1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
  2. Vol.177 玉音放送の日の新潟市..
2022-08-15 12:00

Vol.177 玉音放送の日の新潟市内は、原爆疎開で静まっていた


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おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は8月15日、月曜日ですね。
9時に今、なっちゃいましたね。はい、なってしまいました。ちょっとスタート遅れましたけど、お話ししてみたいと思います。
基本的には、昨日も新幹線で東京に戻っていた人も多かったのかな。
また来てね、みたいな。故郷はいつでも待っている、みたいな。そういう新聞の記事は、今日見たし、今朝は戻っているようですよね。
はい、ということなんですが、小読みの上では、今日8月15日ということで、
旅行放送があって、終戦記念日ということになります。
終戦記念日をめぐっては、いろいろ各地で捉え方はいろいろありますよね。
というわけで、今日は原爆疎開、新潟の場合は原爆疎開というのが、ひとつのケアトピックなので、何度かお話ししていると思うんですが、
今日は改めてお話ししたいと思います。8月15日で戦争がスパッと終わったのかどうかということで言うと、
北の方では戦闘が続きましたよね。カラフトの地上戦は8月15日以上も続いていて、
カラフトで多くの犠牲が出た話とか、それから引き上げ戦が襲われてとかですね、
それから満州でも戦闘が続いていたわけですから、そんなスパッと8月15日に終わっていたわけではないですけど、
でも、かたや旅行放送というのを、一応区切りとして内地では戦闘が終わっていくということですよね。
一番最後に空襲を受けたのが、埼玉県の熊谷の熊谷空襲というのがあって、
熊谷が8月15日の未明に空襲で大きな被害を出しているわけで、本当に最後の最後まで被害を受けていましたし、
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極音放送がどうやって放送されたかということを調べていくと、実はそんな簡単に放送できたわけじゃなくて、
天皇の極音放送の入ったレコードをダッシュして、空襲を起こそうとした陸軍商工たちみたいなね、そういう話もあったりして、そんな簡単ではなかったわけですよね。
じゃあ新潟はどうでしたかというと、新潟は実は静かだったという話で、原爆疎開の話が出てきます。
原爆疎開の布告が出るのが8月11日なので、そこから4日経っていますので、8月15日の新潟市内というのはとても静かだったというふうに言われていますよね。
8月6日の広島、8月9日の長崎と原爆が投下されて、当時は新型爆弾と呼んでいたわけですよね。
新型爆弾が広島、長崎に投下された後、投下にはこの間お話したやつかな、銃撃、新潟市内にアメリカの関西基が銃撃をしてきて、それで被害が出ているというわけで、いよいよ新潟も攻撃の対象になるのではないかということですよね。
この新型爆弾であるものも、よくわからないけどものすごく被害が出ている、こういう状況の中で次に新潟に原爆が落とされる可能性があるのではないかということになりまして、8月の11日に新潟県知事が畠田正人さんが知事布告を出して、みんな逃げるようにと。
急速なる徹底的人員疎開を行うということを言ったという話です。
これは有名な、有名でもないんですか、でも新潟の博物館に行くと必ず新潟市の最後の戦争中の出来事として、
この間お話しした空襲の話だけじゃなくて、この最後の知事布告というのが出て、8月15日の新潟市内は抜けの殻だったというのは、よく知られないところですよね。
どれぐらいの危機があったのか、これはもちろんわからない。
候補に入っていたことは間違いないので、全く外していたわけではないんですけれども、重要性はそんなに高くはなかったんじゃないかということで、どの程度の可能性があったのか、なんとも言えないところがあります。
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ただ重要拠点のうちで、空襲を受けていない場所の一つとして、新潟があったというのは確かなと思います。
この間も一度、何回かのところで畠田さんの働きについて一度お話したことがあったと思いますが、
8月15日に放送するんだけど、その前に8月10日にはポツダム宣言の受諾が決まっているという話なんで、それと一応前後してことは進んでいるわけですけど、
この無条件国家のポツダム宣言の受諾が新潟県まで降りてきていたかというと、降りてきていなかったんですね。
その状況下で新潟県知事としても緊急疎開命令、疎開の知事布告を出すということについては、結構いろいろ微妙な戦争遂行を邪魔するなというふうにして立場を危うくするような状況が起こる可能性があった中で、
この畑田知事が決断したというふうに言われていますね。
疎開については戦力の保全を期するためのものであり、無効の市民に対する殲滅的殺傷を人に片透かしを食らわせんとするものであるということを言っていて、
決してただ逃げるというだけのことではないんだよということを一生懸命説明しているという記録が残っているようですね。
ただ一方で、東京の方はすでにポットダム宣言受諾の午前会議が終わり、最終決定が14日というこの段階にあるので、もう最後を辞める段階ではあったんだと思います。
なかなかこの最後の判断というところの過程で情報が新潟まで入ってきていなかったと、その中でみなさんをちゃんと疎開させたというのは、新潟県知事の畑田さんの重要な働きであったというふうにも言われているところです。
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ただ、前回のお話ししたときにも紹介した2013年の新潟日報の記事を見ると、畑田さんは公職追放になるんですよね。
1946年、要するに戦後公職追放となって知事を辞職し、横浜市の助役になるのが1959年だそうです。
公職に戻るまでの間10年近く、政府公館の一人ということで公職から排除されるということがありました。
畑田さん以外にもこういう決めにあった人たちはたくさんいらっしゃるんですけど、畑田さんの働きというのもそういう意味では一旦キャリアが区切られていって、今の時代においても畑田さんという人がこの時どういう判断をしたのかということはほとんど知られていないようですよね。
それからもちろん新潟市内についても幸いにして原爆が投下されることはなく、戦後と書いていますので、この原爆疎開そのものについてもそんなに知られていないですよね。
これも映像の作品とかにしたいなとは思っているんですけど、知事復刻ぐらいしか何も残ってないんですよね。なかなかまとめていくのも難しくまだ手をつけていないというところです。
というわけで今日は77回目の終戦記念日ということになるかと思います。
というわけで今日もお話しいたしました。また明日お話しできればと思います。ありがとうございました。
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