2023-05-28 22:41

#新しい教え 23/5/28

マルコ-22からの礼拝説教。2023年5月28日録音。
 「イエス様の教えが難しくて、何をいっているのかわからない」と私たちが思う理由の一つに、私たちが当時の習慣を理解できないという原因があります。イエス様は教えのなかで、しばしばたとえ話を用いました。そしてイエス様のたとえは当時の人にとっては馴染み深い生活の習慣に関わるものでしたので、それを聞いた人たちには、たとえを通してイエス様の教えが生き生きとして伝わってきたのです。ですからこのメッセージではたとえを当時の生活様式から解説します。それを知ることによって、イエス様の教えを理解できるからです。イエス様が語られた3つのたとえがそれぞれ何を意味するか1.婚礼と花婿の友のたとえ、2.新しい布あて、3.新しいぶどう酒は新しい皮袋に、の3点を取り上げます。

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福音書2章18節から22節をお読みします。
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。 そこで人々はイエスのもとに来て言った。
ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、 なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか?
イエスは彼らに言われた。 花婿に継ぎ添う友人たちは、花婿が一緒にいる間断食できるでしょうか?
花婿が一緒にいる間は断食できないのです。 しかし彼らから花婿が取り去られる日が来ます。
その日には断食をします。 誰も新しい布切れで古い古い衣に継ぎを当てたりはしません。
そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、 破れはもっとひどくなります。
また誰も新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。 そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、
ぶどう酒も皮袋もダメになります。 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。
以上です。今日はこのところから、新しい教えと題してご投稿を取り付きます。 みなさんおはようございます。
それではですね、今日のこの箇所、マルコの福音書の2章のところですけれども、 このイエス様の教えの中では、しばしばこの例え話を使うということが特徴でしたね。
このイエス様の例え話、 その特徴はですね、当時の人であれば、それを聞いて何を言っているのかがよくわかるんですね。
これイエス様の活動した地域ですね。このガリネアコの周りのカペナームという町だと思いますけれども、
こうやってイエス様は今日のように食事をしていましたけれども、食事の席でも教えたわけです。
そして、イエス様のこの教えの難しさの一つには、実は私たちが当時の文化や生活の習慣を知らないという、
それだからですね、ピンとこないことがあると思います。 ですからですね、今日はこの例え話3つあるんですけれども、その内容を少し詳しくと言いますかね、
どういうふうに意味があるかということを、当時のことを少し触れながら、そしてそれが今の私たちにどう捉えたらいいかということを解説していきたいと思います。
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それによってイエス様の言わんとすることが伝わってくるかと思います。 今日3つの例えがあるので、それぞれに合わせて3つの点からお話ししていきます。
まず最初は、婚礼と花婿の友の例えですね。 19節から20節にあります。
イエスは彼らに言われた。 花婿につきそう友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。
花婿が一緒にいる間は断食できないのです。 最後だけ読んでみましょうか。
しかし彼らから花婿が取り去られる日が来ます。 その日には断食をします。
これは有名なイエス様のカナの婚礼、イエス様が結婚式に参列した時の結婚式の様子の
絵ですけれどもね。
この間ですね5月8日に新型コロナウイルスがぐるいに明けましたが、実はいわゆるコロナ禍自粛期間中に私は2回ですね
結婚式と披露宴に2回参列しました。 どちらも去年でしたが、一度目は昨年の1月
私が出席した結婚式でした。 そこではですねいわゆる披露宴はしましたけれども
一切飲食はありませんでした。詳しく言いませんがちょっと 簡素な場でもあったということもあるんですけども、それにしてもいろんなスライドを見たりとかしたんですが
全く飲食はありませんでした。千葉市でしたね。 それともう一つは昨年の9月
神奈川県の海沿いのある地域での結婚式場に参列した結婚式。 その時は披露宴があって普通に
飲食をしました。 マスクはありましたし、ただあと席の移動はしてはいけません。
挨拶くらいはいいんですけど、そういう制限はありましたが普通に飲食があって 例えばその地域の名産の野菜で作ったサラダとか出てきたりとか
その地域のブランド牛のですね料理が出てきたり あるいはその地域海沿いでしたから海産物も有名でいわゆるその地域でとれたお刺身
ですとか焼き魚なんか出てきてですねとても美味しい そういう披露宴でした。
この披露宴では食べたり飲んだりということが今でも普通に行われていますが
このイエス様は断食をしないという理由でこの披露宴のたとえを話したわけです。 ここでいう花向子が出てきます。それはイエス様のことを指します。
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そしてここで花向子はイエス様を指します。 イエス様が言っている花向子が一緒にいる間というのはこのマルコの福音書が記録しているように
イエス様が逮捕されるまでのこの地上の生涯を言うんですね そして花向子が取り去られる日というのはまさにイエス様が逮捕されて十字架にかけられる
その受難の時そしてそれに加えて復活した後に天に帰られる 帰られて今私たちはそれを待っているというこの今のこの時期です
まああり程に言えば目の前に文字通りイエス様がいて話したりすることがない そういう意味でのイエス様が不在の期間を花向子が取り去られた期間
その時がくれば断食をする それはですね言い換えれば今あの私たちの時代でも私も時々ありますけれども
クリスチャーの人も断食します だからイエス様は断食を否定しているわけではありません
その背景の中でイエス様が花向子が一緒にいる間つまり このパリサイ人の批判を受けている間は
花向子がいて宿縁の時だよどうしてこの宿縁の時に広江に出席した人々が断食するんですか そういうことを解いているわけですね
でイエス様がこの地上にいる間というのは約束された救い主がこの地上に来ている まさに喜びの期間ですね
花向子花嫁花向子が広江にいるよう 喜び湧き上がるその期間ですそしてイエス様は神の国が近づきました
福音を述べ伝えましたねそしてその証拠としてイエス様が 病を癒すというそういう奇跡を行われたわけです
罪がを許され罪が清められる権威があるそれを持っているお方としてイエス様はその 証拠の奇跡として癒しを行っているわけです
そして病が癒され罪が清められそして罪人とされた人が受け入られてイエス様は先週行った 招いて食事をした
それぞれそのお祝い救い主に招かれている今まさに
おそらく場体の家で主税人たちは飲み食いしているかもしれません その救い主に招かれたら
婚礼に招かれた客のようにお祝いして飲み食いするのは当然だとイエス様言ってるん ですね
一方ですねこのパリ災人たちは週に2回断食していたんです その時
それはですね旧約聖書の言い伝えを生活に当てはめる上で週2回皆さん週2回 断食できますか
厳しいですよね それはですね
断食っていうのはもともとどういう意味があるかというと罪を悔い改めるとか あまりに悲しみがあって断食をするそして神の前に出るという意味がありますね
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そのような断食には悔い改めとかあるいは神の裁きに備えて身を備えるという いわゆる経験な意味があるんですけれども当時の
レーサー指導たちはいわゆる形式として週2回 宗教的な部分を誇ると面もあったと思いますけれども断食していた
いわゆるルーチーンとしてしていたに過ぎ それをしない人をあの人は不経験だ
ルークをさばいてい そしてその家にですね
まあ彼らの根本的な問題は救い主として到来した イエス様を認めることができなかった
そこに彼らの最大の問題が私が出席した披露会はですね だいたいに3時間で2時間でしたかね当時どれくらい披露宴してたかわかりますか
普通ね1週間 1週間披露へまあで入りまーじゃんで長い時は2週間やっていました
だからその時にですね 招かれたら行かないというのは失礼だったんですね
招きを断るというのは相手の名誉を傷つけることでした ですからこのパリサイ人たちはこのイエス様を
まあ受け入れないというイエス様に対してそんな態度をとっていた そのことがよくわかるわけです
イエス様の到来の救い主到来という本当の意味がわからずにですね 宗教行為だけの断食にしがみついて
そしてイエス様を拒絶するという本末転倒だ ここでイエス様指摘しているわけです
2番目新しい布あってという例えができます そこから派生してイエス様はこういう例えを語りました
ちょっと読める方難しいかもしれませんが読んでみましょうか さあはい誰も真新しい布切れで黒い衣に次を当てたりはしません
そんなことをすれば継ぎ綺麗が衣を新しいものが古いものを引き裂き 破れはもっと酷くなります
これあのクリスマス切るとパッチワークですね 皆さんの
パッチワークとキルティングの2が違いってわかります パッチワークというのはですね布を縫い合わせたり継ぎ合わせるの自体をパッチワークと言います
キルティングというのはですね切るとという布が元になっています 切るとというのは表の布と裏の布との間に
中身が入っている布を切ると切ると言いますあの毛が入ってたり 麺が入ってたりするそれをそれをあの
縫い合わせるのキルティングというです だからキルティングはいわゆるパッチワークの中に入るわけなんですね
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布切れ合わせるその布が切るとだからキルティングであり パッチワークの中にキルティングがあるということですね
まあこれあの余談ですけどもで イエス様ここで話しているのは
古着のためのパッチワーク あの
最近ねダメージジーンズと言う 破れたジーンズ入ってますよねでちなみに去年のベストジーニスト
誰か知ってます 男性は須田正樹
須田正樹 新座市の前の市長ではありません
須田正樹がこう ダメージジーンズが入ってるでしょ
ベストジーニスト集の男性 で彼がねえ切ればかっこいいわけです
もし私がダメージジーンズ入ったら大丈夫ですかって言われそうなんですけれども このイエス様の例えで何が言われているか
当時ですね その古い服にやっぱ布系を
当てて 大事にしてきたんですね破れた
使い捨てしないその時にですね古い布と新しい布の洗った後の縮み具合が違うんです 新しいのの前
縮み具合が大きいんです だから古い服に新しい服を新しい布を当てると
それで選択するとですね 新しい布が軍と縮んでこの古い布を破いてしまう
そういうことをここで言っているんですね だから
そんなことをしたら 新しい布が古い布を破って
服が台無しになりますよとそのようにイエス様は言っておられるわけです でここで言う新しい布というのはイエス様の新しい教えを言います
それで古い古着とはですねまぁ パリサイビトラのいい
一切習った教えです週に書いて暗示機をしましょうとか あるいは前いたあの
こういう人は罪人で汚れていますとかね選手話したこの 古い教え
でそのイエス様の新しい教えとの違いはこれまでの奇跡物語の中でこう明らかにされて きた通りですね
まあそれ次触れていきます最後に3番目の例えは 新しい武道手は新しい川袋にという言葉です
読んでいますね2章22節また誰でも新しい武道手を新しい川袋に入れたりはしません そんなことをすれば武道手は川袋を先
武道手も川袋もダメになります最後の一文だけ読んでみましょうか 3回新しい武道手は新しい川袋に入れるものです
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このね新しい武道手は新しい川袋にっていうのは日本語でもそこそこ有名な一種の 格言として知られています
新しいことが来たら新しい マインドで受け入れようとかそんなことにも使われますねで当時どういうことかという
と家畜の川を使って保存用の袋を作ってたんです 1棟の家畜から1棟の川袋を作っていますこんな絵がありました
ねこれか家畜の川 こういうこれね生々しいでしょ
頭縛って 手足縛って布袋
でこれは古く古くなると劣化して硬くなりますね で武道手作ると発行するでしょ
なんか発行するためにあの 工房とか入れるらしいですけどねそうするとどうなりますかこれ発行すると体積が膨らみ
膨らむとこのカチカチに固まった川袋は パーンと破れてしまう
それを言って破れると中に入った新しいワインももちろん川袋もダメになりますよ そういうことをイエス様は教えているわけです
でこれ何を言ってるか この
イエス様の新しい教えそれが福音ですね それはハリサイ人たちのように先祖の言い伝いや古い立法に当てはめてはいけないということ
です でもうちょっと言うとイエス様の福音はそれまでの教えでは捉えきれない
武道手が発行するように福音は新しい命にあふれて大きく広がっていく 喜びに満ちているそういうことなんですね
ですから先週見たように 主税人や罪人と食事をしたら汚れる
それは古い教えですそれとらわれていた パリサイ人たち立法学者は
主税人と呼ばれている人たちや罪人とみなされた人たちと食事はしませんでした 汚れるそしてサーラとという病の癒しが出てきました
その人は汚れていたし誰もそれを癒すことができなかったから 彼はいわゆる村の外に追いやられて家族にも会えなかった
しかし イエス様はそのサーラとの人を癒して清めた宗教的に清めたってたんですね
でイエス様のたとあの奇跡悪霊が追い出されたり 病気が治るということがありましたこれは旧約聖書では神様がなさる技として
記されています つまり病気を治したり
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悪霊を生み出すことができるのは神様だそうやってイエス様は自分が神の子である 救い主だということを目の前で
正面したわけなんですね ですからイエス様は単なるこの立法の教師聖書の先生ではなくて
神の子であり救い主だということがわかるわけです その神の子救い主としてこのように来られて先ほど言った
サーラと重い皮膚病に癒された人そして宗教的に汚れだという人ですね 癒して宗教的に清め
あるいはですね主税人罪人と言われた人たちともですね この
招いてともに食事をした神の家族として受け入れた そして中部の人脳卒中で体が麻痺した人を癒した
癒した時何と言ったかというとあなたの罪は許されましたと言ってこの その人を癒して癒しとその病気と罪は関係なかったとしてもですねその時は
癒すことによってイエス様は人の罪を許すことができる 救い主だということを
明かししたわけですね これらが新しい教えですでこの新しい教え
まあ私たち特に教会長く通っているは人にとってはですね 当然のように思いますね
罪が許され私たちがイエス様を通して祈れる 食事の制限なしに礼拝これると
でもイエス様の時代の人々にとってはそれはまさに古い服をこの引き裂き 古い革袋を打ち破るほどの命に満ちたこの新しい
新鮮な教えだったんですね そして今の私たちはじゃあそれをなおもですね
この福音の新しさというものを自分の生活の中でどうやって適応するのかということ がチャレンジされているわけです
また毎週礼拝に来たりとかですね 聖書を読んだり祈るということを単なるルーチンではなくて神の前の自分の生き様として
その意味を通って 新鮮な思いでこの神とともに交わっていくそういう
宿題と言いますかチャレンジが与えられているわけなんですね この福音の新しさを生活の中で体験するそれが一体どういうことなのか
これからともに丸子を通して 学んでいきたいと思いますそしてこの命に満ちた新しい
福井の栽培を知っていきたいと思います 最後にこのイエス様神の教えの素晴らしさ新しさを歌った
4編から読んでいきましょう 4編の4編の7節ですねこれ読んでみましょうか
21:01
3杯 あなたは喜びを私の心に下さいます
それは彼らに穀物と新しい武道手が豊かにある時にも勝っています 支援119編の12節
はい主よあなたはほむべき方 あなたの起きてを私に教えてください
お祈りしましょう 救い主なるイエス様皆を賛美いたします
あなたがこの地上を歩まれ私たちに罪の許しと様々な救いを明かししてくださったこと そのような救いをもたらすそして
罪人を招く救い主としてこの地に訪れてくださったことを感謝いたします どうぞ今私たちはあなたを見ることはできませんがあなたと共に歩み
心に宿すものとしてイエス様の福音の新鮮さを日々知りながら 歩んでいくことができるように導いてください
どうかその新しい喜びに満たされ歩んでいくことができるように私たちの目を心を開いて ください
この願いと感謝を私たちの救い主 主イエス様のお名前によって祈ります
アーメン それでは1分ほどそれぞれで黙祷しましょう
22:41

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