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2022-06-24 15:02

Vol.150 #沖縄 県糸満市 #摩文仁の丘 にたつ「新潟の塔」


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おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は6月24日、金曜日になります。
今朝の新潟市内、若干雨が降りそうな気配がありましたけど、なんとか持ちこたえたというような感じですね。
ちょっとなんか蒸し暑さがあるような気がしますけども、今日どんな感じになりますか。
今日はですね、沖縄にあります新潟の塔という石碑の話をちょっとしてみようと思います。
昨日が沖縄慰霊の日ということで、慰霊式典などの式典もあり、それからそれに関連した報道というのも多く行われていました。
今年、本土復帰50年というので、5月にそれに関連した報道がかなり出ていて、6月はどうかなと思っておりましたが、やはりこちらの方がインパクトというか、やはり刻むべき記憶としての意味合いが大きいんでしょうかね。
朝日新聞のホットキャストの方で、あまり盛り上がっていない5月の沖縄の本土復帰50年の様子を聞きましたけども、6月の方はやはり戦争の記憶を刻むということで、沖縄の人たちにとっての記憶というのも強いでしょうし、
全国的にもどうなんでしょう。8月15日ほどの強い印象はまだないんでしょうけど、でもだいぶ印象をある種の記憶を留めていらっしゃる方も増えているんじゃないかなと。
わかんないです。自分で勉強するようになってそう思うだけかもしれませんが、と思います。
【沖縄での放送】
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そういうこともあり、今回の報道も少し見ていたんですけど、現時点でまだちょっと見つかってないのですが、新潟県の場合は、47都道府県の中で最後に1976年に間舟の丘に新潟の塔というのを建てています。
結局、それぞれの地域の出身者の犠牲を異例するという意味合いで、各地の城寨により異例塔が建てられていくんですけども、新潟県は1976年に一番最後に建てられたということです。
なぜ一番最後だったのかというところは、ちょっといろいろな解釈が多分あるんだと思いますが、とにかく一番最後になりましたということです。
この間舟の丘には、戦没者の名前が刻まれた平和の石塚というのがありますよね。
これ近隣にあるんだと思います。
昨日も報道に出てましたけど、その大きい施設ができる前に建てられていた金箔の塔というのがあって、
金箔の塔って字が私もなかなか読めないんですが、魂にパクって何て読むんだろうな。
左側の辺の方が白で、作りが鬼って書くんですけど、金箔の塔というのが昭和21年に建てられたっていうのがあって、
これは本当に民間の、その辺に散らばっている遺骨を集めて、住民たちがアメリカ軍の許可を得て入れて塔を作ったというのが金箔の塔というので、
これは後に戦没者望遠を作った時に移転したものなんでしょうね。移転してここに埋められている形になっているんですけど、
いずれにせよ、ちゃんとこの人たちを葬るということができない状態になっていったけれども、そこでみんなでそれを葬ったという象徴的なものなんだと思います。
ちゃんときちんと葬ることができなかった人たちをどう葬られていくのかっていうのは、全都道府県についても同じことが言えまして、
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新潟県の場合でも沖縄と南方諸地域ですね、いわゆる南洋軍統とか、ニューギニアの方で戦ってた人たちも含めて、戦没者合わせて4万1969だそうですが、
この人たちを葬らうものを作りましょうということで、建てられたのが昭和51年というふうに書いてますよね。
おはようございます、コメントありがとうございます。はい、というのが建てられました。これは平和記念公園の中に47都道府県の塔が建っているので、そのうちの一角に新潟の塔も建てられているということです。
ちょっと今日しゃべるので、昔の新潟日報のデータベースとか掘ってみたんですけど、2005年に、戦後60年企画で新潟日報が企画を組んでいて、この時存命であった石井光一さんという人のことを書いています。
石井光一さんは沖縄で縦軍し、いわゆる悲惨な戦いを経験して、沖縄戦を戦い、女学生の看護部隊と一緒にがまの中で戦い、そして最後生き残った人だと。
上陸時に188人いた中隊のうち生き残ったのは23人ということで、生き残って帰還した人なんですね。
この石井光一さんはこの時91歳で、7年後に2012年に亡くなっていますが、その間というかその前でしょうね、この取材時91歳ですが、
その後、現在の新潟市北区豊坂の市長を務められていて、市長が72年から87年ですので、市長時代にこの新潟の島の混流に対して活動したんですね。
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沖縄の遺族と戦友の会の会長に就任したという経緯で、この建設に関わっていくということです。
石井さんは帰ってきた後、沖縄から帰還した後、どうするかというと、戦友の遺族を訪ねていって、最後の様子を伝えていった。
よくある話ですよね。最後の様子といっても、本当にちゃんとしたことがわかっているわけでもなく、あんまり伝えにくいような状況というのもあったりして、どんな状態であったかというのをそのままは喋れなかったという話もよく聞きますけども、そういうのを訪ね歩いていったと。
記事の中では、管理していた貯金の通帳番号を知らせる目的もあった。石井さんは人事係だったんで、数字を持ってたんですよね。その番号を知らせてやると遺族が貯金を引き出せるっていうこともあるんでしょうね。そのために回ってた。
なぜお前は生き残ったなどと言われて、玄関払いを喰らわせるようなこともあったけれども、回ってたという話が書いてありますね。
その後、戦没者慰霊祭をやったりしながら、新潟の党の混流に向けて動いていくと。市町村ごとに住民1人あたり10円を募る県民運動を行っていったという話があるんですが、
この中、後半の方に行くと南晴男さんというのが出てきて、南晴男さんは中越の方のご出身でなかったですかね。
南晴男さんはシベリアに抑留された経験がある方なんですね。あっぽなしで石井さんは南晴男さんの事務所を訪ねて行って、お願いをして石井さんは100万円の寄付を約束した。
これも行動されたんでしょうね。調べてないんですけど。そういうこともあって、募金が1年半足らずで目標の金額を超えて、新潟の党というのが建設されることになりました。
47都道府県、それぞれにいろいろな状況があって、すぐに立ったところもあればそうじゃないところもあって、新潟の場合は一番最後だったわけですが、それぞれの地域で4万余りの犠牲者がいたわけですよね。
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その人たちを弔うために生き残った、帰ってきた人たちが積極的にいろんな活動をして、そしてこういうふうに実現していったという、そういうことなので、最後だからどうのこうのっていうのはあまり言うべきではないのかなと、こういう一つ一つのストーリーを確認していくと思うところがありますよね。
データベースを確認していくと、その後この新潟の党は一番最後にできるんだけど、やっぱり結構傷んできて、戦後70年の頃には改修へ募金を呼びかけるみたいなことも行われていて、知りませんでしたが、募金を呼びかけて、
改修を終えるという記事も2015年に出ていますので、改修は皆さんの募金により無事に行われたというようなことも書かれていました。
というわけで、沖縄の話はね、沖縄の話って昔から視聴率というか、あまり話題にならないと言われていて、本土の人たちの沖縄に対する無関心というのがあるんだというふうに言われていますが、
今回の報道を皆さんどれくらいご覧になっているのかわかりませんけれども、こういう角度からね、新潟と沖縄、新潟の人たちは沖縄でどんなふうな思いを持っているのかとか、そこに何が残っているのかという観点からちょっと調べてみると、
これもこれで面白いのではないかなというふうに思います。
ちょっとまだね、これは昨日段階で新潟の東亜の報道が、新潟、日本あたりでやってたかどうかちょっとまだ確認していないので、またその辺のことも出ていたら改めてお話ししたいと思います。
今日はちょっと新潟ではありますけれども、新潟絡みでありますけど沖縄のお話ということで、新潟の東という話をさせていただきました。はい、どうもありがとうございました。
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