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スピーカー 1
よろしくお願いします。前回まで、松下幸之助さんと松下電機産業の最初の創業のところのお話をしました。高橋荒太郎さんが、17歳で朝日寒電池という会社に入社して、若くして常務取締役になって、社内の大改革をした矢先に、松下電機との提携の話を急に聞かされて、それが1935年だったんですけども、
翌年には資本提携、つまり所属していた会社が、松下電機産業の産化に入る子会社になるっていう話まで進んだっていうのを、急に聞かされたみたいな状況というのが前回まででしたね。
スピーカー 2
今日はその資本提携の背景というか、そのあたりと松下電さんにジョインしてた高橋荒太郎さんのことについてお話をしていきたいんですけども。
スピーカー 1
この資本提携の際に、高橋荒太郎さんお一人が松下電機産業へ転職をされています。
子会社なので朝日寒電池の社員の皆さんは、松下電産グループの社員になってるんですけども、親会社に高橋荒太郎さんは引き抜かれるような形で、一人だけ所属が変わっています。
それは、この朝日寒電池の社長、松本亀太郎さんという方なんですけども、この社長の社名で君はこっちだって言って、転職をしたということになります。
松本亀太郎社長っていうのは、結構いい人だったんですね。
人当たりが柔らかくて人情深い人っていう記録が残っていて、そういう方なんですけども。
そもそも今回の松下電産との提携話は、松下幸之助さんから松本亀太郎さんに声をかけたって言われて。
地元の大阪の在会の仲間、ライバル企業だったんですけども非常に親しいというところで、競い合うんじゃなくて一緒に仕事しようじゃないかっていうので、提携が始まりました。
当時松下電産っていうのは大きい会社で寒電池業界で日本トップ。この朝日寒電池っていうのも経営が悪かったわけではなかったみたいです。
小さいながらも老舗メーカーとして一生懸命頑張って、しっかり高橋新太郎さんの改革もとして放送して、結果を出していたっていうところなんですね。
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ナンバー2としてまず改革していったってことですよね。
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そうですね。
なので非常に現業はうまくいっていたと。これは半分推測というか、当時の朝日寒電池で仕事されていた松本亀太郎さんの親戚筋の方のお話なんですけど、全然問題があるように思えなかったけど、その提携の話っていうのは社内でもすんなり受け入れられたと。
それはもう社長のことみんな信頼していたし、松下前さんっていうのも敵だからどうこうっていうような感覚もなく、もともと仲良かったしそうだよなぐらいの感じで受け入れたそうなんですね。
でも別に必要性はそんなに感じないけど悪くはないんじゃないぐらいの感じだったみたいです。
これも推測になるんですけど、松本亀太郎さんっていう社長はおそらく松下電機産業の工場だったりとか経営の実態っていうのを松下幸之助さんから聞かされて、松下電産っていうのは当然いろんな600種類の製品を作っているような大企業ですので、
将来のことをイメージするときに未来を考えると、やっぱりこのまま一つの関連地っていうところで生きていくのは非常に難しいんじゃないかっていうことも考えられたか、あるいはすり込まれたかっていう感じだったんじゃないかなというふうに思うんですね。
なのでそこに大きいところと一緒になるっていうのはなんとなく松本亀太郎さんの方の気持ちとしては理解ができるんです。
じゃあ一方で松下幸之助さん、松下電産っていう日本のトップメーカーが、なんでそんな老舗の関連地の会社の提携ということを考えたのか。
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確かにトップですもんね。
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そうなんですよ。そんなに提携をしなくてもトップなわけですよね。
そこなんですけれども、実は資本提携をする、一緒に全面提携をしようということで、一緒に販売会社を立ち上げた1935年っていうのはですね、この松下電気産業というのは組織を改組してですね、ちょっと作り直して事業部制をベースにした9つの子会社をですね、作ってグループ経営に移行されて。
で、その中には本体からカーブアウトする形で作った分社もあるんですけれども、M&Aで作ったような会社もありますというので、一気にですね、9つの会社プラス親会社のですね、マネジメントをしなきゃいけないっていう急にあのでかくなっちゃったって感じですね。
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で、そこの中でやっぱりこう連結経営をしていくって感じですね、今の意味でいうと。そこの中で必要になるのは一元的な経理システムっていうのを構築しなくてはいけないと。数字で全社の経営っていうのをしっかり見ることができると。かつ松下電産というのは事業部制、独立採算というのを胸にしていたので、それぞれの独立性を生かしながらグループ全体をしっかりと見るっていう、そういう経営をしなきゃいけないと。
で、そういう人材がおそらく今いないなっていうふうに思ったんじゃないかな。あるいはそれを構築する人っていうのは誰かいないかなっていうのはずっと探されていたんじゃないかなと思います。その時にですね、朝日寒電池取締役支配人の高橋新太郎さんに白羽の矢を立てた。
高橋新太郎さん、二十歳で株式会社に組織改編をした朝日寒電池の経理組織を構築して、二十四歳で取締役になって業績悪化の事業を再生したっていう、それも胆力、努力、知力でもそういうもので乗り切ったっていう実績もある三十二歳。
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うん、すごいですよね。
スピーカー 1
すごいですよね。松下コノスケさんじゃなくても、ぜひ我が社に行っているような人材の方だと思います。
前回も話しましたけども、高橋新太郎さんは松下コノスケさんと直接話をされたことっていうのはなかったですね。
でもおそらく大阪で会った時に朝日寒電池社長の松本亀太郎さんは、松下コノスケさんにですね、うちの常務がこんなすごいんだと、こんなことやってくれたんだっていうことを話されていたんじゃないかなと思うんですよね。
片屋で、会会社でこんなのやってるって話を聞いて、いやいやうちにはすごくて若くて生きのいいのがいてねっていう話をされてたんじゃないかなと。
それでこの方に入ってもらってっていうことを考えたんじゃないかなっていうことを推察します。
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評判を聞いててってことですよね、もう。
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そうですね。
あったことなかったんだもんな。
で、諮問提携をして、その高橋新太郎さんが松下電さんに来るっていうことが、この条件とも言われているんですね。
おー、なるほど。
松下コノスケさんの使命。
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えー、すごい。
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という状況でですね、いったら成り物入りで松下電さんに入ってきたスーパールーキーというか、そういう感じなんですね。
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じゃあまあそれトップ同士の話だった方ですけれども、当のですね、高橋新太郎さんどうだったか。
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当時33歳になっています。昭和11年3月25日っていうのは転職の日だったそうなんですけども、
その日が生涯忘れることができない日っていうふうに考念を語っていらっしゃいます。
何が忘れさせなかったかっていうと、強く感銘を受けたことっていうのが2つあると。
1つはですね、この松下コノスケさん、創業者の経営理念っていうのが明確に示されて、それに基づく経営の基本方針が確立していることっていうのがあるんですね。
2つ目は人を大切に育てている。
続けてこんなことをおっしゃってます。
もしこうした理念が前の会社にあったならば、あのように思い悩まずに方針を定めることができただろう。
自分は大改革をされてきたんですけれども、3ヶ月で結果を出して立て直すことができたんですけども、
その前の1年半っていうのは、何をやってもうまくいかなかった状況もあります。
なので純粋に改革を成功し続けさせたではなくて、ずっと苦労して、
社長に相談しても君のいいようにやりなさいってきっとおっしゃってくださったんだと思うんですよね、当時の社長は。
それで頑張って、ロールモデルもない、一生懸命考えながらやるしかないっていうところで、
あ、こうすればいいのかっていう、そこに絶対成功の教科書があるみたいな感覚だったのかもしれないなと。
ここから入社した昭和11年3月25日以降ですね、高橋新太郎さんは何かっていうと、
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創業者がつくった経営の基本方針っていう言葉が出てくるんですね。
そのとおりにやっていけばすべてうまくいくっていうようなマインドになってきます。
じゃあその松下電機産業の経営の基本方針っていうのは何かっていうのはちょっと気になっていると思うんですけども、
これはですね、今のパナソニックさんのホームページにも掲載されています。
経営の基本方針って言ったときに、公領、信条、七精神。
七つの精神で七精神なんですけども、
この三つが基本の骨子というか、憲法みたいなものであります。
公領にはこんなことが書いてあります。
産業人たるの本文に徹し、社会生活の改善と向上を図り、
世界文化の進展に寄せんことを期す、というふうに書いてます。
企業というのが営利を求めるだけじゃなくて、社会のためにっていうことを、
もう本当に昭和一桁大から受かっていたっていうところですね。
信条っていうのはこういう感じです。
向上発展は各員の馬心協力を得るにあらざれば得が出し、
各員姿勢を旨とし一致団結社務に復すること。
ちょっと昔の表現なんですけれども、もう社員一丸となって頑張ろうっていうことですね。
だいぶ違約してしまいましたけれども。
それから私精神っていうのは、7つあるんでここではすべて申し上げないですけども、
産業報告の精神とか、公明政大の精神とか、感謝報恩の精神とか、
そういうことが書かれているんですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
そういった骨子があって、それ以外に前回松下幸之助さんが講演で語った
水道哲学っていう、産業人の使命は貧乏の克服である。
水道の水のごとく物資を豊かに世の中に出していくことで、
そういったものをなくすんだっていうような考え、産業人としての使命。
そういったものが高橋新太郎さんが言う、松下電機の経営の基本方針なんですね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
これを見てガーンと受けてですね。
でも常にそこに則っていけばうまくいくんだということが、
そのときにわかったというか、気がついたというか、そんな感じになって。
その衝撃を受けた経営の基本方針を頭に掲げながらですね、
高橋新太郎さんが松下電さんに入社して、どんなポジションで入社したかということなんですけども、
転席後は監査課長として入社をすることになります。
前の会社で取締役No.2だったんですけども、
大会社の松下電機に入ったら課長さんですね、監査部門の課長ということになります。
当然監査っていうのはグループ会社の経理処理ですとか、
そういうのを見ていくっていう監査の仕事なんですけども、
同時にですね、社長からのミッションで、
このグループ経営の中の経理制度っていうのを確立しなさいと。
もう予告して見ていくものをとにかく作りなさいということが、
併せてミッションとして与えられていました。
当時の松下電さんは分社化されて、9つの会社があったんですけども、
それぞれの会社で一生懸命自分たちの経理の処理をしようというふうに、
各給社が全部バラバラなんです。
給社も一生懸命やるんです。
大学の先生を呼んできてどうやって経理処理をしたらいいかということを聞いて、
そういうルールを作ろうというのを、9つそれぞれがやっていたという感じです。
非常に全体を見ると大混乱という感じですね。
その中でそれぞれの各社の経営状況をしっかりと分かって、
全体を統括する新しい経理組織ですとか、
高い能率、高能率の仕組みっていうのを作んなきゃいけないっていうのが、
この高橋新太郎さんが最初にもらったミッションということになります。
そこでやったことっていうのは大きく2つあります。
1つ目っていうのはこの目的に合致したものなんですけど、
とにかく経理組織を統一させるということで、
ここでやったことっていうのは簡単に言うとマニュアルを作ることになります。
新人でも誰でもそれを見ればしっかりマスターができて、
誰でも正しい経理処理ができるようなマニュアルを作っていきます。
作ったものっていうのは経理純則といって、
環状科目っていうのはこういう科目を使いますよと、
好き勝手じゃなくてグループ横断の共通の環状科目、これです。
こういう意味です。経理法人はこうです。経理制度はこうですっていう、
本当に一番でっかいルールっていうのをドンとして、
そのルールに基づいて経理で記帳っていって、
簿記で記録を止めていくわけですけども、
その記帳をしていくときにこういうケースはこうやって書くんだよっていう、
記帳する記載例ですね。サンプル集です。ルールブックみたいなのですね。
それから簿記とか経理っていうのは最終的にそこから対策対象表とか、
総員計算書っていうものを作っていきます。
そういうのを帳簿という形でまとめていくわけですけども、
そういうアウトプットも含めた、帳簿の様式の見本、こうやって作るんだよっていう、
アウトプットの見本っていうのも用意してですね、
ルールブックと記載のサンプルとアウトプットの見本っていうのを用意してですね、
それを全社に展開して説明しまくるということをやります。
これをですね、衝撃だったんですけど、2週間で高橋太郎さんが全部書き上げて、
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このマニュアルとか全部を。
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そうです。入社して一気に最初の半月で全部ガーッと書き上げて、
その後ちょっと細かい修正をするのに3ヶ月かかったってことなんですけども、
入社した年ですね、3月に入社しているんですけども、
その年の12月から、この新しい経理制度で組織が回り始めたと。
本当は11月からやりたかったんだけども、どうしても間に合わなくて12月になっちゃった。
スピーカー 2
くそーみたいな感じで書いてるんですけど、
スピーカー 1
全く知らない会社ですよね。
そこに入社して9ヶ月で新しい経理制度を作ってですね、
ローンチさせるっていうのはちょっと普通では考えられないレベルのことですね。
それはまあことなげにではないんですけど、苦労されたと思うんですけども、