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マルコ2章、22節から28節をお読みします。
23節からお読みします。 ある安息日にイエスが麦畑を通っておられた時のことである。
弟子たちは道を進みながら、穂を積み始めた。 すると、パリ裁人たちがイエスに言った。
「ご覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのですか?」 イエスは言われた。
「ダビデと友の者たちが食べ物がなくて空腹になった時、 ダビデが何をしたか読んだことがないのですか?」
大祭司エブヤタルの頃、どのようにしてダビデが神の家に入り、 祭司以外の人が食べてはならない臨済のパンを食べて一緒にいた人たちにも与えたか、
読んだことがないのですか? そして言われた。
安息日は人のために設けられたのです。 人が安息日のために作られたのではありません。
ですから人の子は安息日も主です。 今日はこのところから
安息日の主と題して意味言葉を取り継ぎます。皆様おはようございます。 ちょっと今日はですね珍しく
ズームのトラブルがあって音声が見取れましたこと失礼しました。 今日はですね先週に続いて背景を知らなければイエス様の言ったことの意味がよくわからない
という箇所です。 先週はユダヤの習慣でしたけど今日は旧約聖書や立法の背景ということでそれらを踏まえて
3つの点から見ていきます。 まず最初は旧約聖書の背景ですね。
もう一度言いますけれども、ある安息日にイエスが麦畑を通っておられた時のことである。 弟子たちは道を進みながら穂を積み始めた。するとパリサイ人たちがイエスに行った。
ご覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのですか。2章の23、24。 パリサイ人が弟子たちの行為をですね、批判した根拠の一つには旧約聖書の立法があります。
代表的なものはですね、出土エジプト記34章の21節です。 ちょっと読める方下になりますので読んでみましょう。
あなたは6日間は働き、7日目には休まなければならない。 工作の時も借入れの時にも休まなければならない。
これは大元の出土エジプト記34章21節の見言葉です。 そしてこのような見言葉を代表的な見言葉をもとにですね
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旧約聖書の立法をですね、どう適用するか。 礼引きなどを中心に生活にこと細かに適用するためにパリサイ人たちがよりどころとしていた
ユダヤ法があったんですね。 そのユダヤ法のことをですね、ミシュナと言っていました。それは聖書ではありませんでしたが
立法学者の行動と発言の基準となる権威ある教えだったんですね。 それにはですね、立法を生活に適用するべく多くの具体的な規定がありました。
そしてそれらの細かい規定をもとに、今日のところもそうですが、さばいていたんですね。
この中に39の禁止されていた労働がミシュナーの中にあったんです。 そのうちの一つが借り入れをしてはいけないということだったんですね。
そしてそのもう一つ脱穀ということで、この弟子たちが安息日にですね、この麦の穂を積んで、そしてその麦の穂からそれをですね
よくみなさん玄米なんかもそうですよね。穂があって、中のそのものをこうやって揉みほぐすと、実があってそれを食べる。
それを脱穀とみなされて批判されたわけです。 しかしイエス様はその批判の間違いを別の聖書の
言葉を根拠として正しました。 それがですね
2章の25節の後半から書いてありますね。 ダビデと友の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのですか?
大祭司エグヤタルの頃、どのようにしてダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない、 臨済のパンを食べて一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか?
あなた方は立法を知りながら聖書のことを知らないのか? そういう批判とも皮肉とも取れる指摘をしたわけです。
皆さんこの話ご存知ですか? 読んだことありますか?
これはですね、こういうことを言って聖書の中にいわゆる立法の例外もあるということを
聖書からイエス様は紐解いているわけなんですね。 これは第一サムエルの21章に記されている出来事です。
実はそれはですね、王になる前のサウルの出来事です。
この絵にもありますが、王になる前のダビデの出来事です。 ダビデはですね、いわゆるゴリアテとの戦いで一躍有名になりました。
ヒーローになりました。そしてサウル王に気に入られて、側近の一人として召されたわけですね。
そしてサウルが今言うところの不眠症でしょうか? そういう症状に悩まされた時に、たてごとをですね
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枕元で奏でてですね、このダビデの入眠を助けたなんてあります。 私もですね、最近いわゆるサブスクのですね
脳がリラックスするBGMとか聴きながらですね、深い寝法につけるBGMなんて聴きながらですね、寝るわけです。
そういうような ダビデが枕元で奏でていた時に突然ですね
サウルは衝動的に槍を取ってダビデを刺し殺そうとした。 そんなこともあったわけです。そしていよいよですね
息子のヨナタンがですね、探りを入れたところ、本気でダビデを殺そうという サウルの殺害の明確な意図がわかったんです。
そして そのサウルの息子、ダビデの親友のヨナタンがですね
測ってですね、このダビデを逃がしてあげた。 そして逃げていったこの最初の出来事として第1サムエル記20章に書かれているのが
このパンの出来事です。 いわゆる家来たちを連れてダビデは昆虚していたんですね。
そして 食料に困ってサイシの元を訪れ、食べ物を要求したんです。
で、その時にサイシがこう言った。それが第1サムエル21章の4節、6節に書いてあります。
サイシはダビデに答えていった。何か食べ物ありませんか?と サイシが答えた。手元には普通のパンはありません。ですがもし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら
性別されたパンはあります。 ダビデはですね、その通り私たちは女たちから身を遠ざけていました。と言ったんですね。
サイシは彼に性別されたパンを与えた。ここから読んでみましょうか。
そこには暖かいパンと置き換えるために、その日種の前から取り下げられた 臨済のパンしかなかったからである。
いわゆるですね、これは サイシ以外に食べてはいけないパン、性別されたパン、
臨済のパン、それを例外的にダビデは受け取った。 そのことがあるわけですね。ちなみにダビデパンとですね、
絵ですけど、ゴリアテの剣というものを受け取って、ここから逃亡生活を続けたという記録があるわけです。
ここではですね、神の真理を知っていると思っていた パリサイ人の聖書理解の無さをイエス様が指摘しています。
そしてイエス様は後でも語りますが、弟子たちを守り、ご自身の権威ということをこれから明らかにしていくわけです。
2番目。 安息日は人間のためにある。
2章の26節、今日のところに戻りますが、そしてイエスは言われた。 読んでみましょう。
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安息日は人のために設けられたのです。 人が安息日のために作られたのではありません。
こうイエス様は安息日の制定の意味を告げられました。 このイエス様の指摘には大事な真理が
語られています。 安息日の本来の意味、そしてそれを取り違えたパリサイ人の間違いです。
安息日の本来の意味は人間を幸福にするためにあるというですね。 それなのにパリサイ人らは安息日を耐えるべき思いでがんじがらめにしてしまった。
そこに間違いがあるとイエス様は言っているんですね。 今年の2月頃、東京都練馬区
話題になりましたね。松本レイさんが亡くなって、昨日記念会があったこともありましたけれども、練馬区が熱い。
その中の一つにある公園の看板がですね話題になりました。 その禁止の看板が練馬区のとある公園で24枚も掲げられている。
そういうことが話題になったんですね。この写真にあります。 苦情を寄せたくなる住民の事情もわかります。
事故や問題を起こしたくない、そういう苦の思いもわかります。 そして当然ですね、公園で遊びたい、いこいたいという人たちの主張も分かるわけですよね。
こういうものが利害がぶつかり合っているわけです。 いろんな立場から難しいかもしれませんが、ここに国土交通省がですね
ホームページに掲げた公園の意味というのが書いてあるんです。 一番最初に書いてありました。
公園を設置する目的は、人々のレクリエーションの空間、良好な都市景観の形成、都市環境の改善、都市の防災性の向上、
生物作用性の確保、豊かな地域づくりに資する交流の空間の提供である。 これが本来の公園が設置された意図であるわけですね。
しかし、こういう禁止事項の看板が多くなると、公園本来の目的が見失われて、そこで得られる喜びなり憩いが損なわれてくるという問題がここに現れているわけです。
これと似たような、もっと高度なことかもしれませんが、このイエス様とパリザエビトの安息日の運送にあるわけです。
安息日の起源、皆さんご存知ですか。 それは神が創造の宮座を完成されて、その最後の日とされている、最後の曜日ですね。
そこで休まれた。 そこが安息日の根拠になっているわけです。
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そのような安息日の根拠は、この安息休むということにまずあるわけですね。 そして、
それは本来は人間の休息と喜びのために神が定めてくださった。 それが安息日です。
週に一度の休みをですね、とってリフレッシュして喜ぶ日が、まあ、安息日、今で言えば日曜日なのかもしれません。
この縦看板の問題と似たようにですね、パリザエビトはこの安息日の立法を、禁止という縦看板や禁止というフェンスを張り巡らして、窮屈にしてしまった。
そのことをイエス様は指摘している。その過ちを指摘しているわけです。 イエス様はその過ちをですね、
安息日を解放して、本来の目的、人間を生かすための安息日、その真理を取り戻すように教えたわけなんですね。
例えば私たちも教会で行われている礼拝の営みをはじめとする様々な教会の行事とかですね、本来の意味は何なのかなと考えて望むと、
喜びやその参加意義が増すということがあるかもしれません。 そしてキリスト社など、クリスチャンとしてですね、日々なしている習慣、そういうもののですね、本来の意図を掴んで、
この望んでいくということに、また喜びや安息の回復があると言えるのではないでしょうか。 3番目。
人の子は安息日の主です。 そして今日のイエス様の最後の権威ある宣言ですね。
ですから人の子は安息日にも主です。 権威あるイエス様のお言葉です。
イエス様は最初にですね、もう一つメインではないんですけど、人の子ということをちょっと知っておいてください。
この人の子という言葉をイエス様はですね、私という意味で使います。 それは単なるですね、人間になったっていう意味じゃないんですね。
そういう意味も聖書使われていますが、イエス様はそういう意図ではない。 それはですね、この人の子という言葉の良い意味での曖昧さと
安息が関係しているわけです。 はっきりとですね、メシアや救い主という意味は持っていないんです。
だけどもですね、旧約聖書のダニエル書に サエリンの
キリストとして語られている人の子という姿があるんですね。 そこにはやがて来られる救い主の存在、メシアの存在が暗示されているんですね。
ちょっと難しいかもしれませんが、読んでみますね。 それはダニエル書の7章13節です。
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ダニエルが世の終わりの幻を見たと言ってるんですけども、 こう言ってるんですね。私がまた夜の幻を見ていると、
見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。 その方は年を経た方、神ですね。多分知なる神の元に進み、その前に導かれた。
この人の子って言うんですね。人の子のような方が 天の雲とともに来られた。サエリンのキリストを予兆しているって言われているんです。
その言葉から人の子とイエス様はご自分を指して使うようになったんです。 繰り返しますけれども、この
はっきりと語られていないけれども、 世の終わりにやってくる救い主ということが暗示されているっていう、それが大事なんですね。
イエス様はこの間まで言いましたが、メシアの秘密ということを言いましたが、 人々がイエス様をローマ帝国からイスラエルを解放する
その王なるメシアだという、そういう誤解を避けるために 十字架や復活ということが明らかにされるまでは、ご自分が救い主であるということを明言しなかったんですね。
で、その中でこの人の子という言葉、それはご自分が約束の救い主的存在であるということを 良い意味でですね、今最近言う微妙に言い表すのにちょうど良い言葉として使っている。
よく聞くんですけど、こういう捉え所があるようなないような意味っていうことをぜひ皆さん 教会生活長いですけども覚えておくとこれから
便利だと思います。 その意味でイエス様は人の子自分は安息日の主だと言っているんですね。それどういう意味でしょうか。
安息日は主の日だとも定められている。 主を礼拝する日だとも定められています。
イエス様は安息日の主として、その主の日を正しく解釈して 人々の喜びと救いのためにどのように用いるかを
宣言する権威を持っておられる。 そういう意味なんですね。
で、もうちょっとあのわかりやすく私なりに考えた時なんですけども、古い写真が出てます。
これですね。 今の西部ライオンズの伝誌、西鉄ライオンズの名監督の三原監督。
三連覇に導いた名監督。 実は三原監督がある今でいう西部ライオンズとロッテマリーンズの試合が当時あったんです。
その時に守備がライオンズ、相手がロッテ。 ロッテのランナーがですねホームに滑り込んだんですね。
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で、 ライオンズの選手のタッチと
このロッテの選手のホームが同時だったんです。 その時にこの審判、二出川審判はセーフと言ったんですね。
するとこの三原監督が怒ってですねベンチから飛び出してアウトだろう。
でこの審判はいや同時だからセーフだ。 でね今だったらこうじゃないですかこうやってやって
確認しましょうって言うけどそれなかったんです。 三原監督はどうしたかというとおいお前じゃあ
ルールを見せろと言ってですねこの審判のあのなんですか控室まで詰め寄ったんです。 ルールブックを見せろどこに書いたんだって言ったらこの
二出川審判が何て言ったかというと これですね
俺がルールブックだ。 名言になりました。俺がルールブックだ。
だから従え。 本当のルールでもですね同時はセーフだったんですけれども
まあそのように言った逸話が残っているわけです。 で
これまでですねイエス様が主張されてきた権威、それはですね 覚えてますか病を癒す権威、人を清める権威、罪を許す権威
それはですねいわゆる立法の下に置かれている 人に対する関わるイエス様の権威だったんです
で今日の歌詞はですねその今度は人を裁く権威とされていた 立法そのものに勝る権威をイエス様が持っておられるという主張したに等しいことなんですね
だからまあ俺はルールブックだというように等しい 宣言であり当時のパリサイベントにとっては非常にショッキングな宣言だったわ
まあそのようにですね 今日の歌詞をいろいろ語ってきましたけれども
やはりここでもイエス様神の子救い主なるイエス様の福音としてイエス様の新しい権威 この安息日の主
立法 まさに立法の主であるそのことが今日のことで示されているとぜひまた覚えておいてください
最後にまあそれを表すような真理私隣にちょっと考えて見つけてきたんですがヨハネ の1章14節ですね
この言葉としてイエス様が人となってこの世に住まわれたという言葉です それを最後に読んでみましょう
ヨハネの1章14節3 言葉は人となって私たちの間に住まわれた
私たちはこの方の栄光を見た 父の身元から来られた一人ごとしての栄光である
この方は恵みと誠に満ちておられた 真理であられますけれども安息日の主として人のために定められた安息日を正しく救いと
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喜びのためにこの適応できる恵みにも満ちておられた イエス様のことをこれからも知ってまいりましょう
お祈りします 天の神様皆を賛美いたします
イエス様は安息日の主 そして正しく立法
理解しそしてそれを 私たちの救いのために
私たちの喜びのために 教えてくださる
そのようなイエス様主であることを今日学ぶことができました どうかそのイエス様の意図また見言葉や立法が本来書かれた神の見心を私たちが悟って
それを喜びとし希望としまた人々に明かししていく お互いであり教会でありますよう
この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によって祈ります アーメン
それでは1分ほど皆さんしばらく 黙祷してください