2022-10-09 17:25

#127 福音の市民として 22/10/9

ピリピ-30からの礼拝説教。2022年10月9日録音。説教録音が不調で別録したものを公表します。 最近国同士の争いなどがニュースを賑わせています。先週火曜には5年ぶりにJアラートが作動し通勤通学時もあって多少の騒ぎになりました。そんな中ですが今日の箇所から市民権に関わることが語られています。この手紙は今日読んだ箇所から2番目の大きな流れに入ります。ここからピリピ教会の人々へのパウロの直接的な教えや勧めが2:18まで続くといわれています。その冒頭1:27でこの箇所の指針となる大きな命令を語ります。それは「福音の市民に相応しく生活せよ」という言葉です。1. 福音の市民に相応しく、2.御霊の一致、3.苦しみという恵の3つのことを学びましょう。

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フィリピ人への手紙、1章27節から30節を読みします。
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
そうすれば、私が行って、あなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方について、こう聞くことができるでしょう。
あなた方は霊を一つにして、家宅たち、福音の信仰のために、心を一つにして、共に戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない。
そのことは、彼らにとっては滅びの印、あなた方にとっては救いの印です。
それは、神によることです。
あなた方が、キリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなた方は経験しているのです。
今日はこのところから、福音の市民と対しての言葉を取り継ぎます。
おはようございます。
最近ですね、国同士の争いなどがニュースを賑わせています。
先週火曜日には、5年ぶりにJアラートが作動し、通勤時間ということもあって、少し騒ぎになりました。
そんな中ですが、今日の箇所から、市民権あるいは国籍に関わることを学んでいきましょう。
この手紙は、今日読んだ箇所から2番目の流れに入ります。
ここからピリピ教会の人々へのパウロの直接的な教えや勧めが、2章の18節まで続くと言われているからです。
この冒頭1章27節で、この箇所の指針となる大きな命令をパウロは語ります。
それは、「福音の市民にふさわしく生活せよ。」という言葉です。
この言葉を第一の点として、3つのことを学びましょう。
まず第一、福音の市民にふさわしく。
1章27節、冒頭を読みします。
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
この手紙の中でパウロは、「クリスチャンは二重国籍を有するものだ。」と教えています。
その上で、福音の市民としてふさわしい生活を送るよう命じているのです。
この生活しなさいは、ギリシャ語で特別な言葉で、ポリテウオマイという言葉です。
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これはギリシャ語のポリス、都市という言葉に由来する動詞です。
所属する市民として生活する、生きるという意味があります。
ですから、この27節を直訳すると、こうなります。
ただ、キリストの福音の市民としてふさわしく生活しなさい。
このポリテウオマイには、市民の特権を享受しながら、責任を果たして生活するという考えが含まれています。
このピリピは、ローマの植民都市でした。植民地とも言ってもいいかもしれませんが、植民地という言葉は、今では否定的なイメージがあります。
しかし当時のピリピは、グオマ帝国の人のあったイタリア本土にある都市と同じとみなされ、イタリアの権利を有していました。
まさにローマ市民としてふさわしい生活を送るとは、ピリピの人々にとっては、ローマの特権に預かり、ローマ市民としての責任を果たすことだったのです。
ピリピの人々は、そのことを誇りと感じていました。
人の働きにも登場する、ピリピの最初の改新者の紫布の商人、女性の事業主とも言うべきリディアや、またパウロとシラスの統獄中に監視をしていたカンシュも、その特権に預かり、ローマの市民権を持つ者として誇りを持っていたことでしょう。
そのような中でパウロは、ピリピのクリスチャンに対して、ローマの特権を持ちながらも、福音の都市の市民としてふさわしく生活しなさいと教えているのです。
これは、今の私たちにも向けられた教えです。
例えば、私たち、私がそうですが、日本人でありながら、福音の市民としてふさわしく生活するように教えられているというわけです。
このクリスチャンが二重国籍を持っている、この真理をぜひ覚えておいてください。
パウロは、こうも述べています。ピリピの3章20節です。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエスキリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
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その上で、パウロは、ピリピ教会の人々に、こう教えます。
自分が不在であっても、今のように離れていても、福音の市民としてふさわしく生活しなさい。
このように教えていますが、それはどういうことかというと、教会の外の人々に対しては、福音を明かしして生きることであり、
何をしていても、自分を通して、キリストの素晴らしさが現れるように生きるということと言えます。
それは、以前学んだ通りです。
そして、教会の内部の人々に対しては、お互いを敬い、一致して生きるということにつながります。
そして、このことについてパウロは、これから教えていきます。
それでは、それと関連する第二の点。それは、見た目の一致、一つの身体ということです。
1章27節から28節をお読みします。
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
そうすれば、私が行ってあなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方についてこう聞くことができるでしょう。
あなた方は霊を一つにして、固く立ち、福音の信仰のために心を一つにして、共に戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない。
ピリピ1章27節から28節です。
クリスチャンは、福音にふさわしく生きる上で、ピリピンの人々ですけれども、
このローマ社会の中で戦いを経験していました。
そのような中で、固く立ち、共に戦いなさい、という言い回しで、信仰の逆境を耐えて生き延びるように、とパウルは教えています。
その上で大切なことは、神の家族として一つになるということです。
この1章27、28では、興味深い二つの表現で、一致について教えられています。
一つは、心を一つにしてです。
この心は、言語ではプシュケイという言葉で、魂とも訳せる言葉です。
しかしそれには、もう一つ人間の体という意味もあります。
おそらくここではむしろ、この精神論的な心より、体と捉えて、一つのチームとして、あたかも一つの体のように戦いなさいと理解できるでしょう。
多くの学者もそのように理解しています。
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例えば、当時のローマの軍隊は、隊列を組んで一つの体のように前進する横並びになって、あるいは縦にしっかり並んで、あたかも一つの体のように前進していくという背景があり、ピリピの人たちもそのような姿を目撃していたことと思われます。
現代で言えば、例えばラグビーのスクラムと考えても良いでしょう。
まさに一つの体のようになった方が、力が分散せず、ラグビーのスクラムの試合でもそうですが、力を集約して敵に向かって、そして困難に打ち勝つことができるというわけです。
しかしそれは、全員が同じ人間になって同じように生きることではありません。
先ほども言いました、ピリピ教会のリディアは女性経営者でした。
そして同じ女性でも悪霊につかれていた奴隷の少女もいました。
彼女もパウロによって悪霊を追い出してもらって、解放されたわけですね。
そして教会に変わりました。
一方でこれが元で、パウロとシラスはローマの帝国の牢屋に入りられたわけですけれども、
そこのローマの牧舎には帝国直属のローマの漢宗の男性がいました。
そしてその男性が後に戒心し、また家族も戒心し、バプテスも受けたと記録されています。
このように性別、年齢、職業をはじめ、違う一人一人がピリピの教会に属していました。
同じように私たちも多くの違いがあるお互いです。
しかし一つの体である教会に属する神の家族として、
神の家族として共に力合わせ信仰の信念を乗り越える、お互いをいたわい合い支え合うべく教えられているわけです。
この一つの体ということですけれども、もう一つの言葉、二つ目の言葉は霊を一つにしてです。
この霊は精霊です。
違った私たちを一つにまとめるのは、精霊の賜物なのです。
この精霊は祈りのうちに働いてくださいます。
私たちは離れていても、お互いに祈り合うときに、精霊により一つとされるのです。
そのことを覚えて私たちも互いに祈り合いましょう。
パウロが別の歌詞で教えている二つの見言葉を通して、一つの精霊について語っているそのことを次に挙げます。
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一つはエペソの四章四節です。
あなた方が召されたその召しの望みが一つであったのと同じように、体は一つ、見たまは一つです。
教会の奥義が書かれていると言われているエペソビートの手紙にこのようなことが書かれているのは、大変興味深いことです。
二つ目は第一コリント十二章の十三節です。
私たちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も、一つの見たまによってパブテスマを受けて一つの体となりました。
そして皆、一つの見たまを飲んだのです。
コリントの教会は有能な人が多く、また自己主張も強く分裂が生じていました。
そんな中で、一つの体である教会ということ、そしてそこに一つの見たまによってパブテスマを受けて一つの体となったと教えているこのパウルの教えは非常に重要な見たまの真理です。
最後の三番目のポイントは苦しみという恵みです。
今日の一章二十九三十をお読みします。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘をあなた方は経験しているのです。
このピリピリ教会の人々は、先ほども言いましたようにローマの市民権を持っていました。
当時のローマでは、皇帝が主なる神、救い主として崇められていました。
そして檻に触れ、頻繁に皇帝礼拝の機会がありました。
しかしクリスチャンはイエス様を主なる神、救い主として崇めていました。
それゆえ信仰者として大なり小なり反対や敵意を向けられることがあったようです。
パウロもピリピ教会の人々も同じ力によって苦しめられていたのです。
それはローマ帝国の権力でした。
そしてその同じ力がイエス様を十字架にかけたのです。
パウロとピリピ教会の苦しみは、実はこのイエス様の同じ苦しみに預かるということであり、それも恵みであるとパウロは教えます。
苦しみが全てなくなると考えるのは、まさにカルトの教えです。
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私たちは生きている以上、苦しみから逃れることはできません。
ましてや福音の市民として生きるときに、その苦しみを受け止めることも市民としての責任であるというのです。
しかしその避けられない苦しみも、意味があると知るときに、私たちはそれを受け止め、乗り越えることができるのです。
その意味とは、キリストの受難に共に預かるという弟子の道であるということです。
最後にもう一度1章29-30をお読みして終わりにします。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
かつて私について見て、また私について聞いているのと同じ苦闘をあなた方は経験しているのです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたは私たちにイエス様にあって新しい市民権を与えて下さいました。
福音の市民権であり、天の国籍です。
どうかそれにふさわしく生きる道を教えて下さい。
その中で主にある家族として、お互いを敬い、見た目によって一つ身体として共に一つの民となることができますよう、私たちの教会を養い導いて下さい。
苦しみに遭う時にどうか互いに祈り合い、いたわり合い、一つの身体として乗り越えることができますように。
またその中においてイエス様の十字架に預かるという恵みを覚えることができますように。
こうして私たちがあなたの栄光をあらわすことができますよう、どうか導いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは皆さん、1分ほど黙祷し、主に御言葉にお答え下さい。
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