戦争キャンペーンの背景
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西日本新聞me Podcast
この番組は、西日本新聞の記者が、取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれをお話ししています。
こんにちは、福岡のニュースアプリ、西日本新聞meの横山智則です。
今年は終戦80年になる年でして、西日本新聞では、「うちにも戦争があった」というキャンペーン報道をやっています。
今回は、その取材をしているお二人に来てもらいました。報道センターの久市智国さんと、今、台北に駐在している後藤臨さんです。お二人ともよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お二人とも番組は初登場なんで、久市さんから簡単に自己紹介をお願いできますか。
はい、私は2008年に西日本新聞社に入社して、半分のキャリアは事件事項の取材にやってきました。
それから、ライフワークとして戦争原爆については取り組んでおり、その他、東京での政治経験なんかも経て、今は報道センターの優遇セクションで戦争の取材に取り組んでおります。広島出身です。
広島出身なんですね。
続いて後藤さんもお願いします。
はい、よろしくお願いします。
私は2015年に西日本新聞社に入社しまして、サセボシ局とか、あとは紙面編集をする編集センター、あとは北九州本社などを経て、今は台北に駐在をしています。
私は山口県出身です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
久市さんは広島で、後藤さんは山口なんですね。
久市さんとは随分前に中崎で勤務一緒だったんですよね。
そうですね。
僕は販売部にいて久市さんは中崎総局の編集局におられて、後藤さんとは北九州でご一緒でしたもんね。
あれ何年前ですか。
2年ぐらい前。
ですよね。
そうですね。お世話になりました。
お世話になりました。
それこそ社内ではですね、このうちには戦争があったの連載のことを内戦と略して呼んだりしますけども、今回はその内戦の取材の中で分かってきた話になります。
それこそ久市さんまず内戦の紹介からお願いできますか。
西日本新聞は昨年から軍歴紹介キャンペーン、うちにも戦争があったという企画に取り組んでいます。
読者の皆さんの中に戦没した家族がいらっしゃる方々がいると思うんですけれども、その方々に家族の軍歴を取ってもらって、その軍歴をもとに亡くなったご家族がどのような戦場を経験したかとかですね、どのような戦地にいたかというのを一緒に探るという企画になります。
もう2024年の1月スタートですもんね。
バシー海峡の輸送船の悲劇
久市さんは24年の夏に同じ報道センターの警察担当から郵軍に移動されて、そこから内戦の取材をスタートされた。
昨年夏に配属されて、1580年に向けた取材を始めた際にですね、内戦に届いていた読者の方からの投稿に目を通すと、台湾フィリピン海にあるバシー海峡で輸送船に乗っていて亡くなったという方の投稿が多かったんですね。
なんで多いのかなと思って調べたんですけれども、バシー海峡っていうのは当時日本の輸送船が通る主要な航路だったことが分かりました。
ここでアメリカ軍の潜水艦に持ち伏せされて、魚雷攻撃を受けて少なくとも10万人の方が亡くなったということも分かってきました。
バシー海峡を念のため地図が思い浮かぶように説明しますと、九州から南に行くと沖縄がありますと。
多分九州から沖縄と同じぐらい西側に行くと台湾があります。
そしてまた台湾から沖縄と同じ、ザクッと言うと同じぐらいの距離、今度は台湾から南に行くとフィリピンがあって、その台湾とフィリピンの間にあるのがバシー海峡。
なので当然今久々に言ったように、いわゆる石油だったり何だったりを運ぶにはすごく大事なポイントだったってことですよね。
そもそも日本はアメリカと戦争をする際に、アメリカやイギリスなどから石油の輸入を止められて、このままだと完全に干上がってしまうんで、今のうちに戦争を始めてしまえということで対戦に踏み切ったんですけれど。
資源がないもんですから、真珠湾攻撃と同時に東南アジアに侵攻したんです。
それは石油なんかの豊富な資源を手にするためでした。
資源を日本に持ち帰って、軍需産業の生産を拡大し、長期自給船に持ち込むっていうのがアメリカとの戦争の大きな方針だったわけですね。
そのための生命船がまさに資源を持ち帰る輸送船だったわけですね。
うち船に届いていた投稿っていうのは、多くはこうした輸送船に乗っていて、撃沈されて亡くなった方に関するものでした。
その届いていた投稿があって、いくつもいわゆるうちの家族、うちのおじいちゃん、おばあちゃん、ひよおじいちゃん、おばあちゃんはこういった軍力ですとか、こういったところで亡くなられましたっていうようなお便り、投稿が来るんだけど、
その中でいくつもバシー海峡という言葉が出てきたってことなんですよね。
バシー海峡という言葉があるものもあれば、輸送船の名前ですね。
何々丸二の。
亡くなったとか、そうした情報がありました。
被災者さんはこのバシー海峡であり、輸送船で何があったのかっていうのを調べ始めたってことなんですね。
取材を進めていくとどういったことが分かってきたってことになるんですかね。
そうですね。取材を進める中で輸送船を守っていた方に話を聞くことができました。
輸送船には護衛船がついてるって話ですよね。
そうです。東南アジアの資源を日本に持ってくることが、アメリカとの戦争の鍵を握ったわけですけれども、
それが日本の生命線であるならば、海軍は必ず輸送船をしっかり守るはずだと考えたんですね。当然だと思うんですけど。
そうですね。輸送船は運ぶ船だから、自分たちには戦えないわけですもんね。
海上護衛の失敗
その実情を知る人が福岡県久留米市にまだご健在でした。今96歳の浅木義彦さん。
96歳。お元気です。
お元気でした。
ただ80年前の話になるわけで、となるとこの方は。
海軍の元軍人の方でですね、輸送船を護衛する解剖艦というちょっと小さい名の船があったんです。
その船に乗っておられた方です。
当時16歳。
16歳ですね。海軍の航海学校という所を卒業してすぐに船に乗って、そのまま護衛任務に携わった方です。
16歳か。今うちの娘は16歳です。
ああ、と思うな。川崎さんのところに行ったわけですよね。
川崎さんにはですね、海上護衛というものがどういうものだったか話してくださいというふうに事前にご連絡した上で伺ったんですけれども、一言目からですね、海軍の海上護衛は失敗だったと全くダメというふうにおっしゃいました。
それはどういう話なんですか。
川崎さんによるとですね、東南アジアの資源を乗せて日本に向かう輸送船が5から6隻あって、この5から6隻を解剖艦2、3隻でも持ってたそうなんですね。
船がたくさん並んでて、その横に2隻とか3隻つく感じですから、前を走る船が狙われたらもう守りようがないし、横にいる船以外守れないそうなんですね。
理想的には多ければ多いほど、護衛艦はですね、護衛船は多ければ多いほどいいけど、6に対して2とか3じゃ絶対足らんわけですね。
海の上での話ですから、そんな近づいて守ってるわけでもありませんし。
そうですね。
川崎さんは解剖艦の数が全く足りなかったというふうにおっしゃってました。
数が足りないだけじゃなくてですね、日本の解剖艦っていうのはアメリカの潜水艦に比べて速力も遅かったんです。
だから潜水艦が現れても追いつけませんし、あと探知能力、SONARって言って相手がどこにいるか調べる能力もアメリカの潜水艦が勝っていたんで。
レーダーみたいな話ですかね。
見つける能力も相手が優れてる、速力も相手が優れてる。
それから大きさもアメリカの潜水艦の方が大きかったもんですから、戦っても勝ってない。
おっしゃっていたのが守りたくても守れないのが実情だったとおっしゃっておられますね。
それこそ今被災者さんの話の流れでいくと、石油が必要だから東南アジアに進出して、それを持って帰る船なわけですから。
そんなことを後から我々が言うのはあれだけど、分かってなんでって話に当然なりますよね。
私もそこが本当になんでなんだろうという部分を今思ってるんですけど、川崎さんがおっしゃったのは、日本海軍は伝統的に艦隊決戦を重視していたからだと。
いわゆる戦艦大和みたいな話ですね。
戦艦大和、大艦強豪主義と言われますけど、大きな船で大きな大砲を積んでる船を作ることが優先されて、海防艦などの護衛船の建造が進まなかったということですね。
そういうことなんですね。
どっちもは作れん場合と。
そうですね。日本は資源が少ないもんですから、海戦前輸入していましたけど、鉄鉱石とか鉄の量も限られてますし、限られた資源の中で何を作るかという中で大和なんかが優先されたということになります。
それを言われたら、そうなんですね。とはいえ、6隻の輸送艦を3隻ぐらいで、そうなんですね。
実際ですね、海防艦、護衛船の海防艦の建造計画はあったんですね。あったんですけど、大和なんかが優先して作られるものですから、全然進まなくてですね、計画が。昭和18年時点で海防艦って4隻しか持ってなかったんですよ。
昭和18年時点。これはもう海戦して。
そうですね。昭和16年の12月に海戦してますから、海戦から2年ぐらい経った時点でも4隻しか護衛艦がなかったんです。
そもそも。
ですから多くの輸送船は当初単独でですね、輸送を強いられて、もう核光の標的になってしまったということです。
そうなんですね。で、でも途中で足りんばいって話になりますよね。
そうですね。
日本に入ってくる資源が当初の想定からかなり少なかったんですから、これはいかんというふうに文にもなってですね、昭和18年、1943年の11月に海軍が海上護衛総司令部というものを作ります。
海上護衛ですから、海上を守るための部隊ですね。
ようやくそこから本腰を入れ始めたんですけど、月焼き場でもう守れないぐらいの時にすでになっていて、解剖艦も急いで作ったんですけど、急いで作ったから粗悪なものも多くてですね、川崎さんが乗ってた解剖艦のようにアメリカの潜水艦には能力が劣るような船が多くて、立ち打ちできなかったという状態だったみたいです。
最初の話に戻りますけど、数も足りない能力としても劣っているというものしか、慌てて作ったけど作れなかったと。
なるほど、そういうことなんですね。
なぜ海軍がこれほど海上護衛を軽視したのかという理由としてですね、川崎さんがおっしゃった艦隊必戦主義に物質したということだけじゃなくてですね、よく言われているのが物質的に豊かなアメリカ人が、ずっと海の中に潜って戦線を強いられる潜水艦という残酷な環境に耐えられるはずがないというアメリカへの侮りとかですね、そういったものもあったというふうに言われてますね。
潜水艦に長いことアメリカ人は乗り切らんやろうと。だから海域でも潜水艦の数も少ないし能力も低いと思ってたと。本当それみたいな思いますよね。
信じられないですね。
そうなんですね。川崎さんの話で他にどんな話が出てきたとかありますか。
そうですね。川崎さんはやっぱり目の前で沢山輸送船が沈んで行われていくのを目の当たりにされてるんですけど、守りたくても守れずに沈んでいく船を目にして、こんじくしょうこんじくしょうって何度も思ったというふうにクエストにもおっしゃられてました。
逆に言うと川崎さんがよくぞ生きて帰ってこられましたよね。
輸送船の悲劇
川崎さん自身もですね、昭和19年の12月末に、これ潜水艦じゃなくて当時清空剣も失ってましたし、アメリカ軍機による空襲を受けてですね、乗ってた解剖艦が沈没して、命からがら漁艦に助けられる、一緒にいた別の船に助けられたという経験があります。
そうなんですね。
同じ船に乗ってた方50人以上亡くなったというふうにおっしゃってました。
今のそんな話ですから、どのくらいの船がいわゆるそのバシー海峡でというか、その海域で沈んだ、沈められたということになっていくんですか。
これバシー海峡に限らないんですけど、バシー海峡は主要航路でしたから、船が沈んでるんですけど、太平洋戦争ってかなり太平洋って広域を具体にやりましたから、いろんなところで輸送船を沈められています。
東京に日本巡測船員検証会という団体があるんですけど、そこによるとですね、終戦までに100トン以上の小船が約2500隻沈められて、800万層トンの船が失われたと言われています。
2500隻。
これですね、前代で言うと、日本は海戦前に600万層トンの船を所有してたと言われています。
戦争中に粗悪な船も含めて400万層トン建造したと言われていますので。
600足す400、1000万トン。
1000万層トンのうち800万層トンが失われた。単純計算で8割が失われたということになります。
なかなかですね。
残ったのが戦時標準戦と言われて、終戦時にですね、粗悪な船しか残らなかったとも言われていますから、本当にほとんどまともな船は全部沈んだと考えてもいいんじゃないかなと思いますね。
そうすると、正直聞きたくない話なんですけど、船がそれだけ沈められたということは、亡くなった方の数みたいな話になると。
最初10万人以上が少なくと思ったんですけど、正確にあまり分かってなくてですね。
分かっている数字の一つとして、船に乗ってた民間の方の数というのは分かってます。
軍は海戦と同時に民間が持つ船を徴用したり、軍の指揮下に入れて輸送を任せたりしていました。
船を航海するためにいろんなたくさんの方が関わってたんですけど、船会社さんの船員さんの犠牲者の数はですね、約6万人とされてます。
この数は本当に船を動かすために必要な方々の数だけで、例えば日本から戦地に運ぶ兵隊さんもたくさんいてますし、
日本が占領していたところには日本人の民間人もたくさん住んでました。
その方たちを日本に引き上げさせるときにまた鎮められているという感じの方も犠牲になっていて、その数は10万人とも20万人とも言われています。
数はもう分からんのですね。
正確には分かってないですね。概数は言われたりしてますけど。
それこそですね、実際僕は新聞社にお恥ずかしい話と言えばお恥ずかしい話だと思うんですけども、これだけのいわゆる話なんですけど、
バシー海峡っていう言葉でさえですね、今回被災者さんに初めてその沼津船の話をしてくださいっていうまでは知りませんでしたし、っていうのは結構知らないんじゃないかと思うんですよね。一般の方も。
これだけ多くの民間人が犠牲になったのに輸送船の悲劇ってあまり知られてないと思うんです。
それはですね、戦時中に日本政府が輸送船の被害を公表してなかったということも影響してるんじゃないかなと感じています。
秘密の隠蔽
当時日本は米も含めてですね、食料も国外から持ってきてました。
米も含めてなんですね。
輸入国だったんです。石油などの資源だけじゃなくて、食料とかも輸送船も含めて沈められてますから、もしそのことが国民に知れればですね、戦争を継続するための士気が下がりますよね。
当時は軍需工場で戦闘機とか作ってるのは国民でしたから、国民のモチベーションを下げるということは政府、軍は下げたかったわけですね。
だから秘密にされてました。そうしたことも皆さんが知らないという理由の一つになってるのではないかなと感じております。
だから戦後になっても、ある意味知られないままここまで来てると。
ご遺族の方もバシー海峡で亡くなったとか輸送船に乗って亡くなったということはご存じでも、どうしてその輸送船がこんなに無防備にされたのかということまではご存じない方もたくさんいらっしゃるように感じております。
そういうことなんですね、そうか。
だからその寄せられた投稿もはっきりバシー海峡と書いてあるものもあれば、そこもあんまりそれこそ遺族としてはよく知らないまま輸送船に乗ってたらしいけども、そこで亡くなったっていう話だし、
それは全体像としてこの海域の重要性であるとか、今の輸送船を軽視したみたいな話、輸送護衛ですね、護衛を軽視したみたいな話も知らないままという方も結構おられるということなんですね。
そのように思います。
なるほど、ありがとうございました。
今回はそういったお話だったんですけども、次回はですね、何度も出てきましたバシー海峡に近い台湾で取材をしている後藤さんにもお話を聞こうと思っています。
今回全然出番ありませんでしたけども、次回は少しお話ししてもらおうと思っております。どうぞよろしくお願いします。
ちなみにですね、それこそ触りだけでもみたいなことで、次回どんなお話になりますかね。
そうですね、私から次回はそのバシー海峡で亡くなった戦没者の遺族の方が先日台湾を訪れた時の話と、それからあとは台湾で追悼の場を守られている方のお話をさせていただこうと思います。
わかりました。どうぞよろしくお願いいたします。
それではエンディングになるんですけど、その前に一つお知らせをさせてください。
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