社会の需要というものをいつもキャッチしようと目を配っていたという感じですね。
それは外から見られていて、なかなかやるなという感じですか。
それはすごいと思いますよ。
チェックして、情報をとにかく入れ込んで、
どういうものに作れば世のためになるかどうか一生懸命やっていましたし、
大規模とか世に出回っているものを作ってもものが売れないから、
隙間産業ですかね、そういうところを着眼してものを作ったのが今のスキマですね。
そういったことをある種尊敬の目で見られていたという感じがお話から伺いますね。
尊敬いうことはないですけど、確かに立派だと思いますね。
ゼロからスタートして、今現在60人おりますけどね、そこまで慣れましたからね。
ちょっとプライベートなことですけど、おじいさんとはおいくつ違うんですか、年齢的には。
6歳です。
6歳違うんですか。
6歳違えば子供の頃とか学生の頃は結構大人に見えたおじいさんでしょうね。
そうですね。言う分の話ですけどね。
先代社長は野球やってましたからね。
ピッチャーやってたんで、家で私がキャッチやらされてました。
だから6歳違ったらすごいスピードボールなんですよ。怖かったですよ。
手加減なしであげてたんですか。
なしです。怖いから目をつぶるとかね、足を引く仕組みだしたので、ものすごい叱られました。
結構お父さんの感じがしますね。厳しい父の感じがしますね。
本当です。それはすごかったですよ。だから私もキャッチ音楽上手かったですよ。
スパルタで鍛えられたんですか。
相手を差し上げましたからね。
ついでながらなんですけど、そのおじいさんから仕事も丁寧にしたんだったら、俺のところに来てくれと言われたようなサジェスチョンはあったんですか。
間接的には耳にしたことはありますけどね、直接はないです。
それはお兄さんの境地かもしれない。
やっぱり私ら兄弟でね、社長は長男ですから、私二乱歩ですからね。二乱いのは何事にもつけない。
田舎では特にね。
特にそうですからね。
それと6つ違いはさらにということでしょうね。
弟の方はしっかりとお兄ちゃんの仕事ぶりとか性格を見抜いていて、いつか助けてやろうと思ってたんではないかなと。
だいだい将来会ったかもしれませんけどね。
一応今専務取締役ということなんですが、補佐役のようにされてるという理解でいいですか。
いいです。
その二人が育ったですね、距離の話をちょっと聞きたいんですね。
そこで育まれた者が、世の中に役に立つものを作ってやろうとか、今は何なのかといったことまで考える素人になったと思うんですよね。
そうやって水を山に蓄えるということを、今では一番皆さん気になることだったと思うんですけど、それをその当時やり遂げた方ですね。
そういう方が、我々の地元ですね、地元で八十寺という村ですよね。そこで開婚して、遺材育成というときには武士になってですね、戦うという、そういうところで育ったものですから。
やっぱりその影響をかげながら受け取ると思いますね。
子どもの頃からそういうことは、実績はご存知だったんですか。
結構ね、私らの田舎ですね、そういう言葉情報が流されたときの座った石とかですね。
お屋敷ですね、お屋敷のがあるんですけど、そういう地名もいっぱい残ってましたね。
結構そういう歴史のようなものは、結構私も知事からですね、聞いてましたから、やっぱり影響は受け取ると思いますね。
なるほどね。これ非常に僕いい話だと思うんですね。
最近の子は偉人伝とかですね、伝記のようなものはあまり読まないんですけども、やっぱり一番いい教育というのは、
こんな人がいたんだからこんな人みたいになりたいとか、同じような仕事をしてみたいとか、
そういうことを知るのが子どものときの一番必要な、僕は教育だと思っているんですね。
それが身近にあって学べる環境にあったというのは非常に良かったんですね。
学校がある町よりも非常に生きた教材があることだと思いますけどね。
今でもですね、バンザーの資料館なんかですね、地元のビジネスなんかを今作ってですね、
市民の方にですね、もっとどんどん広めなきゃいけないことで今もやってますけどね。
地元の結構岡山県はですね、地元から出た人も結構おりますんでね、
そういうことをですね、今の教育の中にもっと異人ですかね、県の輩出の異人の方の話をですね、
もっと教育に入れてもいいんじゃないかと思いますけどね。
なるほどね。バンザーは陽明学者ですから知議を応援といってね、知ってるだけじゃ知識じゃないんで、
行動に移して実際に形にしないとというところがあって、
そのあたりも非常に藤原五兄弟の素養といいますか、土台になっているような気がしますね。
わかりました。
そういったこともあって、ものづくり、あるいは治水、あるいは防災という企業に行かれた、
そういう企業をされたということだと思います。
でしたらここからいよいよですね、ヒット商品どうやって向くかという本題に少しずつ入っていきたいんですが、
まず防災商品としてのヒット商品第1号は、フジフロート自動スカム除去装置でいいですか。
水です。
水ですか、水で掃除。これが最初のヒット商品ですね。
先ほど伺いましたけど、水に浮いているゴミとかそういうものを除去するということなんですね。
これを作った契機としてはやはりこのバンザーの考え方とか、
やっぱり今大事なものは何か、必要なものは何かというところがスタートということですね。
やっぱりお客さんがですね、これに変わるもの何かないかということですね。
ここでずっと考えていたらですね、私とか昔風呂ですね、入っていて、
まあ今日だか多いですから、上に人がかかってから汚れが浮きますが、
これは洗面器ですくうんですかね、ちょっと沈めてやったら表面が流れ込みます。
これも一つのヒントだったんですよ。
どうとつけると流れませんけど、少し沈めてやると勢いよく流れますね。
それとですね、もう一つは社長がこちら大阪に出てきてですね、川に浮いている材木ですね。
これを見とって、この材木を上下にさせればね、上の表面の水が流れ込むと。
それから考え続けたのが今のフジフロート、自動つかむ除去装置というのです。
池の石板をですね、上下さすことによってスカムを取り込むと、
これを図面化したのが今の商品の始まりですね。
沈めている瞬間にゴミの部分を外に出すという、こういう発想ですね。
それが風呂から生まれたというのは非常に面白いですね。
最近までですね、とにかく水槽の代わりに風呂の中に入ってですね。
風呂に入っていろいろやってた他のもいっぱいあるんですけどね。
それが最初の発案のヒントです。
じゃああれですね、風呂に入ってぼやっとしててもいけないわけ。
とにかくいろいろなおもちゃ、今でいうおもちゃですね。
いっぱい風呂にあったという話を聞きましたよ。
そこでまた兄弟が多くてという話も非常に心を打たれるようなものがありますけども。
何人子兄弟だったんですか。
6人兄弟です。
5長男と5児男ということですね。
下もおります。
下もいらっしゃるし。
家庭環境が大事だと改めて思いました。
田舎の百姓の家ですからね、ほとんど。
もう1つ防災製品のほうも伺おうと思いますが、こちらのほうの第1号はタスカルタワーでよろしいんでしょうか。
これはどんなものですか。
これは津波とか洪水が来たときに逃げるところですね。
上に逃げる、2階、3階に逃げればいいんですけど。
普通の家だったら1階が多かったんで。
とにかく構造物で上に逃げるものを作ることで、商品名タスカルタワーになったんですけど。
タスカルタワーですね。
これは最初、実験ですが、模型の大きいものを作って工場の宿に建ったんですよ。