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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月17日木曜日の20時23分ですね。
もはや朝撮ることの方が少なくなってしまったグッドモーニングボイスですけれども、
出すのは朝ですからね、そんな感じでゆるゆるとお付き合いいただければと思います。
現在ですね、まだ詳細をはっきりはさせないことになっておりますが、
100日チャレンジの方を第2期スタートすると同時にですね、
いろいろと新しい試みを今後展開していく予定でおります。
タスクシュードクラウドの2というのもね、だいぶ先にはなると思うんですけど、検討しておりますし、
これが出ればですね、タスクシュートというものでタスク管理するという、
なんて言いますかね、営みはですね、かなり良い線行くんではないかなと思っています。
あれじゃな、そんなに高機能じゃなくてもですね、基本的なことはデジタルでありさえすれば、
紙使ってやるっていうのは本当、先日もJマスザキさんと検討したんですけど、
とてもじゃないけど現実的だとは思えない。
マニアナの法則っていうものでは紙でできるって言うんですけれども、
私には正直やってみた経験としてはですね、とてもちょっと無理だなっていうのが本音のところではあります。
デジタルならではの方法論だとは思っておりますね。
で、そのタスクシュートの方でも様々な動きを展開していて、
それは中っていうか、100日チャレンジに入っていただけると全貌が明らかになるんでね、
今一般の方、つまりタスクシュートクラウドをお使いでない方も募集かけておりますんで、
5000円別とかかるんですけど、100日で5000円なんでね、安いと私は思うんだけれども、
まあまあこの辺はですね、皆様の経済状況にもよると思いますので、
私も安いから何でも買えるかっていうと、安いなと思ってもなかなかカウンセリングの本とか手を出せずにおりますんで、
その辺はお財布とご相談の上で、経験してみていただいてもいいんじゃないかなと思っています。
でですね、今日はちょっと、いつもはもう少しこういう話題はある程度避けてきているんですけど、
まあでもいつもね、結局なんだかんだ陰な話も結構しておりますからいいと思うんだけど、
ずっと考えていたことがありまして、
SNSとか、ちょっと違うな、発言こまちとかかな、
ああいうものを長く見てしまって、なんだかそこで行われている人間の闇みたいな、ちょっと大げさな気もするんですけどね、
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ちょっとスキャンダラスなものをずっと追っかけて、なんかイライラしながらなのにそれを見るのがやめられませんみたいなお話を時折いただくんですよ。
それこそ100日チャレンジじゃないですけど、タスクシュート系でもね、
仕事をしなきゃいけないのにずっと発言こまちの、しかも結構荒れたやつを見るのがなんか楽しいのか楽しくないのかわからないんだけどやめられませんっていう方がですね、
時々ご相談に上がると。
これ構造的にはわりと明瞭なお話なんですけれども、やっぱりどういうわけかな、今の人って本当ある意味不思議ででしてね、我々もそうなんだけど、
こんなにいろんなことを知っている世代ってそうはない、これからますますそういう方が増えていくと思うんですよね。
2000年世代とか本当物知りなのに、これほど昔は誰もがある程度は知識として持っていた、いわば臨床絡みの知識みたいなものがすっぽり抜けているっていうのが不思議なんですよね。
これから流れ変わると思うんですけどね。
本当、自己啓発なんかもそうなんだけれども、臨床発なんですよ。ほとんどのものがそうなんですけれども。
明らかにそういうものの免疫っていうのも変な言葉だと思うんだけども、予備知識が不足しているためにスポット入ってしまったり、スポットそこだけ全く知らずに来ているというのがですね、気になるわけですね。
それで、どうしますかね。どこから行けばいいのかな。
フロイトから行きましょう。というかフロイトで今日は話が終わると思いますけどね。
フロイトはこういうことについてはもうはっきりとしたことをかなり書いているなと思うんですね。
何かというと長字がという言葉なんですよ。長字がってなんだと私もよくわからないなっていつも思うんですけど、
いい文章をいろんなところから拾っているしに出くわしたんですよ。フロイトの文にあるんですけど、長字がというのはSを代表するものだと。
これはすごい私が知りたかったことの一つなんですね。
Sっていうのは結局訳せないからSって言われてるんですけど、ドイツ語のそれなんですよね。
一度Sそれですね。日本語で言ったらもうそれというかSというか井戸というかこのぐらいしかないんですけれども、
無意識の衝動、エネルギーの構造なきエネルギーとかって言うんですけど、構造なきエネルギーって言われてもなんて感じなんですよね。
私たちってほら生き物じゃないですか。食べたいとかそれこそしたいとか寝たいとか出したいとかそういうものが
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そういう言葉になる前から生き物としてそういう衝動を持っているわけです。
これはもう全然普通に誰にでも当然あるものですね。
痛みとか痛みを何とかしたいとかこれも言葉にしちゃうんだけれども、言葉になる前の部分があるはずなんですよ。
実体としてあるのかどうか非常に微妙ですけど、とにかく生き物としてそういうものを持っている。
これがSだということになると思うんですよ。
なんというかフロイトに言わせると超自我とはSを代表するものだっていうそういう表現があるんですよ。
ただフロイトの書いたものが例えば1900年代の前半なのか少し中盤に差し掛かってきた頃、つまり晩年と初期とでは違うし、
そういうこともよくよく考えてみないといけないんだけども、私そこまで専門じゃないんでそこまではまだちょっとわからないんですよね。
初期の頃はどうで晩年はこうだみたいなのを分けるんですよ。分けるんだけどそんなに簡単な話ではないし、
ここでそれをしゃべるのは本当大学の講義みたいになってしまうので30分じゃとても効かないんでね。
そこらへんはちょっと端折らせてもらいたいんですけど、要はSの代表だというのは何を言いたいかというと超自我というのは何々すべしなんですよ。
シュットとかマストとかお前はこうしなきゃいけないぞっていう。一番我々がよく知ってるのはやっぱりですね、
2つ、僕は代表的に2つあると思うんですね。はっきりさせてしまうとお父さんお母さんとセックスしちゃダメだよっていうのが1つ。
もう1つが排泄はトイレでしなきゃダメだよっていうのが2つ。この2つは僕は超自我の主要な命題であって、
文明的には基本的に守るってことになってますよね。なってる気がしますね。しかも年々厳しくなってるような気すらしますね。
この正しさっていうのが生物学的なものとはとても思えないんですけれども、だって他の生物そんなものを守ってる気がしませんから。
生物学的には思えないんだけど、無意識の方から多分これを破るのは強い無意識からの突き上げと戦わなければとてもじゃないけどこれ破れないだろうと。
そういう意味では超自我がSの代表だっていうのはすごい表現だなと思うんですよね。
文化的なものなのにまるで生物学的な命題であるかのような、ルールであるかのような、タブーであるかのような顔をして、僕らの無意識から来る。
というか、意識もできるけれども、無意識にすでにそのルールを守ろうという意志がはっきりあるだろうってことなんですよ。
で、これが何の話をしているのかというと、発言小松の話、発言小松だけの話じゃないですけどね。
要するに昔からあるんですよ。あれを最近SNSのアラブンデルとかアランデルとかそういうことを言うんだけども、私なんかは昔から週刊誌にあったようなバッシングをしてみたり噂話みたいなのをやたらとそれっぽく書き立ててみたりというのは昔からあっただろうって思うんですよ。
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僕らはそれをSNSというところでも登場していて、SNSらしく演じをしてみたりしているけれども、結局それは昔からあったものに違いない。
ただ、昔やり玉にあがっていたのはほとんど全部芸能人だったり政治家だったりしたけど、今は一般の人まで巻き込まれて大変だよなとは思いますけれどもね。
でも事態が昔から現代に至ってSNSが登場したというのは大きなことだけども、もともとああいう真理みたいなものがなかったとは僕は全然思わない。昔からあったものの真理だろうとは思いますよね。
何をやっているのか、あれは。何で例えば不倫をした芸能人をやたら叩いている週刊誌というのは、くだらないと言われようと不道徳だと言われようと三流だと言われようとなっていないと言われようと売れるのか。
我々の間に長寿があるからですね。僕はこれは確実だと思います。ただしたいという気持ちがあるんですよ。それはまるでしたいとか出したいとか食べたいとか寝たいというのに近いレベルであって、
無意識のSっていうのは要するに意識できるものもあれば意識できないものもあります。例えばなんとなくイライラするみたいなのは意識できないものです。
あるいはここで何度も何度も言っている投影みたいなもの。私を昔いじめたやつに似たやつを見ると気分が悪くなるみたいなのは完全に無意識の投影ですが、これもSの仕業だというふうに基本的に考えます。
Sとは何なのかみたいなのはこんなものだぐらいに思っておいてください。私たちの意識できないところで勝手に作動してしまう。勝手に私たちの心の内で蠢いてしまう。それがSですね。
その中に正したいという人を正しくしたいとか、正義の罰を食らわせてやりたいとか極めて固定、つまり長寿がってのは多分幼いものから成長期に至るまでいろんな正しさというもののフェーズがあるんじゃないかなって私思うんですよね。
この辺の話はフロイトの全部読んでないんだけど、はっきりしないんだけれども、少なくとも極めてSを代表する長寿がってのは極めて幼稚で原始的なものからスタートするんだと思うんですね。
僕らそれ思ってるんですよ、未だに。もちろんこれだけじゃないですよ、長寿がってのは。もっと遥かに大人びていて複雑で社会倫理みたいなものに沿ってるのもあるけど、極めて単純なところで悪い奴には罰を与えろっていうこういう非常に原始的な正しさっていうのがあってですね。
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これがSなんでほぼ無意識に作動しちゃうんですね。意識はできるんだけども作動し始めればほとんど無意識に最終動き出すんですよ。これが厄介なんですよね。
フロイトがやはりですね、精神分析とかカウンセリングは要するに何を目標にすればいいのかという質問に答えたのかな。あるいはそういう論文を書いたのかなと思うんですけど、どっちかだったら忘れたんですけれども。
目標はこうだと。Sがあったところに自我を起きなさい。つまりなるべく無意識にいろんなことをしちゃうのに対してもっと意識できるようにしなさいみたいな、非常にざっくりと言いますとそんなところだと思うんですね。
ただこれを自分でやるんじゃないんですよね、精神分析家の仕事としては。他人にこれをやってもらえるようにならせなさいみたいな感じ。
無意識にその人がやっちゃっていることを意識できるような形でやり直させなさいみたいな感じなのかな。
とにかくSありしところに自我をあらしめよっていうのは有名なセリフで教科書とかにも出てくるんですけども、これなんですよね。ところでそのSを代表するものが超自我だってことになるとこうなるんですよね。
超自我がありしところに自我をあらしめよってことになるじゃないですか。つまり何それは間違ってるから俺が正してやるっていうのを無意識に僕らはやっちゃってるんだけど、
それを意識してできるようにさせてあげなさいねみたいなそういうノリになってくるんじゃないかなって思うんですよ。
つまりこれはグッドバイブス風に言うとですね、自分がどんな正しさを持って動いている人をジャッジしたり評価したり裁こうとしているのかを意識的にやりましょうねってことになるじゃないですか。
もうこうなってくるとですね、全カウンセリングって実はこれに近いことを言ってるなって思うんですよ。
自己啓発でも少なからずこういう部分って大きいよなっていう感じがします。
人間関係を多分損なうものがこれなんでしょうね。
フロイトがこのことに触れたのは1930年か20何年、つまりもちろんそうなんだけど第二次世界大戦の前ですよね。
この時代にそれを言い出してたということはこの問題はよっぽどですね、世界のありとあらゆるところで割と猛威を振るう問題だったんだろうなという感じもします。
そして発言こまちに戻りますが、発言こまちが悪いんじゃないんだけどね。
つまりこういうものっていうものをSNSでもいいんですよ、炎上している、バッシングしている、気分悪くなりながらそれを見るのはどうしてかということをまず知るにはですね、
私たちはまずどうしてSの代表としての長寿が、つまり無意識のSの活動のようなものとしての長寿がの動きというものが、
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というものにこうだんだんだんだん主導権を奪われていくかというと、自画の機能が弱るからだと自画心理学なら言うでしょう。
つまり対抗が起こっているんだと、実際によくそういう相談を受けるときはですね、疲れているのにやめられないんです、みたいなことを言われるんですよね。
なんとなく気分が落ち込んでいるときについ、そういう炎上とか相談系でバッシングされている人のやりとりを延々見てしまうと、何時間も見てしまうこともあると。
ダウン気味のときに見るんだとか、心がもやもやしているときに見るんだ、すべて自画心理学で言う対抗が起きているわけですよね。
自画機能が低下している、あるいは自画のエネルギーが失われている、そうするとやっぱりS主導に切り替わっていきやすいわけですよ。
なぜならばエネルギーを持っていないSだから、原則的にはですね。つまりコントロールを失い始めるとコントロールのない衝動の方が優勢になってくると、相対的にそういうことになると思うわけです。
自画心理学だったら普通、不思議じゃないですか。Sを抑え込むのが超自画じゃなかったのかと。
でもですね、自画心理学だけが精神分析の学科じゃないですよね。
フロイトの本にはSを代表するものとしての超自画という言葉は多数しかあったんですよね。
私はそういうような話を見て、非常にやっぱり違う感じを抱くようになりましたね。
いろんな超自画の働く水準、いろんな水準があると思うんですけど、その最下位の水準みたいなところの超自画の働き。
つまり間違ってるやつ、嫌なやつ、罰してボコボコにしろみたいな。
こういうですね、正してやれという、しかもほぼ無意識水準で動く超自画の機能というものがあるわけですね。
自画機能が低下してくるとS代表としての超自画が正義が勝たなければいけないという欲求に、ちょうど性欲がムラムラしてくるというのと同じように正義感がムラムラしてくるわけですよね。
この時対象を欲しがるというのは当然ですよね。だって性欲がムラムラしてくるとそういうものを見たくなるじゃないですか。
同じような理由で超自画がムラムラしてくると罰する相手というものを見出したくなるわけですよ。
ここの構造にはフロイトのこの発言から考えると、文章から考えると少しも不思議じゃない。
そして大事なのはフロイトというのはものすごくたくさんのカウンセリングをしてきたということがあるわけじゃないですか。
彼はカウンセラーの師匠みたいな、ベトベンみたいな感じの人だと思うんだけどね。
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バッハみたいなのが正しいのかな。そういう意味で父なので、あらゆるいろんな人を見てきてるわけですね。あらゆる人ではないにしても。
見てきて見てきてカウンセリングして精神分析して見えてくるんでしょう。
人々はこの超自画がムラムラするという問題で相当苦しんでる。
だってこれやっぱりその辺に表立ってボコボコできるってことはありえないじゃないですか。
性欲というものをコントロールしなければいけないように超自画というのはコントロールの対象なんですよ。
いや正しいんだからどんどんどんどん正しいことをやりまくって間違ってるやつを次から次へと
ジャッジしてさばいて打ちくびにしていけばいいじゃないかって思うかもしれませんけど、そういうわけにはいかないですよね、現実には。
そんなことができる人はほとんど誰もいないわけですから、当然超自画というのはコントロールの対象になります。
性欲というものがコントロールの対象になるときに、週刊誌等に昔はそういう対象がいっぱい用意されていたように
超自画というもののムラムラしたときの対象もコントロールしなきゃならないから置いてあるわけですよ。
非常に面白いと思いますよね。
正義感とエッチな感じのものっていうのはセットで売ってるものなんですよ、多くの場所で。
非常に僕はあれは興味深い現象だと小学生の頃ずっと思ってたんですね。
そういう雑誌っていつもそのセットだなって感じがしてたんですよ。
当時はフロイトなんか読んでなかったから非常に大人の世界は不思議だと思ってたんだけど、今思えば非常によくできてますよね。
これが全くお金になるわけじゃないですか。
考えてみるとテーマが不倫でそこにナタを下ろすという話がこれほど広範囲に受けてきて、未だに受けて将来も受けるであろうというのは
非常に理にかなっていると言いますか、人間の心の構造というものとよくマッチしてるんだなと思わざるを得ないところがありますね。
それはそれでいいんですけれども、この時に私たちはそういうのを読むとスッキリも多少もするんでしょうけど、当然消耗するわけです。
なぜかというと、この正義感というものが自分は結局バーチャルにしか適応できないんだということを思い知らされるからですよね、ある意味。
リアルにこれやっちゃったら大変なことになりますから、すぐ人間関係ダメにしちゃいますからね。
だからこそ、これで悩むからカウンセリングでこの問題を扱うんですけれども、なぜ正義なのにナタを振り下ろしちゃダメなの?
っていうそういう思いに囚われるんですよね、人間は。
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特に二者関係です。
3者以上いるところでこれをバンバンやるっていう人は多分いないと思うんですよね、そう滅多なことじゃない。
二者ではどうしてもやりたくなるんですよ、夫婦間、親子間、恋人間。
私とあなたが両方とも正しい時は仲良しなんでラブラブなんだけど、あなたが間違うというのは許せなくなると。
相手から見ると全く逆なので、良いお母さんと良い子供、悪いお母さんと悪い子供っていう関係。
つまり鏡みたいな状態になってしまって、良ければ良いし悪ければ悪い、二者関係どうしてもこうなりやすいんですね。
この時にお互いがSの代表としての性自我を振り回したくなるという気持ちに囚われるので、どっちか我慢すると思うんですけどね、多くの場合は。
ただ我慢したとしても非常に憎々しいという気持ち。
なぜ俺が我慢、なぜ私が我慢しなければならないのか、相手が間違っているのに必ずこういう気持ちに囚われてしまうと。
だからGood Vibesで倉園さんが許すっていうことをあれほど繰り返されているんだけれども、私たちはどうしてもS代表と、Sってのはやっぱり難しいわけですよ。
許すとか手放すとか言っても次から次へとムクムクと上がってきて、しかも自我機能弱っているときなんで気分が悪いわけですね。
ただでさえ、いろんなことがあるのにさらに許しもしなければならないのかというこの気持ちに囚われるわけです。
で、このときにですよ、生児がなんでムクムクしているのか、性欲じゃないんで、生児がなので何が一番引っかかってくるかというと、
もちろん相手が間違っているという意味では単純にマウンティング取りたいという気持ちになるでしょう。
私の方が正しいんだから、あとは私の方が強ければいいんだと。
強いっていうのはいろいろありますよね。腕力の場合はあるでしょうけれども、声がでかい、口が達者である、あるいは頭が回るね。
この3つぐらいで相手の上位に立たなきゃならないという感情に囚われるかもしれないですね。
逆もありますよね。逆というか、今言った通りのものがひっくり返ることが多くなります。
つまりコンプレックスを刺激されますよね。私の方が正しいんだけれども上手く言えない。
相手の方が頭が切れる。この許せなさもなかなかなものだと思うんですよ。
つまり長時間をムラムラするというのは非常に本人を苦しめる可能性が高くなってくるといったことになります。
最後に長時間が上がってきたときに正しさを主張したいということなので、自分が間違ってちゃまずいんですよね。
全くそう思わないという人も中にいらっしゃるんだけど、そういう人は少ないですよね。
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私が正しいって本当だろうかと。私が正しいんだから、私は少しも悪い部分があったらダメだと考えるんですよ。
良心的でこの感情が強い人は余計そうなるんですね。長時間というのは良心、良心というのは良い心ね。
良い心と罪の意識というものを中心に構成されているエリプスコンプレックスですから、
どうしてもそういう悪が自分の中にあっちゃいけない。だから私は純然たる正義感で動けているだろうか。
純然たる正義感は非常にまずいと思うんだけど、人はここをむしろ気にしちゃうんですよ。
私にも悪いところがあったんじゃないだろうかと。つまり長時間がムラムラすると、最悪感がむしろ刺激されるんですよね。
だからめちゃくちゃ気分が悪くなるわけですよ。だから我々は炎上とかそういった時にも、
純粋に叩いて差し支えないとはっきり思える相手が欲しくて欲しくて仕方がないという変な気持ちになっちゃうわけですね。
つまり、完璧にブラックな悪というものはどこにいるんだろうという問い合わせになりやすいわけです。
そんなものがいて、自分の人生に良いことって一つも起こりませんから、これを見つけて幸せな気持ちには決してなれない。
この構造は最初から必ず敗北する戦いみたいなところがあるわけです。
なんでこんなものが人間のSを代表するものみたいなところにあるのか。
大変微妙な展開だなというか、微妙な構造だなと思うんですけども、
やっぱり人間というのは、結局第三者を意識することができてしまう生き物だからなんでしょう。
猿ができるみたいなんですけどね。
自分だけ後で食べるバナナを取っておく。
これ第三者の存在を過程として意識していますよね。
つまり第三者というものは何でもできてしまう。
何をするかわからない。
何をするかわからない。
だからこそ法律とか恐怖とかでコントロールできるようにしないと安心できないんだという気持ちがあまりにも強いんですよね、きっと人間というのは。
他の動物はそんなこと気にしていないので、実際に戦いになったり殺されたり殺したりすることって起こるけれども、そうして幸せそうじゃないですか。
あれが今ここの幸せってもんだと思うんだけど。
人間はこの架空の第三者が外視にかかる可能性というものを考慮に入れるようになってから、どうしても非常に潜在的な自分の攻撃欲求というものを意識しないわけにはいかなくなったんだと思うんです。
これをタナトスと言っていいのか死生動とかって言うんですけどね。
僕にはちょっとわからないんですけど、ただ人がいつか死ぬってことを意識している生き物であること。
つまり相手もまた殺せるっていうか、相手も死にうるってことを意識する動物であるっていうのは非常に特筆に値するだろうなと。
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かなり賢い霊長類、ボノボチンパンジーみたいなのでも、死なんていうものは概念として持ってないに等しいんじゃないかという気がする。
もしかして死ぬってことを多少知っているにしても、自分は必ず死ぬなんて別に思ってないと思うんですよ。
この死生動っていうのはリビドーに対応するものとして言われていて、あんまりコンセンサス取れている感じはしないんですけれども、
強い破壊生動っていうふうな説明としては、非常にいろんなところで人間にとっては実害の強いものだなという感じがします。
例えばこの死生動っていうのは今言った通り、Sの側にあるんだとするとですよ。
超自我でもいいんですけど、攻撃生動でもいい。攻撃生動なんて明らかにSですよね。
Sの中にあります。普段そんなに強く意識してないし、無意識の攻撃欲求みたいなものが飛び出しちゃうことはありますからね。
これを他者に投影する。投影っていうのは散々言った通り、いくらでもできることなんですよ。
誰それにちょっと似てる、お母さんに似てる女の子が好きになっちゃう。しかも無意識にっていうのはいくらでもあることです。
そういうことはいっぱい起こるんだけど、攻撃欲求というものを他人に投影したら、他人が自分に向かって攻撃してくるっていうことになるんで、とっても恐ろしいですよね。
私は顔色をうかがうの本で書きましたけれども、つい顔色をうかがってしまう私を手放す方法を書きましたけれども、
あの本で非常に重要なテーマとして一つ強く意識したのは、そんなに怒られるということを恐れている。
HSPとか繊細さんと言われている人が恐れているんだとすると、それはやっぱり自分の攻撃欲求というものが外部に投影されている一種の迫害妄想といったようなものに近いんじゃないかと。
妄想ではないかもしれないし、そこまで強くはないと思うんだけれども、そういうものを持っていて、
いろんな人が自分を攻撃、迫害、何か恐怖に陥れようとしているという思いに囚われているというのは、
どうしても本人の中の無意識の攻撃欲求というものが投影されているという説明が一番適切だと思うんですよね。
実際に世の中の人に攻撃されることがあるんだという意味ならばあるでしょう。
でも、みんながみんな、周りにいる人全てがということになってくると、やっぱりそれはリアリティという意味ではちょっとどうかなという感じはしますよね。