にゃおのリテラシーを考えるラジオ、読書と編集の千葉直樹です。
このチャンネルでは、読書とIT時代の読み書きソロ版を中心に、様々な話をしています。
今回のタイトルは、「ふたたび通信の話。IT全史を読む」の第20回目です。
前回まで、パソコンが生まれてきた背景や、その発展の過程について話しました。
ただ、この時点ではパソコンはまだ一台一台が独立して単独で動くものでした。
今では考えられませんが、パソコン自体には通信機能がありませんでした。
というか、通信といったら電話が先端を行くイメージで、それとパソコンが結びつくのは随分後になります。
電話よりもちょっと前の技術として、電信というものがありましたね。
これは文字を送るものでした。
僕が過労死で経験している時期は、電話がまだどの家にでもあるという段階ではなく、
電話がない家への郵便よりも早い通信手段としては、電報というものがありました。
電話局で電信を受け取ってプリントし、そこから先は人が送り届けるシステムです。
当時は、電話があったら電報はいらなくなると思っていました。
実際に電信を使った電報というシステムは事実上無くなっていくのですが、ITの世界ではちょっと違う流れができてきました。
1961年にアメリカで謎の事件が起きます。
ユタ州の砂漠にある電話局が爆発したのです。
これが原因で一般の電話回線だけでなく、軍用の回線も止まってしまったのです。
当時は東西冷戦が核兵器を中心に試烈になっていた頃です。
アメリカ国防総省は衝撃を受け、核戦争が発生した時でも通信が可能なシステムの研究を始めたのです。
その基本的なアイデアは通信経路をたくさん作る分散ネットワークでした。
要するに、経路の途中が切れても他の経路で保管できるようにするのです。
もう一つのアイデアは、情報をひとまとめに連続して送るのではなく、小分けにして送るというものです。
これらを組み合わせると、経路の分散と情報の分散ができ、ネットワークの一部が切れてしまっても情報を伝えられる可能性が高くなります。
このアイデアは当時の電信ネットワークの特徴から考えられたものです。
電信ネットワークは各地にある電信局同士が通信内容をバケツリレー方式で送るようになっていました。
バケツリレーを行うのは各電信局の通信士でしたが、ある電信局間で通信障害があった時には、
より目的地に近くなる別の電信局に情報を送り、障害のある通信経路を迂回して最終的に目的地に伝わるように運営されていたのです。
もちろんこの方法は人が介在している分遅くなります。
これを機械化することによって障害に強くて高速の通信システムが作れると考えられたのです。
情報を小分けにする部分、それを中継して次の中継先に送る部分、
そして小分けで届いた情報を元の情報に組み立て直す部分、
これらにはコンピューター技術を使うことが考えられました。
現代のインターネットでは通信路の至るところにルーターというものがあります。
このルーターは昔の電信網で通信士が行っていた作業を機械がやっているものです。
このようなアイデアを実装していったのが、アーパ、アメリカ国防総省高等研究計画局です。
作られるネットワークはアーパネットと呼ばれました。
国防総省の部局が温度を取ってはいるものの、実際のネットワーク運用は研究に参加した大学館で始まりました。
これがインターネットの前身ということになります。
最初に温度を取ったのが国防総省の部局であったことから、
インターネットは核戦争に備えて開発されたと言われることがありますが、
当時開発に携わった人々はそれを否定しています。
実際、もしもこれが核戦争に備える軍事技術として開発されていたら、
オープンにされることはなくインターネットは今の形とは違うか、存在しなかったかもしれません。
アーパネットはアメリカの4つの大学の間を繋ぎ、最初の送信メッセージは1969年10月29日10時30分に送られました。
最初のメッセージを2文字を送ったところでクラッシュしてしまったそうですが、
1時間後に復旧させ、予定のテキストメッセージの送信に成功したそうです。
1969年12月5日には、4つの大学の相互接続ネットワークが完成したのでした。
そこから徐々にネットワークが広がっていきます。
次回はネットワークが広がっていく様子について話したいと思います。
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今日もワクワクする日でありますように。千葉直樹でした。ではまた。