00:01
皆さん、おはようございます。
礼拝が祝福されていますことを感謝します。
今日も御言葉の時が来ました。
一言お祈りをして、今日の歌唱を開きたいと思います。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追い、そして私についてきなさい。
恵み深い天の父なる神様、今日もあなたを礼拝するために、この宮に登ってまいりました。
自分で来たというよりも、聖日礼様が促して、神の国と神の義をまず第一にするという、その思いを与えてくださって、ここに招いてくださったことを感謝をいたします。
ジェス様が弟子たちに言われたとあります。
誰でも私についてきたいと思うなら、ジェス様についていきたいという思いがある者は、自分を捨て、自分の十字架を追って、そしてジェス様についていくのです。
今日もその方を仰ぎ、またこの方を我が人信じて、この方についていくことを信仰告白し、またその方がいつも私たちと共にいてくださるその信仰をもって、ここを出ていくことができますように、どうぞ導いてください。
今日も御言葉が与えられていることを感謝をいたします。
御言葉なくして私たちの信仰生活はありえませんから、どうぞ今日も豊かに一人一人にこの御言葉が迫ってくださり、またこの御言葉を例の糧として、これからの信仰生活、教会生活が守られてまいりますように。
弱く乏しいものでありますから、精霊様が強めてお一人お一人を支えてくださいますように。今からいただきますお言葉をお待ち望みます。語るものは乏しく弱いものでありますから、主が精霊を通して豊かに一人お一人に語りかけ、また御言葉を通して私たちを導いてくださいますように。
今日ここに来れたことを感謝をいたします。またいろんな悪事状があり弱さを覚えて来れなかった兄弟姉妹方のことをも誰よりも主が御存じてありますから、どうぞ正しく必要なものを与え、また来る時には共に礼拝を捧げることができますように。
全てを御手に委ね主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
03:26
同じ言葉が同じように並べられているとは限りませんけれども、3人の福音書の記者がそれぞれ自分が見たこと、聞いたこと、思ったことを記してあるということで、私たちはこのゲス様の祈りの状況を3方から見ていく。立体的に見れるという。
それは本当に幸いなことであります。
皆さんは行きつけの何々というのを一つか二つかあろうかと思うんですね。
行きつけのレストランとか行きつけの三八屋さんとかそういうのがあろうかと思うんですが、行きつけの美容院というのはあってもいいけれども、行きつけの病院というのはあまり行かないほうがいいわけですけれども、でも病気になったり治療するときにはそういうところに行くということがあるわけですね。
なぜそんなことを言ったかと言いますと、このゲステマネのソロにゲス様が行かれたということで、マルコにはないんですけれども、ルカの福音書ではいつものようにゲス様はそこに行かれた。
そしていつもの場所で祈りをなさったという。それがこのゲステマネのソロ。
油絞りという意味のそういうところ。そこに行っておられた。ゲス様も行きつけの場所があったわけですね。
そういうところに私たちが行きつけのレストランとか行きつけの喫茶店とかそういうところに行くというのは、やはりそこに行くと落ち着く。
あるいはそこで心が休まるというような、そういうところが誰しもあろうかと思うんですね。
ですからゲス様がそこに行っていつもそのところで祈っておられた。
そこに行くと誰にも邪魔をされずに、そしてとにかく吉なる神様と深く交わりができたんだろうな、そういうところ。
私たちにもそういうところがあればいいのに、私のゲステマネのソロ、そういうものがあれば本当に幸いかなと思うんですね。
06:01
ある人は近くの小高い丘の上に何かそういう場所を見つけて、そこに行っては神様と祈る。
ある人は海辺の砂浜のところにあるベンチに座って波の音を聞きながらでも神様と交わる。
そんなことをされる人もありますし、あるいは自分のお家の自分の部屋の中でそこが一番心を安らぐところ、あるいは神様と本当に心を打ち明けて祈れるところ。
そういうところがあるというのも幸いだと思うんです。
私は前回の福音書の6章のところで皆さんもお聞きになったと読んだことがあろうかと思うんですが、
あなたは祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして扉を閉めて隠れたところにおられるあなたの室に祈りなさい。
そうすれば隠れたところで見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。
いつものようにいつもの場所でジェス様はこのところで祈っておられた。
しかしいよいよこの十字架を木前にしたその出の祈りでありますけれども、今回がいよいよ最後のゲツセマネのその出の祈りとなってしまっているということ。
こういう状況の中でこの祈りが始まったということなんです。
まず第一にジェス様の恐れというのをここから見ることができるわけです。
33節34節35節のところを見てみましても、ジェス様は深く恐れもらえ始められた。
そして私は悲しみのあまり死ぬほどです。そんなことをおっしゃっておられるということ。
私たちがこれまで福音書を読んできた中で、どんなことにも動じない、どんなことにも恐れない、どんなに荒木が来た時でもその船のところで寝ておられる。
いつも平安の中におられたジェス様がこれほど恐れられたというそんなことがかつてなかったわけであります。
3月は深く恐れもらえ始められた。そしてその祈りの中で私は悲しみのあまり死ぬほどです。そんな祈りをなさっておられる。
私たちも祈りを捧げますが、祈りというのはいろんな祈りがあっていいわけですね。
09:06
嬉しかった時、天皇神様こういう嬉しいことがありました。本当に嬉しいです。あるいは感謝しますよ。ありがとうございます。祈りが聞かれました。
そういう祈り、あるいは神様こういうものが今必要なんです。お願いします。与えてください。助けてください。
そういう祈りもありましょうし、それこそ嘆き、このような悲しみ、苦悩、そういう祈りを私たちは捧げるわけであります。
そしてこのジェス様のお祈りのように、悲しみのあまり死ぬほどです。極度に追い詰められた、そういう中で祈る祈り。
また私たちがそういう時にも祈れるということの幸いをもう一度覚えたいと思うんですね。
こういう祈りを誰にも言えない、あるいは誰にも聞いていない、そういう中で、このゲツセマネでの祈りが捧げられている。
このジェス様の祈りの状況というものが、ルカの福音書では、このイエスは祈りの中で、そしてその汗が血の雫のように血に落ちた、そういう表現がなされています。
悲しみも絶え、そしておそらくジェス様は全身が汗びっそりになっておられたんだろうということが想像できます。
そして人間というものは、恐らくこの恐怖やこの緊張が極度に達すると、その尿や汗に血が混じってしまうんだろうか。
それは専門的にはわかりませんけれども、それほどにジェス様の苦しみ、そのもだえ、それが極度に達していた、そういうことがこの記事からわかるわけですね。
それほどジェス様は恐れておられた。深く恐れ、もだえ始め、私は悲しみのあまり死ぬほどです。もうその恐れ、苦しみ、もだえ、そして命が絶たれてしまうのではないか。
このまま意識をなくして、そして生き絶えてしまうのではないか。それほどの苦しみであったということ、それがあるわけです。
あのいつも平安であったジェス様がこんなにお苦しみになったということ、それはおそらく十字架を前にしての祈りであった。
12:10
いよいよ十字架の刑罰を受けることが、もう自分にはわかっている。そのことのゆえの恐ろしさであろうかと思うんですね。
何の罪もない、この自分が人の罪を負って、そしてこの十字架刑を受けるということの苦しみ。
これは神であられるジェス様と、そしてもう一方の人間である、生身の人間であるジェス様のその葛藤でもあろうかと思うんですが、
今は私たちと同じような一人の人間として、死も涙も、そして喜びも苦しみもある、一人の人間としてのこの苦悩を、この月世真似の園で父なる神に訴えておられるということ。
それが今は苦しみもらえるという、そういう状況がここで表されているわけです。
これは一つの誤解によるこの刑罰を受けるということになっていくわけであります。
私たちも時として誤解を受けることがあります。
小さな誤解であっても、そこに意気通りを覚えたり、取り乱すことがあることを考えただけでも、このジェス様がここまで苦しみ、そしてもらえられたということはわからなくもないと思うんですね。
ちょっとの誤解で私たちは意気通り、そして心を乱す。
もし、自分は何もしていない、全然関係のない、そういう私。
それがたまたま通りかかった、そこで殺人が行われた。
その時に誰かが、この人が殺したんだ、というふうになってしまった。
自分はそんなことをしたことは覚えがない、全く何もしていない、関係がない。
しかし、この人が殺したんだ。
そして捕らえられて、裁判にかけられて、そして殺人犯にされて、死刑を言い渡された。
もし、そんなことがあるとするならば、これはどんな苦しみだろうか。
それこそ苦しみ、悶え、そして悲しみのあまり、どうしていいかわからない、気も狂わんばかりの、そういう思いになるのは容易に想像ができます。
15:10
まさにイエス様もそういうところに立たされたわけであります。
何もしていない。何の罪も犯していない。しかし、自分は人の罪を負って、そして神を冒涜した、という、そういう名目の上に、この十字架刑を受けなければならない。
ましてや当時の極刑でありますから、苦しみ、悶えて、そして晒し者にされて、この刑を受けなければならない。
そのことを思うときに、イエスは深く恐れ、悶え、そして悲しみのあまり死ぬほどです。
イエス様の汗が、血の雫のように、ぷたりぷたりと地面に落ちた。そのように部下は記しているわけです。
二つ目に、イエス様の信仰告白。先ほどの言葉の中に、三十四節ですが、イエス様はこのように祈られた。
あば父よ、あなたにお出来にならないことはありません。あば父よ、天皇父様、あなたにお出来にならないことはありません。
このような恐れの中で、苦しみ悶えの中で、イエス様は信仰告白をお忘れになってはいない。父よ、あなたはお出来にならないことはありません。
あなたは全知全能のお方です。その信仰告白をなさっている。
私たちは思い返すと、あのクリスマスの時、マリアに精霊が臨んで、そして御使いがこのように言いました。
マリアよ、神にとって不可能なことは一つもありません。まさにこのお言葉ですね。神様にとって不可能なことは一つもありません。
神にとってできないことはない。神はどんなことでもお出来になります。お出来にならないことなんて一つもありません。
この父なる神への信頼、信仰、それがイエス様の口から出ている。
たとえその祈りが、嘆き苦しみ、そして苦悩、そういう祈りであっても、イエス様は全知全能のお方を信じて、信仰告白をなさったということ。
18:08
これは私たちの祈りにおいても大切なことであります。
もちろん祈りの中で、あなたは何でもお出来になる方、全知全能で、あなたにはできないことはありませんという言葉は出なかったとしても、
その信仰の中には、その全能のお方に信頼する、その信仰はなくてはいけない。それが私たちの信仰。
御霊の導きと信仰がなくては、祈りを捧げることはできない。
ですから私たちは、天の父なる神様と呼びかけて祈りをするときは、
私はこのお方が何でもお出来になる、不可能なことはない、そのお方である、そのお方に私は全知全霊を込めて信頼し、今から祈りを捧げます。
それが私たちの祈りであり、そして最後に、イエス・キリストの皆によってという、このキリストの権威、権限のもとにしっかりと封印をして主にそれを捧げる。
これが私たちの祈りで、3つ目に、イエス様の本心ということです。
この祈りの中で、
イエス様というお方は、父なる神の御心を行うために来たのです。
そして、封印書を読み進めていくときに、全てそのことをなさっておられた。
この杯、十字架の刑を受ける人間たちの罪を全部身代わりに負うという、そういう杯、これも神様の御心として、彼はそれを一心に受けた。
そしてまた、私は救うために、罪人を救うためにこの世に来たのです。
それが彼の使命であったわけですが、
しかし、このゲッセマネのその手の最後の祈りの中で、恐れ悶え苦しみの中で、
どうぞこの杯を私から取り除けてください。
そう祈られた。
それは偽らざるイエス様の本心であったわけです。
本当はこんな杯は、自分は受けたくないんです。
そのことを正直に実なる神様に告白なさっておられるということです。
21:13
私たちが神様に祈るときにも、おそらくこういうことがあろうかと思うんですね。
そして、私たちは人の手前とか、あるいはその責任感とか、プライドとか、そういうものがあります。
それは誰しもあることですから、これをやってくださいというときに、
はい、わかりました。やります。
あそこ行ってください。はい、わかりました。行きます。
そして、それは嘘ではない。嘘ではない。それはしなければいけない。
あるいは責任でありますし、それをしなければいけないことはわかっている。
しかし、その後でよくよく静まって、自分に正直に問うたときに、
いや、本当はやりたくないんです。本当は行きたくないんです。
しかし誰にも言えない、そういう状況に追いやられることがあります。
ジェスカマもおそらくそういうところに立っておられるんだと思うんですね。
状況は私たちよりももっともっと厳しい状況ですけれども、
私たちにも、もしそういうことがあったとしたら、
誰にも言えなくても、このつちなる神様にだけは、自分の本心を打ち明けることができるという、
その恵みがここに表されているんだ。
神様にだけは本当のことをはばかることなく言っていいんだ。
つちなる神はそれを聞いてくださるんだ。どうかこの杯を取り除けてください。
私はこの杯を飲み干したくはないんです。私は嫌なんです。本当はもう嫌なんです。
やりたくないんです。本当は行きたくないんです。
しかし、そういう思い。誰にも言えない。しかし、つちなる神様には本当の思いを打ち明けていいのだ。
神様はそれを聞いてください。
その次に、ジェスカマの従順ということが、次の祈りであります。
しかし、私の願うことではなく、あなたの御心のままをなさってください。
どうぞこの杯を私から取り除けてください。本当はこんな杯なんか飲みたくないんです。
24:00
そして聖書は、しかしと丸が一つついてつながっていますけれども、
この丸としかしの間、この期間はどれくらいの期間だろうか。
瞬時に取り除けてください。しかし、私の願うことではなくとおっしゃったんだろうか。
あるいは、この杯を私から取り除けてください。取り除けてください。取り除けてください。
嫌なんです。私は嫌なんですと、さらに悶え苦しみ、それが何時間にも及んだかもしれない。
私たちだって、本当はこんなことはしたくない。こんなところには行きたくない。
その思いがその日だけでは解決できない。それが三日たち、一週間たち、あるいは一ヶ月たち、あるいは一年、何年もずっとそういう思いが続くかもしれない。
そして、やがて、しかし、私の願うことではなく、あなたの御心のままをなさってください。
仏様は、ついにこのしかしにたどり着かれたわけです。
ならぬことはならぬものです。皆さんも聞いたことがありましょうし、見ておられると思うんですが、
これは、してはならぬことは、どんなことがあってもしてはならない。これだけは絶対に譲れないという、そういうことを表すわけですが、
何かこう、ユダヤの立法を守っているユダヤ人、パリサエ人に何か共通するところがあるのではないか。
これをしてはいけない。これをしなければいけない。これをしてはいけない。これをしなければならない。
要するに、守らなければならないものは、何があっても守らなければならない。譲れないという、そういう精神。
おそらく、イエス様もユダヤ人として、ならぬことはならぬ。してはいけないことはしてはいけないんだ。
守るべきことは守らなければならないんだ。従わなければならないことは従わなければならないんだ。
何を優先するのか。それがこの、しかし私の願うことではなく、あなたの決なる神様の御心のままをなさってください。
イエス様にとっての守るべきこと、まず優先すべきことは、あなたの御心、決なる神様の御心であるということをここで表現なさっているわけです。
私の願いは当然、杯を取り除けてくださいということですけれども、それをしりどけて、あなたの御心をまず優先いたします。そして私はそれに従ってまいります。
27:10
これがイエス様の従順の祈り、しかし私の願うことではなく、あなたの御心をなさってください。あなたの御心がなりますように、そういう祈りをここでなさってください。
その祈りによってイエス様は、いよいよ十字架に向かうことができたわけです。
四十二節、立ちなさい、さあ行くのです。ここにはもう恐れもない苦しみもない、まっすぐに十字架を見上げて、そして十字架に向かっていく、そのイエス様の姿が表されている。
すでに勝利を取られているイエス様のお姿。イエス様はやがて十字架におかかれになりますけれども、イエス様はあの十字架で勝利を取られたと私たちはそう思いますけれども、実は本当の勝利は、この月手豆のその手の祈りによってイエス様は勝利を勝ち取られた。
しかし私の願うことではなく、あなたの御心のままをなさってください。あなたにお従いしますという、このところに導かれた時にイエス様は勝利をお受けになさったわけです。
そして今日のこのイエス様の祈りから、私たちはどんな時にもこのイエス様をイエス様に習って、そして自分の本当の気持ちをこの父なる神様に打ち上げることも許されているんだということも覚えて祈り、そして生産式を行っていきたいと思います。
お祈りをいたします。イエスは祈られた。
あば父よ、あなたにお出来にならないことはありません。どうぞこの杯を私から取り除けてください。しかし私の願うことではなく、あなたの御心のままをなさってください。
天の父なる神様、イエス様の下世真似のその手の祈りを通して教えてくださりありがとうございます。
私たちが苦しみまたもらえる時も、このイエス様のように何でもこの主に打ち上げることができるように、誰にも言えないそのような深い思いのすべてをこの父なる神様に打ち上げ、またイエスキリストの名によって祈る幸いをありがとうございます。
30:10
またイエス様が主に従順であられたそのことを思いつつ、このイエス様に習うものとして、どうぞお精霊様が豊かにお一人お一人を導いてくださりますように、続く生産式の上にも主の恵みと祝福がありますように、委ねて主キリストの名によってお祈りいたします。アーメン。