2022-10-16 26:21

#128 一致のために 22/10/16

ピリピ2:1-4からの礼拝説教。2022年10月16日録音。1-4節にはとても有名な言葉が並んでいます。ある学者は1節を「パウロは崇高な主題にピリピ教会の人々の心を向けようとしている」と表現しています。この1節には5つの祝福が語られています。それらをもとに1.三位一体の神様の祝福と恩恵、2.パウロの喜びを満たす一致、3.他の人の必要を優先する、の3つの点から学びましょう。

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教会では、ピリピリとの手紙からしばらく学んでいますけれども、 今日は2章の1節から4節です。
ここの1節から4節は、とても有名な言葉が並んでいて、 ある学者は、1節をパウルは崇高な主題にピリピの教会の人々の心を向けようとしていると、そのように表現しているんですね。
あとでも詳しく見るんですけれども、この1節には、5つの祝福、 クリスチャンの祝福や恩恵が書かれています。
それらは、パウルが語る際に、1個1個厳密に区別していないから、1個1個詳しく見るよりは、この2節以降の教えに繋げるために語った。
皆さんも知っていると思いますけれど、聖書は当時、語られたものを口実筆記したんですね。
おそらくパウルが語ったことを手も手が書いたんじゃないかと言われていますが、その語っていく中で、この1節の5つの祝福をパウルは定型句通り語ったのではないかということだそうです。
そんなことも含めてなんですけれども、そのことを理解した上で、それでも1節の祝福を、大事なことを1つずつそれなりに詳しく見ていきたいと思います。
そのことをはじめとして、今日は3つの点から学んでいきたいと思います。
まず最初ですね、三味一体の神様の祝福と恩恵ということです。
2章1節読める方、前にもありますから読んでみましょうか。
ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるなら。
先ほど言った、崇高な主題というのは、この5つの祝福や恩恵です。
それはピリピ教会の人々が受けて、あるいは実際に体験している、この恩恵や祝福なんですね。
実はその中でも最初の3つは、三味一体の神様のそれぞれの威嚇と関係しています。
この最初の3つですね、キリストによる励ましと、父なる神の愛による慰め、そして聖霊による交わりというところです。
この3つを詳しく、最初のポイントとして見ていくんですけども、まず最初はですね、キリストによる励ましという言葉です。
この励ましという言葉、実はですね、訳すのがとても難しいパラクレーシスという言葉です。
慰めと訳されたり、聖霊のことをパラクレートスという、そういう慰めたり励ましたり、そういう意味の言葉なんですけれども、
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おそらくここでは、和らげたり緩和するという意味と捉えたら良いのかと考えられています。
例えばですね、私たち教会でガン哲学外来カフェやっていますよね。今、緩和ケアって言うとですね、
以前はちょっと語弊があるかもしれませんが、本当にもう死を待つしか治療方法がない人たちの苦しみを和らげる緩和ケアって言ってたんですけれども、
うちのカフェでも常識のある、最近の緩和ケアは、この治療を受ける上で苦しむことを和らげる、
代表的なのが抗がん剤の副作用、吐き気とかですね、あるいはもう痛みそのものを和らげるということで、
生き続けることを前提で苦しみを和らげるという、緩和ケアと言われています。
そういう意味で、ここでのイエス・キリストの励ましということは、イエス様が私たちの苦しみを和らげてくださるお方なということが言われているわけですね。
なぜか、
先週も見ましたけれども、ピリピリの人たちは福音の市民として生きていく中で、ローマの中でこの小さな迫害を受けたり、
この信仰の圧力を受けて、大なり小なり苦しみを経験したわけですよね。
パウルはそのことを述べて、前の説でもこう述べていますね。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
ここから読んでみましょう。3、かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘をあなた方は経験しているのです。
ピリピリの人たちが、使徒の働きの十六章にあるように、パウルが文字通り鞭打たれて投獄されていたところを見た。
そして今、パウルはローマで投獄されています。
離れたところにいるピリピリの人たちは福音の上に、この苦しみにあっていた。
そのような苦しみをイエス様の苦しみに預かることだと先週も言いました。
そのようなイエス様の苦しみに預かりながらも、しかしイエス様は私たちの苦しみを和らげてくださる、
イエス様の励ましを体験していると言っているわけです。2番目はですね、愛の慰め。この言葉は、父なる神様の愛による慰めということが全体になっているんです。
実はですね、第2コリントの13章の一番最後の言葉、14節だと思いますけれども、そこにパウルの祝禱が書いてあります。
そこで、父なる神の愛の慰めという、そういうことが言われています。
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三密体の神を語る時に、愛は父なる神によるものだとそこにあるわけですね。
そういう定型句が全体になっているから、ここの愛の慰めは父なる神の愛の慰めだと考えられるわけです。
実はですね、先ほどのイエス様の恵みと比べてあえて言いますが、イエス様による励ましが私たちの苦しみを和らげるとしたら、神様の愛はですね、私たちの苦しみ、あるいは悲しみ、その苦しみ、悲しんでいる私たち人々を慰めると考えられる。
慰めと励まし、どう違うかなと思ってですね、日本で一番売れている新明快国語辞典の調べてたらですね、
なるほどという定義がありました。慰める、それは言葉をかけたり、何かをしたり、与えたりすることによって、
不幸に打ちしがれた人の悲しみや、どうしようもない寂しさ、不安、不満、退屈、疲れなどを一時的に忘れさせる。
まあ、あの顔鉄学の日野先生はね、不安は解決できないけど解消できる、そういう場だよっておっしゃってますけど、まさに一時的かもしれないけれども、
その苦しみや悲しみを和らげる、慰めということになるわけです。 そしてパウロはですね、
別の手紙で、こうも神の慰め、愛の慰めについて語っているんですね。 私たちの主イエスキリストの父である神、愛に深い父、
あらゆる慰めに満ちた神が思い讃えられますように。 ここから読んでみましょうか。
神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます。 それで私たちも自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
このようにパウロは、自身ある神様の愛による慰めということを語っているわけですね。 他の方からしたら。
3番目は、聖霊による交わり。 ちょっと画面に入り切れなかったですけども。
聖霊の交わり。 実はですね、この言葉はですね、
非常に難しい言葉だと言われているんですが、おそらく、 ちょっと日本語のニュアンスで難しいんですけど、
聖霊によって神様の働きに参加することであるって言うんですね。 英語ではパティセペーションという。
サンヨとも言うんです。どういうことかちょっと徐々に見ていきますけど、それはですね、 私たちが神様の恵みや恩恵を実際に体験すること。
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それを聖霊が可能なら占めるということなんですね。 もうちょっとわかりやすく言うと、一番わかりやすいというかね、顕著な例は、
私たちの最初の戒心の経験ですね。 人は罪人であって、カタクナで目が閉じています。
そんな私たちがですね、イエス様の救いがわかるっていうのは、まさに聖霊の働きですね。 おそらく皆さんここにいる皆さんはそういうボーンアゲインというね、
経験されたと思います。今でも思い出すと思いますけど、 なんであの時自分はイエス様を信じますって言えたんだろう。
自分を振り返ってそう思うし、他の人にイエス様の話をした時にですね、 カタクナに拒む。そういうのを見るとますますですね、自分がイエス様を救い主だって
告白できた。 それはまさに聖霊の働き以外何者ではないなということができるわけです。
あるいはですね、この私たちがクリスチャン生活を歩む中でも、先ほどにありましたように、 いろんな苦しみを体験していくわけですね。
その苦しみやこの 悲しみを体験する中で、さっき言ったこのイエス様の励まし、
苦しみを抗ってもらうような経験。 まさにあるいは父なる神様の愛によって慰められるという経験をするかと思うんですね。
その方法はいろいろあると思うんです。聖書の言葉によって、
祈る中で、あるいは神様の家族の交わりを通して、 これらの
励ましやまたは慰めを体験する。 そして
当然私たちは教会やクリスチャンの友人との関わりの中でも体験しますけれども、それ以外の教会と関係ないと言ってられますけど、
本当に教会と関係ない外の世界で出会う人々や出来事を通して、私たちは励まされたり慰めを受ける。
その時に、本当に神様が私のことを借りてくださっているんだなということを実感できると思うんですよね。
実はそのように私たちがこの神様の慰めや励ましを実感できるということこそ、
精霊が働いている証拠です。 私のいろんな考えですね、おそらくこう言えるかなと思って、私たちが
会心する時も、あるいはこういう慰め励まし体験する時もですね、 心が揺さぶられるわけですよね。いい意味で。
同じ言葉を見たり、同じ出会いしても何でもない時もあれば、本当に心を揺さぶられる。 そしてこの実感し
慰めや励ましを実感したり、苦しみをやられるということを体験すると思います。 その心を揺さぶられる体験こそですね、精霊が私たちの中に働いてくださっている証拠である。
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実はそれが私たちが精霊の働きに参加する 神の恵みや神様の祝福の恩恵に預かるということ。
何回言いますけど、それを神を慰めるのは 私たちの中に住んでおられ、共に私たちと歩んでくださる、精霊の働きだと
言えるわけなんですね。 このように
最後の2つ、今3つ、3人いったいの3つありましたけども、この1節最後にですね
愛情とありみがあるだなって言ってますけど、おそらくこの愛情とありみは一般的なクリスチャン同士の関係
パウロとプイビーの人たちの関係の間にあった 神の家族としての絆を通して実感できる、やはり愛情や哀れみを言っているのではないかと言われている。
このような雑踏全部で
5つ挙げましたけども、3人いったいの神様に関わる
私たちが体験する神様の祝福や恩恵
そしてそれだけじゃなくて、パウロはそれだからこそ、そういう恩恵を受けているからこそと言って、2番目の点
パウロの喜びを満たす一致について 明示でいくわけなんですね
2章の2節を読める方、前のこの見言葉を読んでみてください。
あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
パウロは1章の最後の方の言葉を反映させながらですね
あなた方は福音の市民として一致することによって、私の喜びを満たしてくださいと明示しているわけです。
パウロはですね、ずっと喜びについて1章で語っているんですね。4節では、あなた方すべてのために喜びを持って祈っているよと
それだけじゃなくて、党派心を持って福音を伝える人たちが、私を苦しめよう、当国している私をさらに苦しめるつもりだけれども
私はそれでも福音が前進することのゆえに、それを喜ぶと告白していますね。
それらの喜びは、実はあなた方がイエスタマニアって一致することによって満たされるんですよ。
だからそうしてくださいと2節で命令しているわけです。どのような一致かというとですね、単なる
何でも一つのことを考えるってじゃなくて クリスチャンが、ピリピリの人たちが自分の信仰の前進と
信仰の成長と福音の前進を目指すという、そういう同じ思いを持って一つの体として成長することが
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パウロの喜びを満たすんだ、そういう私の喜びを満たしてくださいという、大変興味深い表現をパウロはここでしているわけなんですね。
しかしその中で、パウロは一致を乱す問題について指摘しています。 この2章の3節ですね。
何事も利己的な思いや、自己中心、利己的な思いや、教えからすることなくって言ってるんですけども、その利己心と
資深改革精神と訳されています。 それは1章17節でパウロを苦しめるために伝導した人たちの動機である
党派心と同じ言葉が使われています。 別の言葉ではですね、自己中心と訳されている言葉。
そういう自己中心や利己心や党派心を捨ててくださいって言ってます。 あるいはその次、教えですね。一致を乱す教え。
それはこの読んで字のごとく、自分を実際よりも大きく見せることだ。 聖書の英語の他の訳ではですね、
Vain conceit って言って、まさに虚しいうぬぼれだと訳されているわけなんです。 このようなですね
自己中心的な考え方、 自分を一番に優先する考え方とか、
この虚栄心というのが一致を乱す、と言うんですね。 今ですね、
このコロナが収まりつつありますけど、実はコロナ禍において人間関係が離れすぎている場合もありますけど、
程よい距離が取れている場合がありますよね。 ちょっとこれ下世話な話かもしれませんけど、昨日ラジオでですね、
飲み会が嫌いなサラリーマンの話があって、誘われる時にですね、 ちょっと家族が濃厚接触者だからいけませんとか言って、こと悪く応じずにコロナをしているって言うんですけども、
しかしですね、程よい距離感があるときはいいんですけども、 私たちがですね、人同士が近づくと、やはりこの
利己的な思いとか共鳴心というものがぶつかって、摩擦が生じるということがこれから起きてくるかもしれ ないませんし、
ピリピの教会ではそういうことが多少あったように思われます。 で、そういう中で、
私たちもですね、自分自身の中にあるそういう利己心とか共鳴心ということを意識して見張るように パウロは教えているわけです。
で、 ここで大事なことはですね、
全く同じ人間になって同じことを考えろって言うんではなくて、 背景がですね、違う。
で、 福音以外の価値観が違うかもしれないけども、という前提なんですね。でも、
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福音の前身ということでの価値観を共有してください。そして、 同じ精霊を一つ宿して、
状況は違ってもですね、それぞれがイエス様によって苦しみをやらけてもらった体験を しているでしょう。
愛の神によって慰められた体験をしているでしょう。 そういう精霊によって神の恵みを体験しているということで、あなた方は同じ体験をしているんだから、
この一つ民として一致してくださいと、ピリピの 兄弟姉妹にパウロを呼びかけているわけです。
それは私たちも同じです。 クリスチャン同士違ってもですね、
聖書に励まされたとか、こういう言って救われたってことを言うと、お互いですね、 そうかと言って共感が生まれるわけですよね。
あの嫌いな方もいるかもしれませんがですね、 この昨日ですね、オリックスバッファローズが日本シリーズに行くことが決まって、
その前はヤクルトスワローズが阪神タイガーズを破ってですね、 日本シリーズに行くことが決まったわけです。
こういう野球に代表されるスポーツは、同じ苦しみを体験する、 そして同じ勝利の喜びを味わうわけです。
ヤクルトスワローズもですね、この最後のこの間の試合の時は負けてたんですよね。 負けてて、そして同点に追いついて、最後の最後は村上という人がですね、
ピッチャー頃だったけれども、相手のエラーを誘って、 満塁が全部ですね、そうした必要の案内になって大逆転した。
どうでもいいかもしれませんけど、こうやってですね、共通の苦しみを体験して、 同じ勝利を味わうとチームが一つになるわけです。
私たちクリスチャンも同じ福音の苦しみを福音の市民として体験して、しかし似たような 精霊によるこの
神の恵みを体験する。それが私たちの中に共感を生む。 そして
神の家族としてのこの一致を神によって与えていただく、そういうことになるわけなんですよね。 そして
何度も言いますけども、 すべての価値観が違っても福音において自らの信仰が前進し、
自分が何をやっても福音が前進すべきことを目指していくという同じ価値観を持つものとして、 一つ体となっていくということをパウロが目指している。それも私たちを目指すべきだということなんですね。
最後、他の人の必要を優先するということです。 重ねますけど読んでみましょう。3枚。
何事も利己的な思いや虚栄からすのではなく、 減り下って互いに人を自分より優れたものと思いなさい。
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それぞれ自分のことだけでなく、他の人も変えりみなさい。 これはですね、この2章の3節4節は
とても有名な、私が言うにはキリスト教の金言、 黄金の言葉の一つだと思います。
ここでですね、誤解してはいけないのは、
こう書いてあるんですね。 互いに人を自分より優れたものと思いなさい。
ここはですね、 こういうことじゃないって言うんですね。
相手と自分との間に何かの優劣を見つけることでないって言うんですね。 相手の良いところは尊重するけれども、
つまり自分を自己比喩する必要はないということなんです。 減り下ってというのはですね、ちょっと今日は詳しくくれませんけども、
虚栄を捨てて、神の前の自分は非造物に過ぎないということをわきまえることはそうなんですけども、 今日皆さんに知っていただきたいのは、
この相手を自分より優れたものと思うというのは、 相手の必要を自分の必要よりも大事にするという、
そういう考えだそうです。 私たちはですね、意識しないと自分の必要を優先してしまいますね。
だから意識して、相手の必要を優先させるということをパウロは教えるわけです。
そのことを4節が教えていますね。 自分のことだけではなく、他の人のことも変えりみなさいということが、それを指摘しているわけです。
このお互いが、お互いの必要を尊重し合うのが、神の家族の交わりです。
いろんな人によってシーズン、苦しみが続くことがあるので、一人の人とか、
ある人だけ、励まさなきゃいけない時があるかもしれませんけど、 でもお互いに相手の必要を尊重し合うときに、
教会は誰もが助ける側であり、誰もが助けられる側だという、そういう均衡を保って一つとなるということなんですね。
もう一つ最後に考えたいこと。 自分よりも他の人のニーズを優先するというと、今風で言うとハードルが高いかもしれませんね。
でも、これ私の試験として考えていただければいいんですけども、 まず人のためにお祈りすることから始めたらいいんではないかなと思ったんです。
私たちは自分のためによく祈りますね。本当に助けてください、こうしてください。 その時にたった一人でもいいので、誰か自分以外の人、家族でもいいです。
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家族以外の誰かのことを覚えて、まさに帰り見て祈ってみてください。
実は、今日初めてのこともいらっしゃいますけど、しばらく前に教会で祈りの課題を分かち合って、年に1回は少なくともやっているんです。
そこにやはり、その人の課題とか信仰の背景とかも書いてあるんですけども、そういうものをぜひ活用して、教会の誰かのために祈ってはどうですかということも一つ提案させていただきたいと思います。
短い御言葉でありましたけれども、このようにパウロは私たちが体験する神の祝福とこの幸いを思い起こさせながらですね、
神の家族として一つとなり、そして神の栄光を表すべく教会となっていくよう教えています。 そのことに倣うお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちは何も考えないときにはまさに自分を優先してしまうものでありますけれども、どうぞ心を見張りながら、
神の家族の必要に思いを馳せ、また何ができなくてもまず祈り合っていくことができるように導いてください。
また様々な違った背景を持っていますけれども、どうか自分の中で福音が前進し、また自分を通して福音が前進すること、
そのことを求め、お互い励まし合い、祈り合っていくお互いであることができるように導いてください。
このような御言葉はあなたがくださったことを感謝し、また今週1週間来日を神様にお祈りして、
私たちの救い主シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは皆さん御言葉に応えて、1分ほどその場でどうぞお祈りしてください。
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