-
-
スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ、取締役の勝宮ついでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
二番経営第36回、今回のテーマは前回に続きまして、経営の神様、松下幸之助が神様と呼んだ大番頭、高橋荒太郎編の第2弾です。
前回は松下幸之助さん、現在のパナソニックについて振り返っていきましたが、いよいよ。
スピーカー 1
主人公登場という感じになります。
前回松下幸之助さんのデッチ暴行の話から、1918年に会社を立ち上げて、1935年、36年、その辺りまで話をさせていただきました。
非常に勢いのある、今でいう大規模なベンチャー企業というところまで育っていったというところですね。
そこでですね、今回の主人公である高橋荒太郎さんがどういうふうにジョインしていくのかというところを、今日触れていきたいと思うんですけれども、
今回もですね、高橋荒太郎さんの生まれてからの生い立ちからいきたいと思います。
高橋荒太郎さんですけども、1903年、明治36年10月にですね、香川県の小土島で生まれになられています。
小さい島で生まれ育ったということなんですけども、そこで小学校まで通われます。
ご実家はですね、貧困とは言えないんですけれども、小学校の後、他の学校に行くほどの余裕はないということで、
おそらくこの頃の日本っていうのは大概そうだったのかなというふうに思いますね。
普通の家庭だと小学校までっていうのが精一杯で、中学校以上は難しいというところが一般的な家庭だったんじゃないかなというふうに思います。
ただですね、この荒太郎少年はですね、もう勉強したくてしたくてしょうがないということで、
なんとかですね、神戸にいる知人を頼ってですね、なんかこう仕事しながら勉強できる、そういうことできないかっていう交渉をして、
結果神戸の商店をですね、紹介してもらって、夜間に神戸商業保守学校、今の兵庫県立神戸商業高校の前身だそうなんですけども、
そこにですね、夜間の学校で行って、昼間はその商店の店員として働くということで、小戸島から出ていくということをされます。
ちなみにこの神戸商業保守学校っていうのは作ったのがですね、兵庫県と福沢諭吉さんですね。
福沢諭吉さんっていうのはソニーの森田明夫さんのところでもやったんですけど、森田明夫さんのおじいさんがですね、
作った学校っていうのにも福沢諭吉さんが関与してたりとかっていうのがありますので、この頃に活躍した日本中の教育をずっと底上げすると。
なんか困ったら諭吉先生に聞けばいいっていう状況があったっていうのがこういうところでもちょっと感じられます。
その商業高校に通って、そこを卒業した後ですね、母規の専攻科っていうのにも連なってですね、通うということで非常に勉強好きだったというのが高橋新太郎さんです。
スピーカー 1
母規の専攻科ですので、会計経理をしっかりと学ばれたということですね。
それから1921年、大正10年、17歳のときにですね、大阪にあるアサヒ感電池という会社に就職をします。
これもちょっと過去のシリーズと強引につなげるとですね、この1921年、高橋新太郎さんが就職した年に森田明夫さんがですね、お生まれになられてます。
この2人は17歳さんということでありますけれども、そのアサヒ感電池、社名のごとく感電池を作っている会社ですが、この高橋新太郎さんが入社してすぐにですね、株式会社に組織変更をしていきます。
株式会社になったということで、そこで経理もしっかりやらなきゃいけないと。
きっとそれまではオーナー企業でどんぶりでやってたと思うんですけど、しっかり経理組織を作るということで、それに抜擢されたのがこの高橋新太郎さんですね。
しっかりとですね、その経理の制度、組織っていうのを作り上げて、なんとですね、1927年、まだ24歳のときにこのアサヒ感電池という会社の常務に抜擢されます。
17歳で入った7年間、その経理組織を作って、それ以外の活躍もあったと思うんですけども、役員になりました。
ただ役員と言ってもですね、その高橋新太郎さんの上にはオーナー社長1人しかいないというところだったということです。
ただ従業員は何十人もいるような会社ですので、ただ本当に2,3人の会社で2番手ねっていうわけではないところで、いかにすごいかというのはちょっと感じられますね。
この1927年っていうのはどんな時代だったかと言いますと、前回やったですね、松下電機がラジオを作り始めたのが1925年だったんですね。
そこからですね、ラジオがどんどんどんどん成長していく、そんな時代でした。
ですのでラジオ用の電池、あれ全部電池で動いていたんですけれども。
スピーカー 2
確かにタンスの上みたいに昔のラジオって置いてみんなで聞いてるみたいなイメージがある、そういうことか。
スピーカー 1
おっしゃる通りですね、あれ裏側に乾電池が入っていたんですね。
そのラジオの電池っていうのが飛ぶように売れてですね、全然生産が間に合わないという状況でした。
まあ世の中でラジオっていうメディアの手段が現れてですね、一気にそこに行ったんですけれども、
儲かっている時はどの会社もそうだと思うんですけれども、自分たちがその時代に恵まれていたその時代の勢いっていうには思わなくてですね、
自分たちがかなりイケてるからこれ儲かってんだっていうふうに全員がですね、錯覚をしてしまってですね、
この朝日乾電池という会社、社員のですね、レクレーション用に馬を2頭買うとかね。
おー、レクレーション用。
お金の使い方をしています。
それから常務になったばっかりのですね、この高橋新太郎さん。
中国に1ヶ月間視察旅行に行くという感じですね。
しかも全部一等席ですので、ものすごい交流をすると。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
そんなときで。
スピーカー 2
ファーストクラスで行くみたいなことですよね。
スピーカー 1
そうですね。会社の役員が1ヶ月間不在にするって。
別にね、メールもなんか携帯電話もない時代に。
スピーカー 2
いや確かに。おっしゃる通りですね。
スピーカー 1
だいぶ余裕ぶっこいてたっていう感じですよね。
スピーカー 2
なんですけども、そんなのも一瞬で終わります。
スピーカー 1
翌1928年にですね、環境が激変します。
どういうことかというと、先ほどおっしゃられたラジオですけれども、
乾電池じゃなくてですね、交流用のラジオ、受信機。
つまりコードで電源取れるラジオが出始めてですね、
そうすると当然乾電池売れなくなりますよね。
ということでその需要がどんどんどんどん減っていってですね、
最終的には数年後にはもうゼロになっちゃうわけですけども、
朝日乾電池、ラジオ用の乾電池に全振りしていましたので、
もう飽きないするものが何もなくなっちゃうっていう感じです。
スピーカー 1
辞める人ではないんですよ。割増し退職金ではなくて、
これからいてもらうということなんですけれども、みんな退職金払います。
もしこのときに会社を辞めるんだとしたら、
2倍の退職金払いますよということも入れてはいるんですけれども、
もうだから完全に排水の陣をきてるって感じですね。
それで先ほど独立採算でやっていきますってことを宣言しました。
本社から話してですね、今の価格から3割、
30%のコストダウンしないと成功しないというふうな見立てでしたので、
今の価格から3割下げた金額で本社に納入します。
本社に販売します。そしたら本社は3割安いと売れますよねと。
とにかくコストダウンを徹底的にやると。
工場の管理部門も1割に削減してやっていきますっていうことを宣言します。
この朝日寒電池としては、高橋新人さんもすでに今No.2なんですよね。
オーナー社長がいて2番手で。
でも経営の全責任を自分が取ってるということで、
一番の問題の根源である工場に自分が1社員に戻っていってやり直します。
ということを宣言するんですね。
これを書き上げた後、社長のところに行ってですね、
これをやろうと思うんですけど許してくださいって言ったら、
社長は当然自分の右腕のNo.2が現場に行っちゃって本社開けるっていうことなので、
ちょっと嫌がったんですけど最終的には渋々承認をしてですね、
このオーナー社長の息子さんっていうのがいらっしゃったので、
その方に常務取締役っていうのを高橋新人さんは譲って、
自分は1社員として工場に。
スピーカー 2
本当に社員になったんですね。
スピーカー 1
本当に社員。
すごいですね。
ちなみに工場で出してるいろんな手形とか領収書にですね、
これまでは朝日寒電池常務取締役高橋新人っていう名前でやってたんですけども、
朝日寒電池工場主任高橋新人っていうタイトルが急に変わってですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
いろんな取引先から問い合わせが来るっていうような話もあったようですけども、
本当にガチでそうしてたみたいですね。
自分はとにかく現場に入って無間の対象として頑張りますということで行って、
すぐにですね、管理部門をぎゅっとコンパクトにしなきゃいけないということで、
管理部門の縮小から着手をします。
そこも10分の1ぐらいに一気にしてですね、
自分が全部やるって感じですね。
請求書を振り出すのも、原価計算も経理も全部自分がやるみたいな感じで進めていきます。
コスト削減とそのノーリス工場ですね、工場の生産性の向上っていうのを必死に取り組みますと。
そうするとですね、1年半改革全然できなかったんですけども、
対象が現場に行って3ヶ月でも成果で走る。
その後3ヶ月経って、工場として独立した後半年でも完全に軌道を乗せることができる。
これはなんか、私もコンサルタントっていう仕事やってるんですけど、
改革をしていくっていうご支援をしているんですけども、
本当に当事者意識を持ってトップが現場に降り立って進めることの力強さ、
効果っていうのは常日頃からあるというふうに思ってたんですけど、
こんなに出るかねっていうような感じだと思いますね。
もう本当にこの先ここで骨を埋める、埋めなかったらっていうような思いで現場に行ったんですけども、
半年で結果が出てしまったということですね。
これは結果としたら1931年に改革をスタートして半年で結果出ました。
その後、工場の生産性をどんどんどんどん上げていくっていうことを2年間継続をしていきます。
スピーカー 1
1933年ですね、本社からもうちょっと戻ってきてくれないかと。
起任要請がもうあります。
その起任要請どういうことだったかっていうと、
実は工場で一生懸命自転車用のランプの電池を作っていた高橋新太郎はもう本社のこと知らないですね。
そこを必死にやってますんで。
そのいない間に本社としては乾電池以外の事業を始めていました。
それが電熱機ですね。松下電機でもやっていましたけども。
電気用のこたつとか、温まるようなものを。
そういう事業を始めたんですけど、これが難航してました。
なので何とかこれを改善してもらいたいと。
君にやってもらいたいんだっていうことで高橋新太郎にまた白羽の矢が立ちます。
高橋新太郎も工場での働き方っていうのも非常に満足をして、
自分はもうここで生涯を終えたいというふうにも思っていたようなんですけども、
やむを得ずですね、お世話になった社長の言うことということでですね、
本社に戻ろうということで、全般の経営を見ることになりました。
ただですね、よっぽどその工場での業務っていうのに生きがいを感じられてたと思うんですけども、
大阪の工場だったんですね。改革をしていたのが。
いろんな改革をしたんですけども、どうしてもですね、高橋新太郎が思う完全体にはなることができなかった。
理想工場にはならなかったので、それだけがもうどうしても心残りであるということで、
もうどこにも負けない自転車用ランプの乾電池の工場を自分はもう作りたいと。
作りたいのでこの工場を作らせてくれと。
6000円くれと。6000円を研究開発費として自分に投資してくれたら、もうどこにも負けない工場を作ると。
それ条件で本社に戻りますっていう条件を突きつけたんですね。
なるほど。
それで社長はわかったと。それやんなさいと。でもこっちも見てねっていうことで、
二足のわらじを吐くということで了承を得ましたと。
で、その新工場なんですけども、名古屋に設立することになりました。
名古屋にした理由っていうのは、これ大阪の麻生乾電池という会社なんですけども、
名古屋にした理由っていうのはあってですね、周りに競合の工場がないと。
実は競合のメーカーがそこで工場を作ったんですけども、すぐにうまくいかなくて撤退するっていうことがあってですね、
その時には競合の工場がなかったそうです。
あとこの自転車用のランプの乾電池っていうのが名古屋エリアではですね、まだ普及していなかったということもあります。
作ってもいない、売ってもいないっていうことで、マーケットもしっかりあるというところで、そこもですね、考えて名古屋にしたそうです。
名古屋にですね、製造ライン、コンベアのラインをですね、2つ持つ、月産60万個、乾電池を作れる工場っていうのを建てていくんですけれども、
その時にですね、マーケットの調査をして、競合がないっていうのを見て、今度は働く人なんですけれども、
スピーカー 1
特に女性工員についてですね、かなり意識をしたようで、当時の名古屋っていうのは、大阪よりもですね、給料安くても働く方がいらっしゃったそうなんですね。
大阪が確か40銭で来たところ、名古屋は30銭でも従業員が雇えるということだったそうです。
その安い相場だったんですけれども、高橋新太郎さんはですね、大阪と同じレベルにします。
つまり、我が社では40銭出します。大阪に行くのと同じ給料をちゃんと保証します。
それからですね、今だとジェンダーでいろんなこと言われるかもしれないんですけれども、
当時はですね、女性工員の方にお裁縫ですね、お茶とか稼働っていうのを習得してもらって、女性らしさというんですかね、
そういうところも習得してもらうことで、より良い製品が作れるだろうということで、厚生の施設までこう作ったそうです。
ですので、本当に働く人にすごく配慮して、いい環境で仕事をしてもらいたい。
そこで仕事だけではないところから、製品を良くしていくことにつながるというふうな思いでですね、そういうこともやられていらっしゃる。
あとそこで働くラインを見るですね、リーダー、班長とか組長っていうのもですね、
コスト意識っていうのがどうしてもほっとくとなくなってしまうので、
そういったところですね、徹底するようなかなり厳しい教育ですとか、
あとは自社の社員、工員たちだけではなくてサプライヤーさん、仕入れ先ですね、そこもしっかり管理するということで、
必ずし仕入れるときには先方の工場に行って、つぶさにそこを確認していって、いくらぐらいでできるのかどういうふうに作ってるのかっていうのを、
これも高橋新太郎さんが直々に言ってですね、そこを調査してOKとなったところと取引をするですとか、かなり厳格にやっていったと。
これは本社の経営とですね、並行してやっていたので、ずっと工場にいるわけにはいかないので、
立ち上がったあとは毎月1回この名古屋工場を訪問して、1ヶ月分の仕事のチェックとですね、
今度向こう1ヶ月分の宿題をそこの社員たちに出して、また1ヶ月後に来るっていうことをずっと根気よく続けたという感じであります。
それをですね、一生懸命やってきて名古屋工場もしっかりと軌道に乗り始めた1935年、
スピーカー 1
ここでですね、朝日乾電池という会社と松下電機がですね、全面提携が成立したっていうのをいきなりですね、知らされることになります。
スピーカー 2
ここで繋がるんですね。僕もなんかこのままでいっちゃうのかなみたいな感じを感じましたね。
ここまででもっていうところじゃないですか、ナンバー2として。
スピーカー 1
だと思います。
スピーカー 2
ここで提携するんだ、この2社が。
スピーカー 1
そうなんですね。先ほどもあった自転車のランプ用の乾電池ですとか、あと電熱もそうなんですけども、結構似通った事業をやっているんですよね。
はい、そうですね。
1935年っていうのは松下電機としても組織を事業部制にするですとか、本当に新しい工場を立ち上げるということで、朝日乾電池と松下電機比べたら圧倒的に松下電機の方が大きいです。
でも元々社長同士、実は松下光之介さんと朝日乾電池の社長さんっていうのは在会友達だったんですよ。結構仲良かったらしいです。
スピーカー 2
なるほどなるほど。ライバル的な感じもあったけど、ここの頂上に至るような形もあったってことですよね。
スピーカー 1
そうなんですね。最初に1935年の提携っていうのは、一緒に販売会社を作りましょうっていう感じです。
そこで朝日乾電池と松下電機の製品、どっちも扱うような会社を立ち上げて、そこで友達の友に会社の社と書いて、有社って言ってたらしいんですけれども、松下電機を中心に100%の子会社があって、
それ以外に提携先を有社と言われる、何社かあったうちの一社がこの朝日乾電池さんであったというのが1935年です。
それはもう本当に寝耳に水ですよね。高橋亜太郎さんとして。なんか提携するらしい。えー、どこと?みたいな感じで。
あー、まあ確かに社長仲良かったかなーっていうぐらいの感じ。
スピーカー 2
じゃあこの時点では、まだ2人は直接そんなコミュニケーションしてないってことですよね?
スピーカー 1
してないです。
スピーカー 2
高橋さんは松下コンディションのことは知ってはいたと思うんですけど。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
直接話してるとかしてない状況?
スピーカー 1
はい。業界のちょっと自分たちよりも進んだ会社の社長さんっていうぐらいでしょうね。
スピーカー 2
へー、なるほど。
スピーカー 1
で、業務提携をした翌年ですね、1936年になるんですけども、もともと営業販売面での提携というところでスタートしたんですけども、実は1936年に、
それが資本関係にもつながって、資本業務提携をしていくという意思決定がされたのが1936年。
で、その資本業務提携というのがちょっと出資するじゃなくて、松下電機の子会社になるという意思決定ですね。
なるほど。
それが起きたのが1936年という感じでございます。
ということで、そろそろな感じなので、
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
ここからが高橋新太郎さんが松下電機に入っていくというところなんですけども、その入る背景というかですね、
スピーカー 2
真相というかどうなったのか、まだ子会社の一従業員ですからね。
スピーカー 1
そういうことですよね。
スピーカー 2
でもこの時点でも相当仕事できる人ですよね。
スピーカー 1
いやそうなんですよ。すごいですよ。経営再建をして、全く新しい工場も作って。
スピーカー 2
しかもまず自分が肩書きなくしますみたいな、ちょっとかっこいい。
スピーカー 1
かっこいいですよね。
スピーカー 2
かっこいいですよね。
そうすると現場の人もついてくるようなみたいな行動もできてるし、それが結果を出してるしみたいなところで、
これどう2人が出会っていくのかめっちゃ楽しみですね、これから。