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今日はこのところから、聖徒たちへと題して御言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。暑さが少し和らぎましたけれども、それでも少し蒸しますね。
少し低めに温度設定していますけれども、窓が開いていますので暑いようでしたら、いつものようにお近所で、そのあたりの兄弟姉妹の方、エアコンをそのあたりの方で調整してください。
OKですね。
今日からですね、殺さえ人の手紙というところを学びます。私も楽しみにしているんですが、
3つのことを取り上げますけれども、殺さえ人の手紙の特徴はですね、
後でも見ますけれども、パウロがこのローマでですね、獄中書館といって裁判を待つために、難勤状態にあったときに書かれた手紙です。
おそらく西暦60年ぐらいです。
その手紙の特徴はですね、キリストの奥義が書かれて、イエス様にある希望が書かれています。
今、先行きが見えない中で、本当に希望という言葉が大事にされていますけれども、
私たち改めてイエス様にある希望とはどんなものかということを、ここから学んでいきたいと思います。
今日は3つの点からお話ししますが、一番最初の点は、少し説明じみたことで、この手紙の背景を話します。
最後の2点はですね、今日の鍵となる聖徒という言葉、清い民ですね。
その言葉から2つの点を学ぶ、合計3つのことから学んでいきます。
まず最初は、この手紙の背景を少し皆さんに知ってもらいたいと思います。
今申し上げたように、パウロがローマの獄中にいた頃に書かれた手紙でした。
実は、この今まで学んだですね、テサロニキビトリの手紙と、その前に私たちはピリピの手紙を学んでいたんですけれども、
だいたい執筆年代は、ピリピの手紙の頃と同じです。
もう間もなく多分、パウロが死刑にされるような、そんな状況の中でした。
そして、宛先のコロサイという町です。
ちょっと見にくいんですけれども、ここに実は書いてないんですね。
エペソビトの手紙のエペソ、先週まで学んでいたテサロニキビトの手紙、テサロニキはここですね。
旧マケドニア州、今のギリシャの都市でした。
これはそこと違ってですね、有名な町で、エペソという町があります。
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そこから少し内側に160キロほど入ったところなんですが、
ラオデキアという町があって、今のトルコのある、トルコ共和国の中の一つの町です。
ラオデキアというところの、その隣の10キロぐらい先に行った、この辺りにコロサイという町がありました。
そこにあった手紙です。
そして、フィリピンやテサロニキビトの手紙と違う点はですね、コロサイという町にパウロは直接行っていません。
そこでパウロが伝道して生まれた教会ではなくて、
エペソという町でパウロがしばらく滞在していた時に、そこに来ていたエパフラスという人が福音を聞いて、
自分、この町で伝道してできたのがコロサイという教会です。
で、そのでもですね、このテサロニキ、フィリピン、コロサイ人の手紙の3つの点に共通していることが一つあります。
それは、手も手という人が絡んでいます。
今日の冒頭にもですね、また皆さんのレジュメの一番どこにも、一番最初の言葉書いてありますけれども、
神の御心によるキリストイエスの使徒パウロと兄弟手も手からといって、
どの3つの手紙とも手も手も一緒に関わって執筆されたことが共通しています。
この手も手という彼はですね、ちょっとネットで引っ張ってみたらいろんな絵があったんですけれども、
こういう絵がありますが、パウロのいわゆる一番弟子です。
一緒に第一次選挙旅行の時に彼が救われて、第二次選挙旅行の時にですね、
彼のキリスト社としての成長を見てパウロは、
自分の第二、第三の伝道旅行に同伴させることを決めたのが、この手も手という弟子です。
日本語で手も手と言いますけどね、英語でTimothyと言います。
なんか有名人でTimとかいう人がいたじゃないですか、TimとかTimothyなんとかっていう人がこの手も手から取った名前です。
それはさておきまして、彼のことを覚えていただくとして、このコロサイ教会と今の私たちに共通することがいくつかあるんです。
そのうちの主に二つですけども、一つ目はですね、前の手紙と似たように、
いわゆる時代のカルト、怪しい宗教との関わりがあったというか、
そういう空気の中で生活せざるを得なかったという、そういう問題が一つです。
復習になりますけど、先週まで見たテサノニキ教会には間違った終末論というのがあってですね、
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もう世界が終わったっていう、そういう誤ったメッセージから教会が揺さぶられていましたが、
コロサイ人の教会の問題は、イエス様を信じるだけでは救いが十分ではないよという、そういう異端の教えが入った。
それに論爆するために書かれたという点です。
そしてカルトという問題、異端という問題の共通点のほかにもう一つの共通点、今日見る共通点、それはですね、
コロサイの人たちも私たちもユダヤ人ではないということです。
違法人、旧約聖書の背景から言うと純粋な神の民はユダヤ人でしたね。
私たちよく聖書で言うところの神の民に対して違法人です。
違法人と言うと思い出すのが久保田佐紀さんですよね。私も思い出します。
あれ違法人って曲、本当のタイトル、元のタイトルはね、白い朝って言うとそうですね。
それだけがインパクトがないから違法人にして大ヒットした。
それは去っておきまして、神の民ユダヤ人に比べたら私たちは国籍も人種としてもユダヤ人ではない、違法人、神の民ではないという点が共通しています。
そしてその点から今日も深く学んでいくんですけれども、そのイエス様を信じた新しい身分が私たちに与えられている。
そのことをパウロはですね、手紙の冒頭で述べています。
さっきの続きの2節でこう書いてあります。
パウロの手もてからと書いた後にこう言っています。
殺さえにいる生徒たち、キリストにある忠実な兄弟たち、私たちの父なる神から恵みと平安があなた方にありますように。
この手紙の提携文の祝福の挨拶がありますけれども、
この殺さえの違法人を生徒たちと呼んでいます。
それを私たちにも当てはまる。
この生徒という言葉を取り上げますけれども、これはいわゆる国籍とか地筋とか家系に関わる言葉です。
難しい言葉で言うと今言うアイデンティティですね。
自分の勇者。
その上に関わる生徒という言葉を詳しく学んでいきます。
イエス様を信じた私たちに与えられた新しい身分というものを私たちがしっかり知ると、神様と私たちの関係もしっかりするんですね。
その新しい身分について学びます。
ちょっと今日は変わった学び方をします。
どんな学び方というと、殺さえ人の手紙には双子の手紙というのがあるんです。
双子、ザ・ピーナッツじゃないですけれども。
双子の手紙というのはですね、さっき言ったエペソビトの手紙というのがあるんです。
ここのエペソビトの手紙と殺さえ人の手紙は双子の手紙といって中身が似ているんですね。
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そこに詳しく書いてあるので、そのエペソビトの手紙から生徒について残りの2点を詳しく学んでいきましょう。
2番目のポイント、生徒についての第一のポイントは、神様の国の民とされた生徒ということです。
学ぶエペソビトの手紙をここに引用しました。前にありますので見てください。
私たちはこのキリストによって一つの見た目において、父の身元に近づくことができるのです。
こういうわけであなた方はもはや他国人でも起留者でもなく、今は生徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
エペソビト2-18-19
まず最初の点、神の国の民、国籍ということです。
ここではですね、この前の掲示してあるものを見てくださるとわかりますけど、
生徒たちというのが同じ国民と言い換えられている。神の国の民が生徒だということなんですね。
この同じ国民という言葉、ちょっと難しいことを言いますけど、非常に特別な言葉なんです。
神薬聖書の中のギリシャ語で書いてあるんですけど、1回しか出てこない言葉で、その特別性が強調されています。
ちょっと難しいんですが、シュンポリテースというんですね。
シュンというのは、シンクロナイズスイミングでよく言いますが、シンクロのシンで一緒になった。
ポリテースというのは、都市のことをポリスと言いますけども、都市に住む住民、だから一緒になった市民、同じ市民という意味です。
英語で言うと、a fellow citizenという役になっているんですけども、この同じ国民というのがシュンポリテース。
つまり違法人が神の民ユダヤ人と同じ国民になりました、ということをパウロは強く言っているわけです。
だから私たちは神薬聖書を読んでイエス様を信じてイエス様を信じて救われましたが、
旧薬聖書の伝統的な神の民と同じ、孟子によって救われた神の民と同じ、神の国の市民権を得た。
新しく神の国の国籍を得たということが強く言われているわけです。
それでですね、ここで前提となっている旧薬聖書の背景を説明します。
この聖徒という言葉、英語で言うとsaintですよね。
日本語の意味はそっちの方がなじみが深いですよね。
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聖ルカ国際病院ってあるじゃないですか。日野原重彦先生の。
聖ルカというのは神薬聖書のルカという人の名前をsaintですね。
つけた病院だから聖ルカ国際病院、Saint Luke's Hospitalという英語で言います。
そこにある立教大学は英語で言うとSaint Paul's University。
この聖書の使徒パウロにちなんでつけられた聖パウロです。
その聖という字がsaintという字、聖徒です。
実はその言葉を聞くと、皆さん私たち真面目だから、
罪がない立派な人間じゃなきゃいけないと思うじゃないですか。
皆さん聖徒なんです。私たち聖徒です。
でもですね、そういう意味もありますけど、一番大事なことはですね、
旧薬聖書の性別するという言葉です。
特別な目的のために選び抜かれたということです。
だから聖徒というのは、たくさんの人々の中から、
神様の民として特別選ばれているという、
そういう選びということが強調されています。
学生の頃ですね、アメリカ人の宣教師が面白い例えをするなと思ったらですね、
こういうんですね、この私のコップは性別されています。
なぜなら私しか使っちゃいけないからです。
だからいろんな食器の中で自分用のコップが性別されていると同じように、
私たちは神の民として多くの民の中から性別された聖徒です。
そういう概念なんですけども、
殺祭教会の人たちも、そして今の私たちも、
いわゆる違法人の中からイエス様を信じて、
一つの神の民として取り分けられ、
新しい国の民となったということで、
聖徒、神の国の民ということです。
そしてですね、比較するとよくわかるので、
ネガティブなパウロの表現を取り上げますが、
パウロはその神の民となる前の状況を厳しく分析しているんですね。
ちょっと前の2章12節、こう書いてあります。前に掲示しましたが、
イエス様を信じる前の違法人のそのままのあなた方は、
キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、
約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
現在の希望と対比するためにパウロは誇張して厳しく書いています。
絶望的な表現を相手に使っていますが、
誠の神様を知らなかったことは、
神知らずの神様の救いから遠ざかって、
神も望みもない状態であったと言っていますね。
そればかりか、神の国から除外されていたというんです。
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除外されていた人だった。
そのように厳しくパウロが指摘しているわけですね。
でも、イエス様を信じた今は、
聖徒たちと同じ神の国の民になったと、
希望を持ってパウロは断言しているわけです。
皆さんこの人知ってますね、誰か。
名前なかなか覚えません。
カマラ・ハリスさんといって、
先週話題になったアメリカの大統領選の民主党の副大統領候補です。
彼女は、お父さんがジャマイカ人。
ウサインボルトのジャマイカですね。
ジャマイカ人の移民。
お母さんがインド人の移民です。
彼女にちょっと当てはめて考えますと、
もし、これ彼女のお母さんなんですけども、
彼女のお母さんがですね、
インドに住んだままであったらば、
他国人です。
外国人です。
だから当然アメリカ人の受けられる恩恵を受けることができなかったわけですよね。
そしてまた、カマラさんのお母さんがインド人であっても、
アメリカに住んだままで国籍を取得しなかったら、
非流者なんです。
在留外国人。
住んでるから何らかの恩恵を受けられますけれども、
今のコロナでも問題になりましたが、
やはりアメリカ国民としての権利を享受することができないわけです。
国籍がないから。
でも、カマラさんのお母さんはインド人でしたけれども、
アメリカに移住して、
アメリカ籍を取ったアメリカ人です。
そしてカマラさんがね、
アメリカで生まれたから、
選挙に出れるんですけど、
副大統領はわかんないんですけど、
私、付き合いがあったアメリカ人の選挙主にアメリカ人の選挙主に聞いたんですね。
私たちの子供は大統領選挙に出れません。
それを言うことからすごいなって思ったんです。
なぜなら、アメリカで生まれてない子は、
アメリカ人であっても大統領選挙に立候補できないんですって。
それはさとおきまして、
彼女はアメリカにインドから移住して、
国籍を取ったからアメリカ人となった。
娘さんが副大統領候補になった。
彼女は仕事知ってます?
乳がんの研究者です。
一流の医者です。
だから実はそういうステータスがあると、
アメリカの市民権という国籍を取りやすいんですね。
そういうこともあって、
彼女は堂々アメリカ人、
アメリカの国籍を取得できたわけです。
言わずもがな私たちと神の国との関係に
当てはめて考えることができますよね。
私たちは神の国の国籍を持たなかった。
当然ユダヤ人ではなかったから、
除外された、違法人であった。
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神を知らずに望みもなかった私たちですが、
イエス様を信じて神の民となった。
そしてカマラさんのお母さんのように、
特別な才能とか職能がなかったとしても、
私たちはイエス様を信じるだけで、
あの神様の国の民とされる、
神の国の国籍を得ることができるというのが福音なんですね。
そして神の国の民としての様々な恩恵に
預かることができるわけです。
先ほども申し上げましたが、この殺さえ人の手紙、
それには神様の民とされた私たちの希望が
たくさん記されています。
そんなんで私も学び進めていくことを楽しみにしていますので、
共に皆さんでその祝福を味わっていきましょう。
また時間がある方は家でですね、
ぜひ旧約の神の民の祝福を学んでください。
詩編読んでみてください。
新約聖書も見てみてください。
そして神の民の恩恵を学ぶことも良いかもしれません。
2番目のポイント、神の国の民とされた生徒でした。
3番目最後のポイントは、
神の家族とされた生徒たちということです。
もう一度エペソの2章19節をここに掲げました。
読んでみますね。
このキリストによって一つの御霊において
父の御元に近づくことができるのです。
こういうわけであなた方はもはや他国人でもキリシャでもなく、
今は生徒たちと同じ国民であり、
神の家族なのです。と言っているのです。
今度は家族としての生徒ということを見ていきましょう。
この生徒が示している新しい立場は、
神の家族という立場です。
それはすなわち、
聖書の神様をお父さん、
父なる神様と呼び、
パウロが心前の聖句にあるように、
挙げているように、
父なる神様の御前に近づくことができるようになった、
そして、私たちが聖書の神様、
その神様を親しい、頼りがいのある御方として、
新しい関係を築けるようになったということは福音です。
子どもが無垢な気持ちで、純粋な気持ちで、
親にすがる、気兼ねなく近づける、
そのように私たちも父なる神様に、
純粋に、あるいは気兼ねなく、
親しみを持って近づいて、
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お祈りすることもできるわけです。
ある学者はまた奴隷との比較で、
この部分を言っていますが、
実はこの当時の奴隷というのは、
良い奴隷があったんです。
それは忠実な下人として、
家族同様に扱われる奴隷がいました。
大事にされていました。
でもやはり立場は奴隷ですから、
家族としての恩恵には預かれなかったし、
もちろん、相族にも預かれなかったわけです。
しかし、私たちはイエス様を信じたので、
奴隷のように恐れる必要なく、
神様の子供です。
それで、私が思い出したことがあるんですけど、
皆さん、小学生の頃とか中高の頃で、
友達の家に泊まりに行ったことはないですか?
お母さんが歓迎してくれてね、
今コロナ禍ですから言っちゃダメですけどね、
友達の家に泊まりに行って、
自分の家のようにしなさいって言われるじゃないですか。
何でも好きなものを食べて飲んでって。
でも実際はそんなことできませんよね。
好きなものを食べていいよって言われたからね、
勝手に冷蔵庫を開けて、じーっと見たら、
お母さんは動揺しますよね。
冷蔵庫を開けて。
でもその家の子だったら、冷蔵庫を勝手に開けて、
好きな飲み物を出して飲むことができるわけですよね。
夜ご飯になってですね、
何でも好きなものを食べて、なんて言ったら、
その家の息子さんがね、
じゃあ僕、松坂牛のシャブシャブが食べたいってね、
言うわけじゃないですか。
お母さんはね、
いやーそれもいいけどね、
ドミノスのピザにしようよとかってですね、
上手にうまく話をすり替えるわけですね。
もし私が友達としてですね、
何でも好きなものの晩ご飯を言ってってね、
松坂牛のシャブシャブ食べたいって言ったら、
お母さんはね、しぶしぶね、
シャブシャブ買いに行って、
苦い、なんか居心地の悪い晩ご飯になるって、
味が分かんなくなるかもしれませんし、
そういうことも子供なりに空気温で言わなくてね、
いやいやいや、飲んでもいいですから飲んでもいいですからって言って、
コンビニ済ますわけですよね。
本当のことは言えないんですけども、
でも本当の親子であれば、
健全な本当の親子であれば、
子供だったら何でも好きなことをリクエストできるし、
親御さんも気兼ねなくですね、
これはダメだけどこっちがいいよって言うことを遠慮なく、
オプションを提供できるわけですよね。
そうやって親子の間には、
愛情もあった、ある、
それで気兼ねないやり取りがあるわけです。
で、これは当然、
神様と私たちとの関係にも
当てはめることができるわけですよね。
私たちは奴隷のように神様を恐れる必要もないし、
また、知人の親のような遠慮は、
私なる神様に対して無用なんですね。
例えばそれはやはり、
私たちの祈りの生活に関わります。
いろんな心に重荷があったり、
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願いがあるときに、
その思いの丈を、
ありのまま神様に打ち明けるときには、
ぶつけることができるわけですね。
何か必要なものがある、
何か欲しいものがあれば、
正直に神に祈ることができるわけです。
そして神様はまた、
良き親のように良きものを与えてくださるし、
それがダメなときとか、
もっと良いものがあるときには、
愛と配慮をもって、
さらに良いものを備えてくださるわけですよね。
このようにイエス様を信じて、
神の国の民となっただけではなくて、
もっと踏み込んで、
神様の家族の一員になったという、
そういう祝福に私たちは預かっている、
聖徒であるということなんですね。
このようにイエス様にある新しい立場、
神の国の民、神の家族、
その豊かさ、その希望をですね、
殺された人の手紙を受け取った人々が、
知ることができるように、
パウルはその手紙を書いたわけですし、
私たちもこの手紙を学ぶにあたって、
神の聖徒とされた、
祝福や希望を学ぶことができるわけです。
パウルはそのような思いを込めて、
この手紙の中でこう祈っているんですね。
最後にその御言葉を紹介して終わりたいと思います。
殺された人の手紙の1章の9節と12節。
こういうわけで私たちは絶えず、
あなた方のために祈り求めています。
どうかあなた方が光の中にある、
聖徒の相続分に預かる資格を、
私たちに与えてくださった父なる神に、
喜びをもって感謝を捧げることができますように。
私たちもこの手紙を学んでですね、
神様に喜びをもって感謝を捧げることができる
お互いとなりたいと思います。お祈りしましょう。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
イエス様を信じることには豊かな祝福がありますが、
その中にあなたの国民とされ、また、
あなたの子とされたという幸いがあることを感謝いたします。
それは簡単ではありますが、広く奥深い奥義です。
そして味わい深い祝福です。
どうか私たちの心の目を開いて、
その祝福の豊かさを、
さらに深く味わうことができるように導いてください。
これからこの手紙を学んでいきますけれども、
そのあなたにある希望を、私たちが学ぶことができますように。
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また、今日から始まるこの一週間、
あなたを父として、
あなたを私たちの王として、
あなたにすがり、あなたに頼り、
あなたに使い歩むことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらくお祈りをしましょう。
これらの御言葉を覚えて、
私たちの父なる神様に、
それぞれお祈りしてください。
献金のお祈りはいつもしていませんが、
自らを捧げる祈りも、
導かれるまま捧げてください。
アーメン。
それではそれぞれお祈りください。