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それでは、本日の御言葉を朗読します。 新約聖書、テサロニケの手紙第1、5章、19節から22節です。
見たまをけしてはいけません。 予言をかろんじてはいけません。 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。 あらゆる形の悪から離れなさい。
今日はこのところから、偽予言者に失礼しました。 偽予言に気をつけて、と題して御言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。 本日は5月3日ですね。
憲法記念日ということで、明日はその振り返り休日です。 昨日までの1週間の間、やはりこのコロナ関連で様々な動きがありましたね。
4月26日、1週間前の日曜日には、高校総体インターハイの中止が決まりました。 私は高校時代、インターハイを目指して卓球に勤しんでおりましたので、このニュースがどれほど大きなものかということを実感しております。
多くの高校生たちのやる気を削ぐ、そのような事態になったのではないか。 またそれに、常時でと言いますか、習って中学校の全国大会の中止も発表されました。
先週あるところであったバドミントン部の中学生の3年生の方もですね、 目標がなくなったと言って、がっかりしておられました。
そして5月1日にはですね、今出されている緊急事態宣言の1ヶ月ほどの延長ということが発表されました。
いつも線流を取り上げていますけれども、 昨日の長間に載っていた線流を一つ紹介しましょう。
世の中は不要不急で回ってた。 世の中は不要不急で回ってた。
不要不急の外出控えてと言われますけれども、 その中、このいわゆるゴールデンウィークと言われている最中、
交通の移動が縮小されてですね、例えばJRの特急や新幹線をはじめ、そのような電車はのき並み昨年より1%並みの乗車率だと言われています。
またご存知のように飲食業界も大きな痛手を受けておりますね。
不要不急と言われていますけれども、そういう意味では私たちの生活に深く根差している、そしてそれによって
生計を立てている方々も大きな痛みを伴っているということを思わざるを得ません。
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またこんな線流も紹介します。 こんな時、拾い物あり、再放送。
言わずもがなテレビの再放送ですね。これが良かったという方の線流ですが、やはり先週、ある方とお話ししました。
女性です。お子さんが小学校低学年と幼稚園のお子さんがいるお母さんでした。
家にずっと引きこもりで、こんなこと言ってたんですね。
テレビは再放送ばっかり、そして流れてくるニュースも拾い物ばっかりで気がめいると。
そのように今、テレビから流れてくるメッセージも拾い物が多いでしょう。
また今、線流でも紹介しました。また政府の緊急事態宣言などもそうですが、この時いろいろな言葉がこの巷に溢れていますし、これからも溢れるでしょう。
そんな中で今日のテーマは、偽予言に気をつけてというテーマです。
偽予言に気をつけて聞くべき言葉を受け入れようというテーマです。
背景を説明します。今日読んだ聖書の箇所の背景ですが、パウロは厳しい試練の中にあるテソロニケの教会にこの手紙を書きました。
その中でこの教会特有の問題が起こっていました。
それは今の私たちにも共通する、注意しなければならない問題です。
テソロニケ教会の問題それは、神様の名の下に偽予言が伝えられたということです。
こういうことを言う者がいたんです。
今起こっている災難のゆえに間もなく世の終わりが来る。あるいはこういうことです。
今起こっている災難のゆえにすでに世の終わりが来たというメッセージを神様の名を語って、あるいはパウロの権威を語って告げていた者たちがいたというんですね。
そしてこのようなメッセージは今の教会に属する私たちにとっても、そして教会に関わりない人たちにとっても注意すべきものです。
次に、偽予言について話します。そして最後は、パウロも言っていますが、吟味して聞くべき良い言葉についてお話します。
ではまず、予言についてです。予言イコール予言ではない。
聞いている方はわからないかもしれませんが、これは抑えておかなければいけない基本なんですけれども、予言イコール予言ではない。
それはつまりこういうことです。言葉の響きは同じでも漢字表記には2種類があるということです。
その点をまず明確にしておかなければなりません。
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今取り上げようとしている聖書の予言は、いわゆる予定の予と書く予言ではないんですね。予定の予、あらかじめという字を頭に持ってくる予言とは違います。
おそらく私の世代では、ノストラダムスの大予言とかですね、ハチマの大予言という、そういうものを連想する方が多いかもしれません。
このように留守する衛星予言の類はすべてこの類の字を書きます。未来を予測するということが強いです。
しかし、ここをはじめ聖書で取り上げている予言の予は、銀行預金、預かるですね、預けるの予と書く予言です。
だから、便宜上こう読んでみましょうか。聖書的な予言。これは預かるという字に言葉の予言です。
ここにはですね、旧約聖書しかりですけれども、近い将来何が起こるかとか、将来何が起こるかということも含まれていますが、それが強調点ではありません。
あくまでも大事なのは、この予言というのは神様から預かった言葉であるということです。将来の予告に限らないということを理解してください。
そして今日の説教をはじめ、キリスト教会ではこの聖書的な予言だけを取り扱っているということを抑えてください。
さらに予言の基本的なことをもう一つ話しますが、今の私たちの手にしている聖書と予言の違いです。
聖書的な予言もパウロの時代は神の言葉とされていました。
しかし、私たちが今手にしている聖書も神の言葉ですが、その両方は違うということです。
パウロがこの手紙を書いた当時、実はこのような人たちがいました。
聖書にも、使徒の旗揚げなどにも記録されていますが、このような人たちです。
それは、聖霊を受けて神様の言葉を語った人たちです。
そういう人たちは、例えばアガポの知性に基金が起こるとか、将来のことを言っていましたが、聖霊によって神から授かった言葉として語った人たちです。
でもそれは、大事なことは、一家制のその時だけの言葉です。
そして今私たちが手にしている聖書との違いは、この手にしている聖書は時代と状況を超えて、権威を持った神の言葉として私たちのもとに届いているということです。
存在しているということです。
あるいは、この聖書的な予言、一家制の予言というのは、今私がここで話しているような、牧師の説教と似ていると言えるでしょう。
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私もこの神の言葉から、皆さんに神の言葉を届けるべくして、説教しています。
ほとんどの牧師はそのようにしていると思います。
でもこれは、ある面一家制のものであって、聖書と同じ権威があるわけではないわけです。
あるわけでは、あるのとは違うわけですね。
そのような基本的な理解の下、今日、先ほど読んだ聖書の箇所で、最も大事なことは、予言の伸縮性を吟味するということです。
今日の朗読した箇所で、パウルはこう言っていますね。最後、後半、21から22節で、こう言っています。
ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
あらゆる形の悪から離れなさい。
ちなみに、この最後のあらゆる形の悪から離れなさいというのは、こういう意味です。
あらゆる悪しき予言から離れなさいという意味です。
ここから、私たちが教訓とすべきことを見ていきましょう。
大きな2番目のポイント、偽予言です。
偽予言、その当時と今を関連させながら、お話ししましょう。
まず、気をつけなければいけないのは、偽予言という存在、それを見分けるということです。
そして、パウルがこの手紙を書いた当時、この手紙を受け取った手さなきの人々にとっても、
そして、今の私たちにとっても、偽予言や邪悪な言葉に警戒しなければならないわけです。
テサロニケ教会も私たちも共通の問題が、課題がありますね。
いつも話していますが、自分の力ではコントロールできない外部の力、その中で試練や制約を受けている。
テサロニケ教会は、このキリスト信仰ゆえにローマ社会からの圧力を受けていたり迫害を受けていた。
そして、言わずもがない私たちは、現在のコロナ禍において、試練の中にいるわけです。
そんな中、当時のテサロニケ教会に問題が起こりました。
この後、数年後に書かれた第二テサロニケの手紙の2章に明記されているんですね。
一節から二節を読んでいます。第二テサロニケ、二章一節二節にこうあります。
パウロがこう言っています。
「さて、兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること、私たちが主の身元に集められることに関して、あなた方にお願いすることがあります。
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例によってでも、あるいは言葉によってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日が既に来たかのように言われているのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」
このように書いています。
つまり、当時こういう人がいたわけですね。
パウロの手紙が聖書の言葉を使って、あるいはまた、聖霊によって語ったと言ってですね。
いわゆる再臨と敬拒が既に起こった。イエス様がもう既に天から帰って来られて、敬虔な信者はイエス様と共に天に挙げられた。
そういうことを言う者がいたわけです。
別の言い方をすれば、もう既に世の終わりの時が来たと予言した人たちがいたというのです。
ちなみに再臨や敬拒については、以前触れました。
この同じ手紙の4章の13から18節や、5章の1節から3節、いわゆるバックナンバーを参照してください。
何やともあれ、そのような偽予言を聞いて、当時のクリスチャンは落ち着きを失ったり、心を騒がせたと言うんですね。
実は現代においても、聖書の神様の名前を語って、あるいはイエス様や聖霊様の権威を語って、こういうものが出てくると思います。
新型コロナウイルス感染拡大は世界の終わりの印だと。
しかしそれは偽予言者です。
正当的なキリスト教を名乗る名の下で、そういう教会の中で、そういう教会の牧師の下で、そういうメッセージが出されることがないとも言えません。
しかしそのようなメッセージに動揺してはいけません。
今回のウイルス感染拡大から、私たちが思い知ったというか、改めて気がついたことがありますね。
それは、世界が思ったより密接につながっている、あるいはこの世界の情報が短期間に手元に届くインターネット、SNS、そのような手段が言えるかもしれません。
ですから、先ほど言いましたが、世界のどこかでそのような偽予言がなされて、それが日本に届くということは容易に想像できるわけです。
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教会の名を語った、キリスト教の預言者の名を語ったものによって発信された、
そういうものが、噂やあるいは何かのニュースで、なんとかニュースってネットにいっぱいありますよね、そういうところで語られることがあり得るわけですね。
けれども先ほど、第二テサノミケの二章の御言葉で、パウルはご命じていますね。
聖霊によっても、パウルや聖書の権威から語ったとしても、そして主の日が既に来た、そのように言うものがいても、動揺してはいけないと、そういう警告をしているわけです。
そして私たちは、この警告にも耳を傾ける意味があるわけです。
そして当然のことながら、次のことも言えます。
つまり、キリスト教と関係ない人々やグループの中から、例えば神秘的な根拠をもとに、新型コロナウイルス感染拡大の今は世界の終わりだと語り始める者がいても、それに聞いてもいけないし、動揺する必要はない。
もしそういうことで動揺している人がいたらば、そんなことは心配する必要がないと断言していいわけです。
私たちはクリスチャンとして、そういうものに耳を傾ける必要はないと断言して、不安に陥っている人の心を和らげることができるわけですよね。
ちなみにいつも言っていますが、正しい聖書理解やキリスト教の伝統によれば、世の終わりはいつかわからないということです。
イエス様でさえ、この地上にいた間、私もそのことを知らない、見つかりも知らない、天皇父父だけが知っていると言っているわけです。
マタイの24章の36節などにイエス様のその言葉が記載されているわけです。
これまで大きな二つのことを話しました。
聖書的な予言と、いわゆるこの世が言う将来の予言との違い、そして2番目は偽予言に気をつけるということです。
それでは最後、聞くべき言葉があるということです。
パウロは今日のところで、19、20節でこう言っています。
見た目を消してはいけません。予言を軽んじてはいけません。
つまり、偽予言者がいるからといって、健全な言葉を消してはいけないと言っているんです。
聞くべき言葉とそうでない言葉を吟味して、聞くべき言葉、良いものはしっかり保てとパウロは命じているわけです。
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それは今の私たちにも告げられているメッセージであるわけです。
そんなパウロは吟味の時に必要な要素について、別の聖書の箇所でこのように述べています。
それは第一コリントの14章の1節と3節ですが、このように述べているんですね。
愛を追い求めなさい。予言するものは、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話します。
徳を高める言葉とは、愛に根差した建設的な言葉です。
そういう言葉がどうかが、一つ聞くに値するかどうか、偽予言かどうかの基準になるわけです。
一般論に落とし込んで例えて話してみましょうか。
今の状況で例えるならば、皆さんよく知っていると思いますが、例の8割おじさんですね。
人との接触を8割減らしてくださいと言っているお医者さんです。
彼は厚生労働省のこの新型コロナウイルス感染症クラスター対策班の責任者の一人です。
北大の大学院の教授西浦博先生ですね。
彼はしばらく前に衝撃的な発表をしました。
何も対策をしないと42万人がこの日本で死ぬと言っているんです。
内容が衝撃的なのでたくさんの批判がなされました。
しかし昨日の新聞に彼の主旗というか彼の言葉が載っていました。
彼は記者たちに対して森の内を語ったそうです。
42万人の森の内を語ったそうです。
このように言っていました。
多くの人の命が失われるのに政策が変わらない、そこに苦悩があったと言っていました。
このような政府の中枢にいる医療者たちのことを取り扱ったあるNHKの番組でもこういうことを言う人がいました。
事実を知っている、しかも悪い事実を知っているのにそれがきちんと行き渡らなかったか故に多くの人が死んでいく、そのことに自分は耐えられないんだ。
自分がその責任を果たせないことに耐えられないんだと言っていたわけです。
つまりこの西浦先生がそうですが、彼は恐怖はあるために言ったわけでもありませんし、ましてや自分が有意な立場に立つために言ったわけでもないわけです。
政府の目を覚まして多くの人の命を救いたいという、いわゆる建設的で人間愛に基づいた発言、それが42万人だったわけですね。
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そういう建設的なこの愛に根差した言葉に聞く、パウルはそれは予言というか神の言葉を語るという人たちに吟味する上での要素だと言いました。
そして私たちはいつも言っていますが、キリスト教の健全な伝統からも聞くべき言葉があります。
宗教改革者のマルチン・ルターのメッセージです。
彼は16世紀の宗教改革者でしたけれども、彼の活躍した当時ペストが流行りました。
彼の言動が今の教会やクリスチャンの一つのメッセージに聞こうという流れもあるわけです。
彼はこんなことを言うんですね、非常識で無謀な行動は信仰ではない、それは神を試みる行為だと警告しています。
むしろ医療的にも理性的にも合理的に考えながら、信仰的にも行動するように進めているわけです。
ルターのこのペストに関わる文章を引用します。このように彼は言っています。
私はまず神がお守りくださるようにと祈る。
彼は生殖者としてペストの人たちと関わっていたから、このようなことを言うわけです。
その後、そうして後私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。
さらにこう続けます。
行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移したりしないようにする。
私の不注意で彼らの死を招かないためである。
しかしもし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく喜んで赴く。
このように言っているわけです。
これは今の私たちにとっては慶長に値する言葉ですね。
最後に当然聖書から聞くべき、慰めと励ましと愛の言葉を紹介しましょう。
たくさんそんなような言葉があります。
パウロは、予言が聞くに値するべきか、判断する基準、吟味する基準として
徳を高めること以外に、励ましと慰めという要素を入れていました。
特にテサルニケのような試練の中にあった教会に対しては、励ましと慰めの言葉を
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徳に聞くようにということであったかもしれません。
私なりにいくつか励ましと慰めの聖書の言葉を選んで朗読します。
まずイエス様の言葉ですね。
二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。
そんな雀の一羽でさえ、あなた方の父の許しなしに地に落ちることはありません。
あなた方の髪の毛さえもすべて数えられています。
ですから恐れてはいけません。
あなた方は多くの雀よりも価値があるのです。
マタイの福音書10章29節から31節。
二羽の雀は一アサリオンで売られているということを少し解説しますが、
あまりにも価値がないので、二羽一セットでないと売れないということです。
一アサリオンというのはおおよそ今で言うと600円ですから、一羽は300円程度ですね。
そんな徳に足りない雀さえ、神様の許しなしには命を落とさないのであれば、
雀よりももっと優れているあなた方を天の父は必ず守るというそういうメッセージです。
続いてパウロの手紙から朗読します。
神を愛する人たち、すなわち神のご計画に従って召された人たちのためには、
すべてのことが共に働いて、益となることを私たちは知っています。
ローマ人への手紙、8章28節、続いてハリー・パウロの手紙からです。
それだけではなく、観音さえも喜んでいます。
それは観音が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた精霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ人への手紙、5章の3節から5節、これは元鉄学外来の理事長の日野浩先生がよく引用される言葉でもあります。
続いてやはりパウロの手紙から引用します。
あなた方が経験した試練は皆、人の知らないようなものではありません。
神は真実な方です。
あなた方を耐えられない試練に合わせることはなさいません。
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むしろ、耐えられるように試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
コリントビートへの手紙、第1、10章、13節、これは柔道のオリンピック金メダリストの、いわゆる矢原ちゃんが引用した言葉としても有名です。
神様は耐えられない、試練は耐えないと彼女はよく言っていました。
あるいは、今テレビで再放送されているジンという、医者がタイムスリップした話ですね。
そこでも鍵の言葉として、神様は乗り越えられる試練しか与えない、という言葉が出てきます。
おそらくこの聖書の言葉のモチーフにしたフレーズだと思います。
もう一つ、やはりパウロの書いた手紙から引用しましょう。
しかし主は、私の恵みはあなたに十分である。
私の力は弱さのうちに完全に現れるからである、と言われました。
ですから私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
ですから私は、キリストの上に弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
というのは、私が弱い時にこそ、私は強いからです。
コリントビートの手紙第二十二章九節から十節。
この中で引用されている主イエス様の言葉ですね。
イエス様の力は、私たちの弱さの中にあってこそ、完全に現れるという。
これは私にとっても大きな励ましです。
私たちの弱さがあるからこそ、そこにイエス様の力が完全に現れる、ということですね。
それでは最後は、四編から引用します。
このような言葉です。
私は山に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。
天地を作られたお方から。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
みよ、イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主はあなたを守る方。主はあなたの右手を覆う影。
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昼も日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない。
主はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。
主はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
四編120編、1節から8節。
このように聖書から神様の慰めと励ましの言葉を紹介しましたが、
ぜひ時間をとってゆっくり味わってみてください。
そして皆さんもぜひ、聖書から自分にとっての励ましや慰めの御言葉を、
この機会に探してみてはいかがでしょうか。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
今日もそれぞれが置かれた場所で礼拝を守っていることと思いますが、
どうぞ神様が共にあって、私たち一人一人をお支えください。
家の中に留まらざるを得ない方々、また仕事のゆえに外に出なければいけない方々、
それぞれの不安やまた恐れがあるかもしれません。
しかし、私たちがどうすることもできない自分の思いや状況の中で、
まさにうちにおられる聖霊様が、この御言葉を通して私たちを励まし慰め、
今日一日生きる力を与えてくださるように、
どうぞまた復活のイエス様が共におられるその救いを、
今日も今週も私たちが置かれた場所において知ることができるように、
御言葉を通して復活のイエス様にまみえることができますように、どうか導いてください。
そのような健全なあなたの御言葉をもとにして、
悪しき言葉、偽の予言、そのような悪いものから私たちを守り、
その中で不安や苦しみに覚えている方々、
そういう方々に慰めや励ましの言葉を届けることができるように、私たちをお持ちください。
この願いと感謝を、私たちの救い主シューイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。