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スピーカー 2
二番経営 No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなかおもてんでない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ、取締役の勝宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
二番経営第35回、新シリーズのスタートとなります。
今回のテーマは、経営の神様、松下幸之助が神様と呼んだ大番頭、
高橋荒太郎編の第1回です。
スピーカー 1
はい、高橋荒太郎、ご存知ないですよね。
スピーカー 2
松下幸之助さんはね、多くの方ご存知だと思いますけど。
スピーカー 1
そうですよね。たぶん聞かれてるリスナーの方も、
過去一なじみがないお名前かもしれないですけど、
私もうっすらと存じ上げていた方という感じだったんですけど、
今回改めて文献をたくさん読ませていただいてですね、
二番経ぽいですね。
スピーカー 2
そうなんですね。
スピーカー 1
たぶん過去一近いかもしれないですね。
楽しみだな。
本当に面白かったです。
皆さんにそれが伝えられるといいと思ってるんですけれども、
タイトルにあります松下幸之助さんはですね、
言わずと知れた今のパナソニック松下電気産業でしたけれども、
その創業者ですよね。
経営手腕と哲学的な考えから経営の神様と呼ばれたということで、
日本の経営市場の超スーパービッグネームと言っていい方だと思います。
1894年にお生まれになられて、1989年94歳でお亡くなりになられています。
それから今回の主役になります高橋新太郎さんという方なんですけれども、
この方はですね、これまでのホンダソニー、そこで語られたのは創業者とですね、
創業主と共に寄り添っていたナンバー2って感じだと思うんですね。
ゼロから立ち上げないまでも早いタイミングからジョインって感じだと思うんですけれども、
高橋新太郎さんは創業して18年経ったところでジョインされています。
松下幸之助さんとは9歳差ですね。中途入社をされて、
それで松下幸之助さんの右売れとして活躍されたそんな方になります。
1903年生まれ、2003年でなんと100歳でお亡くなりになるという非常に長寿の方で。
スピーカー 2
松下さんもね、94歳ですけれども。
スピーカー 1
そうですね。そのあたりもこれまでの方々とはちょっと違う感じですね。
ちなみにホンダ総一郎さんと藤沢武夫さんは4歳差で、創業2年目に藤沢さんがジョインされています。
井深勝さんと森武さんというのは13歳の差があったんですけど、共同創業ですよね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
しっかりとですね、会社としても後ほどご説明しますけれども、
松下電機産業としてしっかりとした大企業になったところで入られたというところでちょっと違う感じですね。
その松下電機産業といったんですけども、現社名はパナソニックホールディングスさんになります。
昨年度、23年度の売上高は8兆4964億円、8兆5000億、業利益3900億、
従業員数世界で22万8400人ですね。
グループ会社512社あるという超巨大企業さん。
スピーカー 2
覚えらんないですよね、512社あったら。
本当ですよね。
スピーカー 1
本当にパナソニック知らない方でいらっしゃらないと思います。
それぐらいの本当、ただ大きいだけじゃなくて、皆さんのお家の中にも必ずパナソニック製品はありますよね。
このパナソニックなんですけれども、設立されたのは1918年、大正7年になります。
最初はですね、松下電機器具製作所という名前だったんですけれども、
1918年、第一次世界大戦が終わる直前ですかね、1919年ですので、それの直前ぐらいですね、作りました。
その後1935年、創業して17年に松下電機産業という最近まで使われていた社名に改装して。
スピーカー 2
子供の頃はそうでしたね。
スピーカー 1
そうですね、松下電産という感じですよね。
今の社名のパナソニックっていうのはブランド名でパナソニックでした。
他にもブランド名としてはナショナルっていうのもね、前我々はよく目にしていた。
電球に必ずナショナルって書いてあったと思います。
それからオーディオ好きの方にはテクニクスっていうようなブランドもですね、あったかと思います。
あと有名な漫画で言うと花鳥島工作は初柴田さんっていうのがあれですけども、
あれは作者のヒロカネさんが松下電機産業で就職された、その経験を生かしての漫画ですので、
スピーカー 2
舞台は完全に今のパナソニックですね、松下電機産業。
スピーカー 1
ですので中にはその創業者の松下幸之助さんっぽい方ですとか、
スピーカー 2
あとはライバル企業のソニーのような会社とかが出てくる。
スピーカー 1
それでも色男ぶりで全部解決していく島工作という感じのストーリーですけれども、
代表的な漫画にもなるぐらい本当に日本の代表企業という感じですね。
現在はですね、事業セグメントとして7つございまして、
1つは暮らし事業といって、ここが多分一番なじみが深いと思います。
家電製品ですね、そういったものを扱っている。
全体の売上高のトップがこの暮らし事業、家電事業になります。
それからですね、最近できたオートモーティブ事業、コネクト事業、
インダストリー、エナジー、このエナジー、エネルギー、電池ですね。
あとエンターテインメント&コミュニケーション、
こちらがですね、さっきの暮らし事業というのが白物家電といわれる、
エアコンとかですね、あるんですけど、
エンターテインメント&コミュニケーションはテレビとかデジカメとか、
イヤホンとか、放送用の業務用のカメラとか、そういうものをやられています。
あとハウジング事業ということで、トイレとか台所とか水回り、
あと花ホームもありますけれども、住宅建材などもありますね。
なんでも人の生活に非常に密接な製品と、それからインダストリー、
それからコネクトというのは、これも事業会社向けB2Bのビジネスですね。
コンデンサーといったり産業用のモーターとか、多層基板材料、
半導体なんかにも使われるようなものだったり、
あとはソフトウェアなんかが展開されていると、
そういうコングロマリッドと言ってもいいかもしれませんね。
今のパナソニックさんであります。
今やこの大企業でみんな知ってるって会社なんですけれども、
主人公は高橋新太郎さんで、創業して18年というところなんですけれども、
高橋新太郎さんの話をしていくときに、
いろいろ活躍されるエピソードっていうのがいくつか出てくるんですけども、
そこにもちょっと関係するような創業と当時の話っていうのもあるので、
ここはちょっと毎度のようになってるんですけども、
パナソニックさん、松下電機さん用の創業から高橋新太郎さんが参画するまでっていうのは、
ちょっと軽く触れていければと思います。
この会社なんですけども、松下幸之助さんが作られたわけですけども、
この松下幸之助さんっていうのは1894年にですね、和歌山県ご出身なんです。
スピーカー 2
僕とそうなんですよ。
同じ和歌山市ですよね、現在のね。
はい、和歌山市ですね。
なので僕と同じということで、なんか非常に親近感もありますし、
そう考えると子供の頃よく授業とか、なんかよく取り上げられてたような気がします。
小学校とか。
ああ、なるほど。
やっぱり出身地なので。
スピーカー 1
地元が生んだ大スター大人ですよね。
いや、そうなんですよ。
その松下幸之助さん、県和歌山市ですね、当時は和佐村というんですかね。
そこで生まれなられてます。
スピーカー 2
はい、なんで僕もわかんないんですよ。
スピーカー 1
4歳の時にですね、お父さんが米相場に手を出してですね、大失敗をするということになってですね、
もう本当に家が貧乏になってしまいました。
で、小学校に行ってたんですけど、9歳の時にですね、もう学校に通わせることができなくなっちゃって、
大阪の火鉢屋さんにですね、でっちぼうこに出されるというふうになります。
9歳ですか、小学校3年生とかですかね。
スピーカー 2
すごいな、やっぱ昔、昔ってことね。
スピーカー 1
いや、そうですよ。和歌山県から大阪ですから当然親元離れて、
スピーカー 2
離れて。
スピーカー 1
小学校3年生の男の子がいきなりですね、見知らずのところに行って、
働きなさいと言われる、しかも火鉢ですね。
この火鉢店で、いわゆるでっちぼうこということになるんですけれども、
実はここの火鉢店はですね、2、3ヶ月でこのお店を店主が閉めることになってしまったので、
2、3ヶ月しかいなかったんですけども、松下幸之助さんがその後年ですね、おっしゃるととにかく不安でしょうがなかったんだけれども、
その時に何かご掃除とか仕事をして頑張るとですね、
当時なんかあの五銭、お金をくれたらしいんですけれども、
その五銭っていうのは非常に綺麗な高価で、それをもらったと。
その頃、小学校3年生ですから、わからないの、一文銭をもらってですね、
飴玉1個も買えるかどうかっていう金額しかなかったんですよね。
それの何十倍もする五銭をもらったっていうことで、
そこで何かお金とかそういう報酬にガーンと目覚める、救済児という感じですね。
それが相当ですね、インパクトがあったようで、
80歳前ぐらいの時にそのエピソードを話している恩恵がありますね。
まあその被罰地点というのを2、3ヶ月でやめたんですけども、
スピーカー 1
そこの自転車屋さんでですね、
6年間修行というか弟子をするんですけども、
その頃大阪にはですね、
走り始めた路面電車っていうのが走っていました。
路面電車は自転車を売っていたわけですね。
人力移動手段から電気で動く箱がこうバーっとあるんだと。
それを見てもう直感的にですね、
これから電気の時代やっていうふうに河野助少年っていうのは思ってですね。
15歳のときにその自転車屋さんを辞めて、
大阪電灯という会社に転職をします。
今で言ったら大阪関西電力になるんですかね。
電灯を扱ってる会社。
そこで15歳で小学校中途退学してる感じですので、
そこでこうやって電気工事の仕事っていうのを習いながらですね、始めます。
先がもともと企業だったと思うんですけども、
そこで頑張ってですね、成果を出しながら働いていて。
20歳ちょっと前ぐらいですかね。
実は松下幸之助さんって、
自分が成功した秘訣っていうのは貧乏だったからっていうことと、
体が弱かったことで額がなかったことっていうのはよくおっしゃるんですけども、
この頃もですね、大病をされていてですね、
血核に近い病気をされていらっしゃって、
でも病気で休むとお金稼げない。どうしよう。
誰かに看病してもらわなきゃいけないっていうことで、
入院はしてられない。看護師さんに見てもらうこともできない。
という理由で結婚したっていうことをある講演でおっしゃったんですけど、
今だったら本当にめちゃくちゃ叩かれそうな理由なんですけれども、
20歳の時にですね、井上夢美さんという方と結婚をされます。
夢美さんがちょっとどういう出自の方っていうのはほか調べていないんですけども、
この井上夢美さんという奥様ですね。
キーパーソンになります。
そこで15歳から大阪電灯で仕事をして、
1917年、22歳の時にですね、
大阪電灯を退職して、電気の時代だというふうに思っていましたので、
電球は作れなかったんですけども、電球を差し込むソケットをですね、
自分で作って販売を始めると。個人事業主みたいなことを始めました。
その時には奥さんの夢美さんと奥さんの弟さん、
利夫さんということがいるんですけども、
幸之助、夢美、利夫の3人で個人事業主、
そのソケットを作るということを始めました。
この義理の弟さん、井上利夫さんという方なんですけども、
この方ですね、後に山陽電機の創業者になっていきます。
そうなんだ、すごい。
最初に始めたその個人事業主っていうのがあるんですけど、
これだと思って作ったソケットがまだ全然売れなくてですね、
困窮して、ソケットだけではちょっと難しいということで、
電気を配線する器具、そういったものを作っていこうということで、
翌年ですね、1918年松下電機器具製作所っていうのを、
この3人でスタートをさせます。
最初の製品っていうのがアタッチメントプラグっていうもので、
電球をやっぱり差し込む、これソケットっちゃソケットだと思うんですけども、
そういったプラグを作って売り始めたら品質がものすごく良くてですね、
しかも安くてかなり売れたということで、
その年の年末にはですね、
従業員が3人で家族で始めたのが20人になったそうです。
それで20人でちょっとずつ売れてっていうことだったんですけども、
そこから5年後ですね、
ここでこの松下のですね、最初の最大のヒット商品が生まれます。
それがですね砲弾型ランプというものなんですけれども、
ジェラーさんのお手元には写真があると思うんですけども、
スピーカー 1
自転車用のランプですね。
昔の自転車をイメージしていただくとそこにくっついているランプが、
砲弾型というか吊り金型というかですね、そういうものです。
今のようにですね、前輪につながっていて発電機能っていうのはなくて、
その中に電池を入れて電灯を照らすというものです。
自転車っていうのは車の代わりの移動手段でした。
夜走るための明かりっていうのが実は、
ロウソクとか石油ランプしかなかったというところに、
自転車用のこのランプっていうのを製造して販売するということで、
それが爆発的なヒットになったことになります。
その後ですね1927年にはですね、
その自転車備え付けのものだけではなくて、
四角い角型のランプ、四角い懐中電灯みたいなものですね。
自転車にも付けることができる。
そういったものを作って販売を始めました。
この時にナショナルっていうですね、
商標を付けたのの始まりということになります。
ナショナルマークの角型のランプっていうのも大成功してですね、
この後電熱機っていう分野に進出をしていきます。
これまでは電気の配電の器具を作って、
電灯なんかも作ってましたけれども、
電気を通して熱を生むっていう技術に着目して、
そこで製品を作っていくんですけれども、
そこで作ったのがアイロンを販売して、
これまた成功です。
続いてアイロンの勢いに乗って電気コタツも作って、
これも好評だったということです。
これが1927年ですね。
会社としてスタートしたのが1918年ですから、
10年弱でですね、ヒット商品にも恵まれて、
多角化してですね、
違う領域の電気製品を作るようになったという感じです。
1928年なんですけども、
配線器具と電熱機、商品どんどん増えていきました。
その時のですね、月賞が10万円、今の価値だと5300万円ぐらいということで、
年賞でいうと6億ぐらいの企業ですね、今の観算でいうと。
なので個人事業主というには全然、本当に中小企業だと思うんですけども、
勢いのある中小企業、スタートアップっていう感じですかね。
創業して10年ですね、企業経営をしていて300人の従業員が出たというところで、
こういうことをおっしゃってます。
企業は社会からの預かり者である。
その事業を正しく経営して、社会の発展と人々の生活の向上に貢献するのは当然の務めである。
事業の利益は社会に貢献した報酬として与えられるものである。
という思いに至ったという記録があるんですけども、
こういう発想というか考えっていうのは、
聴人にはあるかもしれないですし、
昔からの大見聴人の塾箇所みたいなところでも、
みたいな言葉っていうのはあったりするんですけども、
事業人としてその経営哲学的に今の社会に貢献して、
その報酬を得るんであるっていうことを明確に謳うっていうのは、
松下幸之助さんが最初で、この1928年におっしゃったという感じになります。
そこからですね、社名変更を松下電機器具製作所と言っていたのを、
松下電機製作所というふうに解消していくんですけども、
その前ですね、ラジオなんかも作っています。
ソニーの時にポータブルラジオの話をしましたけども、
この時はポータブルではないですね。
今に置いておくような、ちょっと家具帳のようなものをですね、
そういったものを作ったりしています。
あとですね、この1932年まで行くんですけども、
創業してもうだいぶ経つタイミングですけども、
この時にはよく松下幸之助で水道哲学っていう言葉があるんですけども、
水道の水のようにですね、安くて横にも行き渡るような製品というのを
世に出していくんだと。
スピーカー 1
それによって世の中から貧乏を克服して人に幸福をもたらし、
楽土を建設できると。
我が社の真の使命もまたそこにあるということで、
水道のような製品を作っていく。
世の中を良くしていきたいということを歌っています。
この辺りのですね、純粋にお金を稼ぐっていうことももちろん大事にされていたんですけども、
世のため人のためとか、社会貢献ということをかなり強高にですね、
一種、宗教にも似たような人を惹きつけるような言葉で歌っていったっていうのは、
松下幸之助さんの一つの特徴かなという気はしますね。
スピーカー 2
今で言うESG投資とかSDGs的なのを走ると言えば走るかもしれないですね。
スピーカー 1
稼いでなんぼでしょうっていうところで、まず社会貢献なんだというところ。
この考え、ちょっと今時間をかけてお話しているんですけども、
今回の主役の高橋新太郎さんっていうのが、まんま引き継いでいく感じですね。
それを経営で生かすとこうなるんだっていうのが随所に出てくるっていうのが、
非常に興味深いところでありました。
そしてどんどんどんどん発展していった松下電機製作所ですけれども、
1933年ですね、大阪のカドマというところに本店と工場を作っていきます。
このカドマっていうのは今でもですね、パナソニックさんの本社がある予定になっていますね。
ここで1933年にですね、事業部制というのを導入していきます。
第一事業部はラジオを作っている部分ですね。
第二がランプ、それから乾電池を作っている部分。
そして第三事業部っていうのが配線器具、電熱品などを作っている。
そういう三つの事業を作っていきました。
そこからしばらくしていくと、モータル事業部っていうのも作っていきます。
モータルっていう言葉は馴染みがないと思うんですけれども、モーターのことですね。
モータ事業部っていうのも作っていきました。
この事業部制の特徴っていうのは、すべての事業部が独立再産制ですね。
つまりラジオで儲けた金額をランプとか電池の方に投資しようとか、
配線器具で儲けた部分をこのモーター事業部、モータル事業部に振り分けていこうということは一切しない。
それぞれの事業部できちっと責任を持ってやっていくというものですね。
この事業部制の考え方っていうのもこの後の経営で一貫して守られていたところになります。
その後1935年にナショナル蓄電池という電池の会社。
それからこれまでは日本の国内向けにいろんな製品を作ってきたんですけれども、
いよいよ輸出ということで1935年に松下電気貿易という会社を作ります。
そして1936年にはナショナル電球ということで、
ナショナルの電球って一番イメージするものですけども、そういったものが設立されると。
そしてその1935年の12月に組織変更をして、松下電気産業株式会社に社名を変えたということになります。
その翌年ですね、1936年に今回の主人公である高橋新太郎さんが参画してくるということになります。
これまでですね、1918年に創業して家族3人で始めた事業がですね、
どんどこどんどこ製品も増やしていって従業員も増やしていってですね、
この1936年の松下電気産業っていうのは従業員が約3500人。
電球ソケット、自転車用ランプ、電気アイロン、乾電池、電球まで作るという600種類の製品を製造して販売をしている。
急速に成長している勢いのある企業。
そこにこの2番経営者の高橋新太郎さんが参画していきます。
ということでこの高橋新太郎さん、どうやって参画してきたのか。
スピーカー 2
ちょっと楽しみですね。
スピーカー 1
どんな人なのかまだちょっとこう、
スピーカー 2
まだわからないですよね。
うん、わからないところですが。
このあたりはかすみさん、次回いよいよNo.2の高橋新太郎さんに迫っていこうかと思っておりますので。
はい。