれども、
二番目のポイントに触れます。
二番目はこのゴールを目指すために、
霊と魂と体の維持ということです。
パールは今日読んだ歌書23節で、
魂と霊が清められますようにと述べています。
簡単に述べますが、この魂と霊、
これは厳密な区別がないんですね、ここでは。
つまり私たちの内面を指している、
どの内面かといえば、
特に神様を求めて、
神様と関わりを持つことができる人間の部分を、
魂や霊で表すと言われています。
またある学者によれば、
この信じたものに精霊が宿ると言いますが、
精霊なる神様が宿り、働かれる部分が、
この人間の魂や霊だというわけですね。
そして内側から帰られ、清められていくということです。
そしてこの魂と霊と同時に、
体が清められますようにと、
パールは同じ説で言っています。
この体、体も大事です。
マラソンで例えれば、
このランナーが途中で吸水を受けるように、
吸水の中に養分が入っているように、
私たちの魂と霊にも栄養が必要です。
この、すみません、体とは別に、
魂と霊という部分について話を続けますけれども、
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この魂と霊の栄養、
マラソンランナーが吸水するような、
この私たちの人生のマラソンの時に必要とする栄養素、
魂と霊の栄養素、
それは聖書の言葉ですね。
聖書の言葉から私たちは、
魂の糧を得るわけです。
あるいは、走りながら酸素を取り込んでいくわけですね。
そのために呼吸をしていますが、
その呼吸にあたるのが祈りです。
息はプニウマ、プネウマと言って、
霊とも同じ言葉なんです、聖書では。
つまり私たちが祈ることによって、
この霊的な呼吸をすることによって、
私たちの魂と霊も酸素を得て健全になるように、
この神の命を得て健全になっていくわけです。
その呼吸にあたるのが祈りとも言えると思います。
これらの御言葉や祈りについては、
さっきの5章16から22の間で既にお話ししましたので、
その面も参考にしてみてください。
そしてここでですね、体です。
パウロは人間の内面と同じく、
体も等しくここで尊重しています。
あなた方のすべての霊と魂とそして体が、
火の落ちるところのないものとなりますようにと言っています。
何が言いたいかというと、
パウロは人間の魂と霊と等しく体を大事にしている、
尊重しているということです。
精神がしっかりしていれば、
肉体を疎かになってもいいという誤った考え方が、
ギリシャの具能主義やかつての日本の精神主義にもあったわけですが、
それは間違いです。
私たちも聖書に習うならば、
肉体を疎かにしてはならないわけです。
マラソンに例えるなら、
当然走るためにランナーは、
体そのものを健康に保つ努力をしているわけです。
昨日の池入り加古選手も、
体重が10キロ以上落ちてしまった。
本当に、こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、
足が細くなって、腕も細くなって、
もう減衰もできないぐらいになってしまった姿が、
痛々しく映ったわけです。
しかし、腕立て伏せを何度も続けたり、
様々なトレーニングを経て、
彼女は減衰ができるようになったり、
また水の中で泳げるように体も回復したわけです。
このように、アスリート、マラソンランナーにとって、
体の健康は大事なものなわけです。
それはクリスチャンの人生においても同じなわけです。
そして、パウロはそのことも、
テサルネキの手紙第1の中で述べているわけです。
例えば、パウロは、
この違法人の習慣に習っていた、
一部のクリスチャンを指摘して、
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特に性的な堕落、
結婚以外の不適切な性的関係について、
今、締めているわけです。
また、健康な体であっても、
怠惰さのゆえに不健全な体になってしまったり、
あるいは人に依存していると、
健康が損なわれるわけですね。
このテサルネキの教会でも、
クリスチャンになっても、
怠惰さのゆえに、
自分の家族以外の人から、
教会の人から生活の過程を貪るという、
そのような不健全な依存関係の中に生きていた人たちがいたわけです。
そういう人については、
怠惰な生活を改め、働くようにと、
4章の11節、12節で進めているわけです。
ここも過去の話を参照してください。
このようにクリスチャンは、
身体、身体的な健康も維持する必要があるわけです。
そしてそれは、
一般的な話のみならず、
このような聖書の文脈からも、
私たちは神聖に捉えていく必要があるわけです。
別の箇所では、
体を聖霊が宿る神殿、
聖霊の宮といって尊重するようにと、
パウロは教えているわけです。
今、外出自粛が続く中ですから、
自然と運動不足になる方もいますね。
ですから、
部屋の中でのトレーニングでしょうか、
あるいはウォーキングでしょうか、
そういうことも必要かと思います。
また今、
家飲みが増えているわけですね。
飲酒にふける人はいないと思いますけれども、
この家飲みが増えて、
そしてアルコールに対する不健全な依存も増えているということも聞かれます。
ですから、私たちはそういう中で健康を保つために、
飲食や運動のみならず、
ネット環境やゲームとの関係においても、
この健全さ、
フィジカル面での健康を保つ、
その配慮が必要なわけです。
そのような健康的なフィジカルの面での、
今の生活における健全さを保つという意味においても、
その新しい動機として、
それも覚えておいてください。
ここまで2つ目の話をしましたが、
最後3つ目の話をします。
この成果の歩み、
そして栄華を目指したゴールへ届く歩みにおいて、
この人生のマラソンにおいて、旅路において、
最終的には、やはり神様が寄り所になる。
それが最後の点です。
最終的には神様が寄り所になるという点です。
パオラはこのように命じていながら、
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身体的な清さを保つように、
態度を忌ましめながら、
最後にはやはり、
完成させてくださる神様とイエス様に祈り、
このクリスチャンたちをその神の手に委ねているわけです。
究極的に完成させてくださるのは、
私たちの父なる神イエス様であると信じて、
祈っているわけです。
3章の11から13節に、
パオラはこう祈りを述べている通りです。
どうか私たちの父なる神であり、
私たちの主イエスである方御自身が、
あなた方の心を強め、
私たちの主イエスが、
御自分のすべての生徒とともに再び来られる時、
私たちの父なる神の御前で、
清く責められるところのないものとしてくださいますように。
これは3章の締めくりで、
先ほど言った、
性的穢れを避けるようにといった中での締めくりですね。
ここでやっぱり最後は神に委ねているわけです。
また3章だけではなくて、
前回まで見てきた5章の部分も、
パオラは最後の命令を重ねています。
愛と配慮に満ちた命令を、
パオラは5章の11節からずっと書き続けていって、
そしてその締めくりで、
今日見ているこの5章の23、24の約束を語っているわけです。
このように最後の最後は、
パオラは神様の御手に、
テサルニ家の人々、
そして私たちを委ねているわけです。
あたかもこう言っているかのごとくですね。
パオラの言葉を言い換えてみますと、
私は愛をもってあなた方のために命じてきました。
しかし最後は神様が完成してくださるのです。
その真実な神様により頼んでください。
そうしていれば大丈夫です。
こう言っているのがごとくです。
これのことを踏まえて、
神を信じていれば大丈夫だということを踏まえて、
最後の約束に注目しましょう。
結論です。
真実な神様が完成してくださるということです。
言い換えれば、
完成してくださる、私たちを完成させてくださる、
完走させてくださるのは、
真実な神様だということです。
神の真実さです。
パオラは今日読んだ5章の23、24節、
この数々続いた戒めの結び、
24節でこのように述べているわけです。
あなた方を召された方は真実ですから、
そのようにしてくださいます。
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つまり、全く清くしてくださり、
イエス様の来臨の時には、
神の前で非難されるものとない、
非難されるもののないものとしてくださる。
そうパオラは言っているんですね。
パオラは神様について、
真実な神と言いながらも、
もう一つ、
あなた方を召された方と言っています。
召は正体の正と書く字ですね、招く。
パオラは4章でもこのように述べているんですね。
神が私たちを召されたのは、
汚れを行わせるためではなく、
清潔を得させるためです。
パオラはそのようにですね、
神の召について4章7節で語っています。
この神が私たちを召すという言葉、
それはこのような意味です。
神様が私たちを選んで、
このマラソンや旅に招いてくださった。
そしてその旅に招いたからには、
その責任を神様が取ってくださるという意味です。
ですから私たちが努力する以上に、
神様ご自身が私たちの完成のために働いてくださるということです。
私たちのこの地上の生涯を、
私たちが聖なるものとして守り通せるように、
神様が私たちを守ってくださるということなんです。
そして私たちがイエス様と会うときに、
私たちを罪のないものにしてくださる。
神様ご自身が私たちを責任を持って、
ゴールまで導いてくださるというわけです。
ですから私たちを召してくださった神様は、
真実なお方だからです。
私たちが礼拝の中で、
人信条を昭和しますが、
その冒頭にこうありますね。
我は天地の作り主、全能の父なる神を信ず。
そう宣言するときに、何を信じているのでしょうか。
宗教改革の少し後に、
このような文章がドイツで出されました。
ハイデルベルグ聖教リモンド。
これはですね、クリスチャンのある信仰を整理立てて、
文章形式で学ぶことができる教理文章です。
その中でこの、我は天地の作り主、
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全能の父なる神を信ずるに関して、
こういうやりとりがあるんですね。
あなたはここで何を信じ告白しているのでしょうか。
その問いに対する答えの中で、このような言葉があるんです。
私はこの方により頼んでいますので、
この方が体と魂に必要なものすべてを私に備えてくださること、
また、たとえこの涙の谷前へいかなる災いを下されたとしても、
それらを私のために益としてくださることを信じて疑わないのです。
なぜならこの方は全能の神としてはそのこと、
すなわち体と魂に必要なすべてを備え、
いかなる災いにおいても私のために益としてくださること、
そのことがおできになるばかりか、
真実な父としてそれを望んでおられるからです。
この外出自粛が続く中で、何と戦っているかわからない、
先が見えないと私たちも嘆くことはあるでしょう。
そのような中ですが、私たちの人生をゴールまで私たちを守り、
この人生のレースを完成させ、人生のレースを完走させ、
旅を完成させてくださる神様により頼んでいきましょう。
最後に、パールの手紙から2つの言葉を引用します。
ピリピピとの手紙1章6節
あなた方のうちに良い働きを始められた方は、
キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを
私は堅く信じているのです。
もう一つ、第二テサノニケ3章3節
しかし、主は真実な方ですから、あなた方を強くし、
悪い者から守ってくださいます。
お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
外出住宿が続く中で、先が見えない、
そのような不安に駆られることがあります。
様々なことに取り組む中で、
自分の無力さや、また虚しさを覚えることもあります。
しかし、今私たちがそのように思っても、
あなたは私たちを守り続け、
また私たちを聖なる者として
清め続けてくださることを感謝します。
そして、私たちの成すべきこと、
そして私たちのこの人生の旅路をも、
あなたが完成させてくださり、
私たちがイエス様とまみゆる日に、
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イエス様と同じ姿へと変えられ、
またこの人生をあなたにあって
全うすることができますことを信じて感謝いたします。
どうぞこの希望をますます私たちが悟り、
深く心に留め、
あなたにあってその証を生きていくことができるようにも導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様の名前によって祈ります。
アーメン。