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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は11月の3日、文化の日ってやつですね。20時20分です。
すっかりこのやり方が定着しましたね。週に3回で、2回で収録するといったやり方です。
これだとね、多分音声はだいぶいいんだと思います。
聞き取りにくいというご意見がめっきりなくなったので、多分そうなんだろうなと。
CMは、11月の私と60分対話を普通にスタートさせていて、1枠早くも埋めていただいてありがとうございます。
残り5枠となっていますので、11月の検討されている方は、お早めにってことはないと思うんだけど、
ようやくですね、これのやり方が定着してきて、月に1回の無料のセミナーセットは月末の方にセットしました。
中旬にこれをやっちゃうと、中旬に対談をするメリットが一つ薄くなる感じがするじゃないですか。
だからそういうことのないように極力したという形ですね。
よろしければご参加というか、お申し込みいただければと思います。
働く人の真相心理の方も、こじんまりとではありますけれども、
これは結構私の一番講和となる感じで、
今日ですね、Jマスザキさんとやっている第一期の100日チャレンジが卒業式となりまして、
つまり100日が経過したわけですが、
そこでもですね、自分が喋っていることはやっぱり他のタスクシュートを使っている方とは、
どうしても基本方針においての違いがあるように思えるだろうなと思うんですね。
でも私思うにですね、具体的にやることには何ら違いはないはずなんですよ。
方針が少々違ってもね、
方針というものがそのままは通らないのがタスクシュートたるゆえんですから。
方針というものを自分の主体性でも方針でも構わないんですけど、
それがそのまま記録に残るなんてことは決してない。
もしそれができるぐらいなら、タスクシュートである必要は全くないわけですよ。
これは何度も何度も言っていることですけど、
もし自分の方針通りに生きられるのであれば、
そもそもタスク管理ってほとんどいらないじゃないですか。
ここを逆だというふうに思われている人が非常に多いんですけど、
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だからこそタスクシュートなんですけどね。
もし自分の主体考えている通りに生きられるんだったら、
考えていることを書いてその通りに生きればそれでいいわけじゃないですか。
それだったらタスクシュートでも何でもないじゃないですか。
理想の人生プランというものをそれこそ分単位で書いて、
その通りやればいいわけですよ。できると思えるやり方で。
それが決してそうはいかないからこそ、むしろタスクシュートなんですよ。
だから私が思うに、どれほどそこに書いてあることが理想的であっても、
決して実現しない理想は多分理想ではないのだから、
そこに書いてある通りには生きられないというのがむしろデフォルトなんですよね。
もし本当にそんなことができるんだったらみんなそうしていると思いますよ。
ということで、今日はそんな話もしてきたんですけれども、
そこは逆なんだけれども、ここを逆にまず考えましょうって言ってもしょうがなくて、
ここを逆に考えましょうなどと言ってみても、
誰もそこを逆に考えたりはできないんですよね。
だからこそタスクシュートを使ってみると、
使っていくうちに少なくとも一つだけは分かるんですよ。
書いた通りには生きられないんだということが分かるんですね。
そして次が大事ですね。
書いた通りに生きられないのには十分に納得のいく理由があるんだということですよね。
例えば非常に単純なところで、
今日の午後からブログを書くんですと書いておいたんだけど、
大地震が来て書けませんでした。
これ極めて合理的な理由じゃないですか。
そういうとっても合理的な理由が常にそこにはあるんですよね。
何かが起こるわけです。
そして起きることを事前に全部予測することは絶対できないわけだから、
つまり書いた通りに起きるわけにはいかないんですよね。
これが分かれば、もうある意味十分なんですよ。
これが分かれば、気になっていることを書き出して、
それを粛々と実行しましょうというのは無理だということが分かるし、
紙の手帳を買ってきて、合理的な計画を立ててその通りにいきましょうというのも無理だということが分かるし、
ミッションを立てて、そこから目標に向かって逆算して、
その日にやるべきことをきっちりこなしていきましょうというのも無理だということが分かる。
そういう方法は取っていても、いくらそれを繰り返そうとしても、
実現することは絶対にないということが分かるわけですよ。
でも、これはみんなそうなんですね。
一郎だったらはできるとか、大谷翔平選手だったらできるとか、
藤井壮太さんならやれるとか、そういうことではないのです。
書いた通りに彼らが生きているから、彼らは勝ち組で、僕らが平凡なわけじゃないんですよ。
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誰も書いた通りには生きられないっていう、そういうスタートラインにおいては、みんな平等なんです。
ここから考えることを変えなければいけない。
ここで一生懸命書いた通りに生きられない自分にダメ出しをするということを練習続けていても、
しょうがないわけですよ。
って言うだけなんですけどね、私が言うことっていうのは。
今日はそれとはちょっと違った話、違う話なのかな。
似たような違う話ですね。
私たちって、最近倉園さんとですね、倉園さんもこの話題をポドキャストで出されてたんですけど、
グッドバイブスTVというものを倉園圭三さんと月に1回ですね、
グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティのために撮っております。
その番組の収録のために対談するんですけれども、
メインとして私がですね、グッドバイブス実践する上での数々の突き当たる困難というものを
倉園さんに投げかけて、それに答えていただくと。
答えていただく答えの中にグッドバイブスを実践する上で役に立つヒントが出てくるだろうという目論みでやっております。
それで、毎回思うことなんですけれども、やっぱり視覚というか盲点ってあるもんでして、
これほどグッドバイブスという考え方をベーシックに置いても、あるいは精神分析でも多くは同じようなことがあってですね、
置いてもですね、やっぱり基礎中の基礎なんじゃないのかということを自分は実践しているようでいて、見落として進んでいくってことは起こるんですよね。
これを最近ある方に視覚という風な表現をいただいたんだけど、言葉はなかなか鋭いけれど、視覚っていうのは良い言葉なんですよね。
すぐ目の前にあったはずなものに気づかないっていうね、これは非常に精神分析的ではありますね。
ちょっと前に盛んに話題にしていたねじ巻き鳥クロニクルでも、冒頭いきなりね、スパゲッティ茹でてる最中に電話かかってくるわけじゃないですか。
あの女性は誰なのかっていうのは、視覚になったというケースは多いと思うんですよ。
読者さんにとってはどうかな。私はある意味、ああいう本を読み慣れているということもあって、
彼女が誰なのかは即分かったんですけれども、主人公には分からないというのがここが大事なんですよ。
読者に仮にそれが分かったとしても、主人公には分からないだろうなと思えるってことがね、
そこがやっぱり村上春樹さんっていう作家の力量なんですね。
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主人公それ分かるでしょうっていう感じはしないんですよ。
でも、主人公は一体あれがなんで誰だかが分からないのっていう感じはするんですよね。
これってすごいことじゃないですか。小説家知ってて書いてるわけだから。
彼女が誰だかが主人公は多分分かんないだろうな、そこにリアリティがあるわけですよね。
だけど主人公は分かって当然だろうと後になれば思える。
これがやっぱりそういう小説において必要なところだと思うんですよ。
サスペンスとかでも同じですよね。
この犯人が誰なのかが分かんないけど、後になって見てみれば、
いや、分かって当然だったよねって思えるようじゃなければ困るじゃないですか。
そうじゃなければ面白い作品とは言えないですよね。
この辺の展開がきっちりあるんですよ。
視覚なんですよね、こういうのが。
まさに気づいて叱るべきものに気づくことができないと。
フロイトの書いたドラの少年、少年ドラも非常にそれを感じさせるじゃないですか。
ドラちゃんが、ドラちゃん言っちゃってますけど、訴えてることなんてありきたりですよね。
分かって当然のことだけど、明らかに周りの大人は分かってないですよね。
分かってる人もいたけどね。
でもああいうことって多分昔はもっともっと分かってなくて、
フロイトみたいなことって後から言われればホロンブスの卵なんですよ。
そんなのフロイトじゃなくたって考えつきそうなものだと思うかもしれないけど、
およそ数百年に渡り、人生相談の立てた人はいたと思うんですけど、
およそ数百年に渡り、磁石を頭に当ててみたりね。
磁気療法って言うんだけど。
もうそれこそ怪しげな療法ばっかりやってて、そんなの役に立つわけがないわけですよね。
ドラはお父さんの愛人を持ってることが許せない。
ましてお父さんが何を勘違いしたのか、
その愛人の夫を自分の愛人にあてがうかのような真似をするのはとんでもないと思う。
だから病気になってしまうわけですけれども、
こういうふうに病気になるというのが、
しかしそうあからさまにけびょうを使うのも変だし、
結局のところ、何で自分が病気になってるのかも分からないようにして病気を使って訴えてくるってことは
いかにもありそうなことだと。
現代人ならみんなわかると思うんですけれども、
当時はそういう話になった時にも頭に磁石を当てたりしていたわけですよ。
それを何年も何年もそんなことをやっていたわけですよね。
上流階級だからいいようなものの、そうでなければ冬に冷水を浴びせるとか、
もう死理滅裂だったりもするわけじゃないですか。
それをフロイトはまさにこうね、
転移とか性欲の抑圧とか、
近親相関願望とかそういったところから、
言葉はえぐいけれども結局そういうことが絡みに絡んでいて、
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そして割と常識的な人生相談をするわけですよ。
あなたはお父さんに愛人と別れてほしいって、
それをきっかけに病気になってみせている。
でもその病気を使ってお父さんが別れるということになったらきっといいことはないよっていうような、
非常にダイレクトに言っちゃうんですよね。
そこが非常に変なんですけれどもね。
つまりこんなにダイレクトに言ってはいけないんじゃないかってことですよ。
はい、今ちょっと舌で汚れたんで途切れてるんですけれども、
そのドラですよ。
だからドラのことをフロイトはですね、
非常に常識的なことを革命的に発見したんですね。
それを今日のキーワードにしたいんですよね。
視覚ということをキーワードにしたいわけです。
視覚ってのは死ぬに、角度の角ですけど、
不思議なことに見えないといったようなもので、
今回私がですね、
倉園さんとのTV収録のための対談でも
つくづく感じたところのもので、
ある意味では自分がずっとそれと一緒にいる、
ユングでいう影みたいなところもあるんですけれどもね。
ずっとそれを持ち合わせているにもかかわらず、
あたかもそれを持っていないことにしちゃう。
そんなようなもの。
そしてそれはとっても大事だったりする。
そういうようなものですよ。
例えばですね、タスクシュートなんかもそうなんだけど、
つくづく僕らはですね、
ある種の能力というのかな。
能力ですよね。
能力とは言えないようなものであってもそうなんだけど、
生身の力と言ったらいいのかな。
そういったものをえらく軽く扱うんですね。
あるいは軽蔑しているという言い方はこの場合合わないんだけれども、
蔑視している、そんな感じがするんですよ。
倉園さんと活動するようになって、
私がわりと強調するノープランっていうのも、
そういうニュアンスへの抵抗なんですけどね、ある種の。
ノープランとかインプロンプトゥっていったりしますかね。
即興性みたいなもの。
なぜこれが一般にあまり好かれないのかというと、
この逆のことが盛んに言われているからなんだろうと思うんですね。
タスクシュートの話も出しましたけれども、
今日100日チャレンジの卒業式だったから、
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やっぱりいつも思うのが習慣の力とかっていったもの、
あるいは毎日やるべき何かみたいな表現を聞いたときに、
今までもそうだったけれども、
今特にそうなのが即興でやろうとしている何かに対する妨害になってしまわないように
気をつけないといけないと思う。
例えば毎日のいい習慣としてのジョギングとかが、
わりと昔からジョギングという、なぜそれがいいのかもはっきりしないまま、
よく良いとされていた早起きとかもそうですけどね。
そういったものっていうのは、
今何かをしたいっていう気持ちを上回るのが良いことだって、
そういうふうに考えられているじゃないですか。
例えば今もっと寝ていたいという気持ちをシャットアウトして早く起きるのがいいんだと。
そういうこともあるでしょうけれども、
そうじゃない可能性っていうものはあんまり考慮されませんよね。
そして結局どっちが良かったのかを検証する手段はこの世の中にはありませんよ。
チェックリストだの、タスクリストだのっていうのも同じような意味合いを持ちやすいんですよ。
もちろん人を待たせていたり、約束の場所に約束の時刻に行かなければならないという場合にはやむを得ないんですが、
そうは言ってもですね、どうしてそうした方がいいのかという説明は意外と全く考慮されないんですね。
考慮したところで分かりませんからね。
分からないんだけれども、一歩間違うとそのように人が絡んでいる場合は、
グッドバイブスでもそっちを優先しましょうというのは優先しましょうっていうのもないんだけど、
約束は守りましょうっていうのもあるけれども、
これは世の中の常識的な振る舞いとしてもありますけれども、
自分との約束とか、毎日やっている良い習慣とかね、
勉強をするとか資格を取るとかそういった話にすべてにおいて、
なぜ良いのかは究極的には分からないにしても、
とにかく良いだろうということでそっちをやるってことになるんだけれども、
その時に必ず犠牲になるものがあるというのは留意しておく必要は、
私は今はすごくあると思うんですよ。
つまりその時にやりたいことをやらないという意志力を発揮しちゃうんですよ。
これは私意志力以外の何物でもないと思うし、
どちらを優先するのかっていう話になった時に、
その時その場でやりたいことの方は犠牲になっているっていうのを忘れてはいけないと思うんですね。
それを絶え間なく犠牲にしていくっていうのは、
どんな結果を招くのか、もちろん悪い結果を招くとは限りませんが、
良い結果に必ずなるという風に言うのも難しいんじゃないかという感じはするんですよね。
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100%自分がその場でやりたいことを犠牲にしていって、
その方が人生はうまくいくんですっていうのは、
保証できるような人がいるような話ではないんじゃないかという印象は持ちますよね。
それで、例えばなんですが、
生身の力って私は途中で言いましたけれども、
その時その時感じたこと、その時その時やりたいと思うことっていうのは、
愚かで他愛もないものだっていう風に僕らは思う癖があるんですよね。
どうしてなのかというと、
それこそこれは文化的な要請のせいだろうと思うんですけど、
例えばその全意識っていう言葉がありますよね。
フロイトの考え方にあるんですけど、
意識・無意識・潜在意識じゃないですよ。
意識・無意識の間にあるのは全意識なんですね。
思い出そうと思えば思い出せる記憶、
あるいは意識しようと思いさえすれば意識できる意識内容。
こういうのが私たちはこの番組でも何度も言ってますけれども、
ひどく過論じているわけですよ。
そうでなければタスクリストなんて作らないと思うんですよね。
何か我々は偶然うまくいったっていうのを
あまりよく思わないようにしたがるじゃないですか。
必然的にうまくいったっていう状態でなければいけないと思ってるんですよ。
これが先日倉園はさっき私が言った視覚になっていた話なんだけど、
例えば倉園さんに先日ですね、
鈴木さんはここまで生き延びてこられたじゃないですかっていうようなことを
これ何回か言われたことがあるんですね。
これが視覚になるんですよね。
私たちは今日まで生き延びてきたっていうことを過論じたがるんですよね、非常に。
もっと必然的なものでなければいけなかったって思いたいんですよ。
テストなんかそうじゃないですか。
本当にギリギリになって一生懸命勉強して慌ててやって何とか切り抜けました。
今度からはもっと余裕を持って勉強しようねとか、
今度からはもっと計画的に勉強しようねっていう話をしたがるじゃないですか。
この話がさっきのタスクシュートと絡んでるって分かりいただけます?
タスクシュートをそういうふうに計画とか余裕のために使うっていうのは僕はナンセンスだと思ってるわけです。
タスクシュートっていうのは、
今日まで何とかやってこられたっていうその記録になるはずだって話をさっきしたわけですよ。
事前に思い描いてた通りに自分を動かせるくらいならば、
あんなものはいらないと僕は思うんですよ。
それどころかどんなものもいらないと思うんですね。
だって自分を事前に思った通りに動かせるんだったらそうしたらいいじゃないですか。
それができないからこそ何かしらを利用しようとしているわけですよね。
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つまりそれはできないというのが前提なんですよ。
タスクシュートを使っていればそれができるようになるっていう話では
私は全然ないと思うんですね。
タスクシュートを使うことで逆にそんなことはできないんだということを明らかにするんですよ。
計画的に生きるだろう、余裕を持って勉強するだろうってことはできないんだと
いうことを明らかにするんですよ。
それが明らかに自分にとことん腹落ちするっていうのを最近の流行りの言葉で言うと、
とことん納得がいった時に、ではどういうふうにやるかを自分でクリエイトしていくっていうのがタスクシュートなんですね。
これが実はグッドバイオスでもよく倉園さんがおっしゃっている話とそう矛盾はないと思うんです。
私たちはそれぐらいのことはできるし、それぐらいのことしかできないんですよ。
これをよく諦めと軽く言われてしまうところに、私はそれを諦めというふうに解釈したい人に批判とか否定はしたくないんだけれども、
これは私たちが生きるということをかなり贅沢に捉えすぎている結末なんだろうなと思うんですね。
だって世の中は生きるので精一杯だという人の方が多いんですよ。
地球上には。多いどころか8割に近いレベルでそうなんじゃないかっていう感じが。
それでも今の時代ってのは相当生きるだけならばやや余裕が出てきたって人が相当増えてきたんですよ。
ギリギリ生きられるだけでは全然自分は十分納得できないっていうのはかなり贅沢な言い分で、
ちょっと前の時代だったらそれも王公貴族だけに許されていたレベルですよね。
なのに今私たちはそれをみんなが求めるようになりつつあるんですね。
これはもちろん良いことでもありますよね。
だけれどもそんなに容易く実現できる話ではないということなんです。
そしてこれを実現したいなら尚のこと、自分が持っている力は、
これがクラゾンさんが言う全て力に近いと思うんですけど、
自分が持っている力は総力を持ってやらないと大半の自分の力は温存しておいて、
必ず再現性があるやり方だけを採用しようとしたのでは、
むしろ手薄いんじゃないかという印象を私は今強く持つんです。
全意識なんてのは非常に大事ですよ。
思い出そうと思えば思い出せるということを片っ端から使ってですね、
思い出してその場で最大限フル出力でやっていくべきなんですよ。
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思い出そうと思えば思い出す力を持っているのに思い出すという努力は一切やめにして、
つまりそれがたまたま偶然な感じがするから、生身の力だから、
そういうあやふやなものを使うのは一切やめにして、
エヴァノートなりで強力な検索機能をかけて、
その時必要な記憶ではなく記録を引きずり出そうというのは、
僕はとんでもなく甘いと思うんですよね、はっきり言うと。
この考え方で余裕を持って生きられるようになるはずは多分ないんじゃないかなという気がします。
これだとあまりにも誰でもそれが再現できちゃうじゃないですか。
しかし一方でそれだと自分たちがですね、
数万年培ってきた力に関しては無視するってことにもなるじゃないですか。
ここになんか奇妙な矛盾があるんですよね。
誰もがとは言わないけど、かなり普通の多くの人がですね、
かなり自在に操れる全意識というものをスルーして、
エヴァノートに頼ろうっていうのは私はすごくおかしな発想なんじゃないのかなと思うんだけれども、
こういう方向をさっきも言ったように学校で教え込まれるんですよね。
つまり全意識の使い方を学校で教えてくれないのではないんですよ。
全意識を使わないことを学校で教え込まれちゃうんですよ。
私たちはテストするときなんかが特にそうですけど、
まず他の人の力を借りてはいけないっていうことを習いますよね。
自力で全部解けと。
これによってコラボする能力っていうものを奪われてる感じが私結構するんですよ。
コラボはコラボでね、なんかコラボの時間ですよっていうときになると、
急にコラボばかり推奨されるんだけれども、
いざ大事なテストってなったときは個別にみんな自力じゃないですか。
他の何かの力を頼るということが一切やれないようになりますよね。
それこそが本当の実力だと言われますよね。
それだけじゃなくて、
そのときその場で一生懸命思い出そうという能力を使うことも許されないですよね。
問題数に対して時間がギリギリになるように設定されてるから、
完全に覚えているっていう言い方をするんだけど、
条件反射みたいにして、
この問題だったらこう解く、この問題だったらこう解くというのが数秒のうちに思い出せる。
つまりこれは全然全意識じゃないんですよ。
何かもうほとんど、
何か反復練習による無意識化みたいなものになってしまっていて、
どこにも全意識を使うような場所がないんですよね。
この人との協力はできず、参照とするものもなく、
その場その場の全意識を使うということも封じられている中で、
考える力を伸ばそうっていうのって、
私は聞いていていつも不思議だなと思うんですよね。
考える力というのはクリエイティブだと思うんですよ。
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クリエイティブだということは、
その場その場で、
その時、遠い側面の発想みたいなものを求めるものだと思うんですね。
誰かが事前にすっかり考えていたことを頭から覚えておくだけだったら、
それは考えているんじゃなくて、やっぱり思い出しているんですよね。
そしてこれは確実ですよ、確かに。
1万回暗唱すれば思い出せるってやつでしょ。
私がお経で徳川のくた洗ってサラッと言えるのは、
子供の頃からただただ意味もわからず暗唱させられていたお経の一辺だからですよね。
こういうことをサラッと言えるっていうのは、
でも考えてなんかいないからなんですよ。
覚えているからなんです。
これは確かに再現性がある、確実であり、安全であると言えますよね。
そして必然的だとも言えます。
こういうものが望まれるわけですよね。
いつでも同じように実現すると。
これもう一つ大事なのはですね、
周りの環境に関わらずって意味なんですよ。
同じことですけどね。
今の徳川のくた洗は、僕はいつでもどこでも暗唱しているから言えるわけですよね。
誰かと出なければできないとか、その時出なければできないっていう話とは違うわけですよ。
この誰かとならできるとか、その時ならできるっていうことが、
私が思うところの一期一会なんだと思います。
一期一会ってそういうもんじゃないですか。
その時直面している現実と対面しているっていう意味だと思うんですね。
その時に私は生身の自分しか持ってないはずなんですよ。
Evernoteとかないんですよね。
あったとしても遠い側名に検索をするってわけにはいかないと思うんです。
だからこれを使いたいと思えばですね、
事前に何の準備もしないことが理想的とは言い切れないけれども、
少なくとも事前にやることをかっちり決めておくっていうのでは、
いかにもまずいだろうという感じは抱くんですよ。
そればっかりやってたら、多分これを使うのを封じようっていう風になるのが自然じゃないですか。
生身の力というものは当てにならないから、
そんなものを当てにするのは今後はやめようって感じていくのが自分自身がですね、自然ですよね。
プラゾンさんに先日言われたという、
今日まで生き延びてくるにあたっては周りの人の協力も仰いだだろうし、
無意識の力もふんだんに使ったはずだし、
偶然の作用とかね、あるいはそれこそその状態に至るまでの複雑系の流れみたいなものを
総力を挙げてその場に対応できたから、
何らかの形で生き延びてこられるような選択肢が取れたはずだっていう意味なんですよ。
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さらにそこには、その時気づいていないような危機的な問題というのにも、
気づかずに対応していた可能性が十分にあるという意味なんですよね。
そして、これを我々はすごく恐れてますよね。
そんなに重大な危機に気づいてもいないなんてことを恐ろしく恐れているじゃないですか。
そんなことは絶対あってはいけないと思ってますよね。
でも、もしかすると下手に気づいていたら命取りだった可能性ってかなりあるんですよ。
そういうことってあるじゃないですか、よく。
気づかずにいたから通り過ぎられた危険ってあるんですよね。
例えば、穏やかに過ごしていたからすぐそばに迫っていたスズメバチみたいなものを
スーッと通り過ぎて無事通り過ごせたってことはいくらもあるんですよ。
私たちがやりたがることっていうのは、
スズメバチに遭遇しそうなポイントというものをGoogleに教えてもらって、
それに十分近づかずに済むようなタイミングでリマインド鳴らしてもらうってことじゃないですか。
それだったらすごく安心だって思っちゃうでしょ。
そういうのっていうのは安心なのかもしれないけど、
その代わりに私たちが使わないままになってしまう力って山のようにあるという話なんだと思うんですね。
これがいろんなところに随所に現れているんですよ、結局。
どうしてもこのあやふやな力に頼るなってことを長らく教え込まれてきましたから、
私たちは大学卒業する頃にはみんなその点において同じような考え方になっているんですよね。
いつでもどこでも再現できる力にだけ頼るほど賢いってことになっちゃっているので、
そういうあやふやな力に頼ろうとしているときには簡単にみんなに指摘されてしまうんですよ。
記録じゃなくて記憶に頼るのは危なっかしいよってさらっと言われてしまうんですよね。
いろんなところでそうです。
準備しないままそんな大きな会議に臨んじゃいけないよってさらっと言うじゃないですか。
しかもこれはお説教にすらならないんですよ。
もっともっと軽くて、いつやっても害のないアドバイスになってしまっているんですよ。
こういうことが繰り返し繰り返し行われているうちに、
私たちの世の中はある意味ある種の安全というものが得られているんだけど、
ある意味ある種の恐怖症というものがすごくこう、
全体を覆っている感じっていうのは、私は富に感じるんですよね。すごく感じます。
万が一何々になったらっていうことは、以前よりもはるかに気になるようになってきたと思うんですね。
これが私たちが生身の力というものが相当隔てられたおそらく原因になっているんだろうなと思います。
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隔てられていると言っても、これも心理的なものなので、
例えば私たちに全意識がなくなっているなんてことは絶対ないですよね。
思い出そうと思えば思い出せることは思い出せます。
この定義からして非常に生身的だしあやふやな感じがします。
使える人はかなり幅広く使っているし、使えない人は全然使いません。
なぜなら使わないからね。
この全意識が私はライハック系の人間からして一番まず訴えたいところにあるわけですよ。
もっともっと使えると。
全意識と例えば他の人の協力というものを掛け合わせればですね、
相当現実、現在の現実というものに、つまり今ここなんだけれども、
広大な可能性というのがあるんですよ。
これを私はほとんど頭から無視してすごく直線的に持っていってるなって感じがするんですよ。
つまり未来のある時点のために過去からの自分の積み重ねを使う。
これだとまるで線みたいなんですよ。恐ろしく細いんですよね。
上手くいった時はいかにも確実性を持って上手くいった感じがするんだけど、
それでも上手くいったとしてもですね、私は一つ非常にもったいないというか、
残念な結末を迎えるんだよなというのが気になるんですよね。
今日のキャクチャレでも私は極力直前まで何もしなかったんだけど、
これはもうですね、一旦この何もしないということによって得られるとなってるんですかね。
その現実の、これ陳腐な表現に近いんだけれどもみんな使うからね。
現実の豊かさというものを味わってしまうと、
なかなか前みたいに事前に積み上げた順位をその場で解放するだけっていうやり方に戻る、
味気なさに耐えられなくなってしまうんです。
準備しないほうが楽だというような話もしようと思えばできるんだけど、
楽というよりも準備をがっちりしてしまうと現実を素通りしちゃうんですね。
結局それってリハーサルの通りに本番でもやるってことじゃないですか。
その時その場では何もしない感じになるんですよ。
いろんなことはするんだけどね。
過去に用意していた通りの下手な演技みたいなものになってしまう。
それを一歩間違うと時々学会の発表とかであるんだけど、
事前に吹き込んでいたテープに喋らせていても変わらないんじゃないかみたいなね。
それって何にも起こらないじゃないですか。
ハプニングしないわけですよ。
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誰にも出会わず、誰にも何も伝えずってことに
感覚的にはなりかねない。
もちろん喋っているわけだから、事前に準備したものを喋ろうとなんだろうと
一定のエネルギーをそこに込めることはできるんだけど、
その時その場で喋りたいと思ったことを喋るのに比べると
はるかに3%ぐらいしか実感を伴わない現実の過ごし方をしちゃうんですよね。
今だからその30倍ぐらいは得るものがあるんですよ。
何にもしないから。
これを取り逃すっていう選択肢はもうないなという感じを今は抱いているんですね。
そしてこの生身の感じというのは、確かに今まで私がやってきた生き方は
全部結局これしかなかったと。
これしかないですよね。
例えば私はどうやって用水の中を泳ぎ、母の体内から出てきたのか。
何も知らずにやったんですよね。
無意識の力と周囲の力を借りて。
生まれた最初の時からこのタイプ、このやり方で、以後ずっとそれですよね。
突然ある時学校で事前にやってきたものだけを使ってやりなさいっていう不思議なやり方を叩き込まれて
以来自分の生身の力とかその時々の縁とか偶然の作用とかいうものを
全部極力無視するように心がけるようになっちゃっただけのことなんですよ。
そんなのは無視しようとしたってそこにあるものだし、つまり視覚なんですよ。
視覚になっちゃったんですよね。
でも視覚になったからといってなくなるわけではない。
そこにありますからね。
結局自分はその時その場で日本語を喋り、その時その場にいる人たちの顔を見ながら何かをしているわけですよね。
これはすべて考えようによっては活用であり協力なんですよ。