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おはようございます。キクセラピ第726回だと思います。
今はですね、1月の5日、木曜日、20時11分、つまりですね、今日は2本目の収録ということになるんですね。
この夜に撮ったやつを朝出す気が最近しなくなっているという、もはやこれはなんかこう、まあ友情なんですけど、病気なんじゃねえかっていうぐらい、夜は没になるという傾向があって、
しかも多分、夜喋ってるのと朝喋ってるのの出来は違わないと思うんですよね。何なんですかね、これはね。
大変困った現象ですね。なんかこう、2回撮っては1個出すっていう、私はこれをですね、ポッドキャストで一番やりたくないと思っているんですよ。
撮ったまま出していくのと、多少は違うかもしれないんですけどね、今日はその話を少ししたいんですけれども、
本当、わずかな差しかなくて、それもいかにも自分にしかわからないような違いと思うんですよ。
で、えっと、最近ちょっとCMをしたんだかしてないんだか忘れてる病っていう、もう一つ面倒なこともあるので、ちょっとCMをしておこうと思っているんですけどね。
1月の22日に、先送りせず夢を叶える人になる3ヶ月チャレンジっていうのをやっていて、残り実は1枠なんですね。
面白いことに、現在皆様オンライン参加という状況なんですよ。どうしようかなと今ちょっと、まだまだ悩める期間はあるんでね。
もう一方でもリアル参加だって方がいらっしゃれば、会場はそのままにするんだけど、さすがに全員オンラインだった場合、会場を使う必要あるかなと。
自宅でやったほうがいいんじゃないかと思いつつもですね。
でも会場をとっておくことで、当日急に東京に上京されたという方が参加できるかもしれないし、ギリギリまで頑張ろうかなと思う。
実はこれ前日直前キャンセルでもキャンセル料なしという素晴らしい条件なので、これでもいいかなとはちょっと思っていたりもするんですけど、
でもやや驚きの展開で、実はこうなるとは全く予測しておりませんでしたので、今ちょっといろいろ考えているところです。
でも残り一枠ということで、こうなってしまったら満席にしたいと思っちゃうんですよね。やっぱり人間そういうところがあるというものです。
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今回は私が読書メモを最近というか、ここ数年来実は一切撮っていないという話をしようかなと思っております。
これは別におすすめはしないんですけれども、全然。
私はですね、撮らないんですよ。
本当ね、撮る功用があるとも思うんですけど、撮らない功用もあるんですよ。
それはどういうことかというと、まずどの話からするといいかというと、
フロイトガですね。やっぱりフロイトガなんだよね。何でも最近は多いですよね。
意識と全意識と無意識という局所論というのだったと思うんですけどね。
これもね、そういうふうに心をいろんな部分に分けて説明しているんですけど、これで有名になったのが何といっても無意識ですよね。
彼が発明したとか発見したというのは、私はそうじゃないんじゃないかと思うんですけど、無意識って言葉はきっとフロイトガ以前からあったに違いないと思うんですよ。
思うんですけれども、無意識をこれほど地位を高めたのは確かにフロイトガだと思うんですね。
それよりも、でも僕が興味深いと思っているのは全意識の方で。
全意識っていうのは何かというと、要は思い出そうと思えば思い出せる意識っていうふうに確か定義されていると思うんですね。
例えば、今今の状態で私に意識が昇っていないけれども、私のおじいちゃんの名前とかを思い出そうと思えば思い出せるんですね。
今まだ私思い出してないです。でも真剣に思い出そうと思えば明らかに思い出せます。
これを全意識と言うんですね。こういうのは無意識とは言わないんですよ。
この違いは精神分析において甚だ重要な違いなんですよ。
その話は今日はここまでにしますけれども、要は全意識って私は非常に大事だって思っているんですね。
そしてこれはもちろん意識とつながっているけど、無意識ともまず間違いなくつながっているであろうと思うんですよ。
そうじゃないとおかしいと思うんでね。
物を書いているとこれの大事さって本当に痛感させられるんですよね。
なぜかわからないけどここでこの文章が出てくるっていうのがあるんですよ。
それは無意識の場合もあれば全意識の場合もあるんだけど、およそ意識の関係にはないんですよね。
つまりこれを書こうというふうに意識していないことが書いているうちに出てくるんですよ。
この体験をしたことのない文章書きっていないと思うんですよね。
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その全意識というのを私はすごく自由自在に使えるほどクリエイティブにはいいだろうなって思うのと、
クリエイティブでなくてもいいだろうなって思っているんですね。
そのためにはまず自分の全意識と無意識に絶大な信頼を置く必要がおそらくあると思うんですよ。
信頼っていうのはそういう効果を発揮すると思うんですね。
不信っていうのは結局心配とか不安も同じなんだけど、
相手の能力とかできること、やってくれること、考えていることなどについての信頼なんですよね。
これあくまでも極めて大雑把に言ってですよ。
私はいつも言う通り、このエクスキョーズがすでに不信感ってやつの現れなんだけど、
言う通り専門家じゃないんでね、実に大雑把な言い方になりますけど、
およそ精神に関する大使は、身体に関するでも同じですけど、
不健康っていうのは原則不信感というものから発生するんだろうと当たりをつけています。
これへの確信の度合いを言えばですね、
倉園慶三さんなどには及ばないんですけど、
私はやっぱりそれでいて不信感を自分の身体にとって持ちがちなんですが、
信頼するしかないと思うんですよね。
自分のことを考えるとやっぱりこれ分かりやすいんですよ。
職場でも、それこそ野球やってる時とかでも、あるいはスキーなどの競技でもですね、
やっぱり信頼というのかな、信用されてるなと思えれば、
仕事でも何でもパフォーマンスは上がるんですよね。
そうじて上がるんですよ。
やっぱり心配症の人のもとで仕事したり野球やったりするっていうのは、
苦労がありますよね。
心配症なんだから、しょうがないとは思うんですよ。
思うんだけれども、やっぱり自分のパフォーマンスについて心配されてると思うと、
どうしても上手くいかないことが多いです。
特に重大な局面になればなるほど、
なんかやっぱりね、パフォーマンスを落とすんですよね。
これは自分についての不信感でも同じです。
これは内谷博光監督で、選手時代も超有名な人ですけどもね、
言ってましたよね、自分に対して不安があるやつは使えないと。
非常に端的ですけれども、プロの世界では全くそうだろうなと思うんですよ。
本当に不思議なものでしてね、
ごく近くから、例えばセカンドあたりから一塁に投げるっていうぐらいの時でも、
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なんでもない時でもですね、自分に不信感があるとことごとく冒頭したりしますね、
草野球のレベルだと。
プロでもこれは起こりますもんね。
一回エラーしたら連続してそういう現象が起きるっていう、不思議ですよね、あそこまで行くと。
あんな目をつぶっててもフライを落とさないような人たちがですね、
自分に不信感を持つということがあんなにもプレーに影響する。
この辺のことはジージー佐藤という方がですね、
北京オリンピックの時にだったと思うんだけどね、
フライ落としてめちゃくちゃ連続で落としたのかな、考えられないプレーなんですよね。
すごいバッシングされたことを書いていらっしゃっていて、
その辺のが実に僕は感動的にノートとかでも時々有料ノートの記事買って読んだりしちゃうんですけどね。
今ジージー佐藤さんの話がパッと出てきたのもこれが無意識・全意識なんですよ。
思い出そうと思えば思い出せたから全意識だと思うんだけど、
でもこの話をするというのは、このポッドキャストが始まる前は全くジージー佐藤のGの字も出てきてないんですよ。
こういうことをスムーズに、しかもなるべく広範囲の範囲から起こしたくて、
僕は読書メモを取らない。原則メモは取らないんだけど、特に読書メモは絶対取らないんですね。
絶対というのはそう決めてるってことですよ。
思い出したくて取るわけですよね、あれは。今みたいなタイミングで。
でも僕は読書メモを取ることによって今みたいなタイミングで思い出すという方法が思いつかないんですよね。
それをやるためには、この録画を一旦停止して、Evernoteからそれっぽい記事を引っ張ってくるって必要があるじゃないですか。
そのためには、結局ジージー佐藤という言葉を検索するって必要が出てくるじゃないですか。
これによって保証されるのは、引用内容の正確さであって、この出来事が思い出せるか否かをEvernoteが決めてくれないと思うんですよ。
結局ここでジージー佐藤のことをしゃべるといいですよとEvernoteがポップアップして何かリマインドしてはくれないんですよね。
こういうからくりについては、僕はライフハック系のノード術の本を書いている時からずっと気になっていて、
このタイミングでまさに欲しいというタイミングで向こうから上がってくるようなツールはなくて、いずれAIかって言うんだけど、
僕はそれは信用できないんですよね。
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AIにできるようなことならば、自分にもできるはずだと思うんです。
自分にもできるはずだという信用、信頼っていうのは結局のところ、絶大な信頼しかないんですよ。
なぜならば、できるかどうかってその場にならないと証明できないので、できるかどうかを事前にはっきりさせることはできないんですよね。
でも私はAIにできるくらいなら俺にでもできるって思ってるからできるような気がしてるんですよ。
これがとっても大事だなって思うから、メモを取るってことはそれに対する不信感を自分で表明するってことになるじゃないですか。
行動として自分の記憶を、よく言いますよね、自分の記憶が全く当てにならない。
あれを僕はやめたいんですよね。
あれをやめないと自分の記憶を当てにするってことはできないと思うんですよね。
絶対それを口にもしないようにしているし、だから思い出すためのメモを見るっていうのは極力避けているんですよ。
一部極端な例外を除いて極力避けているんですね。
一部極端な例外、一部例外っていうのは他人が、しかも必然的な形で絡む系ですね。
家族に言われているとか、それを思い出せないと家族が本気で困る。
本当は僕はこういうのも自分の記憶でまかないたいんだけど、そこまで僕はやっぱりまだ踏み込めてないんですよね。
だからそういうのはしょうがないからメモっている。
メモにあるのは全部他人の用事なんですよね、私のメモにあるのは原則としては。
自分の用事は自分だけにしか関わらないことは最悪忘れてもよくて、忘れるということは多分私自身の中で思い出させなくてもいいっていうふうに無意識の方で判断したとみなしているんですよ。
このぐらいにしておかないとよくないなってちょっと思っているんですね。
つまり私と私の意識と私の全意識と私の無意識がみんなそれぞれバラバラであさっての方向を向いているということは、協力体制が取れていないせいで、でも私の無意識が私に協力しないというのはおかしいと思うんですよね。
相互に不審感がなければそんなふうにはならないはずだって思うんですよ。
私の身体が私に協力しないというのはおかしいと思うんですよ。
だから不審感を持っちゃいけないと思うんですね。
不審感を持っちゃうということは結局はみんながバラバラになるのをメモなどでつなぎ止めようとしているっていう形になってしまうので、それをやるから私の無意識が何かトンチンカンなことをやらかすんですよ、きっと。
ただ私は長らくライフハックでそういうことをやりまくってきたから、無意識が私に信頼されてないなと感じるのはしょうがないなと思うんですよ。
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だからある種懺悔の意味があって、懺悔はしてないんだけど、今後は無意識を信頼しますと。
それを態度で示すために読書メモは取らないと。
でも読んだから、無意識は読んだという記憶を持ったから、いつかこの内容を思い出すべき時に思い出す必要があるならば、無意識が上げてきてくれる自意識に届けてくれるだろうと、そういう気持ちでいるんですね。
こういう気持ちはある意味、Good Vibesで教わったことだから、昨日今日を始めたことに近いんですよ。
でもちゃんと答えてくれているんですよね。
ついさっきもブログ書いたんだけれども、ブログで浦沢直樹さんを引用しようという気は全くなかったんですよ、書き始める前は。
タスクシュートの死と不明時間について書こうと思ったんですよ。
ところが不思議なことに、ふと浦沢直樹さんのモンスターの第1巻のあのシーンがバッと上がってきたんですよ。
そういえばあれだなって思ったんですよ。
どこにもそこに死と不明時間っぽさはないシーンなんだけど、でもこれを書くとちょうどピッタリくるっていうのがパッと上がってきたんですよね。
こういうことは僕は物を書いていてしょっちゅうなんだけど、読書メモがあったわけじゃないんですよ、まして私漫画はメモないんで。
ここぞというタイミングで全く偶然じゃないんですよね。
全く必然的にこのタイミングしかないって時に上がってきてくれるんですよ。
このカラクリについてあーだこーだ考えるのは僕は意味ないなって思うんですね。
ましてこのカラクリに不審感を抱くなんて、このカラクリに不審感を抱き出したら多分僕は仕事にならないような気がするんですね。
で、こんなんでは心もとないと思うからスキルとかメモとかいったものをあてにしだすわけじゃないですか。
でも私はですね、それがいい結果を生むとは、つまり自分自身のパフォーマンスに不安を抱いた時にはセカンドから冒頭を投げる人間にしかなり得ないようにですね。
私だってですね、少年野球やってた頃には小学生時代ですが、2塁から1塁になんでもない時には普通に何回投げたって取れる範囲に投げれたんですよ。
これを中学高校になってできなくなるのは決まった自分に不審感を抱いた時だったんですね。
不審感を抱いてもできるレベルまでスキルを上げることはできるんだけれども、例えば泳ぎとかだったらできるんですけれども、それでもパフォーマンス落ちるんですよ。
上がることは絶対ないんですよ、不審感を抱いて。
と、皆さんも多分経験されてるんだろうと思うんですね。
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だから、全意識というもの、意識と無意識と全意識というものには絶対の信頼を置くべきだろうと思うんですね。
絶対の信頼が置ければ、かきあぐねるなんてことは婚輪際起こらなくなるんじゃないかと思うんです。
だからまだ私はかきあぐねるってことが起こるから、絶対に私は自分の意識状態に対する不審というものを持ってるんだろうなと。
持ってたんで長らくね、その癖抜けないんでしょうけれども、持ってなければメモなんて取らないですもんね。
メモを取るってことは絶対にいいタイミングで、例えば1月何日に娘を眼科に連れていく予約を取ったから覚えておいてねと奥さんに言われて、
その日忘れるのが怖いからメモるわけですよ、結局ね。
忘れるのが怖いっていうのは、自分の記憶への不審感があるってことですよね。
だから記憶はビビるんですよ。私が不審感を持ってるって知ってるからね。
だからセカンドから冒頭投げちゃうわけですよ。
こういうトンチンカンなことをするってのは決まってこのパターンなんだと思うんですよね。
こんなことを全く考えなければ絶対100%うまくいくはずだと思うんですよ。
そういうふうに今の世の中では思われてないから、
審査を抱くのが当然だと思われてるから、みんなで不審感を抱くから、みんなでパフォーマンスを落としてるんだろうと自分は密かに思っているわけですね。
おすすめはしませんよ、別に。
で、同じ理由から自分はタスクシュートにこんなにコンコンとそのことをブログに書いたんだけど、
コンコンと十何年も記録をつけてるんだけど、読み返しはしないんですよ。
読み返すのは何かを思い出すためではなくて、スナップショットみたいな写真を眺めるとか思い出に浸るという目的だけです。
あるいはネタにするとかね、そういう目的だけです。
これを思い出すために使い始めると、やっぱり必要なタイミングで思い出せるという自分の能力を疑うことになっちゃうんで、
多分これはですね、もう一歩踏み込んで言うならば、それこそウッドワイブス流に言うならば、攻撃になっちゃうと思うんですよね、自分の記憶に対する。
不審の目を向けるっていうのは結局、やられてみればわかるんですよ。
監督が佐々木また冒頭するんじゃねえかって、あれ攻撃になりますよね、向けられた側にしてみると。
自分の記憶を攻撃しちゃいけないと思うんですよ、やっぱり。
自分の記憶なり自分の意識なりに攻撃の目を向けたら、それはバラバラになりますよね。
相互の協力体制が著しく低下するような気がします。
だから、メモを取るにせよ記録を取るにせよ、何をするのも構わないと思うんだけど、その根底に自分に対する不審感が動機であってはならないと思うんですね。
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だけれども、全く不審感がないのに、そもそも記録を取るかっていうことが出てくると思うんです。
だから僕はそこのところを極力今慎重にするようにしているわけです。
不審の目を向けているのかもしれないけれども、保険をかけるってそういう意味なんで、万が一に備えてって言うじゃないですか。
備えるってことは万が一お前やらかすかもしれんぞって言ってるのと同じことになってしまうので。
でも、極力それを抑えに抑えて、自動車の保険には入るようにですね、どうしてもってことがあり得ると思うのを避けられない部分だけでも担保するためにメモは取るけれども、
それでも減らす方向に向かうという気は意識し続けると。
減らす方向に向かおうと思うということは長期的には信用していく方向に向かうといった意味になりますから。
これが例えばですけれども、年を取るという方向に対する逆の意味になっていくんだけど、ちょっと不思議なんですよね。
記憶力が少なくともここ10年の中では今が一番いいように思います。
ここ2,30年とはさすがに言えないんだけど、やっぱり若さのアドバンテージってどうしたってありますから、身体ですからね記憶は。
だけれども、ここ10年に限って言えば、いわゆるノートと記録とライフ確保、極力それらを当てにしないようにするという方向性に意識づけをするだけで上がってきているので、
どんだけ今まで不信感を抱き続けてきたのかという意味でもあるんだけれども、全意識なんですね、キーワードは。
全意識を最大限活用するために自分の全意識と無意識のシステムを最大限信頼し続けておくと。
ここに芯を置き続ければ、まずまずのパフォーマンスは少なくとも返ってくるんだなということは、ここ数年、1,2年で実感し続けています。
この方向をもうちょい拡大していけば、きっと少なくともノープランでものを書くというのは当たり前のようにできるようになるはずだと。
ここ1月1日から何の意味もないブログを書き続けているわけですよ。あれはそういう意味なんです。
要するに記録を残すのではなく、役立つ情報を書くのでもなく、ビジネスに役立てるのでもなく、ただただですね、読んでいる人に何か意味があればいいなと思っていますけれども、これが読み手への信頼ってやつなんだけど。
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自分の中ではですね、全意識に任せて書くと、基本何も意識しない。書く方向性も何も一切意識しない。つまりこのポッドキャストと全く同じ趣旨で書いているんですが、このポッドキャストよりさらに一歩踏み込んでノーテーマで書いているんですよ。
続くかどうかわかりませんけれども、続けるという意識を持っていないですから、ただタスクシュートには毎日というルーティンにしてあります。だから黙ってても上がってはきます。書かなきゃなとは思うんですけれども、何を書く、どういうテーマで書くというのは一切なく、続けようという気も一切なく、とにかくこのポッドキャストと同じで、しかもキクセラピーというようなタイトルすら、ノートにはタイトルがないのでね、なくですね。
全く何にもなく、ただ書くと。1行目書けば後は全意識がやってくれるはずという風にしたいわけですね。
それが今日、まだ1月4日ですからね。早くもかなりうまくいったので、これって大きいよなって思うんですよ。もともとできたんじゃないのかって言われればそれはそうなのかもしれない。だけれども、もともとやってなかったことには違いないですからね。
何かの引用するというために、私はEvernoteにしこたま貯めてあるわけですよ。そして、ブログなりを書く場合には必ずそれを読み返すように今まではしていた。それを一切やめているんですね。
ここ1年くらいこういうようなことはとにかくやめようとしてきたんだけど、その一環でとにかくやめてみた。
だいたいですね、おかしいと思うんですよ。
例えば文章のスキルなりとか、先ほどもTwitterで絵のスキルの話がちょっとお友達から余ってきていて、ちょっとコメントしてみたりしたんですけどね。
スキルというものは自分に属するものじゃないですか。自分の一部じゃないですか。いつしか我々はスキルというものを身につけると、それに頼れるっていう言い方をして、そのことにあんまり不思議だとも思わなくなっちゃったりするんですよ。
スキルに頼るって不思議な話ですよね。スキルは頼りになるが自分は頼りにならないって言ったって、スキルって自分の一部じゃないですか。だからスキルが頼りになるなら自分は頼りになるはずなんですよね。
そして自分ってのは、何度かこのお話はしてますけれども、世界の一部なわけだから、自分は信用できるが世界が信用ならないとかね、ああいうのも不思議っちゃ不思議なことを言ってますよね。
世界は信用できるけど他人は信用できないとかね。他人って世界の中の一部じゃないですか。実にこういうことって僕らよく言うんですよ。でもよく考えるしね。
よくそういうふうに考えもしたりして、自分は信用できないから当てになるスキルを用意しようとかって言うんですよ。まるでスキルってのは自分とかけ離れたところにある信用のおける何かみたいですよね。
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こういう感覚の問題ってのはこの全意識の問題には多分関係してると思うんですよね。
記憶を当てにならないから記録しましょうっていう話をした場合、でも記録するのは自分じゃないですか。この辺誰が何を当てにしているんだろうって思うんですよ。
この外に外に何かを置けば置くほど安心感があるっていうのは僕らは何かとてつもなく損臭いことをやっているような気がしなくもないんですね。
ただここが難しいんだけどね。これを言ってると何かを批判してるように聞こえるでしょう。
これは私に関わることなんですよ。私にのみ適用したい話なんですね。
だったら喋んないで黙ってればいいのにって考え方もあると思うんだけど、これはこういう話が求められているというケースがあるからそこに向かって喋ります。
でも多分これしてもしなくてもこれだけ言っといてそういうのも変ですけどね。でもしてもしなくても本当のところどっちでもいいんですよ。
ただしてもしなくてもいいならば私はしないと楽だなというふうにも思うわけですね。
だから私自身は決してそこまでまず第一にさほど勤勉じゃないってことがありますね。
第二に自分自身に限定して言うならば人生にそこまで多くのものは望んではいない。
もう十分もらったっていう感じを割と最近持っているんですよね。
そう、これで思い出したんだけど、倉園さんが最近ポッドキャストで樽を知るっておっしゃってましたね。
あれは仏教ではよく言うんですよね。消欲知足っていう言葉があるんだけれども、うちの親父なんかはいつもそんなこと言っていて、酒をたらふく飲んでてなんだよって感じもあったんで、だから覚えてるんですよね、こういうことって。
でもですね、樽を知るっていうのはあるんだと思うんですよね。
人にもこれよるじゃないですか。欲望には限りがないという言い方もするんだけど、そんなこともないと思うんですよ。
割と考えてみると恵まれていますよね、私なんとは。
だから別に樽を知っても、そんなに何かがなくても樽を知るって難しいことじゃないと思うんですよ。
そう思えば、これほどの内容を知ったんだから、メモっておかなきゃ損だろうって思わないものなんですよね。そういうこともあります。