1. グッドモーニングボイス
  2. 【706GMV】自分がなくなれば歯..
2022-11-21 50:00

【706GMV】自分がなくなれば歯止めはきかなくなる

怒りも、現実逃避も、時間を溶かす活動は妄想分裂ポジションの中で起きる。

00:04
おはようございます。
グッドモーニングボイスです。
11月20日日曜日のですね、現在19時半ですね。
これ月曜日配信の予定で、ほぼ確実に月曜日に配信できると思うんですけれども、
最近は月水金日の朝に配信しているつもりなんですが、
日曜、水曜の日は勤労感謝の日じゃないですか。
これの配信をどうしようかっていうのが今ちょっと考えているところ、つまり祝日配信どうしようか問題みたいなのが一応ありますね。
もう一つが、100チャレ第2期がすでにスタートしているんですけど、
J松崎さんとやっているタスク集とユーザーのための100日チャレンジですね。
勝手に名前変えちゃってますけどね。正式にはこういう名前ではない。
先送りしないための100日チャレンジみたいなやつですが、
こちら向けにですね、週に1回、この3回のうちの月水金のうちのどれかを100チャレユーザーさんに特に向けたフォトキャストにしようと。
これまでグッドモーニングボイスを聞いていただいている方からすれば、そんなに違う内容じゃないと思うんですよ。
もしかするとほとんど変わらないかもしれませんが、
一応100チャレの方をメインに意識して配信させていただこうかなと。
極力こういう形でですね、一般的な情報発信も現在している仕事の何かに向けたものに修練させていけると、
だから何が起こるってことはないんですけれども、少しスッキリするかなと。
シンプルになる感じが。認識上の問題ですけどね。
そんなことを今考えております。
あとですね、現在100日チャレンジのキックオフがいよいよ来週日曜日と、さらに12月3日最初の土曜日に相次いでですね、
キックオフをですね、これオフラインでやる予定なんですよ。
小江戸というところで、コワーキングスペースの小江戸というところで、東京駅からも歩けるけど、もうちょっと近い駅があったけど、名前を忘れました。
とにかくコワーキングスペース小江戸というところでやります。
だからですね、こちらで久しぶりにオフラインでお目にかかることもできるし、
この日にいろいろなお話がお伝えできるのではないかなと思っております。
前回ね、オンラインでお伝えしたんですけれども、あれはあれで個人的にはまあまあいろいろな内容を盛り込めたかなと思っております。
03:01
特に今回は一般向けに募集した第2期一般向けの12月3日の方でですね、僕なりのタスクシュートを使った、あんまり大変な思いをせずに済む、
仕事の進め方みたいなのがお伝えできるかなと思っておりますので、まだ確かに間に合うと思うんで第2期ですね、100日チャレンジ。
まだ枠あるかどうかちょっと僕、把握できておりませんが、ざわめきをしておりますので、
今日はですね、100チャレンジユーザーさん向けというわけではなくて、いつも通りのグッドモーニングボイスなんですけれども、
久しぶりのグッドモーニングボイスですけれども、
というのを思いついたのもですね、最近いろんな話をしてきて、なんとなくようやくお話をさせていただきました。
いろいろな話をしてきて、なんとなくようやくお話をさせていただきました。
国際精神分析学会とかに属してるわけでもないわけだから
だから何言い出すかわけわからんっていうこともある一方で
私自身はもっと自由にですね
何をどう言ってもある意味いいわけですよ
グッドバイブス協会とかがあるわけでも今の段階ではないですからね
何を言ってもいいんだけれども
一方で結局この言葉が何を言うにしてもですね
伝わらなければあんまり意味がないので
伝わりそうなもので
かつこれまで一応こう
何て言うんですかね
受け継がれてきたものを
これがエリプスって話になってくるんだと思うんだけど
受け継がれてきたもの
伝統的って言うんですかね
一応の権威づけられたもので
かつ分かりやすいのがいいだろうと
欲張っていくわけですよね
欲張っていくということは
06:01
当然そういうものが絞り込まれていって
絞り込まれるというメリットがある一方で
使える範囲が狭まっていったり
専門用語に縛られるといったことが起こるわけですね
これはただの一般論ですが
甘えっていうのはいい言葉だよなと思ったんですよね
さすがドイさんなんですよね
甘えという言葉はどう考えても
ナルシシズムよりは分かりやすいと思うんですよ
甘えをこじらせるというのが
神経症なり
場合によっては精神病につながっているというのは
もしそれが本当だと言うんだったら
非常に考えるに値する発想だなと思うわけです
これは例えば私は
グッドバイブスの番組として採取を始めたものだから
その文脈で言うならば
自然と甘えられている状態というのは
平安な状態というのと
多分僕はほぼ一致するだろうと思っております
もうちょっと違うんだけど平安は漢字としてはですね
それを言ったらつまりさっき言った通り
霧がなくなるところがあるんでね
もう一つこれは多分なんだけど
多分精神分析で言う
一時ナルシシズムというものが
概念とも近しいと思っています
何を思い浮かべればいいかというと
お母さんの腕の中で
すやすや寝ている赤ちゃんの心理状態ですよ
ムズがってないっていうやつね
あの時の漢字というものを
だいたい思い浮かべていただければ
平安だと思うしその状態は
甘えているとも言えるし
一時ナルシシズムが満たされていると
これが一番伝わりにくい言葉ですよね
でもそういう概念なんですよ
これが破られた時赤ちゃんは悲鳴をあげるわけですよね
平安でないことは確実だと思うんですね
そして自然な甘えが満たされていないということになるわけですね
この時に井戸井さんはセットで
自分がなくなるという表現を使っているんですよ
つまり自分がなくなっているということと
甘えられていないということはセットなんですね
そしてこの甘えられずに自分がないという状態に
自覚なくはまってしまうのが神経症であり
場合によっては精神病もこの文脈で説明できるのではないかといった
そういう井戸井さんの精神分析への貢献といったものがあるわけですね
自分がないというのは
例えば我を忘れて怒り狂うという表現を普通にするじゃないですか
怒りに我を忘れるその時自分がないわけですよ
09:02
その時怒りに我を忘れるということは
つまり甘えられていないから何かに甘えたくて怒り狂っていると
そういう風な考え方なんですね
それって別に病気だということではなくて
我々はごくごく自然にそういう状態に入ることはありますよね
だから私はその自我心理学で言うところよりも
すごく今日はどんどんしゃべっちゃってますけど
対照関係論といった方
メラニー・クラインが創始した側の精神分析の派ですけれども
メラニー・クラインが言うところの妄想分裂ポジションというやつの方が
しっくりくるんですね
妄想分裂ポジションってつまり赤ちゃんが平安を破られて悲鳴を上げている状態
つまりギャーギャー泣いている状態ね
あるいは怒りに我を忘れている状態ですよ我々で言えば
私たち赤ちゃんの状態を卒業はしないってことなんですよ
赤ちゃんが悲鳴を上げる心理状態とほぼ同じような心理状態に
何歳でもある条件が整えばある条件が揃ってしまえばね
なっちゃうわけですよ
妄想分裂ポジションに足を踏み込むわけですよね
そして怒りに我を忘れて
つまり赤ちゃんには自分がないように
私たちも自分というものがない状態になっちゃうわけですよね
これがですね
私が思うに何歳から発達のフェーズっていう発想と相入れない面があると思うんですよね
孔子の歌にあるじゃないですか歌なのかな
三重にして立つみたいな四重にして惑わず
ああいう風にならないってことなんですよ我々は
精神的に成熟していく
どんどん成熟していくっていうすごい人もいるのかもしれないけど
私が見たところですね
やっぱりなかなかこう
妄想分裂ポジションに全く足を踏み込まずに
済むようになっているなっていう人は
自分より年上の人でも
よくできているような人でも
なかなかそういうわけにはいかない
私なんかは全然ダメで
しょっちゅう妄想分裂ポジションにはまり込むわけですよね
いろんなアドバイスを
ガラゾンさんとかの人側に向かって
他の人に向かって言ってるのを聞いたり
今日のグッドバイオスとかを毎日読んでてもですね
毎日のように妄想分裂ポジションに突入して
我を忘れるわけですよ
少なくとも私のこの感じ
入っても出るんですよ
割とすぐね
それはグッドバイオスというものに
触れてるっていうのもおっきいんだけど
妄想分裂ポジションからパッと出て
すぐに臆病ポジションに移ったりするんですよね
この感じの方がはるかにしっくりくるんですよ
10代の俺は未熟だったけど
始終にして不悪だぜって感じは
全くしないんですね
ほとんど変わってないんじゃないかと
もちろん感情をコントロールするのが上手になったとか
12:00
こうやって喋っていてもですね
10代の頃に比べれば
それは落ち着いて喋れるようになったとか
いうことはあるんだけれども
なんか10代にして20代にして
かんたらかんたらっていうほど
簡単なもんだと思えないんですよね
多分僕なんかは60になっても40になっても
妄想分裂ポジションにポンポンポンポン入ることになるだろうな
というそんな予感の方が強いんです
自我心理学というものに立ちついて
私は対象関係論ほどは悲規じゃないから
偏見があるとは思います
しかも今はまた進んできているし
両方の融合みたいなのもあるんだけれども
私がなかなかねやっぱり受け入れられないのは
アンナフロイトにしてもエリクソンにしてもね
ステップが上がっていくフェーズが上がっていく
段階が進んでいく
発達段階が成熟していくって
発想にはなんか乗れないんですよね
そうはならないだろうって感じを持っちゃうわけです
今日も今日ですね
まさに今日いろんなお話を聞いていたんですけど
怒りに我を忘れるってことは起こるんですよね
普通に我々は別に病気でなくても
その人が未熟でなくても
私なんかは全くそうだろうなって思うんですよ
そして大事なのはですね
この妄想分裂ポジションというものに入るとき
つまりドイさんの言うところの
自分がないといった状態は
ドイさんがまさにこう
この指摘が非常に大事だと思うんですけど
後からでないと
そういう状態に気づくのは難しいんですね
つまりあの時自分がなかったっていう
言い方はできるんだけど
自分がなくなりかけてる時には
自分がなくなりかけてるとは
あんまり思えないんですよね
よくだからこういう表現取るじゃないですか
あんな風に言われたらね
誰だって腹が立つでしょうと
倉園さんなんかは
さぞこのセリフをたくさん投げかけられてると思うんですね
僕はこのセリフが出た時に
これだよっていつも思っちゃうわけですね
誰だって
誰だって我を忘れるでしょうっていう言い方なんですよ
これ非常に僕は大事だと思うんですよね
何かこれを言われると批判されてるとか
その人の未熟さを指摘されてるように思われるかもしれませんが
さっきも言いました
誰だってそれこそ妄想分裂ポジションに足踏み込むんですよ
僕なんか毎日だというのは
これを非難する言われは
これで非難される言われはないと思うんですね
人間の心の構造ってのは
こういう風にできてるぐらいに思っておいて
差し支えないと思うんです
ちょっとこれねgood vibesでいう
怒りを一日中手放すみたいな
方針というかワークと相入れないようにも思われるんですけれども
思われるかもしれないんですけどね
good vibesご存知の方は
これ聞いてる方にも多いと思いますけどね
私はその方針を立てるということと
15:01
それが実践できるということは
合わせて一本だってよく思ってます
これは散々ポッドキャストでも言ってる通り
例えばフロイトは
やっちゃいけないことをいっぱいやってるんですよ
しかもそれやっちゃいけないよって彼は書いてるんですね
僕は最近
だから甘くなっていいって話じゃないんだけど
ミニコットも結構話をリッスンするんだと
話をさせておいて
転移解釈というか
解釈をすることしかやっちゃいけないんだという風に
結構よく書いて
そういうことを精神物理の人はみんな書きますけどね
結構とうとうと自節を語ったりしてるっていう話は読むんですよね
僕はそういうもんだと思うんですよ
そこは今締めと実践が今締め通りにはならないことと
合わせてワンセットだろうと思うんですね
どっちかがないっていうのはまずいと思うけれども
じゃあ書いた通りにできるかというと
なかなかそうはいかないんじゃないかと思うんですよね
だから私も朝1に
今日は1回も怒らないぞと
心の中でムッともしないぞと決意して
1日50回くらいは怒ってしまうと
なんなら時々怒鳴り出すっていうのは
でも合わせてセットなんですよね
合わせて私なんですよ
そういう志を立てるけれども
だから破れてしまってもいいってわけじゃないんだけど
でも破れてしまったらしょうがないっていう
そういう感じが割と現実的だし大事かなと思っています
この妄想分裂ポジションに入った時
我々は必ずこう感じるんですよね
本当に全く怒りたくはないんだと
我を私に失いたいと思う人って誰もいないんですよ
なぜなら我を失わずにいる時って
最初に言ったとおり
お母さんの手の中で静かにすやすやしている赤ちゃん
あれやめてギャンナキしたいと思う赤ちゃんなんていないじゃないですか
一人もいないと思うんですよね
ギャンナキはさせられるわけじゃないんだけど
お母さんも絶対寝た方法したくないですからね
せっかく寝たのにね
だけど赤ちゃんは環境のせいで目が覚めたと
環境のせいで自分は泣いてるんだと思い込んで
この状況ってのは
すっごく我々が我を忘れて腹を立てる時そっくりじゃないですか
赤ちゃんは間違いなく自分の心の中で起こったこと
心はまだないと思うんだけど
心未満の中で起きた何か大変な事態に
すっかり怯え果てて悲鳴を上げているんだけど
現実には何も起きちゃいないんですよ
おそらくね
何も起きないように何も起きないように
親は気を使ってますからね
多分僕らもそれに近い
というのを倉園さんはよくおっしゃってるんだと思うんですよね
現実にそれほどのことは何も起きてない
我が身を害するようなことは一つも起きてないんだけど
怒ってる方はそうは決して思わない
18:00
こんなことが起きたらもう誰だって
それこそそんなに悟り切ったようなことを言ってる
倉園さんだって激怒するに決まってるじゃないですか
って言うはずなんですよ
これが妄想分裂ポジションであり
甘えというものが適切に満たされていない状態であり
自分がないといった状態なわけですよ
後になると不思議なことが多いんですよね
私なんかからするとそうです
後になるとですね
あの時自分が亡くなってたなと
なんでなんだろうと
なぜあれ式のことでね
妄想分裂ポジションなんぞに突っ込んで
自分というものがいなくなっちゃうんだろうと
自分がいなくなるっていうのはね
要するに丸々せざるを得ないって言ってる状態ですよね
だって丸々せざるを得ないっていうのは反応でしょう
何か出来事が起きました
誰だってするっていう
誰だってすることを自分もしちゃいましたって時には
もう自分いらないじゃないですか
私だったらこうするっていうのはないわけですよね
誰だって腹を立てるから
誰だってと同じように
他のみんなと同じように腹を立てちゃいました
これも自分がないんですよね
例えば怒りだけじゃないですよね
例えば私が好きなと言ってしまっても
差し支えないと思うんですけど
ファン座とか乱すわけじゃないですか
もう誰だって興奮するよねって言い出した時には
私がないわけですよ
私じゃなくてもいいわけだ
性的なことって都画高だから
フロイトはすごくここも強調したんだと思うんですよね
Sが動き出してしまって
S任せになっちゃうわけですよね
S任せになるからって言ってあれですよ
いきなり外に行って異性に抱きつくとかは僕はしないんで
そこはコントロールはされているんだけれども
極めて一般的な欲求通りに反応しちゃってるわけですよね
身体的感情的情緒的には
誰だってこれが好きでしょみたいなものが
向こう様もよくわかってるから
いかにも誰だって好きそうなきれいな女の人が
わーっと並んでると
誰だって反応するように自分も反応しちゃうとき
自分はいらないわけですよ
だから自分がないわけですね
これを例えばタスク管理中には
少し警戒しましょうねというぐらいのことは言います
だって我を失ってしまって
タスク管理ができるわけがないですからね
だけれどもこれはセルフコントロールとは全然違うんですよ
一旦我を失ってしまって
自分というものがない状態に入って
自分をコントロールできるわけがないじゃないですか
そして私たちは非常にしばしば自分を見失うと
妄想分裂ポジションに入ると
なんならばこれをもう少し科学的に見たいということであればですね
おそらく自分というものは前頭葉をなくしては
人間の自分というのは成立しないんですよ
21:02
扁桃体主導に近い状態になったり
大の平円形と呼ばれている部分が
極めてそこに強い神経の流れが進行してしまえばですね
我を忘れるしかないんですよ
我などというものは
前頭葉と大の神秘室が機能してなければ
維持できない何かなんですね
でそれが主導権を失うから
自分というものがなくなる
自分というものがなくなったときに
倉賀野さんはGood Vibesの中で時々警告を出すけれども
実際には自分というものがなくなって
やっちゃいけないことは一つしかないんですね
攻撃なんですよ
他のことはよくはないのかもしれないけど
他のことはとりあえずいいことにしようじゃないか
みたいなニュアンスは僕の中には感じられます
ただ攻撃だけは良くないと
理由は勝ったんで
これで攻撃を始めてしまうと
自分がなくなってますからね
後々非常に大変な目に自分があうんですよ
必ずね
だから恐れと不安に主導権を渡して
自分を見失って攻撃に突っ走っちゃいけないわけですよ
そのためにも一番避けておきたいのが
恐れと不安というものそのものなんですね
でも我々はそれを抱いてしまうと
そして必ずこのセリフが出ます
自分を止めることができないと
ハンザー見てるときにはよくわかりますよ
自分を止められることができるぐらいならば
とっくにそうしてますよね
ちなみに自分を止めることができないのは当然で
なぜならそのとき自分はないからです
ないものは止めようがないですよね
妄想分裂ポジションに入れば
自分は止めようがなくなり
なんだかよくわからないものになんでもいいんですよ
それがなんであれですね
攻撃対象なのか何なのかわかんないけど
気がつくと3時間も4時間も恐れに熱中していたと
その後我に返るわけです
扁桃体というのは永遠に動き続けられるものではないですから
ここをみんな心配するんだけどね
これは無理なんですよね
扁桃体というのは永遠に働き続けられるようなものではない
大きな機関じゃないです
妄想分裂ポジションはつらいので
我々はいずれ必ず
メラニー・クラインが言ったところの
よく打つポジションに戻ってくる
で戻ってきたときに
自分がなかったということに
前の自分を振り返ればですよ
振り返れば気づくんですよ
とドイ・タケオさんが言ったんですね
というか言ったのかな
でもこういうような文脈のことを書いているし
私YouTubeで見た限りこういう風にやっぱり読めます
YouTubeで見られるんですよ
ドイさんの15分ぐらいのインタビューだった
甘えというもの
自分というものだね
自分というものを見戻ったとき
私があるとは我々は言わないですよね決して
24:01
私がなかったと
しかもそれは過去を振り返ったときに
そういう表現を取るわけです
メラニ・クライン流に言うと
欲打つポジションに戻って
私は以前はちょっと前までは
妄想分裂ポジションにいたなということが認識できる
この認識の違いが大きい
妄想分裂ポジションにいるときには
もう他のポジションがあるような意識というのは
かなりすっとんでます自分がないんで
あくまでもやっぱり欲打つポジションに戻ってきたときに
さっきまではここにいなかったということに
不意に気付くんですよ
自分がなかったなと
我を忘れていたと気付く
おかげで3時間も経っている
ここでなぜ欲打つポジションなどと言うのかということですよね
ここが大きな問題です
どうして欲打つポジションなんて言わなきゃいけないのか
このポジションには常に欲打つが付きまとっているのかというと
そういうことよりも
正確な定義からずれるかもしれませんが
僕の感じではですね
戻ってきたときに人はここで
罪悪感を抱きやすいんですね
そういうポジションなんですよ
そういうポジションじゃないか
そういういきさつがありますよね
プロセス上そうなっている
例えば一番わかりやすいのはやっぱり
怒りに身を任せて
我を忘れて攻撃しまくったが
やりすぎたなって思ったときに
欲打つポジションに戻ってきているんですよ
あの時は私は自分を見失っていた
つまり自分がなかった
自分というものを取り戻して
見た今となっては
あれはやりすぎたと考える
そこでそういう考える能力が戻ってきますからね
そこで罪悪感を抱いてしまう
そして打つとしてしまう
これが欲打つポジションのネーミングの由来ですね
いいお母さんというものに
ふらふらと誘惑するお母さん
ギャンブルぐらいに
すごい優しくしてくれる
猫なで声でみたいな感じで
自分の面倒を見てくれるって言うから
ふらふらと言ったら
急にそのお母さんがいなくなるとか
寝ちゃうとかスマホ乱すとか
なんでもいいんですよ
悪いお母さんになった
そこでものすごく自分は怒ったら
じゃあ勝手に寝なさいとか言われたと
うつうつとします
ギャンブルもそうですよね
こんなことやってないで
わかんないですけどね
これでちょっと人儲けしようと思って
株をずっと買ってたんだけども
娯楽したと
株が悪いわけじゃないですからね
そういうことが起こるのが株でしょ
何やってたんだろうと思って
うつうつとすると
この何やってたんだろうと思うっていうのは
27:00
過去を10回して
過去を振り返っていて
そして
あの時は自分を見失っていた
って感じを持つんですよ
人を攻撃した時に一番怒りますよね
やり過ぎたんじゃないか
言い過ぎたって言うじゃないですか
言い過ぎました
申し訳ないと思って
事故嫌悪です
この場合事故を嫌悪してますよね
だけどその
嫌悪されてる事故っていうのは
実は見失われていた事故なんですよ
過去の話
時々我々は罪悪感を抱く
事が多い
罪悪感を抱くと人は欲打つ状態に入りますから
自分を攻め始めて
自分を攻めるというのは欲打つ状態ですからね
欲打つ状態になります
だから欲打つポジション
で、倉野さんがよくおっしゃってるのは
この欲打つポジションに戻ってきて
上で
罪悪感を持つのをやめましょう
という話なんですよ
そうしたら平安になれる
ここで皆さんが
負けにいかないじゃないですか
という話をしだすと何が起こるかというと
自分が取り戻せないんですよ
つまり
自分がない状態が継続されちゃうんですね
せっかく自分というものが
取り戻せるポジション
欲打つポジションに戻ってきているのに
依然としてそこでは
自分がないんですよ
ギリギリそういうなんかを
私には感じられるんですよね
自分の空白が
依然として続いている
自分がなかったということは
気付けるようになった
だけども
依然として自分というものが取り戻せていない
なぜならば自分は
罪にまみれているから
このようなことをやっていると
すぐに
たちまち妄想分裂ポジションに
逆戻りしちゃうんですね
つまり
ここで頑張る必要があるわけです
欲打つポジションに
戻ってきたら
我にはっと返った
その瞬間は
罪悪感というもので
自分を責めやすい状態に
現実がセットされているはずなんですよ
ここで再び
いやー本当に自分だめだわ
と思って自分を責め始めると
それはあまりにも辛いことになって
ほぼ確実に
再び妄想分裂ポジションに
舞い戻ってしまうんですね
これをぐるぐる繰り返すことが
神経症なんだと
大悪として
思うんですよ
いつになっても甘えられない
妄想分裂ポジションにいるとき
私たちはうまく甘えられないか
間違った相手に
甘えようとしているわけです
私たち甘える分には
いいんだけど
全く甘えるのを筋が違っている人に
甘え始めると
そういうことをやると相手はうまく甘えさせることが
できないので
母子関係において子供が
母親じゃないところに行って
大泣きしているような感じなんですよね
この状態が妄想分裂ポジション
では一番よくあるわけです
30:01
母親じゃないからという理由で
母親扱いしている相手を
めちゃくちゃ攻撃し
戻ってきて俺何やってたんだろう
と思って罪悪感を持つと
罪悪感を持つと
せっかく欲打つポジション
つまり甘えられるべき相手に
甘えるという状態なんですよね
それは
自分がようやく理解できているので
自分が甘えられるべき相手に
甘えればいいわけなんだけど
罪悪感を持ってしまうから
私なんかが人に甘えてはいけないんだと
私は一人だけで
頑張らなきゃいけないんだという気持ちになる
これが非常に欲打つ的な
気持ちなわけです
非常に世の中から孤立していて
しかも自体は決して良くなっていない
自分をみんなが攻めている感じがする
この辺からもう
妄想分裂ポジションに戻ってきてますけどね
こういう状態に陥らないためにも
せっかく
欲打つポジションに戻ってきたら
自分を取り戻さなければいけないわけです
そのためにも
適切な相手に甘える
ということが
必要なわけですよ
だからこそ憎しんとか
家族といった人を
大事にしないといけないわけですね
つまりそれらの人は
やむを得なければ
それらの人が頼りにならないっていうならば
存在しないというならば
カウンセラーというのがそのためにいるわけですね
ここで
人に甘えてはいけないんだと
思うってのは
おそらく罪悪感が
非常に強いんだと思います
そうするとでも決して良いことは起きないんですよ
私たちは
つまりそれが土井さんが言ったことなんだけど
人に甘えずには生きてはいけない
あるいは別の言い方をするならば
我々はナルシズムから
完全に解放されることはない
そういう存在なので
対象関係抜きに
生きるということは不可能な存在なので
生まれた時から
既に甘えてきたから
生きてきているわけですからね
そもそもだって
人もでしょう
母親の栄養を勝手に
飲むっていうか
補給されるという形で生まれてきたわけで
その
初めの一歩からして
自立と何の関係もないわけですよ
成人になったら
自立でしょうって言われるかもしれませんけれども
そこに
見えにくいからくりがあるわけですね
特に情緒的には
これは戸畑海人さんが強調されている
部分ですけど特に情緒的には
人に甘えずに我々は
生きている部分ってほとんどない
わけですよ
これも自分がない時には
気づきにくいんです
自分を取り戻した時にむしろ初めて
気づくことなんですね
自分を甘えていたんだと
しかもそれに気づいていなかったんだと
だから自分がなかったんだと
そういうことに気づくわけですよ
だって考えてみれば
例えば上司なり
上司じゃなくてもいいんだけど
会社の上司なりに怒られましたと
上司って赤の他人じゃないですか
33:01
何が言いたいかと言いますと
赤の他人に
怒られる
赤の他人が自分を怒る
赤の他人が自分を怒るということが
甘えがたいと感じるのって
奇妙な話じゃないですか
それじゃまるで赤の他人というのを
自分がコントロールできる存在だって
言ってるようなものですよね
そんな人はいないじゃないですか
赤の他人って何を言い出してもおかしくはないわけですよ
他人なんだから
でも赤の他人が
自分をバッシングする
罵るということに深く傷つく
ということは
どこかでその赤の他人が
家族だと思ってるようなところがあるわけですよね
つまりどこかでその赤の他人に
甘えていたわけなんだけど
ここにズレがあるわけです
私は赤の他人に
甘えちゃいけないって言ってるわけではないんですよ
そういうことはしますが
もし現実というものが
適切に判断されているならば
赤の他人よりは
甘えやすい人がいるんじゃないでしょうかと
そういうことなんですよ
おそらく赤の他人よりは
甘えやすい人がいるようなと
気づけるときに
私たちは欲打つポジションに
いるはずなんです
自分というものがあるはずなんですよ
自分があるってのはどういうことかというと
これはもう完全に
土井さんの文脈ですけれども
甘えられる自分というものを
意識でき
従って
自らの分甘えるという量は
どの程度であって
自らの現実の領域において
甘えられる相手が
誰であるかを判断できる
という意味ですね
これが私は自分があるという状態
なんだろうと思います
だからツイッターで誰かが
私の悪評を言ってるとかに
深く傷つくっていうのは
甘えてる相手が完全に
混乱しているわけです
ツイッターの誰もが
私に好意的であって叱るべきだって
我々は頭で考えたら
それはおかしいって気づけるじゃないですか
それはどう考えても
期待する相手の絵の
期待度からしても
期待する相手の人選からしても
間違っているというか
不適当な
現実見当になってしまっていますよね
そういうふうに現実というものが
作用しているとか
そういうふうに現実はなっているはずだって思うとすれば
よっぽどそれは何かが
情緒的な混乱が
そこに持ち込まれていると思うんですね
全てSNSでは
私の悪評が立ってはならないとか
上司はいつもいつも機嫌よく
私に接してくれないと困るのか
そういうふうに頭では
考えていないはずなんですね
だから情緒上
それが起きてしまうからこそ
妄想ポジションなんですよ
あえて言ってしまえば妄想なんですね
それは
36:00
この妄想ポジションにいる間
私たちは自分というものが
分かっていないので
しょうがないよねということなんです
しょうがないんですよ
上司お母さんだと思ってしまう
おじいさんでもね
上司お母さんだと情緒では混乱している
だからもっと優しくしてくれるはずだと思って
期待している
それが私がたまたまやった
2つや3つのミスで
なんか激しく罵りだしたと
こんなことをするのは
お母さんじゃない
ですけれども
これをお母さんだと思ってしまったので
これでものすごく
傷つくんですよね
こういう混乱がそこに持ち込まれた
ということなんです
そして冒頭言った通り
私もこれを1日100回ぐらいは
やっちゃうんですよ
大脳は確かに現実というものを
もっとよく見られるんだけど
偏頭体とか偏遠鏡は
現実というのはそんなによく分かっているわけ
じゃないので
こういう混乱は少なくとも私の考えでは
やむを得ない面があります
ただ
よく打つポジションに戻ったときに
例えばその上司に
攻撃しちゃったとか
あるいは上司に
適当な言い訳が言えなかった自分などを
責めちゃダメなんですよ
そんなことはできやしないんです
自分がない状態で
そんなにうまいことはできない
ここのところドイタキノさんは
自分の本の中で
ものすごく正直に
かなりセキュララに書いていて
私あれは読んでてものすごい興奮したんですよ
非常に読み応えがある
本当は私はこのとき
このようにクライアントに
言うべきなのに不適切に
こんなことを言ってしまったというのが
次から次へと出てくるんですね
単に正直なだけじゃないなって思うんですよ
こういうことを
人はそのときには気づけないよってことを
彼は非常によく伝えているんだと思うんですね
ああいうのを書くのは勇気がいりますよ
いやあんた
カウンセラーのくせに
こんなに
不適切な
カウンセリングを
現場でほんとにしょっちゅうしていて
取り返しのつかないことになったらどうするんですか
って言われたりするっていうのを恐れていたら
絶対書けない
けれども彼は書くんですよね
このように言ったほうが本当はよかった
こういうふうに言うことができたのに
私は全く間違ったことを言っちゃったみたいなことを
バンバンバンそのセリフも含めて
書くんですよね
いやこれが全く正しいと思うんですよ
こうじゃなきゃいけない
とすら思うんですよね
これが私は世の中で隠されていて
隠すほうがいいとすら
思っている人がいる
大きな大きな間違いだと思うんですよ
これは後からじゃなきゃ
わからないっていうことが大事なんですよね
私たちはしょっちゅう
頻繁に妄想分裂ポジションに入り
しかもそういう状態で
仕事までする
でこれをたまたま人が
認めたり指摘されたりしたときに
一斉にその人を
リンチにかけ始めるようなことをやるんですよ
だからそのリンチに
39:00
かけられないことが仕事で
やる上で優れた人だとか
スマートな人間だ
っていうふうな誤解を
みんなでお互い共有させ合ってるんですね
私はあれでも
土井さんのを見ているとやっぱり
そういうことを隠したり
それであまつさえですね
リンチにかけたり
リンチにかけられないことが仕事が
できるってことなんだって言ってる間は
大した仕事ができるとは
とても思えないですやっぱり
土井さんの本っていうのは
最新分析界でも非常に高く評価されてるのは
海外でも評価されてるのは
こういうことが
書かれているからなんだと
そういうことが書けるような人だから
なんだと思うんですよね失敗例の
オンパレードみたいに見えますよはっきり言って
だけれどもあれが正解なんだと
特にそういう仕事では
あると思うんですけどね
だから浴室ポジションに戻ったときに
罪悪感を抱くようでは
ダメなんですよ
えっと抱いちゃいますよね
どうしても
下級的速やかに
っていうのはこういう時に言いたいんですけどね
as soon as possible で
この罪悪感を捨てる
そうすることによって自分を取り戻すことが
できてしかも
そうすればそうするほど
現実には他人に迷惑をかけずに
済むんですよ
我を忘れて
罪悪感というものにまみれながら
不適切な相手に
全く自分ではそれと気づかずに
甘えている間に
甘えているにもかかわらず
人に迷惑をかけることを恐れる
なんていうのは
ものすごくずれていると言えなくはない
ですねただこのことを責めても
ダメなんですこのことを責めるというのは
全く意味がないと思うんですね
だからあいつは旗迷惑なやつだ
っていう言葉ほど無意味な言葉は
ないと思うんですよ
この言葉が出ているときはすでに
その人は自分を見失っているんですね
間違いなく
不適切な人に甘えていますから
多分こういうことを
言っていい相手ってのは
言っていい相手はいないんだけどあえて言うならば
肉親家家族に限ると思います
肉親家家族というのは
それぐらい特別な存在なんですね
クラゾーさんで
言うところの一つ意識が
ほぼ確実に
担保されてなければいけない
相手だと思いますね
そして一番
理想的なのはですね
その欲打つポジションに戻った私と
言った状態
欲打つポジションに戻った状態で
人を甘えさせる
という自分
それであることなんですこれを
実践する具体例を挙げるとほとんど
全ての人がなんで私がそんなこと
しなきゃいけないんだっておっしゃると
思いますなんでしなきゃいけないかは
簡単なんですよ
自分で自分を甘えさせられる自分
っていうものをここに持つためなんですよ
これが絶対最強です
肉親家家族に
甘えるというのも
結構だし場合によっては
甘えられるはずのない
相手に甘えるのでも構わない
42:00
ものすごく運が良ければ
その相手はたまたまクラゾーの
慶三さんだったりするから
その筋では全くないけど甘えさせて
くれますただ世の中
一般でこの確率は低いので
低くはないんですけどね
低くはないんだけどそうでない
可能性は結構あるので
下手に甘える相手に間違うと
リジェクトされて
深く傷つきます
その時も妄想分裂ポジションにおける
傷つきってものを我々は
体験しなければならなくなる
でもいずれ必ず欲ずポジションに
戻ってくることはできるはずなんですよ
神経小水準でもできるはずです
その欲ずポジションに戻ってきた時に
下級的速やかに
罪悪感を捨てる
それができれば
何を自分がしでかそうと
その修復をする自分
は必ず現れてくれるはずで
これがグッドバイブスで言う
現実ならなんとかなる
だから
何かが起きるのを
未然に防ぐって発想は
概ねナンセンスなんですよ
起きてから対処するっていう方が
おそらく現実的だし
理想的でもあると
私は今は思いますね
そうして戻ってきた時に
罪悪感を持たずに
自分で自分の
なんていうんですかね
不始末みたいなものかな
手当てするわけです
この時でさえ理不尽な感じすると思うんですよ
さっきまで自分がしでかしたことだとは言え
さっきまでの自分って
自分みたいに感じられるはずですからね
放送分裂ポジションでしでかした
私などというのは私がいないわけだから
現在の私から
見るとすこぼる
不適な感じがすると思います
だから自分で自分の不始末を
なんとかするというのを
罪悪感を持たずにやればですね
その段階ですでに
人を甘えさせる自分っていうのと
イコールになるんですよ
これだけが私は平安というもの
心の平安を保てる
私なんだと思うんですね
私は理想を言えば
1日の間
一歩たりともここから動きたくないので
これが一番いいのは
間違いないので
ずっとここにいたいんですよ
だから未来への
何かトラブルを
未然に防ぐだろう
配慮するだろうと言ったことに手を出したくはないし
その他
何かに抗議するとか
批判精神を持つとか
そういうことも一切
これはもう初歩的な話だなと
私は思います
一切したくはない
基本ここから動きたくないんだけど
それでも奥さんとの関係で
ここから足を頻繁に踏み外しては
戻って
さっき一瞬私というものがいなかった
っていうのを思うわけです
反省はしないけど
その修復をしては
人を甘えさせるということは
間違いなく
自分を甘えさせる自分と
45:00
何にも変わらない
これができるようにならないと
どうしても人に甘えるということを
偶然の手に
委ねなければならなくなります
これがやっぱり
僕らを一番
足を踏み外させるポイントなんですよね
倉園さんの言葉を
使うならば
与えるターンというものを見失うんですよ
得るターンというものに
救急としてしまう
これはいけないことではないんですよ
何度もちょっとくどいようですけれども
これ自体が悪いことではないんですよ
本来筋で
その筋ではない人に甘えるというのも
それによって離塾とされるというのも
後になって
罪悪感を抱くようなことをしでかすのも
全部オッケーなんですよ
オッケーなんだけど
それをやればやるほどですね
後々大変なことが待ってるんですよ
多くの場合
それをやるときには
自分というものを見失いやすい状態にあるので
余計厄介なんですよ
見失わずに
自分でやらなければいけないことを
大量に作り出しておきながら
見失いやすい自分という状態に
足を突っ込んでしまう
というのは
いろんな意味で
面倒くさいわけです
ただこれ本当は面倒くさがる必要はないし
面倒くさがらないほうがいいし
いずれにしても
罪悪感を持たない
欲打つポジションというのが
私は最終ゴールであると思うので
どっちであっても
本当のことを言えば
同じなんだとは思うんですけれども
でもまあ
苦しいときは特にですね
今日そういうお話を
グッドバイブスファクトリーというところで
月に1回の
グループセッションで
ほとんど全部
倉園さんがお答えになるんだけども
割と繰り返し出たので
そんなことを
強く思ったわけです
どうしても自分が止められない
これは怒るにしても
漫画読むにしても
なんでもいいんですよ
私で言えばファンズに行くかな
なんでもいいんですよ本当に
これはですね極端に言うと
奥さんと怒鳴り合うとかでもいいんですよ
なんでもいいんです
そういうことをしちゃうというのは
止められないのは
そのときいなくなるからです
いなくなれば止める主体がないんだから
止められないですよね
そのとき
私は誰でも
同じようなことをやるであろうことをやる
単なる
反応する
生物になってしまうんですよ
さっき途中
言った通りこれ見ようしにですね
男だったらみんなこれで興奮するだろう
っていうのを見せつけられれば
この1個の物体は
反応するわけです
そして後々になって言う言葉は
男なら誰だって
っていう言葉になっちゃうわけですよ
つまり自分がないわけです
そして最後にですけれども
これは
フロイトの超有名な言葉ですね
48:00
Sありしところに
エゴを置くようにせよってやつですね
つまり
誰でもが同じように
やるのがSじゃないですか
本能ですから
自分が気がつかないところで
やってしまうというのをやめて
そこに自我を置くように
しなさいというのは
つまりこの止まらない私
妄想分裂ポジションの私
甘えることにうまくできていない
私という
つまり私のいない私
Sって私じゃないからね
私がいない私っていうことを
無意識にやってしまう
そこを捕まえて
そこを自我がやるようにする
そうしたら
その時にはもう
Sが無意識に活動して
再現なく怒鳴るとか
再現なくファン座見ちゃうとか
そういうことは起こらないはずだと
もしそれが
その後直後で
罪悪感が上がってきそうになったら
こういうことを思い出してほしいですね
Sの代表は超自我である
って話ですね
つまりそこで超自我が今度は
出張ってくるとですね
自分が見れるしかなくなるわけですよね
私はこのような
一連の
話がつまり精神分析を
受けるってことで得られるんだろうなと
要するにやろうとしている
ことはですね
中心自我と言ってもいいし
環境としての母親に抱えられている
私と言ってもいいし
平安な私と言ってもいいし
甘えが満たされている私と言ってもいいし
自分があるという状態に
気づくといったことなんですね
自分があるという状態に気づく
ってのは何度も何度も
言ってるようですけれども
つまり満たされている
甘えというものがあるってことです
ってことは誰か
適切な存在に甘えてる
って意味じゃないですか
満たされてるんだから
だから甘えと自分があるってのはセットだ
ってことなんですね
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