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おはようございます。キクセラピー第275回の発ですね。
実はこれテイク2でして、1回目を撮ったんだけど、なんともですね、中途半端なところで途切れちゃったんですよね。
まあいいかと思って昨日セットしたんだけど、やっぱりこう、あそこで途切れるというのも、いかにもどうかと思ったので、撮り直すことにしたんですが、
撮り直していると、それはそれで結構まずいんじゃないの、今日っていう。
今日ですね、非常に微妙な日で、1月5日木曜日8時56分現在なんですけど、
決してこれ撮って出しできるでしょうか。
あのー、中断する可能性がありますね。
というのはですね、あのー、今日から、なんと娘がですね、えーっと、学校行っちゃったりしてるんですよ。
まだ始まってないはずなんですけどね。
まあそういうのに付き合ってるうちに、こんな時間に、えーっと、起きてなきゃならないと。
通常私は、起きてはいるにしても、まだ、えー、今起きたのが今日は6時なんですよね。
ほんとこう、えーっと、まあ、えーって感じの話でして、私が起きたのがですね、
まあそんなに早く起きる必要はなかったんだけど、まああのー、いろいろあって、そういうことになってしまっていて、
えー、もうすぐ9時なんだけど、そこで収録ができるというね。
えー、でもこれは非常に今日は、あのー、流れがまだよくわからない状態なので、
えーっと、このままいけるかどうか、という状況で、今収録中です。
で、えっとですね、今日は、あのー、まあいろいろお話しようと思っているので、
はい、きっとまたグダグダになるぞっていう話なんですが、
要はですね、2つテーマがありまして、1つはウォッチ。
これはですね、昨日そのテーマでそもそも話し始めてたんですよ。
なんかこう、年末年始になるとこの問題を書かれるノートとかね、
ツイッターとかで書く方がいらっしゃって、えっと、実は私も大学生時代、激しくこの問題で悩んだというか苦しんだ口なので、
えーっと、毎年身にはつまらされるんですよ。
で、今ではどういうからくりでそうなっているのかは大体わかるんだけど、
そんなことがわかったからといってね、これ大変なことを、
えっと、なんていうのかな、それがわかってもそういうものじゃないものを言ってくださいって言われるに違いないので、
でも私にできることは喋ることなのでね、えっと、とりあえずそれのことをちょっと喋ろうと。
で、ついでに、で、ですが、えっと、私はその問題を解決したわけではないってことをですね、
えー、言いたいんですね。
つまりこの問題っていうのは本当は解決するものじゃないんじゃないかなと、
多分旗から言われればですね、いやいや、あんたは家族も一緒にいるでしょうと言われると思うんですよ。
でもそれはですね、誰かと一緒にいるということが即座に、えっと、このウォッチ問題を解決したという話にはならないんですよね。
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私のこう、感覚としては。
でもこれは私のことであって、えっと、他にいろんなやり方がまああるわけじゃないですか。
えー、それこそ無限に近くあると思うんですね。
の中のこれは私の話であってですね、私の話っていうのは原則全部そうですよってことを、
えーと、まあこれもいつもお話ししていることではありますが、お伝えしたいんですよ。
えー、一言で言ってしまうと、私は何の専門家でもないですよってことなんですよ。
これを私はですね、えっと、実は意識して維持しているところがあるんですね。
あの、まあめんどくさいからというのも多分にあるんだけど、
私はあの、基本的に何かの資格を取るというのは、えー、自分のこう、生理的に合ってないんですね。
えっと、生理的に合っていない上に、なんかちょっと、えー、納得がいかないというところがありまして、
私は、あの、何かの専門家にはなるべく一生なりたくないなと思っています。
ということはどういうことかというとですね、えっと、私の言うことは全部単語として知りづけていただいて大丈夫ってことになるんですよ。
これを確保しておきたいんですね、常に。
あの、こいつの言うことは専門性もなく当てにならないというスタンスで聞いてくれるのが一番ありがたいし、
えーと、私もすべての人の話って基本はそういうもんだと思ってるんですよ。
これはお医者さんが言ったからとか、えー、そうでないからとか、ネットでもよくあったじゃないですか、ウェルク問題みたいなやつなんだけれども、
医療の専門家でもないくせにって言うんだけど、そこ、そこっていうのは、えーと、すごく、あの、大事な目安だと思うんですよ。
えーと、明らかに困ったことって起こりますからね、そういうこと。
でも例えば私は、えーと、治せない問題っていうのに結構いくつか引っかかったんですよ。
一つはアトピー性皮膚炎で、治らないよって言われたこともありますからね、面と向かってお医者さんに。
でも治りましたからね。
つまり、えー、野の医者問題なんですよ、これは。
正規の人が治せなくても、えー、治ることはある。
で、これをどう捉えるかっていうのっていうのは、私は専門外って話になってくると思うんですね。
で、私は専門外でいたいんですよ。
いろいろ自分の人生を振り返ってみると。
専門家の世話になったことがないとか言うことは絶対ないです。
そういうことはあり得ないんだけど。
えーと、そもそも生まれた時、生まれるということが多分専門家の手によって生まれたと思うんですよね、ある程度までは。
でも、えーと、専門家だけが何かを独占する状態というのは、えーと、世の中大体厳しくなりがちなので、
あのー、極力そこは、あのー、なんていうんですかね。
えーと、そこからこう、なんていうのかな。
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えー、そうじゃないところに自分を置きたいみたいなところがあります。
専門家のところには行くんだけどね。
そういう話と、こう、絡み合うような今日は話になるといいかなと思いつつ、時間を気にしているというね、はい。
えーと、まずですね、このぼっち問題なんですよ。
ぼっち問題なんですけど、まあこっちがメインなんですがね。
えーと、一番私がやっぱりわかりやすいのは、永田カビさんという方の、あのー、で、あのー、あれです。
ヒット作。
えー、寂しすぎて。
この、もうタイトルに出てきてますからね。
レズ風俗に行きました。
で、えーとですね。
この中でやっぱり僕が象徴的だと思っている一節が、カウンセラーのところに行ってお話ししてくれるんだけど、カウンセラーは。
そんなのいいから抱きしめてくれって言ってる、内心で思ってるっていうシーンがあるんです。
で、このような、そのー、問題を、なんていうんですかね、解決する手段ってないじゃないですか。
ここにさっき言った専門家が絡んでくるわけですよ。
カウンセラーって専門家じゃないですか。
で、絶対ハグはしないはずなんですよ。
たぶん絶対。
えー、特に専門家であればあるほどしないと僕は思うんですね。
そうすると、手に欲しいものをくれないというのが専門家だってこともこの場合はなりますよね。
これが大事なんだと思うんですね。
この時の問題ってのは、えーと、カウンセリングでどうこうじゃないっていう人もいらっしゃるかなと思うんだけど。
カウンセリングにうってつけだっていう方もいらっしゃると思うんですね。
で、私はどっちも正しいと思うんですよ。
で、いくらかはね、いくらかは、例えば年末年始になるとそういう話が出てくるってことが大きい。
いくらか以上はですね、これは業界のこう、えー、まあ、ビジネスなんですよね。
ここの時間を人と過ごしましょうというふうにやることによって、まあ、売れるものがありますと。
えーと、だいたいあのイルミネーションとかも全部そうですよね。
どこかで誰かがお金を出してるはずですよね。
で、イルミネーションなんて象徴的じゃないですか。
なんかイルミネーションとイリュージョンってなんだかよく似てるじゃないですか。
ということを言うと、また問題なのかもしれないけれども、私はあれは本当に実によくできたイリュージョンだとは思うんですよ。
それはもう、えーと、寂しかった頃からそう思ってはいたんですよね。
この思ってても、えーと、抵抗できなくさせられるあたりに、えーと、なんかこう、そのパワーを感じますよね。
でも、えーと、あれが実態かというと、何かの実態かというと、たぶんそんなことはないですよね。
木に電、電飾くっつけてピカピカしてるだけなんですよ。
まあ、だからこういうことを言ってはいけないんですけども、イリュージョンが台無しになるからね。
イリュージョンって言ってる段階でダメだと思うんですけども、でもそういうもんでもあるわけじゃないですか。
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で、それに乗っかっておく、乗っかっておかないは全く自由なんだけど、そうですよね。
それを、あれを絶対やんなきゃダメだよって誰も言ってないですよね。
言ってないんだけど、えーと、できていない自分というものは何かがひどく欠けているような感じがする。
少なくとも、えー、30年前の私は大いにしていたわけですよ。
もうぽっかり何かが欠けているような。
月で言うと三ヶ月くらいになるんですよ。三ヶ月ね。三ヶ月みたいになっている。
7割方は彼女が埋めてくれるみたいな。
そんなはずはないんですよね、絶対に。そんなことはあり得ない。
あり得ないとは、当時だって心の底では薄々気づいてたんだけど、あり得ることにしちゃってたんですよ。
これが倉澤慶都さんのイリュージョンですよ。
彼が昔言ってた言葉ですからね。
グッドバイブスで言う、何ていうのかな。
時々おっしゃるんですけど、心の底では薄々気づいていて、でもイリュージョンを現実にしてしまうって言い方をされる。
イリュージョンが現実になるというのは、例えば電飾に幸せがあるとか天国があるとかイリュージョンなんだけど、
あることに決めてしまって、その決定に従って行動を始めると、行動は現実じゃないですか。
こっちが恐ろしいっちゃ恐ろしいって言うのも変だけど、恐ろしいっちゃ恐ろしいわけですよ。
例えば、私一番ひどかったのは静電気恐怖症で、静電気に触ると自分が破壊されるような感じ。
難しいんですね。破壊されないことは分かってるんですよ。
分かってるんだけど、破壊されるような感じを抱いてたから家から出ない。これ行動に変わってますよね。
破壊されるのはイリュージョンに決まってるじゃないですか。静電気で自分が壊れるわけないから。
だからイリュージョンが現実になっていくというのはそういう意味なんですよね。
私は長田上さんという方のコミックが好きで、なるべく全部買ってるわけですよ。
私はあの漫画をいくら読んでも寂しくはならないんですよね。
それは当然でしょうって思われるはずなんだけど、僕はこの辺にこのテーマのポイントがあるなと思っております。
一つは、甘えというのがいいと思うんですけど、僕らはみんな甘えているんですね。これが前提です。
甘えというもの、自分が甘えているという事実を受け入れられないか、気づくことができないと寂しくなるんです。
僕は基本テーマはこういうことだと思うんですね。
もう一つあるんだけど、一旦こっちの話をして。
甘えというのはつまり、言ってみればですね。
これも専門用語に近いんですけど、ゴーイングオンビーング。
これ専門用語じゃなくて一般的な言葉なんですけど、ゴーイングオンビーングなんですね。
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赤ちゃんがイメージとしては、お母さんに抱っこされて0歳児ぐらいの子がスヤスヤ寝ていると、この状態を思い浮かべてほしいんですよ。
これが甘えの世界なんですね。
ゴーイングオンビーングって言うんですよ。
息づいているみたいな言い方。
ゴーイングでオン、ビーングしている上でゴーイングしている。
英語圏の人じゃないと本当のところはわかんないような言葉だなと思うんですが、
私それを精神分裂科のドイさんが甘えと名付けている。
名付けているっていうか、こっちも元々あった言葉ですよね。
そしてこれはイギリス人でちょっとわかりにくい言葉だと思うんですよね。甘えていると。
で、この甘えがネガティブに響くのは、ゴーイングオンビーングの場合はほとんど意識に浮かび上がってこないからですね。
赤ちゃんがスヤスヤ寝ていて甘えているなーってわざわざ指摘する理由がないです。
ゴーイングオンビーングもよく似ていて、目に見えにくい、気づかれにくいみたいなニュアンスがあるんですね。
お母さんもしばしば前景写真とかでも写ってないじゃないですか、絵でも。
胸とか手とかだけしか描かれていない。
あれは赤ちゃんの主観というものを多少意識したような構図だと思うんですよ。
この状態、つまり自分が何に甘えているのかが完全としない。
もうちょっと古くてね、もうちょっとラディカルに言うと、
赤ちゃんは腕や胸も自分自身だと思い込んでるんじゃないかって、
そういう感覚って少しわかると思うんですよ。
この今冬寒い中、布団と一体化しちゃったりっていう言い方するじゃないですか。
あの一体感ですよ。
剥ぎ取られると寂しいと思いません?
この寂しさなんだと僕は思うんですね。
寂しさというか甘えと寂しさのセットっていうのはそういうふうにできていて、
これが剥ぎ取られると寂しいんですよ。
でもですね、僕らは別に布団といつも一体化して生きてるわけじゃないですし、
お母さんに抱っこされてスヤスヤしてるわけでもないですよね。
でも情緒的にはこの一体感は保ったまま大人になるまで成長しているというような観点を、
少なくともイギリスの精神分析の世界では取ってる感じがするんですね。
僕はこれは正しいと思うんですよ。
私たちはずっとこのゴーイングオンビーングな部分があって、
ここは布団と一体化じゃないですけど、何かに甘えて暮らしている。
何かに頼っているっていうよりは、自分は大丈夫なんだみたいな観点を持っていて、
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それと共に生きているのが正常みたいな。
いやだってそれはそんなことはないじゃないですかって言われるかもしれませんけど、
よくよく考えてみるとやっぱり赤ちゃんだってですね、
そうやって大丈夫だと思っているのが幸せだし健全じゃないですか。
もしかすると、いやあんまり厳しい話をするのは嫌なんだけどこういうところで、
もしかするとミサイル飛んでくるかもしれないけどスヤスヤしているでしょう。
それは赤ちゃんがミサイル飛んでくるかもしれないと思うほうがですね、思わないけど、
そんなふうなことに意識を回しちゃうほうが少し正気をかいた感じになるじゃないですか。
僕らもそうなんですよ。
だから知っていれば対処できるってわけではないことは知らなくていいんですよね、言ってしまえば。
この情緒的には腕の中でスヤスヤと寝てるんだけれども、
そのことを赤ちゃんも忘れてしまうというか気づかないことがありますよね。
ものすごい火がついたように泣いてこの腕から逃れようとする、あるんですよ。
私も経験があるんです。
その腕から逃れたらあんた落ちて怪我するでしょっていう時でももう見栄えがない。
見栄えがないって言うのはそういうことですよね。
見栄えがなくなってしまう時があるんですよ。
僕はこの見栄えがなくなった状態というのが年末年始に起きやすいんじゃないかなと思っているわけですね。
そのことが永田さんのコミックにはよくよくストレートに書かれていて、
抱えられているんだけどなと思いながら僕は読むしかないんです。
抱えられているんだけれどもご本人はそれに納得がいかない、満足がいかない、あるいは気づくことが難しい。
何らかの理由がそこにあるわけですね。
これのある意味難しさってあるんですよ。
赤ちゃんは気づいていないからいいんですよ。
だけれども気づいていないんだけど甘えてはいられるんですね。
あまりにはっきりそれに気づくっていうのはおかしいんですよ。
私たちは甘えているときには気づきにくい状態にあるから、
甘えてるんだけどなと人が思っても気づきにくいんですよ、ご本人的には。
それに気づくことがいいのかどうかも微妙なんですね。
だから気づかれないように甘えさせてくれるというのが一番良くて、
それをやってくれるのが専門家なんですよ、この場合は。
だからカウンセリングを受けに行くっていうのは意味があることなんだけど、
でもカウンセリングを受けに行くということは、
そうしなくても甘えているはずなのに、
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そうしないと甘えられなくなってしまっているという意味ではなくてもいいものなんですよ。
ここが非常にね、さっき途中で言いかけたややこしい感じがするところなんですね。
どうしてもこの話をするときはだから、
私なんかは植物的な人間だから、
つまり地球上に生まれれば甘えてられるんですっていうような言い方になっちゃうんですよ。
水はある、気圧は一気圧だ。
酸素もある、窒素もあって安定している。
これが木星だったら瞬間に死ぬんですよ、瞬間に。
だから私は何者にも頼らず生きているんだっていうのは、
どんな場合でも真実ではないんですよね。
何者にも頼らずに生きているっていうのは、
宇宙の真空空間に飛び出しても死なないってことになるんだけど、死ぬんでね、たぶん。
だけど、この話は植物的に過ぎるんですよね。
宇宙の真空空間に行ったら死ぬって話は寂しさって話からすごくかけ離れた感じがするじゃないですか。
ポイントは情緒が甘えてるんだって、
そういう本当のところ空気に甘えているって言う話ではないんだけど、
上手い情緒っていうのは本当に実態がないし、測定もできないし、目にも見えないし、定義もできないのである。
情緒的に甘えているって言われても、
それが見えにくくなって困っている人にしてみると、見えるようになるはずがないんですよね。
でも専門家っていうのはその辺の事情をたぶん知ってるから、
気づかれてしまうと甘える対象を見ることになってしまって、
そうすると甘えるのも一段とややこしくなり難しくなるんですよ。
赤ちゃんはさっきも言った通り腕や胸は自分の一部だぐらいにこもっているからいいんだって、
そこで対象としての母親みたいなこれが表現なんですけど、
前傾をお母さんという存在を人間として一人見てしまうと、
どうしても100%安心しきるのは難しくなりますよね。
難しくなると思うんですよ、やっぱり。
布団と一体だと思っていたのに、所詮布団だということに気づいてしまうと、
一体感を失われるじゃないですか。
だから気づくということはトラウマになりかねないっていう、
これも精神分析的な独特の考え方なんだけど、
僕はやっぱり正しいんじゃないかなと思うんですよ。
このカラクリを全部知ってしまうのはいかがなものでしょうっていう。
これで思い出すのがリモスの花嫁っていう漫画がありまして、
そこに盲目の少女が自分は恋人にも大事にされていて、
とても幸せだと信じきってたんだけれども、
ありがちなとんでもないクズな美青年なんですけど、
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その美青年は実はすぐそばで他の女とエッチしながら、
盲目の少女の相手をしているんですね。
でも盲目だから幸せなんですよ。
これはものすごく甘えの構造をブラックに描くということになるんだけど、
言ってみればそういうことですよ。
その少女は目が見えた瞬間に絶望するという話なんですよね。
つまり見えちゃいけないわけですよ、全貌がね。
この形をすると、つまりその甘えの世界ってダメじゃんって思われるかもしれないんですけど、
私はそうじゃないと思うんですよね。
この世の中というのは甘えがベースであって逆じゃないと思うんですよ。
甘えだけでやると多分原始時代のギャートルズ的な世界で過酷になっちゃうので、
甘えだけでは済まないから父親的世界ね。
倉園さんがグッドバイブスで時々昔、今はわかんないですけど、
お話になっているところの人工的な世界ですよ。
つまり僕らが文明社会って呼んでいるやつですよね。
これを作ったわけですよ。
でも僕らは文明社会には多分甘えられないんですよ。
僕らがやっぱり甘える、情緒的に甘える対象というのは、
あくまでもいわば自然の世界、母親的世界ってやつですけれども、
こっちであって父親側に甘えるっていうのは無理だと思うんですよね。
だから文明側に甘えようとすると何が起きるかというと、
物に依存することになっちゃうと。
そういうことが進行しやすいと思うんですよ。
そしてそれがまた年末年始にはやけに進行しやすいお祭りが、
だからさっき言ったんですよ、ビジネスになると。
だって文明社会ってやっぱりビジネスになりやすいものにあふれてるじゃないですか。
物に依存してくれると非常にお金になるっていうふうなことってよくあるじゃないですか。
だからどうしてもここに甘えようとすると甘えきれないことになってしまうと思うんですね。
ちょっと中断したんですけれども。
要はですね、私はそれを読みながら、
永田さんのコミックを読みながら、
はためにはわかるっていうふうに感じるわけですね。
つまり自分が甘えているというのは自分では前傾は見えないような状況にあるんだけれども、
はためには、でもこの人は抱えてもらえているし甘えている。
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そうじゃない人はいないんですけどね、この世の中には。
というふうに感じられる。
感じられるんだけど、感じさせるというわけにはいかない。
あかまでもこっちに、私には感じられるというだけであって、
そういうからくりになってんだなこれって思うんですよ。
私が一番言いたいのはそういうことなんですね。
多分ですよ、多分専門家の人はそれがわかる。
場合によって専門家という人は自分が頼られればですが、
そのからくりというものに気付くように持っていくこともできるかもしれない。
そこはもう私にはわかんない領域。
ですが、たとえ専門家であっても、直接関わってないならばやっぱり、
指摘するとかはできないという、だってできないですよね。
直接会ったりしていないから。
でも、甘えられているということはわかると思うんですよ。
何度も言いますけど、私は専門家じゃないですからね。
ただし、大事なことはさっき言いましたが、
例えば、医者じゃないけどアトピーでわかったと。
で、医者はアトピーを治らないですよということはできますが、
私は治さずに諦めるというのはなかなかできない。
それが当事者ということだと思うんですよ。
当事者的にはですね。
甘えられずに寂しいという状態を何とか一番したいのは、
当事者本人だと思うんですよ。
そういう苦闘は長田さんの方にはすごくあって、
この苦闘があるゆえに、甘えられているということに
いよいよ気付きにくくなっているっていう構図があるんですよ。
ここには、私が見る感じとしてはですね。
だから、一番いいのはですね、やっぱり
他人に気づかせてもらうことなんですよね。
なぜならば、他人が一番わかっていることだから。
この種のことって時々起こるんですよね。
関係性の一番面白い話で、
人には見えるんだけど、自分には見えにくいっていうものがあって、
その言うものの甘えっていうのはですね、
一番典型的なものなのかなっていう感じがしますね。
だから、気づかせてくれる他人が周りにいればですね、
これ面白いじゃないですか。
そういう人がいないとしても、ほとんどいないとしても
甘えてはいるんですよ、人に。
なのにもかかわらず、そういう人がいれば気づきやすくなるので、
その人は自分が甘えているという事実に気づくことができるんですよ。
トラウマになることなく。
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こういう状態を我々の世の中では一般に、
あの人は恵まれているから自己肯定感が高いっていう言い方をするんですよ。
私はそれはそうなんだと思うんだけれども、
なんかすごく、それがあるなしっていうのが、
そんなに大きくなっちゃうっていうのがあれだよなって感じがするんですよ。
それはちょうどですね、
あの人は鏡があるから服を着ていることに気づきやすいっていうようなもんなんですよ。
それはそうなんだけど、なくても同じじゃないですか。
そこがでも今の世の中って面白いぐらい強調されているんですね。
鏡があるってこと。
服を着ていることは同じなんだけど、
鏡の有無によってまるで裸か服を着ているかのぐらいの違いがあるっていうような点で
強調されているように見えるんですよね。
そこが不思議というか、今風なんですよね。
まあまあ、原則的にっていうのかな、そんなもんなんですけれども。
ここでもう一つの問題がですね、
この話の延長みたいな話なんですけど、
今の鏡の話みたいな話なんですが、
母親に甘えるっていうことが心もどなすぎるっていう風に
文明に頼っている我々は考えやすくなってくるんですね。
要するに自然に甘えられているんだろうけれども、
それはやっぱり赤ちゃんがスヤスヤしているようなもので危険だと。
そこで自分はミサイル防衛を欲するっていう考え方が
正しさ、信仰みたいなやつなんですよ。
これも私が思う。
これが第2の寂しさなのかなって思います。
つまり寂しいということは厳しさが足りないって感じでいらっしゃるんですよね。
そういう部分がもう一つにあるんですよ。
これは私は年末年始のではない気がするんですよね。
もっと突然時々気づくやつって思います。
私は全く無力のまま野原に置き去りにされているっていう寂しさですね。
これはもう寂しさというよりは強烈な不安なんですよね。
これを埋めるべく我々はこういうお話をですね、
年末の寂しさを訴えているんだけど途中そこに論点が変わったノートで読んだんですよ。
この気持ちは私が大学卒業後に強く感じていたものなので
馴染みはあるんですね。そうは言ってもだいぶ前ですけどね。
つまりお金が大事だって考え方なんですよ。
その記事では両方が混在されてしまっているから
お金でどっちにも刀を作るっていう言い方をされているんだけど
お金が大事っていうのは私は父親不在の寂しさの方だと思うんですよ。
つまり父親不安だと思うんですよ。
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お父さんがいれば安全な城を建ててくれるから私寂しくないっていうのは
私怖くないって言ってるんだろうなって思うんですよ。
だけれどもお城を建てるにはお金がいるって
自分にはお金がないから野晒しになって寂しいっていう話をしてるんだけども
その中でお金があれば女性だって寄ってくるから結婚もできるのにって
この話は母親の方に今度は寄ってるんですよ。
両方混ざってるんですよね。
一つ一つ別々に見ていって別々の対応が必要だと思うんですよ。
だから年末年始の方は寂しさなんだろうけども
そっちの野晒し問題の方は不安だと思うんですよ。
不安と寂しさっていうのは似たところがあるんで
混ぜこぜにしちゃうんですよね。
どっちも私は金では解決しないという風に今だと思うんですよ。
でも私も大学時代から30代中盤までは
この問題は金で全部解決するしかないと思い込んでたんで
別にその人のことを批判できる立場にはいないんですよ。
これを全部解決するのは金だっていう風に思うのは
いかにも最もだと思うんですよね。
年末年始もビジネスだって言ったじゃないですか。
だからそう思うのも無理はないと思うんですよ。
ただリアルには金でこれを解決するのは無理だなっていう感じを
今は抱くんですよね。ほぼどっちもですね。
もちろん父親側の文明における不安を
お金である程度解消できるっていうのは確かだし
その勢いでいわゆるリア充化することで
冗長的な満足も得られるっていう風に思うことは
そういう部分もあると思うんですけれども
特にこういう世の中を作った以上は
そういう風になっていくのも無理はないと思うんですが
さっきも言いましたが抱え込まれているということは
抱っこされているということは他人には見えるんですよ。
さっきも言いましたがそういうことを気づかせてくれる
他人に囲まれているほど自己肯定感が高いって
世の中で言われているとも間違いないんですよ。
つまりそれは大事なのは気づかせてもらうことであって
これから手に入れることではないという意味に
世の中的にもなっているように見えるんですよね、私には。
気づかせてくれるというのは
これは気づかせてくれる他人を周りにはべらせようとしても
無理なんで一番簡単なのは気づかせてあげる他人になってしまうことなんですよ。
これはだいたい相互関係というか
おそらく全部相互関係なんじゃないかなと思います。
これが非対照的で一方通行になるのが一応専門のカウンセリングなんだけど
あれですら最近ずっと読んでいると対照関係論という考え方では
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やっぱり相互関係の中でつまり
お互いが気づかせるとお互いが甘えていることに
お互いが気づくことができてそれによって癒されるという
からくりになっているように見えるんですよね。
だから専門家でなければまして相互関係なので
一方的に気づかせてあげるでは
私は裸のままじゃないということは起こらないことなんです。
気づかせてあげた瞬間に必ずこの状態は自分にも
維持されているはずだということに気づくはずだからですね。
これが多分全然受け入れられないだろうな今の言い方では
と私が自分がですね
22、3歳だったときのことを思っても思うんですよ。
こんなことを聞かされてもそれこそ彼女を用意しろよって
言われるだろうなって思うんですよ。
でもそれによって満たされるのは性欲じゃないですよねきっと。
多分当時の私ですらそれによって満たそうとしているのは冗長的な不満足なんですよ。
この冗長的な不満足は
自分がやっぱりこうあれなんですよね
情緒的に抱えられていないと思い込むことによって始まるんですよ。
その思い込みっていうのは
情緒的に抱えられていると思っていたのでは危険だっていう思いから来てるんですよ。
だからさっきのミサイル防衛から来てるんですよ。
悲しがここでねじれたってことが一番問題だと思うんですよね。
だから金稼がなきゃって考えるようになったわけだから
ミサイル防衛によって情緒的な安心感が得られるとは思えないんですよ。
ミサイルによって得られるのは植物的な安心感の方じゃないですか。
物質の不足とか物質の破壊から身を守るっていう方ですよ。
それと情緒的な安心感をごっちゃにしない。
ごっちゃにしなければ
確かに今私にはお金は不足しているとか
物は不足しているっていう風に捉えることはあっても
情緒的に、ゆえに情緒的に不足しているっていう理屈にはならないはずなんですよ。
それが
その年末年始の記事の方もそうだったんだけれども
あまりにも物のほうが頼りになるっていう思いが突出してしまったために
周りに人間がいるとか
自分の
情緒的な安心感が得られるようになって
自分の身体が
情緒的な不満というものを訴えることができているっていう話を
完全にスルーしちゃってる。
というのが一番やっぱり
その人にとっては厳しい状態なんだろうなって思うんですよ。
ノートに書けるということは
それを訴える方法も手段も意味もある
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って言ってるのとほぼ変わらないと思うんですよね。
それは周りに誰もいなければ
多分そういう発想を取ること自体がありえない。
これをそういう観点で周りを眺めていくと
自分は明らかに
甘えるということに成功していると
少なくとも成功している部分がたくさんあると
思わないわけにはいかなくなるんですよね。
私のこのアンカーのエピソード作成がそうですよ。
つまりポッドキャストがそうですよね。
誰も聞いていないはずはないんですよ。
誰も聞かなかったっていいわけじゃないですか。
聞く義理とか聞く義務とかを
皆さんが持っているわけではないわけだから。
だから聞いてもらえるはずだって思うのは
さっきの赤ちゃんのゴインゴンビーングで
自分は大丈夫なはずだって思い込みと何ら変わらないんですよね。
根拠はそこにはないわけだから。でも赤ちゃんは無事なわけですよね。
たまたまでしょうって言われるかもしれない。
それを言うならば私がこれを聞いてもらっているのもたまたまでしょう。
でもなぜかよく理由は根拠を持って言語化。
最近流行ってる言語化はできないんですけれどもね。
700回誰かしらは必ずきを聞き下さってるわけですよ。
不思議ですよね。ここで僕が
言いたいわけですよ一つ。私は何の専門家でもないですよと。
これも理由を作りたくないってことなんですよね。
佐々木は精神分析家だから
もし僕が精神分析家を名乗れれば間違いなくリスナー増えるんですよ。
精神分析家だから聞くって方が
いらっしゃるようになるから。それはいいことですよね。ビジネス的には。
でも私はその分甘えられなくなるし
世の中もその分甘えられなくなると思うんですよ。
甘えってのは根拠がないことが
大事なんですよ。やっぱり。そうですよね。
だからさっきもお話ししましたけどお金では年末年始の寂しさが
埋められないわけじゃないですか。お金があるから
その女性を私は好きになる。それで甘えられるものなのかってことですよね。
その延長線だと思うんですよ。私が
心理師だから、臨床心理師だから聞くっていう人が増えることで
私は情緒的に安心、満足感を
増やすことができるのかというと、私は全然増えないと思うんですよね。
それではむしろ逆に減っちゃうんじゃないかとすら思います。
そして赤ちゃんが抱っこされて
すやすやしているのは危険だ気づけって少しでも思うならば
自分が迂闊でいるっていうことは危険だ気づけって
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思うならば、自分はその分やっぱり寂しい世界に
生きることになっちゃうじゃないですか。そしてそれから
戻ってくってことはやっぱりできるじゃないですか。だって
そうは言っても事実ほとんど全ての赤ちゃんは
それで安心していて当然なわけだから。こっちの
当然だっていう観点の方にシフトすれば全ては
そっちに移っていくと思うんですよね。自分は
専門家でもなんでもないし、そのことも言っちゃってるし
大学について言えば留学までしたのに
結局のところ学士以外の称号は何も持っていない。心理学
ジャーナリストとかだって勝手に名乗っただけでしかない。
だけれどもそれで話を聞いてもらえる、本も読んでもらえる
そもそも本を出せる、そして生きてもいける
っていう状態を僕は維持しておいた方が
自分のためにもなるし、結局少しは
社会貢献ができているんじゃないかと思うんですよ。
これが臨床心理師でもあり、精神分析家でもあり
PHDも持っていて、だからみんなが聞いてくれる
っていう方が著しく安心だっていう世界は
僕は冗長的には結構リスクがあるし
コストも高いと思うんですよ。