2022-05-15 27:13

#105/22/5/15 変わらない約束

ガラテヤ-18からの礼拝説教。2022年5月15日録音。律法を守るかどうかの問題で今日の箇所でもパウロはその問題に答えています。そしてその答えは今の私たちの疑問、たとえば「クリスチャンになったら旧約聖書の細かい食べ物の規定など守らねばならないのか」、「聖書に書かれている教えに背いたら、神の民から除外されてしまうのか」等の疑問への答えになります。1.先の約束が優先される、2.一つの民、3.一人の子孫キリストの3点から学びましょう。

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私は、ガラテアビトの手紙3章15節から18節を朗読します。
兄弟たちよ、人間の霊で説明しましょう。人間の契約でも、一旦結ばれたら、誰もそれを無効にしたり、それに付け加えたりはしません。約束はアブラハムとその子孫に告げられました。
彼は、神は子孫たちにと言って、多数を指すことなく、一人を指して、あなたの子孫にと言っておられます。それはキリストのことです。
私の言おうとしていることはこうです。先に、神によって結ばれた契約を、その後、430年たってできた立法が無効にし、その約束を破棄することはありません。
相続がもし立法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みをくださったのです。
以上です。今日はこのところから、変わらない約束と題して、言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。今日は5月15日の礼拝です。体調が都合の悪い方が多くて、実際、すべての方がオンラインで参加しているという形でありますが、
このように整備された中で、礼拝堂に来れなくても、共に礼拝が守れることを本当に幸いに思います。
さて、この中でガラテアビトの手紙をずっと取り扱っていますが、この手紙は非常にパウロの信仰、あるいはクリスチャン信仰の真髄を表した短いながらも大事な手紙です。
そして中身が非常に濃いので、じっくり学ぶ必要がある。
また、皆さん気づいたと思いますが、旧約聖書の背景をしっかり知ることによって、パウロの言っていることがよくわかる。それがこの手紙の特徴です。
そして、この手紙の背景にあったガラテア教会の問題は、当時の教会の問題です。
それは、今ここにもありますが、クリスチャンになっても旧約聖書やユダヤ教の立法を守らなければならない。
特に男子は滑稽を受け、食べ物の規定を守らなければならないという、いわゆるユダヤ人クリスチャンが主張した内容です。
このことを迫ってガラテアビトのクリスチャンの信仰を揺さぶっていたわけです。
いわゆる立法を守るかどうかということが、この教会の問題であり、パウロが扱っている問題だったのです。
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このことにパウロはこの手紙の中で答えていますが、このパウロの答えは、今の私たちのクリスチャン生活の疑問への答えにもなるのです。
例えば、クリスチャンになったら旧約聖書の細かい食べ物の規定などを守らなければならないのか。
それは違うとわかっていますが、根拠は何か。
そして、新約聖書にも書かれているキリスト教の教え、クリスチャンの教えに背いたら、私たちは神の民から除外されたり、神の祝福を失うのかという疑問への答えになるわけです。
その点を踏まえて、3つの点から今日学んでいきます。
まず第一、それは最初の約束が優先されるというポイントです。
3章15節読める方は読んでみましょう。
兄弟たちよ、人間の霊で説明しましょう。人間の契約でも一旦結ばれたら、誰もそれを無効にしたり、それに付け加えたりはしません。
この15節から17節において、パウロは唯言の例えを使って説明しています。
この人間の契約というのは唯言のことなんですね。
その内容はおおよそ杉のようなものです。
つまり、どういうことを言っているかというと、アブラハムの約束の方が立法より先に結ばれている。
それ故に、アブラハムへの約束は後に来た立法によって無効になることはない。
それはちょうど唯言が執行されたら、その後破棄されないのと同じであるということなんですね。
簡単に言うと、時間の優先性を考えたら、立法よりも先に約束、約束は契約ということと置き換えられていますけど、
アブラハムに与えられた約束、契約の方が立法より優先されるという論理なんですね。
実はこのパウロが言うところの神様がアブラハムとその子孫に告げた約束、
それは旧約聖書の創世記に杉のような見言葉で書かれています。
12章1節2節7節から抜粋しました。読んでみますね。
神様がアブラハムに与えた祝福の約束です。
あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。
ここから読めるかで読んでみましょうか。
そうすれば私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
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あなたの名は祝福となる。そしてあなたの子孫に私はこの地を与えると仰せられた。
このアブラハムへの祝福の約束、そして祝福の具体的なものの一つとして、
カナンと言われていますけれども、この地を与えるとの約束です。
そしてパウロがここで言っている430年ということを、次の見言葉で言っているんですけれども、
3章17節、ガラテア3章17節で430年と言っていますけれども、
それはですね、このイスラエルの民が執エジプトの奴隷から解放された年が聖書にも書いてありますけれども、
ちょうどアブラハムがこの神の祝福の約束を受けた時から430年後だったということなんですね。
いわゆる執エジプトの出来事がこのアブラハムの約束から430年後、そしてこの執エジプトの出来事の時、
アブラハムの中で神様は孟子に実戒を授けたという。
このようにですね、言い換えれば契約約束の方が立法よりも430年も先んじている。
そしてそれが立法よりも優先されていて、今に至っている。
まず第一の点はここまでなんですけれども、
この後で与えられた立法よりも最初に430年前にアブラハムに与えられた祝福が優先されるんだ。
そしてそれが今の私たちにも祝福の約束として成就しているんだ。
そのことをまず覚えておいてください。
それでは2番目。
2番目はですね、一つの民という考え方です。
一つの民。
3章16節読めるかと読んでみましょうか。
約束話から3、はい。
約束はアブラハムとその子孫に告げられました。
神は子孫たちにと言って多数を指すことなく、一人を指してあなたの子孫にと言っておられます。
この2番目と3番目の次のポイントは、
あなたの子孫という、一人というのは誰かということで焦点を絞って説明します。
まずこの一人、あなたの子孫、後でも出てきますが、
単数形の子孫、誰か。
それはですね、簡単に言うと神の民、クリスチャムも含めて神の民全部という、
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それをまとめて一つの子孫と言い方をしたとパウロは言っているんですね。
まあストレート前後しますけれど、
じゃあなぜ先ほど一番目に見た430年前の最初の約束が後の立法に優先されるかということを見ていきましょう。
このアブラハムは立法が与えられる430年前に、
この神様の契約の約束を信じて義と認められました。
そのことが創世紀の15章6節に書いてあるんですね。
これよくパウロも引用している、いわゆる信仰義人の源になった御言葉とも言われています。
創世紀15の6節を読めるかと読んでみましょう。
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
信じることによってアブラハムが義と認められた。
つまりここで言いたいことは、
ここでの契約や約束はアブラハムが神様を信じ、神様との信頼関係に生きた。
そして彼が義と認められて、
ある意味では祝福と約束に預かるものになった。
信じること、信頼することがこのアブラハムが約束を得る唯一の手段だったと言わんばかりなんですね。
それが今に至ってですね、
ここから神様を信じ、神様の信頼関係に生きるものこそ、
神様の民とされ、約束の神様の祝福に預かるということを言っているんです。
つまりそれは立法を守るものではない。
430年前にこのように神に信頼し、神との信頼関係に生きるものが、
神の約束を得るものだということが既に決まっていた。
それをパウルはここで言っているんですね。
一つの例えを考えてみたんですけども、
言い言ではなくてですね、ちょっと理事がかなと思ってですね、
例えば私たちが、この家を借りる、賃貸物件を借りたとしましょうね。
そしてそこで例えば家賃5万円でこの家を借りますという、そういうことが成立しました。
住んでますね。しかし住んでるうちに、
この大家さんがですね、家の前を掃除する。大家の家の前を掃除すること。
そしてそればかりが大家さんのですね、家の犬の散歩をすることを要求してきたわけです。
これらのことをしないと、もうあなたはこの家から追い出しますって言い始める。
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テレビでよく法律番組、相談番組やってますけども、
これはどうなのか。これは当然、この犬の散歩とかですね、
家の前の掃除をやらなくても、家から出る必要はないわけですね、借り主はなぜか。
契約を締結したときにですね、そんなことは契約の中に入っていなかったからです。
これと似てるのが、アブラハムは信じて、
そして彼の子孫も信じることによって、神の祝福に預かるということが決まった。
その430年後に立法が与えられたわけですから、
この神様を信じて生きる私たち、イエス様の十字架を信じて生きる私たち、
神に信頼して生きる私たちが、当然、旧約聖書の立法を守れなくても、
あるいは時にですね、新約聖書にある聖書の教えを守れなくても、
神の民の資格を失うことはない、神の祝福を失うことがないということにつながるわけなんです。
この私たちもイエス様の十字架を信じて、神様との信頼関係で生きることだけがですね、
クリスチャンとされ、神様の民とされるための条件なんだ。
聖書の規定が守れないから、クリスチャンの資格を失うのではない、
そのことをパウロは言いたいわけなんですね。
そして私たちもそれを心に留めておくべきなんです。
加えてパウロは、今日のガラティア三章十六節で言っている、
子孫という言葉、単数形の子孫だと言っているんですね。
そのことを少し注目しましょう。
パウロが引用した旧約聖書の御言葉をもう一回紐解いてみますね。
元の御言葉はいくつかあるんですけれども、
その一つが、創世紀の十七章八節、アブラハムに神が与えた約束です。
読んでみますね。
私はあなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、
あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。
私は彼らの神となる。
このですね、あなたの子孫に永遠の所有としてカナンの全土を与えるという時に、
この子孫という言葉が、子孫たちにではなくて、
一人の子孫にという、単数形になっているとパウロは言っているわけですね。
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それはどういうことでしょうか。
このですね、カナンの土地というのは、さっきも出てきましたけれども、
実はその文字通りカナンの地なんですけれども、
後に神様の旅に与えられる全ての祝福や永遠の祝福を象徴していると考えてください。
パウロはここの子孫を、さっきも言いましたが、一人の子孫であるということに注目させるんですね。
どういうことか。複数形ではなく単数形の子孫であるということはどういうことか。
ちょっとそれを考えてみたいんですけれども、
それはですね、こういうことなんですね。
つまりですね、複数形という時に何がパウロがここで言いたいかというと、
祝福はユダヤ人とそれ以外の違法人に与えられる、
そういう意味での子孫たちというふうに言っているわけです。
でも神様はそういうふうに言っていないんですよ。
違法人と立法を守るユダヤ人を区別していないんですよと言っているんです。
ユダヤ人は区別していると思っていたから、
違法人も滑稽を受けて旧約聖書の立法を、特に食べ物の立法を守ってこそ、
私たちの一つの民に入ることができると。
私たちの民に入ることができると言って、
神の民をですね、ユダヤ人と違法人、アブラハムの子孫をユダヤ人と違法人に区別していた。
でもパウロはですね、神様の意図はそうじゃないんだ。
この約束を受ける子孫というのは、
ユダヤ人とそれ以外の違法人クリスチャンという分け方ではなくて、
一つの神の民という意味で、一つの子孫だと言っているということなんですね。
これはどういうことか。何がそれが関わってくるか。
つまりですね、ユダヤ教の立法を守るとか滑稽を受けるというのは非常に特殊なことで、
ある意味はユダヤ人しかできないことなんです。
一方でこの福音を信じるとか、あるいは神様を信頼する生き方というのは、
誰でもできることではないでしょうか。ユダヤ人に限らず、日本人も何人でもできる。
ですから、違法人もユダヤ人もその他国籍や民族関係なく、
この福音を信じ、神様との信頼関係に生きる一つの子孫、一つの民族にこそ、
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この祝福は約束されているとパウロが言いたいわけなんですね。
何度も繰り返しになりますけれども、滑稽を受けるとか、
食べ物の規定を守るとか、特殊なことをできる人はなかなかいない。
それで阻害されていたわけです。そうじゃないんだよ、そういうことじゃなくて、
純粋にイエス様の十字架を信じる、そして誠の神との信頼関係に生きる、
この誰でもできる、信じて生きる、神を信頼して生きるということこそが、
神の民の資格であり、そこにはユダヤ人もイホウ人も区別がなく、
すべての一つの神の民がそこで生まれるんだよ。
その一つの神の民に、一つの子孫に、神は約束をしたんだよとパウロは言いたいわけです。
そして、言わずもがな、あなたも私も信じることによって、
その神の祝福のために今、加えられているということなんですね。
パウロはそのことを受けて、ガラテアビト、今日読んだ三章十八節でこのように教えています。
読める方は読んでみましょう。
3、相続がもし立法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。
しかし神は約束を通してアブラハムに相続の恵みをくださったのです。
言い換えれば、この約束を通して、すべての信じるアブラハムの子孫に、
その神の相続の恵み、祝福をくださったということなんですね。
ですから、今私たちは、この神との信頼関係に生きる神のためにある立法を守って、
窮屈な生活や自分を責めるような生き方ではない、
神との信頼関係に生きる私たちこそ、一つの神の民である、
そういうことを知っていただきたいということなんですね。
今、ロシアとグライナーのことで、ことさら話題になっていますけれども、
民族主義が対等して争いや紛争が起こっています。
そういう時だからこそ、今私たちは信じる神の民である、
そういうアイデンティティを持って生きるということ、
人を民族性とか国籍などで区別することなく、差別することなく、
私は神を信頼して生きる民なんだ、
そこには国や国籍もないんだということで生きるということも、
今大事かと言えるかもしれません。
最後の点ですね。
その一人の子孫とは、イエス様、キリストであるということです。
もう一度、この三章の御言葉を読めるかで読んでみましょう。
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三杯、約束はアブラハムとその子孫に告げられました。
神は子孫たちにといって多数を指すことなく、
一人を指してあなたの子孫にと言っておられます。
それはキリストのことです。
このようにですね、やはり最後はキリスト、
最後はイエス様が神となるんですね。
私たちをこの立法から解放して、
神様との信頼関係に生きる道を備えてくださったのは、
他でもないイエス様だからなんですね。
私たちは神様の民として神様を信頼し、
精一杯神様に従おうとしますね。
しかし、そんな中でも精一杯神に従って生きようとします。
けれどもその私たちは肉の弱さの上に、
神様の教えに背いてしまうことがあります。
しかしたとえそうでも、私たちが神様の祝福に
とどまり続けることができる、
それはイエス様のおかげなんですね。
この実は一人の子孫、
それはキリストのことですとパウロは言っています。
そこにはこういう意味があるんですね。
実はイエス様は一人の子孫として、
つまり神の全ての民の代表の一人として、
神の民の代表の一人として、
一人の人として、一人の子孫として、
地上の生涯で神様の御規定を全て守って、
生涯を全うされました。
そればかりではなく、
罪のないお方、神の御規定を全て、
おちとなく守られたお方として、
私たちの罪を、
私たちが神の御規定に従えない、
その罪の弱さを背負って、
十字架の上で贖いの死を成し遂げて下さったんですね。
私たちの全ての罪を、
その身体になって、
イエス様はその罰を十字架の上で受けて下さった。
贖いの死を成し遂げて下さった。
それゆえにですね、
信じる私たちは、
たとえ御規定を守れないことがあったとしても、
神様の祝福に留まり続けることができる。
やはり鍵はこのイエス様なんだ。
神の民の代表として、
一人の子孫として、
立法全うし、
そして私たちの罪を担って十字架で死んで下さったイエス様。
そのイエス様がおられるから、
24:00
そのイエス様に私たちは信頼するから、
私たちは神の祝福から漏れることがない。
言い換えれば、この一人の人をイエス様によって、
神の約束は成就した、実現したと言えるわけですね。
このイエス様と神様への信頼関係の中で生きていきましょう。
自分の心が責めることがあるかもしれません。
しかし、そのときこそ、
神様とイエス様に信頼するんです。
ああ、イエス様、あなたの十字架のこの贖いのゆえに、
私は神様の祝福から漏れることはないんです。
苦しいときだからこそ、そのイエス様にすがるというかですね、
イエス様に信頼しましょう。
泣き叫ぶ子供がですね、親にすがりつくように、
難しいことを考えられなくてもですね、
ああ、こんな私のためにイエス様が十字架で死んで下さった、
贖いを成して下さった、ありがとうございますと言って、
イエス様に信頼して生きるときに、
私たちはまさに神の祝福を実感し、それを知るんですね。
イエス様、私を祝して下さってありがとうございますと、
神に信頼して祝福を祈りの中で受け取っていきましょう。
実生活の中でそれを実感したら、
まさにそれを神様に感謝していきましょう。
それでは最後に、もう一つ先週読みましたけれども、
大事なイエス様の永遠の御言葉、
ガラティア3章13、14節を読んで終わりにしたいと思います。
キリストは御自分が私たちのために呪われたものとなることで、
私たちを立法の呪いから贖い出して下さいました。
それはアブラハムへの祝福がキリストイエスによって
違法人に及び私たちが信仰によって約束の御玉を受けるようになるためでした。
ガラティア3の13、14、お祈りしましょう。
私たちの天の父なる神様、皆を賛美いたします。
あなたは、あなたに信頼するアブラハムに祝福を約束して下さいました。
そしてその祝福をイエス様によって実現させ、
私たちをあなたの一つの民として選び、
祝福へと招いて下さったことを感謝いたします。
様々な試練や弱さの上にそのことを見失いがちになるかもしれませんが、
どうぞ、あなたとの信頼関係の中に生きていく、
そのような歩みの中であなたの祝福を喜び、
あなたを喜んでいく、感謝していく歩みを続けることができるように、
どうか導いて下さい。
そのような私たちがまた、私たちの周りの方々に対して
神の祝福の源となることを信じて感謝いたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、
27:01
主イエス様の名前によって祈ります。
アーメン。
それでは一本ほど神様にお答えして、
祈る時間を持ちましょう。
27:13

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