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それでは、マルコ8章1節から10節、 その頃、再び大勢の群衆が集まっていた。
食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
かわいそうに、この群衆は既に三日間私と共にいて、食べるものを持っていないのです。
空腹のままに家に帰らせたら、途中で動けなくなります。
遠くから来ている人もいます。弟子たちは答えた。
こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちを十分食べさせることができるでしょう。
すると、イエスはお尋ねになった。
「パンはいくつありますか?」 弟子たちは、「七つあります。」と答えた。
すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。
それから、七つのパンを取り、感謝の祈りを捧げてから、それを先に配るようにと弟子たちにお与えになった。
弟子たちはそれを群衆に配った。
また、小魚が少しあったので、それについて神を褒めたたえてから、これも配るように言われた。
群衆は食べて満腹した。そして、余りのパン切れを取り集めると、七つの籠になった。
そこにはおおよそ四千人の人々がいた。
それからイエスは彼らを解散させ、すぐに弟子たちとともに船に乗り、ダルマの立ち方に行かれた。
以上です。
今日はこのところから、心を痛めるキリストと題して見言葉をとります。
みなさん、おはようございます。
今日は寒い朝です。先週の火曜日は、また11月には異例の夏日になりまして、私は長袖で外で作業していました。
暑くてしょうがなかったです。
打って変わって、昨日ぐらいから、金曜日ぐらいから寒くなって、今日はなんと、今シーズン初めて礼拝に暖房を入れて臨んでおります。
後ろの方にも暖房器具があるので、寒ければそばに持ってきて、スイッチを入れてくださって結構ですので、本当に記録的な猛暑の夏でしたが、秋も暑い秋となりました。
今日は10月1日の礼拝で取り上げました、6章30から34節の5,000人の給食の奇跡に似ています。
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今回は5,000人ではなくて4,000人の人たちです。
この2つは同じ話を焼き直したのではないかという説もあるんですけれども、それは別々の出来事です。
共通点もたくさんあるのですが、違いがこの2つの話にあって、それに注目するとやはりいろんなことが見えてきますので、それを取り上げながら3つのことを今日見ていきましょう。
まず第一は、違法人、あらゆる世界の人々の救い主ということです。
今日の箇所ではなくて、この9分の7章31節のところを読んでいますね。
イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリダヤ湖に来られた。先週の冒頭の箇所です。
ちょっとこれ白くなってしまいましたけど、ガリダヤ湖がありますね。真ん中に。
ここのガリダヤ地方というのが、いわゆる
ユダヤ人の地です。イエス様と弟子たちはここを中心に活動していましたが、しばらく前、7章の1節くらいから違法人の話が出てきまして、
前の話では、このツロのあたりを取得する、このフェニキア、シリアフェニキアのあたりで女性の子供を癒したということです。
ここから違法人へのイエス様の救いが広がる予兆が見られたって話ですね。
先週は、このガリダヤ湖の、イエス様はこのあたりでいつも活動してましたけど、反対側のデカポリスという、
デカポリスというのはですね、デカ、刑事とポリス、警察という意味ではありません。これはですね、デカというのは銃のポリスは町。
銃の町が集まったところです。ここはやはりいわゆる
イスラエルではない、ユダヤ人ではなくて違法人がたくさん住んでいる地域ということで、やはり今日の話も先週続いて、違法人との関わりが見て取れる箇所です。
5000人の給食はおそらくこちら側、ガリダヤ湖の西側ですけれども、今日の出来事はガリダヤ湖の東側の出来事であったわけですね。
ローマの植民地傾向が、デカポリスが強くて何度も言いますけれども、違法人の地であると言われていました。
あとで皆さんもし良ければ、
インターネットのですね、教会のホームページから遡れますのでレジュメを見たり、10月1日のレジュメや音声を聞いて復習してほしいんですが、5000人のその時の給食の奇跡、それはですね、
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神の民、イスラエル民族、ユダヤという言葉が喜ぶ出ていました。旧約聖書の背景をもとにイエス・キリストが旧約聖書のですね、モンセやヨシアとダブっていたり、そして
ダビデ王とダブっていた。そういうことで、あえて言えばユダヤ色の強いのが5000人の給食だったんですが、今回は違法人ということが喜ぶ出た箇所です。
ちょっと専門的な話で勉強なんですけど、これ知っておくとですね、聖書のテストとかでもいい点取れますからね、覚えておきましょう。
まあとにかく違法人への選挙ということです。
私の恩師の伊豆田明という牧師がマルコの福音書の解説文を書いているんですけども、そこでこういうことを言ってですね、
このデカポリス地方はガリダヤ、イエスと弟子たちが活動したユダヤのガリダヤと比べると、どちらかというとローマ植民地的傾向が強く、
違法人の世界である。そこで大事なこと、イエスはユダヤ人だけでなく他の世界に住む者たちの必要にも応えられた。
イエスキリストは世界中の人の救い主である。ユダヤ人はじめ今の聖書の拝見にあるギリシャ、ローマ、当時の世界中に住む者たちにも神の国を述べ伝え、
あらゆる必要を満たされる方なのである。それが今日の4,000人の給食の強調点、しばらく前、七章の1節からの強調点なんですね。
で、何がわかるかというと、このある節、1節によると4,000人の給食の時はですね、ユダヤ人も違法人も一緒に座って、このイエス様の増やしたパンと魚を食べた。
で、前の歌詞をわかっている方が言うには、経験のユダヤ教徒は違法人と交わると汚れるから一緒に食事しなかったんだけども、ここではユダヤ人も違法人も一緒にイエス様からパンと魚をいただいて、共に食したということです。
で、今ね、ウクライナの話が消えてしまうほど、カザ地区での戦火がよく報道されます。
で、実はどうしてそういう厳しい人がですね、キリスト教の背景のある国々が争うんだとか、聖書を知っている国が争うんだって、いろんなことを言う人いますけれども、
それで世界はですね、両方の立場を擁護するデモが世界中に、世界中というかあちこちで起こって、文字通り衝突が起こっています。
でも、よく知っておいてくださいね。この聖書やイエス様の振る舞いを見ると、どちらの攻撃も正当化してはいないんです。それを知っておいてください。
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で、先ほど申し上げましたけど、聖書が言っていることはイエス様はすべての世界に住む人たちのあらゆる必要にも応えられたということなんです。
そのことを受け止めて、特に教会に足を運んでいる私たちは、そのイエス様の歩みを模範として習いたい。
どちらの味方につくこともなく、どちらにも憐れみの思いを抱いて手を差し伸べるというのが、イエス様の足跡に習う歩みじゃないかなと思うわけです。
最初の点は、この違法人、あらゆる世界の救い主、あらゆる世界の方々に心を痛めたイエス様ということにできました。
2番目、私たちを憐れみ、手を差し伸べてくださる救い主、そういう心を痛めたイエス様について見てみましょう。
8章、今日のところでこう書いてあります。その頃、再びこのデカポリス地方のガリザ役校でしょうか、大勢の群衆が集まっていた。
食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。ここから読んでみましょうか、イエス様の言葉から。
3杯、かわいそうにこの群衆はすでに3日間私と共にいて、食べるものを持っていないのです。
第2の違い、5000人と4000人の給食の違い、それは、ここではイエス様自ら行動して弟子を呼んで話しかけている点なんですね。
そういうことでイエス様が積極的に深く憐れみの救いの手を差し伸べていることが描かれています。
文章を比較しながら見ていきたいんですけれども、この5000人の給食の時は弟子たちが状況を報告してイエス様に話しかけて行動を流しているんですね。
この5000人の給食の箇所が6章35、36でこう書いてあります。
弟子たちはイエス様にこう言った。ここは荒野です。そして今や遅い時刻になっていました。
彼らを解散させてください。そうすれば彼らは周りの土地と村に出て行って何か食べ物を買うでしょう。
弟子たちが群衆の必要に対してイエス様に言った。でも今日の箇所はさっきも言いましたけれども、イエス様が弟子たちを呼んで言われた。ここは違うわけです。
この違いがわかるとですね、ゴールドブレンドというのがね、しょうがないかもしれません。違いがわかるゴールドブレンドってわかんないですよね。若い子に。
違いがあるんです。見えてくること、さらにもっと重要な点が見えてくるんですね。
それはここでイエス様自身が心を痛めているという、難しく言うと文法で言うとですね、1人称で書いてあるんです。
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5千人のところは3人称で書いてあるんです。 それはどういうことかというと、6章34節ではこう書いてあるんですね。
心を痛めるという言葉をこう書いてあります。イエスは、この6章34節5千人の時ではですね、船から上がって大勢の群衆をご覧になった彼らが羊飼いのない羊のようであったので、
イエスは彼らを深く憐れみ多くのことを教え始められた。
これ3人称です。イエスは彼らを深く憐れみ多くのことを教え始められた。 で、8章2節では、先ほども読みましたけれども読んでみましょうか。
イエス様がこう言っています。3、かわいそうにこの群衆はすでに3日間私と共にいて食べるものを持っていないのです。
イエス様の言葉としてかわいそうにって言ってるんですね。 あの今日の説教タイトルどうしようかって考えたときに
あの かわいそうにって言おうとした。言おうとしたんですけど、それは行き過ぎかなと思ってそういうタイトルしませんでした。
このかわいそうにという言葉が一つの鍵です。 実はこのかわいそうにっていうのと深く憐れみっていうのが同じ動詞の
ギリシャ語ではですねちょっと難しいんですけど、スプランクニゾンマイって言うんですね。 これスプランクニゾン
一人称、単数、四角でいうところですね。で、同じ言葉を使っているんですが、ちょっと難しく言うと
8章2節、今日のところではこれが直で使われているんですね。 一人称、単数形。でも6章34節では
三人称、単数形、深く憐れみっていう風に使われています。 で、とにかく
略の違いがありますけれども、ここではイエス様ご自身が自分の言葉でですね、この群衆をかわいそうに思うと発言しているというところが大きな違いなんですね。
実はこのスプランクニゾンマイっていうのは元々は内蔵という言葉を意味します。
で、どういうことか。 当時、動物の生贄を捧げました。
その時にですね、祭壇に捧げる前に、祭司がおそらく焼いて、動物を、その内蔵、心臓とか肺とか
肝臓とか、腎臓を食べたんです。みんな食べるでしょ、レバーとか。 そういうのを発とかね、心臓。それを当時、生贄に
祭壇に動物を捧げる前に、祭司が内蔵を食べたわけです。
それで美味しそうだなと思っている人もいるかもしれませんけど、どんな味だったのかなとかね、タレは何だったかなと思うかもしれませんが、その
祭司が食べてから、動物を捧げたという、まあ神聖であり、しかもなんか深い意味があったので、その行為が元になって、このスプランクニゾンマイというのは
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感情や心の最も深い部分で、心が動かされている。
腹の底から動かされている。
深い悲しみや痛みを感じるとお腹が痛くなったりね、
トイレに行きたい方いらっしゃるかもしれません。そういう、とにかく内蔵の深い部分が動かされているというのが、このかわいそうにと言葉に
由来すると言いますか、表す意味なんです。ですからイエス様はそれほど深い思いで、この4,000人の人々を見た。
さらにですね、この8章2節に続く3節にもイエス様の深い荒みを見て取ることができます。そこでイエス様は続けて、
お腹の空いたまま家に帰らせたら、途中で動けなくなる。遠くから来ている人もいるんです。
でも学者によると、このデカポリスの中でも、このイエス様が奇跡を行った場所は本当の砂漠というかですね、荒れ地で、
前のガリダイの5,000人のところよりももっとですね、家とかお店がない場所だったんです。
だからそのまま帰したら生き直れになるということをイエス様は言っておられるわけです。
そういうところからですね、イエス様はよくこの群集を見ています。3日間も食べていない。
遠くから来ている人たちもいる。このまま帰したら途中で動けなくなる。
弟子たちに言ったら、なんて言ったかというと、ここからどうやってパンを買ってくるんですか?って言ったわけですよね。
俺関係ないよ。あんたおかしいこと言うじゃないの?って言い返している。そういう冷たい弟子たちと、
このイエス様の心が動く深い、この哀れみの思いとの差が出てくるわけです。
このようなイエス様がよく群集を見て、心痛めておられる様子が伝わってきますけれども、
それは何がわかるかというと、実はイエス様は今目に見えませんが、復活したお方として、
この私たちが試練に会う時に、私たちの状況をよく知ってくださっている。
そして、上から、高いところから見下ろすのではなくて、共にいてですね、
ああ本当に大変なんだなぁと、今で言えば寄り添うと言いますかね、心痛めて私たちの
試練とか苦しみを理解してくださっている。そういう心痛めてくださる救い主だ。
そのようにイエス様のことを覚えておいてほしいわけです。
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じゃあそのようなイエス様でしたけれども、 その救い主に信頼しましょうということが3番目です。
しかし弟子たちは答えて言われた。 ここを読んでみましょうか。
こんな人沢と離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分託させることができるでしょう。
これはだから私たちには彼らを養うことができませんという、NOという意味なんです。
でもここからわかることがもう一つあるんですね。 彼らは先ほどから言っている、5000人の給食の出来事をもとにイエス様に信頼することができなかったんですね。
5つのパンと2匹の魚から5000人を養ったというイエス様の奇跡が起こりました。 もしかしたらもう1回同じようなことは、こんな都合の良いことが起こらないと思ったかもしれません。
でも注目することはですね、今日の箇所でイエス様から話しかけたんですね。 かわいそうにどうしたらいいか。
それはあえて弟子たちの反応をイエス様が見たかったのかもしれないですね。 もう一度同じような状況で
弟子たちは私を信頼するのかなということをもしかしたら見たかったのかもしれません。 そしてご自分に信頼してほしいと願ったのかもしれないわけです。
まあ 教会になかなか通っている方ですとね
過去にイエス様に助けてもらった、救ってもらったという経験をしてきたと思います。
聖書を勉強するとイエス様が救うという場合に広い意味があるんですね。 教会的にというと語弊があるかもしれませんが、狭く言うとイエス様を救い主と信じて罪許されて
永遠の命を持つという、そういう、狭いと言っていいかわかりませんけど、そういう救いだけじゃなくて病気が治るとかですね
宗教的な穢れが清められるとか、そういうものを広い意味でイエス様の救いという言葉が使われているんです。
ですから私たちが日常生活の中で色々困る時にですね、イエス様私を救ってくださいと祈ることができる。
過去の経験から、試練の時にイエス様に救ってもらった、そういうことがあるかもしれません。
そういうことを基にですね、やはり私たちは弟子たちと違って、また新たな試練に直面する時に、イエス様というのはこの私を
憐れんでくださっている、大変さをわかってくださっているんだ、真相がわかってくださっているんだということをですね、覚えていきたいと思うんですよね。
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そしてそれだけじゃなくてイエス様は救いの手を差し伸べて、4,000人の人を満腹にしたように私たちの必要を満たしてくださる。
救いを何か実現してくださる。
先週見たように耳が聞こえない人には指に椿して耳に入れたり、指に椿してしゃべれない人の舌に触ったりして、その人がわかる方法でですね、救いをほどけてくださる。
ですから皆さんのわかる方法でイエス様は試練の中で助けてくださるんですね。
本当にイエス様私を助けてくださったって言える時が必ずあるんです。
繰り返しになりますが、もし新たな試練に直面した時はですね、自分の過去のイエス様の救いの経験や、また聖書に余ったあるイエス様の救いの宮座を思い出して、今日のところを思い出してですね、
イエス様私を救ってください、必ず私を救ってくださる、今の私の困った状況あなたはご存知ですと言えるお互いでありたいと思います。
私もそんなことを考えながらですね、今週一週間過ごして何度も何度も聖書の言葉を思い出してですね、
あなた方の思い患いを一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配してくださる。
その委ねなさいっていうのは、乱暴な読み方をすると丸投げしなさいって言う。
全部投げちゃう。神様があなたの福利行政を全部面倒見てくれるよってそういう意味なんです。
ダイレクトに訳す。あなた方の願い事をすべて神に知ってもらいなさい。
そうすれば人のすべての考えに勝る神の平安があなた方の心と思いを守ってくれるって思います。
ですからイエス様こうしてくださいと、具体的に祈る。
そんなことを考えながらですね、先週私過ごしました。そんなの皆さんにやっていただきたいと思います。
最後に私たちの信仰を励ます御言葉を紹介して終わりたいと思います。
信仰の書であるですね、ヘブルビトの手紙の11章の6節にこんな言葉がありますね。
ちょっと長いかもしれません。読んでみましょうか。信仰がなければ。
3、信仰がなければ神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
神に近づいてですね、神様がおられるということ、そして求める者には報いてくださる方だということを信じましょうと励ましていますから、そのようなお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
私たちは自分がコントロールできない状況、あるいはそのように思える状況に直面するときに取り乱し、
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心穏やかでない、その時を過ごすかもしれません。しかしその時にもう一度私たちを深く憐れみ、救いの手を差し伸べ、確実に私たちの必要を満たしてくださる、そのイエス様のことを思い出して、あなたの救いにすがることができるように導いてください。
またどうぞ私たちが人々の必要に寄り添わなければならない時に、そのような救い主イエス様を思い出して、あなたに救いを祈り願いを取り成すことができるように導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それではイエス様のことを思いながらですね、1分ほど黙祷する時間を持ちましょう。