1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #09「ピンチは自分に、功績は..
2024-05-01 33:58

#09「ピンチは自分に、功績はトップに」 ホンダの名参謀・藤沢武夫論①

▼今回のトーク内容: 

創業者・本田宗一郎が光なら「影」/パーティーで出会いすぐ意気投合/当時の自分の会社を売却、本多技研に投資/開発は本田、営業は藤沢/工場を新設、本田宗一郎の拘りは従業員のための綺麗なトイレ/従業員が事務所を汚く使うとキレる/「本田(トップ)の気持ちがわからんのか!」/最高益の翌年に経験した経営危機/危機の時こそトップを出さない/ピンチは自分が矢面に/わざとトップを海外へ視察に行かせる/花(=功績)は全てトップに持たせる/全て計算ずく

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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オーツー・パートナーズ公式サイト

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。HCMIコンソーシアム RX 推進人材・高度ロボットSI エンジニア育成事業技術委員会RX 推進人材育成分科会技術委員。

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長) ⁠https://twitter.com/ysksdr⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠https://twitter.com/kymmtsm⁠

サマリー

株式会社オーツー・パートナーズの勝宮すいでと県当社の新しい経済編集長であるしだれゆうすけは、二番経営をテーマに、藤沢武夫について話し、彼がホンダを支えたナンバー2としての役割や活躍について探求します。1949年、本田機嫌公共の工場を訪れた藤沢武夫さんは、トイレを水洗式に改修し、石鹸を常備するなど、従業員のために清潔な環境を整えたことに感銘を受けます。また、1954年に経営危機に直面し、前年まで儲かっていた会社が売り上げ減少に悩む状況になりました。 藤沢武夫さんが本田総一郎さんをサポートし、売り上げのトラブルや労働組合との交渉、賃金制度の改革などを行い、経営機器の近代化を進めたことで、1954年から1955年にかけての日本の経営状況が一気に改善しました。 福井沢さんは苦労して経営手腕を発揮し、海外に行くアイデアやヨーロッパのレースの交渉などによってホンダの危機を回避しています。

00:01
設楽 悠介
二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
勝見靖英
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ 取締役の勝見靖英です。
設楽 悠介
県当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
二番経営第9回です。よろしくお願いします。
勝見靖英
よろしくお願いします。
設楽 悠介
前回は、「今の時代、改めて考えるノミュニケーションは必要か?」
みたいなテーマでお話ししましたが。
勝見靖英
はい、そうですね。
なんか飲んだ時と同じく、何話したか全く覚えてないです。
設楽 悠介
そうですよね。飲み会よくあるあるですけれども。
勝見靖英
そうですね。
設楽 悠介
たぶん二番という視点と、飲み会大事だよねみたいなところも
いろいろお話できたかなと思うので。
でもやっぱり大事ですよね。
なんか別にお酒飲むっていう意味の飲み会ではなくて、
そのいわゆるオフィス外でのコミュニケーションみたいなところの重要性みたいな
お話できたかなと思いますので。
ぜひとも皆さん聞いてない方はですね、第8回の方も聞いていただければと思います。
勝見靖英
はい、よろしくお願いします。
設楽 悠介
それでは今回のテーマです。
第9回のテーマは、世界のホンダを支えた藤沢武夫に見るナンバー2論です。
勝見靖英
しだれさんは藤沢武夫さんはご存知ですか?
お名前は聞かれたことは?
設楽 悠介
もちろんお名前は聞いたこともありますし、
まさに今タイトルにあったように、
ホンダでホンダさんを支えたというようなざっくりとした情報は持っている。
はい。
ですけれども、実はちょっと詳しく、
ナンバー2とか僕も過去から言っておきながらですね、
あんまり掘り下げたことがないので、
ちょっとそのあたり今日、勝美さんにもお伺いできればと思っているような感じです。
勝見靖英
藤沢武夫さん、本当にナンバー2と言ったらこの方ぐらいの経営者と言っていいと思うんですけども、
ホンダっていうと、本田宗一郎さんは世界中の方がご存知ぐらいの名経営者でいらっしゃいますけれども、
その本田宗一郎さんが作られた本田技研工業、
ホンダですね。
皆さん知っている、世界中の方が知っているこの会社を共同創業者という形でですね、
本当に光と影っていうのがもうぴったりな感じで、バディのような形でですね、
創業以来、会社をまさに作り上げていらっしゃった藤沢武夫さん。
今回の2番経営という、経営のナンバー2っていう話をする時には、
もう本当避けて通れない方ですし、
ナンバー2視点で見ると、いかにこの方がすごいかっていうのを、
今回ちょっと改めて過去読んだ本を読み返して、またいくつか勉強し直したんですけども、
本当にすごいすごいというのしか出てこない。
はい、そんな方のお話できればと思っています。
設楽 悠介
よろしくお願いします。
ホンダ技研工業とその規模
勝見靖英
まずなんですけれども、舞台は先ほど来申し上げているホンダ技研工業。
ホンダですね。
正式名称はホンダ技研工業株式会社。
いわゆる皆さんがホンダホンダというふうにおっしゃってる自動車ですとかバイク、
あるいは足元とか飛行機とか、そういうのを作っているのがホンダ技研工業ですね。
このホンダさんという会社なんですけども、
会社の規模は売上高、これ2022年度の実績なんですけども、
16兆9千億円兆。利益も7800億と。
この会社は23年度、この3月期、終わったところですけども、
おそらく20兆円の燃圧の影響もあってですね、超えると言われています。
ずっと国内で一番売れている車を作っている会社なんですね。
今はNBOXっていう製造者でありますけども、
おそらくずっと首位を走っているという会社さんなんですけども、
自動車の面では世界で第8位。
で、オートバイなんですけども、こちらは世界でトップのメーカーさんなんですよね。
で、従業員数が世界中で19万7千人、約20万人。
設楽 悠介
すごいですよね。ここまで超スーパー大企業。
スーパー大企業ですね。
勝見靖英
会社は作られたのは1948年創業ということになります。
修繕して3年後に作られた会社なんですけども、
会社起業すると大体皆さんですね、上場を目指す、IPOを目指す。
あとはM&Aで大手企業さんに事業ごと上とするなんてありますけれども、
そのIPO、上場っていうことではホンダさん創業して6年で、
まず転倒公開ですね。今でグロース市場6年で。
で、9年目ではもう投資を上場しちゃってるという感じです。
なので作って10年以内には日本でこの会社超すごいっていう、
反抗された状態っていうことですね。
創業して25年、ホンダ総一郎さんが経営から退いたのが創業25周年のタイミングなんですけども、
その時には年賞で3700億円。
で、そこから2代目の社長に渡ったタイミングでは10年後にはですね、
1兆8000億まで育っていくと。はい、そんな感じです。
戦後ですね、短期間でマチコーバレベルから世界のトップ企業になった、
そういう本当に日本を代表する製造業メーカーと言ってもいい、
そういうホンダさんが舞台ということですね。
そのホンダ技研工業、ホンダですけれども、
そこでホンダ総一郎さんと藤沢武夫さんが共同創業者という言葉を先ほど申し上げたんですけれども、
ホンダ総一郎と藤沢武夫の出会い
スピーカー 3
お二人がどういうふうに出会ってこの会社ができてきたのかというお話をちょっとしていきたいと思います。
勝見靖英
で、そのホンダ総一郎さんと藤沢武夫さんがどういうふうに出会ったかとですね、
最初にお話していきたいと思います。
出会われたのは1949年、昭和24年です。
ホンダ技研工業という会社はその前年の1948年にですね、
ホンダ総一郎さんが作られています。
で、翌年にですね、藤沢武夫さんと出会うことになります。
ちなみにこの時ホンダ総一郎さんは43歳。
年齢聞くとなんかぐっと見方変わってきますよね。
で、藤沢武夫さん出会われた時にはですね、39歳だったんですけれども、
実は藤沢武夫さんもですね、その39歳の時にはもうですね、
3つか4つ会社経営をしていたという、
実は経営者としてもう15年ぐらいのキャリアを持っている方だったんですよ。
で、その時はですね、製材所とか材木店というのを東京で営んでらっしゃいましたと。
この時にも藤沢武夫さんというのは商売にすごく差異があってですね、
もとにお金を稼ごうと、あるいは売ることっていうのはものすごい得意な経営者の方だったと。
そんな2人がですね、1949年に出会われるんですけれども、
ホンダ総一郎さんは浜松でずっとこうオートバイ乗って、
なんとかこう世界で一番のオートバイ作りたいと思って、
東京に出て世界に売って出たいなと、本格的なオートバイ作りたいなと思い続けてましたと。
でもお金がないですね。
藤沢武夫さんは売ること、会社を経営することは得意だったんですけれども、
なんかこう自分で何かを生み出すってことはできなかったので、
誰かそういうこうすごいものを作れる人と組んでみたいなと。
できればなんか夢持った人と一緒に組んで、
なんかそれをこう世界中に売りたいっていうことを思われていたんですね。
なんで夢のある技術を持った誰かと組んで商売したいっていう藤沢武夫さんと、
なんかお金がないけどめっちゃすげえもの作りたいっていうホンダ総一郎さんが、
人づてにというか人のご紹介で会うことになりました。
で、その会った瞬間にですね、もういきなり意気投合ですね。
お互い自分が持ってないもの相手は持ってるって感じ。
すぐになりました。
ホンダ総一郎と藤沢武夫の役割分担
勝見靖英
なんでものづくりはホンダさん、それからお金は藤沢さんっていう役割分担がですね、
その瞬間に出来上がったと。
研究開発とか技術っていうのはホンダ総一郎さん。
営業財務とか管理業務ですね、そういったものは藤沢さんということで、
その瞬間に役割分担が決まってですね。
で、その瞬間ぐらいにですね、藤沢太郎さんその時点で東京で製材所とか財目店っていうのを
営んでた社長さんなんですよ。
ホンダさんと会った瞬間にそれもすぐに売っ払ってですね、
全部そのお金を全部売ったんですよ、ホンダさんに。
この会社に。
設楽 悠介
はあ、すごい。
勝見靖英
なんかもう想像してみると、なんか経営者同士でどっかなんかパーティーかなんかで会って、
めっちゃいいじゃないですかってその瞬間に自分の経営してた会社を売るって、
すごくないですか、なんかその時点で。
設楽 悠介
いやすごい、だからこの時点ではある意味藤沢さんもナンバーワンだったわけですもんね。
勝見靖英
ナンバーワンですね。
設楽 悠介
経営者だったわけで、社長だったわけで、
だけど思いの中ではある夢のある人と組んで仕事したいなって思いがあって、
そうなんです。
それがバチッとはまったからもう自分の事業はもう売って、
それを逆にもう投資しようってことで、
勝見靖英
そうですそうです。
よっしゃこの男だ、この夢に乗ったるわっていう感じだったと思うんですよね。
でもそれで藤沢さんがもうお金をすぐ作って、
本田技研工業に株主としてというか出資を追加でしていくっていう形で経営人に加わると。
その時に藤沢さんずっと社長やられていたので、
当然奥様いらっしゃいましたと。
奥さん社長風人ですよね。
社長なんでお金は会社が儲かったら全部儲かるって感じなんで、
そういうお金の使い方もされていましたと。
で奥さんが藤沢武夫さんにあなた我慢できるのと。
設楽 悠介
なるほど。
勝見靖英
お金めっちゃ使うでしょあんたは大丈夫なのと。
でその時藤沢武夫さんは私は人と組める男ではないと。
俺はトップの人間なんだってことを自分で言ってですね、
それはわかってる。
だけどこの人となら面白いんだ。
だから俺やってみるからやらせろっていうように。
本田機嫌公共の工場訪問
勝見靖英
奥さん強引にも口説くというかですね。
設楽 悠介
押し倒すような形で本田機嫌公共にジョインしてくると。
勝見靖英
なんかですね、ちょっとなんかこの出会いとか
いきなりバディになっちゃう感っていうのも
ちょっとなんかあんまりない感じなんですよね。
設楽 悠介
すごいですよね。
まず僕なんか今お話しきて思ったのが
その本田さんが43歳の時、藤沢さんが39歳の時じゃないですか。
本田機嫌公共っていうのはある意味自動車メーカーにとってはスタートアップだったわけですけど
今でいう20代のスタートアップとかじゃなくて
僕今44歳なわけですよ。
ほぼ同じぐらいで。
勝見靖英
そうですよ。
設楽 悠介
だからある意味僕ぐらいの年から世界の本田を作ったってことですもんね。
勝見靖英
そうですそうです。
設楽 悠介
もうなんか僕なんか半分ぐらいちょっともう惰性で仕事しようかなと思い出して
思い出してるぐらいの40にもなったしみたいな思ってたけど
あらふおの人たちが作ったっていうところがまずびっくりしましたし
その状態で奥さんもいてみたいな状況で
また藤沢さんがこういう決断をよくしたなみたいな。
勝見靖英
すごいですね。
設楽 悠介
すごいです。
勝見靖英
何なんでしょうね。
ずっと溜めてた、もちろんご自身で会社の経営もされていて
いろんな思いはあるところで
なんかこう夢みたいなものとかへの渇望が
きっと藤沢さんの中であったんじゃないかなっていう
そのなんか剥き出しの夢みたいなのを持った本田宗一郎さんと出会って
なんかもうこの人に賭けるっていうのがぐわっと出てきた感じ
この人についていこうっていう
設楽 悠介
支えていこう、一緒にやっていこう
でもやっぱりそれだけ本田さんもなんかすごいものがあったんでしょうね
わかんないけど
藤沢さんが見たときに
そういう人に今までも会ってきたはずじゃないですか、経営者であれば
経営者仲間で話したりもするわけで
なんか違ったんだろうなって思うと
お互いすごいなって感じしますね
勝見靖英
その時本田さんは浜松に住まれていて
藤沢さんは東京にいらっしゃったので
その名が轟いていたっていうのと
両者が経営してた会社が
当時中島飛行機っていう
今でいうスバルさんですかね
当時戦闘機作ってた中島飛行機のサプライヤーさん同士だったので
なんとなくお互い知っていたっていうところもあったようです
ただその中で図抜けて
本田総一郎さんというど偉い人がいる
っていうのはずっと藤沢さんを持っていて
それでご紹介いただいたという感じですね
そんな感じで2人が出会われたということになります
ここからですね
実際にお二人がどういう本田という会社を
経営をしていったっていう話を差し上げたいと思うんですけども
最初の出会いがそんなにエモい感じだったので
エモい話を続けたいなと思いまして
まずこのナンバー2としてのエピソードというかですね
私から見ると本田さんに対する愛があふれる
そういうエピソードなんですけども
まずですね美しい感じの話じゃないかもしれないですけども
この本田原工業という会社がもともと浜松にありました
浜松に工場がありましたと
そこからですね1949年に会って
3年目2人が出会って3年目の時に
大きい工場をとにかく作ると
いっぱいオートバイを作って世界中に
当時は国内でしたけどどんどん売っていくために
大きい工場がとにかく作らなきゃいけないということで
埼玉県大和町の白湖というところにですね
工場をまず買いましたと
ゲップで買ったらしいんですけれども
その時の本田原工業の資本金600万円でしたと
その600万の資本金の会社がですね
当時その工場に4億5000万円の工作機械を買ってですね
設楽 悠介
ぶっこんだ
勝見靖英
600万円で4億5000万ですね
規模で考えると
しららさんの会社
私がいる会社
資本金がそれぞれですね
多分1億円なんですけれども
20倍ぐらい
4億5000万の20倍の金額
それをいきなりビル建てるとか
やれないですね普通
それぐらいの大規模投資をした
そういう工場を建てましたと
そんな状態で
そんな大々的にですね
とにかくこれを渡したら
本田宗一郎がめちゃんこいい
オートバイを作ってくれるに違いないということで
どんどんそれを導入していったんですけれども
それをですね機械を入れる前に
買った工場なので
中を綺麗にしていく
いろんな改修をしていくんですけれども
最初に手掛けたのがトイレだったらしいんですよ
そのトイレ当時は珍しいですね
水洗式のトイレにしましたと
くみ取り式のトイレが主流だったところで
水洗式にして
かつですね手洗い場のところに
石鹸を常備すると
今は当たり前ですけれども
当時はそんなんもなかったので
水洗式のトイレにして石鹸を設置しましたと
これ本田宗一郎さんが
従業員のためにですね
食べるものと同様にですね
出すところも清潔にしないといけない
従業員のためにということで
まず一番最初にそこにお金をかけようという風に
決められたそうなんですよ
トイレの改修と従業員のための環境整備
勝見靖英
めちゃくちゃ素敵ですね
その素敵というのは当時藤沢さんも思ったらしくて
これでめっちゃ惚れちゃったんですね
うちの大将すげえわと
いやわかるこれ
そこだけでもその惚れるはわかるじゃないですか
でしばらくして工場というのが
ずっと創業を始めてですね
その工場のある日
事務所をですね
藤沢さんが訪れました
普段は東京の本社のほうにいるんで
工場の事務所を訪れたらですね
机の上に皆さん忙しいんで
書類が山のように積まれてですね
棚とかも汚いと
そういうのを目にしましたと
もう皆さん忙しいから
掃除してる暇もないっていうことだったと思うんですけど
それ見てですね
急にブチ切れてですね
暴れまくってですね
机をバーンとひっくり返して
書類を投げ飛ばして
なんだこれはって言って
ブチ切れ始めたらしいです
引っ掻き回して
そしたらもう松野廊下みたいな感じでですね
そこの工場さんたちが
バーっと歯がいじめにして
どうしたんですかすいませんごめんなさいみたいな感じで
そしたらもう本当に金もないのに
トイレ清潔にした
その社長の気持ちわかんねえのかお前らは
設楽 悠介
って言って
勝見靖英
ブチ切れるという
もうなんか怖くないですか
40前半ぐらいですね
もう会社の幹部がいきなり来てですね
急にもうみんなポカーンとしますよね
いきなりブチ切れて
机ひっくり返し始めると
設楽 悠介
余計ちょっとごちゃごちゃにしてたりするわけですね
確かに
ヤバいですよね
勝見靖英
本当は暴走老人じゃないですけど
それぐらいの感じですけども
でもその社長の思想を汲めば
こんな汚くていいはずはないっていう
それじゃあの言葉に出せばいいんですけど
まず暴れ始めたっていう
設楽 悠介
時代も時代ですからね
勝見靖英
そうね
でなんかその後
この出来事を
伊沢さんはまあなんかどうしてもって謝ってきたんで
許し立ったわみたいな感じの書き方で
書いてたんですけど
今だったら絶対コンプライアンス違反になっちゃうかもしれないですけども
ただまあそれもトップへの愛がゆえっていう感じの事件だったかな
設楽 悠介
だからそのトップのそういうことを考えて
初めからトイレをきれいにしたりとかやってくれたのが
うまく伝わってなかったことへのもどかしさというか
社員に対して従業員に対してっていうのが
多分きっかけになったんでしょうね
勝見靖英
ちょっとなんかトップの思いで
それを従業員に伝えるっていう
そういう役割ってダンバー2で持ってることだと思うんですけど
この事件に関してはその伝えるってことは
あんまりお上手じゃないけど
設楽 悠介
確かに
経営危機への直面
勝見靖英
なんかこう気持ちの面では
体をもって表現したということも言えるかもしれない
そんなお話ですね
設楽 悠介
まあでもそれだけあれば
そこの大切さっていうのは気づくはずなんで
今の価値基準で判断難しいですけど
確かにいや机皆さんきれいにしなさいって
みんな集めて言って
次行った時きれいになってるか見たこともあるから
そうかもしれない
勝見靖英
一個のアプローチであったかもしれない
雨降ってみたいな感じの話なのかもしれない
スピーカー 3
そんな話でございました
勝見靖英
もう一つですね
そのナンバー2としてのエピソードという
さっきのようにですね
もうちょっと経営チックな話になってくるんですけれども
もう今はその世界企業の
本田危険工業さんもですね
何か経営危機っていうのに
ぶち当たることがありました
最初の経営危機っていうのが
1954年に起こったというふうに言われています
藤沢武夫さんも辞典の中で
やっぱり一番きつかったのは
1954年
昭和29年
あれがもうしんどかったというふうに
おっしゃられてるんですけど
この時何があったかっていうと
この前年はですね
めちゃめちゃ儲かってました
どれくらい儲かってたかっていうと
その問題になったのが
昭和29年なんですけども
それの2年前
昭和27年はですね
売り上げが24億3800万円でした
経営状況の悪化と売り上げトラブル
勝見靖英
その翌年
昭和28年ですね
ここには24億から77億にまで
売り上げがガバーンと
倍以上3倍ぐらいですね
伸びてると
その77億ってのは当然ですけども
過去最高の売り上げ
過去最高益を上げたという感じです
その勢いのもとにですね
この昭和29年
1954年の1月にですね
先ほどの転倒公開っていうのをしてる
大変なんですね
前年の勢い考えたら
そういうこともあるだろうなという感じです
ところがですね
年明けて転倒公開したぞと
言った途端にですね
ヒット製品がですね
全部売れなくなるっていうことが
起きました
当時ですね
主力の製品っていうのが
4つあったんですね
モートバイ
それから今で言うスクーターのようなものですとか
いくつかあったんですけれども
急にですね
強豪他社にまくられて売れなくなったですとか
これいいだろって出したんですけど
なんか重くて使いにくいとか
うるさいとか
あと大ヒットしてる製品の中にですね
原因不明の故障が頻発すると
そんなクレームが起きてですね
この故障が起きてる
従業員への対応と賃金制度の改革
勝見靖英
そのマシンっていうのが
ドリーム号というものだったんですけども
ひたすらですね
クレームがつき続けて売れなくなっちゃったと
これのその原因不明っていうのは
とにかくしなきゃいけないってことで
本田総一郎さん技術のトップでもありますので
それの原因不明っていうのをずっとやってます
でも売れなくなってきてます
売れなくなってるっていうことは
同時にですね
製造業ってサプライヤーさんから
部品を仕入れる材料を買って
それを加工して製品作ってますんで
当然お金を払わなきゃいけない相手っていうのが
いるわけですよね
確かに
でもそれが売り上げが予想の4分の1になっちゃってるんで
払いたくても払えないと
原価が払えないと
はいそんな状態になって
その時にですね
サプライヤーさんはいつだったら貼ってくれんだとか
おっしゃってますし
支払いで手形っていうのは当時は振り出してたんですけども
それもですね本当に落ちるのか
ちゃんと支払われるのかっていうのが心配になってる
そういう時にですね
藤沢滝夫さんが
そのサプライヤーさんですね
何十社かあったと思うんですけど
皆さん集めてですね
ひたすら謝ってですね
ごめんなさいお金ないですと
なんとか7割引きにしてくれませんかと
設楽 悠介
なるほど
勝見靖英
しばらく3割の現金支払いで許していただけませんか
そしたらもう当然サプライヤーさんは
ふざけんなとなりますよね
設楽 悠介
7割引きですか
勝見靖英
7割引きです
設楽 悠介
3割引きじゃないですよ
勝見靖英
ないんですよ
7割引き
今はお金ないで3割しかお支払いできませんと
もちろんお金が回ってきたら
残りお支払いするんですけど
ということなんですけど
その7割引きをですね
ひたすら謝って謝って謝って
これで何とか実は認めていただくんですね
もちろん取引もお前らのところはしないということで
いらっしゃらなくなったサプライヤーさんっていうのも
いるんですけども
ほとんど残ってくださったそうです
設楽 悠介
なるほど
勝見靖英
そこからですね
あとお金もですね
1億円払わなきゃいけないタイミングで
銀行の残金10万円しかないっていう状態もあったり
したそうなので
当時のメインバンク三菱銀行さんだとそうなんですけども
そこから初めて融資を受けて
何とかキャッシュを
手元にということをしていきましたと
そういう金融機関とハードなやり取りもそうですし
サプライヤーさんとのやり取りですね
これ全部藤沢さんがやっています
もう一つあってですね
ステークホルダーの中で一番重要かもしれない
従業員ですね
従業員もですね
実はこの前年に
労働組合が本田にはできたところですね
当時1953年の労働組合なので
何となく時代のムーブもですね
はい労働者応援するぞって言って
いろんな組合を作るのに応援するような団体もあった
そんな時代だったみたいです
労働組合は賃金交渉とか
ボーナスいっぱい出せとか
そういう交渉をしてくるんですけども
そういった従業員の方にもですね
これも藤沢武雄さんが前面に立ってですね
みんなごめんと
会社めちゃんこキチキリになってると
お願いだからこれで勘弁してくれっていうので
冬のボーナス2万5千円の要求だったところ
経営機器の近代化と経営状況の改善
勝見靖英
当時5千円5分の1ですね
これで何とかしてくれないか
そんなお願いをしました
こういった時にはですね
とにかくしんどいお願いをする時には
トップを出さない
設楽 悠介
なるほど確かに
勝見靖英
徹底的にトップを出さない
藤沢さんはさっきのトラブルの原因究明っていうのを
ひたすらしてる
原因究明が実は判明したんですね
その判明の仕方もですねちょっと噛みがかってて
藤沢総一郎さんが夜寝ていると夢の中で
ここはこうだよっていうのが
示してくれて朝起きて解決したみたいなそんな
設楽 悠介
すごいですね
勝見靖英
藤沢 もうずっと24時間360分考え続けた
結果だと思うんですけど
これで原因究明をして
結果それも新しい部品取り替えることで
そのトラブルっていうのがなくなりましたと
設楽 悠介
なるほど
勝見靖英
藤沢 その原因究明をして
でもみんなサプライヤーさんも従業員も金融機関もですね
ワーワー言ってますと
ヨーロッパがようやく大仕事終えたので
じゃあそこに出したら皆さんの留院も下がるということは
あったかもしれないんですけども
原因オッケーわかったじゃあこれで売れるねって言って
その後ですね藤沢さんが本田さんに言ったのは
本田さんあなた満島のTTレースっていう
オートバイのレースに出たがってたよねと
今から視察に行ってきてくださいって言って
設楽 悠介
ヨーロッパに追い出すんですよ
なるほど出張に行かせるんだ
勝見靖英
藤沢 出張に行かせるんですよ
会社の経営機器です
会社の経営機器で
トップをそういった矢表に立たせないで
設楽 悠介
物理的に
勝見靖英
藤沢 そうです隔離をすると
でその時にですねただ社長をですね
いろんな人から逃げ出させるっていうのだけではなくて
経営機器なんですけども
世界最高峰のオートバイレースにチャレンジする夢を追い続ける
本田総一郎っていうキャラ付けをするためですね
そういう旅に行かせたんですよ
設楽 悠介
なるほどね
勝見靖英
なのでもう世界を見に
世界を取りにまず本田が行ってますと
どうですかうちの会社やばくないですかと
めっちゃ世界取りに行ってるんですよ本気ですよと
経営機器かもしんないです
すぐ戻ります大丈夫ですっていうのを
ずっと行ってまわるんです
この年にですね
マントーTTレース出場宣言っていう
本田氏に残るですね宣言文があるんです
このレースに出場するんじゃっていうのを書いたのを出して
それを見た従業員は
うちの会社は世界でトップ狙うんだみたいなのが
レースでアジア人が出たこともないような
オートバイレースですイギリスの超名物
テニス誰も知らないのにウィンブルドン勢
ウィンブルドンで優勝するぞみたいな
そういう感じですよね
そういう夢を見せるっていうことで
皆さんの気をそらすではないんですけれども
それにかけていくっていうムーブメントを作っていったと
すごいな
その作詞じゃないですけれども
設楽 悠介
本当にこれはすごい
勝見靖英
しんどいこと全部自分で受け止めて
本田総一郎さんの夢に乗っかっているので
それをひたすら具現化するというかですね
そういうことにこだわってですね
そういう経験があったので
同時にですね謝り続けるだけじゃなくて
その時に福井沢武雄さんは
会社の賃金体系給与体系ですね
それも当時日本で一番進んだのが
人事院役所の人事院ですね
賃金制度給与制度っていうのを
一生懸命考える官僚の方がいたので
その方にヒアリングに行ってですね
どうすればいいのかと
コンサルみたいなことをしてもらうと
当時町工場の延長線上でしかなかったんで
なんでこの人に給料をあげてるんですか
とりあえず彼にはこれぐらいあげなきゃみたいな
そういうノリをきちっと体系化していく
あとはですね
生産管理をしっかり合理化していく
ということもやっていきましたと
経営機器っていうところで
しっかりやっていかなきゃいけないということで
町工場からですね
企業の近代化っていうものに変革をする
っていうのをこの機器を使ってですね
うまく福井沢武雄さんは
会社の舵取りを進めていったと
経営機器の1954年が終わってですね
翌年1955年
ここからですね
日本は人務経営器と呼ばれる高度成長期に
一気に入って経営器がガバーンと上がっていくと
設楽 悠介
すごいな
ある意味ここは神風吹いてるかもしれない
勝見靖英
そうなんですよね
設楽 悠介
なるほど
勝見靖英
ほんと最後の最後というか
これから経営器良くなるなんて
もう誰もわからないですけども
福井沢さんの経営手腕
勝見靖英
ほんと最後のエンドのところで
ものすごい苦労をして
でもその苦労をしたのを
全部跳ねのけるような経営手腕を発揮するのを
ずっと陰にいた福井沢さんがやってのけると
設楽 悠介
今今回のこのエピソードでいうと
例えば海外に行っといてくださいみたいな話っていうのは
福井沢さんのアイデアってことでしょ
そうです
あとその手形を何とか交渉するとか
でもそれセットになってて結構意味があるじゃないですか
勝見靖英
そうですね
設楽 悠介
だって大丈夫ですよ
うちはもう世界見てるんで
今だけ赤字ですよっていうアピールじゃない
要は本当に潰れそうな会社だと
社長はヨーロッパのレースをやろうとか
言わないだろうみたいなことを
逆手に取ってるわけじゃないですか銀行に対しても
勝見靖英
そうですそうです
設楽 悠介
だからその半分かましながら
ただ無理なお願いをするみたいなことを
全部設計してやってたんでしょうね
勝見靖英
そうなんですよね
ホンダの危機回避策
設楽 悠介
これってなんかもちろん
わかんないところかもしれないんですけど
事細かくホンダソイチュロスさんと
相談してたってわけじゃないのかな
勝見靖英
これはね全然相談してないっぽいんですよ
設楽 悠介
マジっすかすごい
ホンダさんもとにかくトラブル直して
作っといて夢追いかけてって
夢追いかけて通じさせて
あとやっとくからみたいな感じで
これなんですよね
勝見靖英
そうなんですよ
設楽 悠介
めっちゃナンバー2っすね
勝見靖英
すごいでしょ
設楽 悠介
言うことじゃないけど
ナンバー2の鏡だなこれすごい
いやすごいですね
いやありがとうございます
まだまだこれでもホンダさんが創業して
前半の方の裸足だと思うんで
勝美さんあれですよね
こういうエピソードがいっぱいあるってことですか
勝見靖英
勝美 まだまだ
設楽 悠介
あるんですよね
勝見靖英
勝美 今4分の1話したかぐらいの感じ
設楽 悠介
そうですよね
今日全部お伺いしようと思ってたものの
結構これだけでもいつもの放送を超えるぐらいの
長尺になってしまったので
ちょっと是非ですね
次回もこの続きというかですね
さらにこのナンバー2エピソードについてですね
掘り下げていければと思っております
勝見靖英
勝美 はい
設楽 悠介
よろしくお願いします
勝見靖英
勝美 よろしくお願いします
設楽 悠介
はいそれではそろそろお時間です
2番経営組織を支えるナンバー2の引きこもごも
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました
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それではここまでのお相手は
勝見靖英
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しだれゆうすけでした
ありがとうございました
勝見靖英
ありがとうございました
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