1. 田中健士郎の働き方ラジオ
  2. #151-1 松山工業3代目アトツギ..
2024-04-01 25:25

#151-1 松山工業3代目アトツギ物語。続けることが苦手だった私を変えた部下の一言(松山工業株式会社代表 鵜久森洋生さんゲスト回 1/2)

「ご縁」を大切にし、人と人、企業と企業を繋げるコネクター、ウクモリヒロオさんにお越しいただきました。前編では、アトツギ前後の苦労と、変化のきっかけとなった部下の一言、その後の会社を変えていく挑戦などについて伺いました。

▼ゲストプロフィール 松山工業株式会社 代表取締役社長 鵜久森洋生
1972年東京都出身、1990年テキサス州ストラットフォードハイスクール卒、1995年法政大学経済学部卒業後、岡村製作所(現・オカムラ)に入社。2000年松山工業株式会社に入社し、2010年より現職。
松山工業株式会社の3代目経営者として、ご縁を大切にしながら、現在は人的交流や企業間連携のハブ役として活動中。また、昨今は松下幸之助氏が大切にしていた言葉のひとつでもある「共存共栄」の実現を掲げながら従来の枠に捉われない独自の方法で、異分野連携や起業家支援、イベントの企画・運営など複合的な活動を行っている。

▼SNS等

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00:06
働き方ラジオ始まります。 株式会社セッション・クルー代表 働き方エヴァンゼリストの田中健士郎です。
このラジオは、誰もが自己表現をするように情熱を持って働く、そんな世界を目指す仲間づくりをしていくポッドキャスト番組になります。
皆さん、自己表現していますか?
はい、ということで今日はですね、ゲスト回ということで、なんとですね、リアルで今日は収録をさせていただいております。
働き方ラジオは割とオンラインが多いんですけれども、今日はですね、オフラインという形で進めております。
ということで、早速今日のゲストなんですけれども、松山工業株式会社3代目代表の鵜久森裕夫さんにお越しいただいております。
鵜久森さん、よろしくお願いいたします。
はい、ということで今日はですね、なんとですね、とあるマチコーバのイベントにちょうど合わせてですね、この収録をさせていただいているんですけれども、
川口のマチコーバ芸術祭というものにちょっと参加しておりまして、ちょうどこの近くにどっか収録できるとこないかなぁと探していたところ、
見つけたのが、皆さんご存知ですかね、カーシェアリングのタイムズのカーシェアリングってあると思うんですけど、
あれの車の中ということで、なんと今日は2人車の中で収録をすると、だいぶ外から見ると怪しい感じで、
駐車場の中っていうね、発信もせずずっと駐車場の中で車の中で2人で話すという、ちょっと映像はお見せできないんですけれども、
そんな感じで今日は始めていきたいと思います。
でも意外とちゃんと撮れてそうですね、音も。あんまり雑音も入らなくていい場所なんじゃないですか。
静かですよね。
そうですね、そうなんですよ。なので意外とカフェで撮るとかよりも、これいいんじゃないかなと思うので、
ポッドキャストをやる方ぜひお送りしたいと思います。
はい、ということで早速ですね、今日も本題に入っていきたいと思うんですけれども、
くもりさんですね、現在は松山工業株式会社の経営者でもありながら、同時にいろいろな活動もされていて、
ご縁というのが一つのテーマだったりされるのかなと思うんですけれども、
人的な交流とかコラボレーション、あと企業間連携のハブ役としても大活躍をされているというところで、
本当にですね、町工場だったりとかいろんな業界をどんどんつなげていく役ということで、
非常に最近僕も町工場絡みのね、方々の行為が増えてきているので、
その中でうくもりさんをちょっと話し聞きたいなというところで今日はお呼びしました。
03:01
ありがとうございます。
はい、ということでちょっと早速ですね、まず自己紹介というところで、
今日リスナーの皆様に、うくもりさんってどんな方なのかって簡単にお話しいただけますか。
はい、ありがとうございます。改めまして松山工業のうくもりと申します。
私の会社はですね、工業用の素材とか部品を扱う商社をやっていまして、私でちょうど3代目になります。
会社自体はもう少しで80周年を迎えるというふうな感じで、実は意外と歴史的には古い会社です。
はい、で、もともとはですね、ゴム屋だったんです。
ゴムの成型品という、要はタイヤ機みたいにゴムのパーツを作る会社だったんですけども、
それで一時期はブラウン管テレビという、まあ1世代の前のテレビですよね。
あれがまだ需要があったときにはですね、世界シェアのだいたい5割ぐらいのテレビに、
うちのゴム部品が使われていたと。そんな過去があります。
ただまあまあ、うちの会社はそうは言っても、今じゃあ何やってるのかっていうふうなところでいくと、
そこから派生して、例えばシリコーンと呼ばれる原材料の製品をお客様にご提供したりとか、
従来からやってるゴムのパーツだけではなくて、樹脂の加工品だったりとか、
あとはですね、最近ですとスタートアップの支援を通じて製品化を協力してあげたりとか、
いろいろなことをやるようになってきています。
賞者としての、いわゆる物流的なところも含めたところもやりつつ、
そういったスタートアップの支援というか、かなり幅広くいろんなことをされているという。
そうですね。今紹介したのはあくまでも松山工業が何をやっているかというふうなところなんですが、
私はですね、基本的には既存のお客様の取引というのは社員に全部任せてしまって、
未来を作るというのを私の役割にしています。経営者として、例えば給与計算だったりとか、
あとは契約書を読むとか、そういうのは当然私がやるんですけども、
その他の時間はほぼほぼ新たな未来を作るというふうなことで動いています。
なので先ほど田中さんおっしゃったように、応援を大事にしながら人をつないだりだとか、
企業間をつないだりというふうな活動を徐々にしていくようになったというのが、
ここ10年ぐらいですね。
なるほど。経営をされている中でも結構いろんな変化があって、
今は逆に現場を中のメンバーに任せてどの未来を作る?
そうですね。また多分後で語ることになると思いますけども、いろいろ運用曲折はありますね。
なるほど。
06:00
その後に、今ようやくちょっと未来の光が見えてきたかなというふうな感じの状況になっています。
そうですね。めちゃくちゃそれ聞きたいなと思うので。
早速ですね、やっぱり久保根さんは3代目っていうところもあるので、いわゆる後継経営者。
この後継経営者、私も最近いろんな方と出会ったけど、皆さんいろんな物語があるんですね。
なので、せっかくなので少しどこから話していただくかもお任せではあるんですけれども、
ぜひ歴史というかストーリーを聞かせていただけますか。
私はちょっと普通の人と変わっているのは、高校時代がアメリカに住んでいて、帰国史上なんですね。
だからそもそもそのときに、ちょっと感覚が日本人離れをしてしまったのかなっていうのはあるんですが、
その後大学は日本で入って卒業した後は、オフィス家具のメーカーで6年ほど営業マンをやっていました。
そこでですね、即場結婚をした相手が、実は今の松山工業の先代の娘さんだったと。
なるほど。ある意味なんですかね、お婿さんという。
そうですね。
直系のお父さんからっていうわけじゃないですか。
そうですね。
なるほど。
転職をして、もう今から23年前に松山工業という会社に入ったんですけども、
やっぱり後継ぎ物語ってさっき言ってましたけど、後継ぎってやっぱり入った瞬間から周りが皆さん、
やっぱりあいつなんで入ってきたんだみたいなところから始まります。
その時点では結婚もされていたっていうのは。
入社して、すぐにまずは経理をやりまして、数字の勉強っていうのが大事だよということで経理をやって、
そこの部分は後々本当に生きてくるんですけども、その後に営業のファン社員からスタートしてですね、
どちらにせよ実績を出していかなくちゃいけないんですが、
会社側の先ほど言ったようにですね、世界シェアの5割を担うような製品をやってた過去があるということで、
まあ長がつくほど保守的な会社になってまして、何か新しいことをやろうとすると、
あいつまたなんかうちの会社をおかしくしようとしてるぜみたいな。
しかもちょっと後継ぎみたいなところもあるからこそその影響力みたいなことも気にしていろんなこと言われるわけですね。
おっしゃる通りですね。
まあ本当そういうふうなところでですね、もうその過去のブラウン管テレビのパーツなんていうのは、
得の当に世の中からなくなってるんですけども、過去のその栄光を引きずっている方々がすごい多かったっていうのもあって、
09:00
最初入った時はですね、もう本当に毎日、夢はあるんだけどもどうしようかなと思いながらも、
もやもやずっとしながら、でも何かやらなくちゃって思いながらも何もできない。
そんなような状況が約実は5年ほど続きました。
結構長いですよね。
そういうもやもやした状態で、なんか新しいことしなきゃいけないんだろうなっていうふうに思っても、
ちょっとこう止められるというか、ブロックがかかるみたいな。
実際に日常のお客様への、普通の営業マンとしてのですね、
活動が忙しかったっていうのもあるんですけどね。
ただ、それだけをやっていたんじゃダメだということで、
例えば当時で言うと環境認証を取ったりとか、いろいろ新たなことをやったんですけども、
そういうふうなことも、またなんか会社が忙しくなっちゃうよって言われて、
やっぱりそういうふうなことが肯定的には捉えられなかったという時期が続きました。
たまたま2010年ぐらいに、私自身がうちの会社の今持っているリソースで、
何か新しいことってできるのかなと思った瞬間に、
もともと私が世界的に有名なロボットアニメが好きでですね、
ロボットなんかできないかなと思ったんです。
当時からもう工業用のロボットっていうのは、世に出てかなり技術が進んでいたので、
じゃあ福祉介護向けのロボットで何かできないかなって調べ始めました。
その時がですね、2010年、まだサービスロボットって今では当たり前に言われている言葉もない時代から、
これをやろうとしてですね、経営者で勉強はしてたので、
マーケティング分析をしようということで調べたところ、
うちの今扱っている商材がそのままロボットの業界で使えそうだなっていうのが分かったのと、
あとは市場がまだないので、その部分をどう捉えて、
スパンをどれぐらいで成果を出していくかみたいなところが、
課題ではあったんですけど、やる価値は十分にあるなと思ったので取り組み始めました。
当然ながら社内では、なんかロボットとかって自分の趣味で遊ぼうとしてるぞあいつと、
いうふうな感じで。
またその一部の方々がやっぱりいらっしゃるので、そういう声も届くっていうことですね。
そうですね。
何をやればいいかと、
要はお客様もまだこの世に存在していないような業界の分野で何か貢献しようと思ってもステージがなかったわけですね。
12:02
2010年から実はロボコンのサポートをしまして、
共産企業というのもやりましたけど、出展をして選手の方々と仲良くなる。
社内的に彼らがこういうふうなロボットの業界でプレイヤーになっていくんだっていうのは分かっていたので、
そんなことをやり始めました。
ロボコンっていうのは戦うようなやつですか?
そうです。
なんか見たことあります?ネットとかで結構盛り上がるやつですよね。
そうです。
あれのスポンサーというか。
そうですね。
それから入ったんですね。
はい。
当然ながらすぐに収益につながるっていうのはほとんどなく、
ただ徐々にですね、そこから今日先ほど出たキーワードになるんですけど、
いろいろな人と交流することによって、
ちょっとずつですけども年間で何人とか何十人っていう単位で
応援が広がっていったっていうのが2010年ぐらいからです。
変化の兆しがそのあたりで。
そうですね。
ただ想像ながら今だから分かるんですけど、
社員からしても収益も上げてないような新しいことばっかりやってる人を
評価できるわけがないんですよね。
なるほど。
はい。
だから私自身はなんでわかってくれないんだっていう思いをやりつつも、
現場の人たちはあいつ遊んでるよ、
まあ確かにロボコンをサポートするとか言っても、
遊んでる人しか思われないのは今ではわかるんですけども、
当時はそこでものすごく圧力が出ていたのをものすごく思い出します。
なかなかまだ、だから理解は得られないけれども、
まあ自分はもうそこに可能性があると思って。
そのタイミングでは代表にはもうなる?
私が2010年に代表になった。
ちょうどじゃあその頃ですね。
そうですね。
ここはちょうど代替わりしたぐらいのタイミングで、
いろいろなことをまたやり始めたっていう。
ただまだまだ理解されてないって感じですね。
そうですね。
その状態では。
実際私自身当時を振り返ると、
自分で俺これやるぞとか言いながら、
やれてないこととかも実はいっぱいあったの。
口ばっかりみたいな。
なるほど。
で、あるときに社員から、
社長は新しい文化を作るのを熱心にやってるし勉強もしてるから、
逆に言うと既存のお客さんは、
我々でも徹底的にご縁を深めていくから、
そういうのに特化してくださいと。
いうふうなことを8年前、いや今からだから10年ぐらい前ですね。
10年前ぐらい。2014年とか。
そうですね。話をもらって。
徐々に社内で分業するようになった。
やっぱり社員としては新しいことをやれって言われて、
数字が出ないで苦しい思いをするよりは、
それが社長にやってもらえれば一番いいか。
15:01
確かにそういう部分はありますよね。
社長だからこそできるという。
なのでそういうふうなところで分業ができるようになったと同時に、
うちの会社は私が経営者になったときに、
お客様のお役に立つためにできることという言葉を会社の中心に添えまして、
結局そのお客様に対して何ができるかによって、
会社の繁栄だったりとか、あと社員の幸せ、
そこに全部つながっていくんだよっていうのを少しずつ解き始めてたら、
社員が自発的にそういう意見を言うようになってくれました。
そうなんですね。
なんかそこには結構、何ですかね。
社員も側にも結構変化があったんじゃないかなと思うんですけど。
私自身がですね、もともとこれを言っておかないと多分、
変化点が分からなくなってくるので言っておくと、
もともとが実は腸がつくほど三日坊主人間だったんですよ。
そうなんですね。
俺やるぜとか言いながら、
なんか翌週になるともう何もやってなくて、
またあれやめてない?みたいな。
なるほど、なるほど。
私自身がやっぱりそれをあるときに、
すごい通列に感じるときがありました。
それはもう社員の方から、
社長は言ってるばっかりで何もやってないじゃないか、
続けられないじゃないかってダイレクトで言われたことがある。
それは結構なんか来ますね。
いや、ものすごく答えました。
なんかやっぱり社長にそういう、ある意味、
人格までいくか分からないですけど、
これはやるんだと思って言ってることに対して、
言ってるだけじゃないかって結構、
あっちも勇気を持って言ったからこそ思いものがありますよね。
よくぞ言ってくれたなって。
そのときにものすごく感動して、
そうか。
じゃあまずは私自身何かを続けてみようっていうふうなことで、
性格変えようと思ったんです。
そうなんですね。
じゃあ、従業員が変わったっていうのもありますけど、
うくもりさん自身がちょっと変化したタイミングがあったんですね。
それでまず始めたのが、ブログを書くっていうふうなことで、
もともと文章を書くのは好きで今でもノートを書いてますけど、
それをまず5年間前に書き続けるっていうのをやろうと。
5年間やったらさすがにやめなくなるだろうと思って、
実はそれで1回5年間アメーバブログを続けて。
確かに当時主流のあれですよね。
当時は私、うちの会社は中国に生産拠点があったので、
なので中国なんかにも頻繁に出張してたんですね。
なんかノートでもこの間見ましたね。
そのときはネットがつながらないので、
グレートファイアボール。
なので1週間書き溜めとかをして、
手書きでも止めないようにするっていう努力をしまして、
18:02
要は全部予約投稿をしてですね、途切れないように。
それだけもう本当に欠かさないっていうのを、
1日もというかやってたんですね。
本当に社員が言ってくれた言葉で、
自分を変えたいなって気持ちがすごい起こりまして、
そこから徐々に徐々に継続できるものが増えてきて、
例えばロボコンの支援なんかももう今年で14年目なんです。
毎年ロボコンの公式のステッカーを一応協賛してるんですが、
それも全部絵柄を私が全部作ってですね、やってるんですけども、
そんなのも含めてやっぱり続けていくという風なことができるようになりました。
続けるっていうのが大きなキーワードで、
やっぱりその社員が勇気を持って、
ちょっときついことを言ってくれたことが大きな変化。
今でも感謝ですね。
当時を振り返ると、アゲインストの数は増えてたんですけども、
アゲインストにはなりたくないんだけど、
創設料を得なかったっていう人が何人かいて、
要はなぜかっていうと、私自身も不甲斐ない人間だったので、
言いたくはないけどさっていう風な人を、
でも本当にそこから変わってきて、
やり続けるっていう風なことができて、
ありがたいことにロボコンからご縁が始まって、
いろいろな今にもそうですけど、
ロボット系のスタートアップだとか、
ロボットをやっているかなり中堅どころの会社だったりとか、
少しずつやっぱり受注が増えてきました。
そうなってくると、やっぱり言えなくなるんですよね。
遊びじゃないかって言ってたところで、
仕事を生まれてるわけですから、言えなくなってきて、
むしろそこからうちの会社の一番大きな変化点は、
そういう風なお客様を見ずに文句を言っていた人たちが、
ほぼほぼいなくなった。
なるほど。ここである意味、メンバーがガラッと変わったんですね。
そうですね。
ですから結構、くもりさんのところは、
社員入社してから長い人多いんですかって言われるんですけど、
うちはたぶん9割ぐらい変わっちゃってますね。
そういうことですよね。この10年ぐらいで変わったっていう。
そうです。
ただやはり後から入ってくる人たちは、
私がやってることも引き伝えで、
遊んでるようには見えるんだけど、
しっかり働いてるっていうのも言ってくれますし、
ここもう5年ぐらいは、スケジュール管理ソフトのほうには、
何で行くからっていうのを全部変えてるので、
意外とえげつない会社名が出てくるので、
皆さん、社員が驚く。
21:01
いわゆる超大企業だと。
そうですね。
そういったところからも声掛けをいただくようになって。
そういうふうなところで後継ぎとして入って、
ものすごく苦労をして、
とにかく本当に不自由をなめるっていうのはこのことかと思うぐらい、
つらい思いはしたんですけども、
そんなときにも、救ってくれる人が周りに何人かいた。
なるほど。
それが今の私のベースになってるような気がする。
ちなみにさっき町工場のイベントで、
そのときにやっぱりアドバイスをくれた先輩経営者いました。
割と苦しいときに。
そうですね。
そういうときはやっぱり周りの経営者の方のアドバイスとかって結構大事だったり。
そうですね。経営者のアドバイスも大事ですし。
また、経営者のアドバイスっていうのは、
私はこれは持論で、他の人が同じ思いをしているかどうかわかりませんけど、
結果的にはそれを聞いて、自分が実践できるかどうかっていうところが、
結構、この人からこういうことで助けてもらったっていうだけで終わっちゃう人も多いので、
そこからどう前に一歩踏み出すかっていうのは結構大事なんじゃないかなって思っています。
この一歩を踏み、聞いて参考になるなと思って満足しちゃって終わることも多いと思うんですけど、
それを自分ごとにして、どういうことが大事なんですかね。
私自身はもうここ10年、15年ぐらいの経験値からいくと、とにかくまず第一歩ですね。
聞いたこと。
何でもいいから。
まずやってみる。
そうですね。
言われた通りにやってみるとか。
そういうのを、結構さっきの社員の話もそうですけども、
やっぱりそれを受けて自分がまずやってみるみたいなことがすごい大事なのかもしれないですね。
そうですね。行動力って、誰しもが多分、本来は行動力持って一歩踏み出せるはずなんですけども、
何かしら理由を作ってやらないっていう選択をするから、一歩踏み出せないだけなので、
理由を作らないようにするっていうのはすごい大事かもしれないですね。
なんかやる理由とかっていうよりも、むしろやらない理由を作らないっていう。
確かに、せっかくアドバイスしてくれたんだから、明日やってみればいいじゃないっていう、
簡単な話なんだけど、何か忙しいとか、ちょっと今は違うかもとか、何かしらでやらないみたいな。
そこはもう本当に、私でも陥る可能性があるところなので、そこら辺はものすごく今でも気をつけてますね。
でも本当に後継っていうところで、いろんな後継経営者さんと話をしますけれども、
24:03
やっぱり何かしら変えていく必要性が絶対出てくるし、
逆に経営者、誰が経営者かによって、得意分野というか、なんかあれも違うので、
逆に先代はそれでうまくいったけど、自分がうまくいかないとき、
やっぱり自分のやり方にどこかで変えていく必要が何か出てくるんだなと。
そこはね、田中さん面白いんですけど、私は、これ社員にも言ってるんでね、あれですけども、
基本的に先代が言ってきたことの真逆をやってきた。
おお、まさに。
今回もお聞きいただきありがとうございました。
ちなみにこの番組は、読むポッドキャスト、働き方ラジオとしてノートでのテキスト発信も行っております。
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番組への感想は、ハッシュタグ、働き方ラジオで投稿いただけると嬉しいです。
また、コミュニティ運営、音声配信など、その他、企業広報などのテーマでセッション狂うと壁打ちしたい方は、
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カジュアルにセッションしましょう。
それではまた来週。さよなら。
25:25

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